「蓮華谷と菩提谷の調停は決裂した。じきに出入りが始まるぞ」
水月の半ば、三宝院の者どもが揃って朝餉を取った後のことだ。善住は同じ子院に属する長尊という行人から昨日の寄合の結果を聞いた。やにわ横で俗人のとろが立ちあがり、太夫がその尻を引っ叩く。とろは情けなく尻餅をついた。よくあるやり取り故皆笑うことさえ飽きている。
ところでここ数年、杉坊には非運が続いていた。
まずは院主津田妙算の急死。これは兄算長が倅を次の門主として立てたため跡式の出入りなどには至らなかった。
第二に出入りでの鉄砲使用の禁止。御山の出入りには「根来寺之法度」という不要な犠牲を出さぬための決まりごとが幾つかあるのだが、前回の三方集会で先のことが付け加えられた。かねてより鉄炮の導入以降人死にが増えていたことに加え、多数の鉄炮を持つ杉坊の伸長を恐れた他三院によって法度にこぎ付けられたという。
そして最後、野分による土砂崩れに伴い菩提谷と蓮花谷の山稜が一部崩壊。根来寺境内は大きく四つの谷──蓮華谷、菩提谷、西谷、小谷に分かれ、領地ごとに水利や伐採権を持っている。善住らも薪や水は西谷領にある山や川から採っているのだ。しかし野分や豪雨のような天災に見舞われると度々谷間の境界が崩れ、此度のような出入りの原因となる。加えて今回の場合は蓮花谷側にあった泉識坊の子院福宝院が急遽増築を行ったのだ。所領を巡る話し合いの前に斯様な暴挙にでるなどと、双方ではそれは醜い口喧嘩が行われたという。
それから間もなく、蓮花谷と菩提谷の出入りが始まった。出入りの見物は御山の人々にとって数少ない娯楽の一つであり、日が昇るほど塀や子院の屋根に登ってくる奴らがぞろぞろ出る。善住は混み合わぬうちに早速軒を連ねる子院の屋根を上を飛び移ったりして蓮花谷と菩提谷の境へと走っていった。境内の中心を南北に流れる大谷川へ至ると足止めの為だろうか、菩提谷の者たち十人ほどで橋板を外し、背後に同数控えている。
(左京院にしてはかなり人数が少ない。他所に出張っているのを呼び戻すまでの時間稼ぎのつもりか)
彼らはこの先にある七番空き地にて本陣を構えていると聞いていた。ならば蓮花谷の者たちとはここで最初の一戦を交えることになるだろうと、善住はそばにあった松の木に飛び移り太い枝に腰を掛けて待つことにした。眼下で鈴なりに並ぶ見物客らの向こうに、やがて一人二人と蓮花谷の法師がやってきた。胸まで髭を伸ばした痩躯の男、延命院のひげ良泉は肩に鑓を抱え川の向こうの敵に何か叫んでいる。生憎善住のところまでは聞こえないが、大方挑発を兼ねた口喧嘩でもしているのだろう。後に続いた荒法師たちは剥がされた行桁の代わりに付近の板塀を外して並列する桁に乗せていく。良泉は橋が直りきらぬ内から仲間の脇を抜けて向こう岸へ跳び移り、待機していた敵と対峙した。
(下流に走っていった坊主が淡輪二位。それに)
善住は呟く。左手の小径から黒漆の甲と銅丸、籠手を身に着けた慶誓が駆けてきた。まだ18という若さだが壮年の荒法師らの中に居ても見劣りしない老成した目と筋骨は遠くからでもよく分かる。此度は鑓一本で戦うつもりか弓も空穂も背負っていない。彼も良泉に倣って直りかけの橋の上を駆けて向こう岸へ跳び、勢いを殺さぬまま手前の行人に向かい鑓を振るった。敵方からは弓兵も罷り出たが間もなく蓮花谷法師の勢いに気圧され千手堂の方へと後退していく姿が見える。
善住は木から降りて後を追った。向かう先は菩提谷勢の本陣、七番空き地である。其処では菩提谷勢の大将であり左京院の門主往来左京と中巻の名手と名高い弁才天の長板泉徳院が待ち構えていた。ここでも慶誓は勇ましく突き合いを始めたが、後ろにいた吉礼二位という弓使いの一矢が彼の踵を貫いた。善住は思わず屋根から降りそうになったが、矢をかなぐり捨てる姿を前にし足を止めた。甲で顔がよく見えないが焼けた肌に脂汗が照っている。しかし慶誓は屈さず、今し方福宝院親方を退けた左京と渡り合った。
左京は菩提谷随一の勇者と謳われるだけあって獅子奮迅の勢いで鑓を振る。慶誓は防戦を強いられ、汗を飛ばしながらやがて袖が空くのを見た。即座にそちらに向けて槍を突き出し倒さんとしたが、左から降ってきた一撃が慶誓の頭に叩き込まれた。中巻の名手、長板泉徳院だ。彼は慶誓を倒すと彼の上を跨ぎ、傍にいた大福院大弐に猛攻を仕掛けた。彼の全身が七、八度も切られる様を見送りつつ慶誓はよろよろ立ち上がって撤退し、善住は今度こそ屋根から降りた。
「派手にやられたな、慶誓」
慶誓は甲を腕に抱え左足を引き摺りながら五坊小路の方へ歩いていた。
「おう。噂に違わぬ武者者やな。親方も太刀打ちできやんわけや。ああ、頭ぐらぐらするぅ……」
腕に抱えられた甲を見る。黒漆のそれは十二枚ある板の内四枚が割られていた。矢を受けた足を見ると、鏃が肉に刺さっている。かなぐり捨てた際に先が外れてしまったのだ。福宝院は山を登ったところに位置しており、この足で帰るのは楽ではない。善住は慶誓の脇に腕を通し背中に担ぎ上げた。
「おい、やめんか」
「不具になられたら堪ったもんじゃないから、無理にでもおんぶさせてもらうぞ。後で良い金創医も呼ばないとな」
「鉄炮買うための銭貯めとるて言うてたやろ」
「気にすんな。今すぐ欲しいもんでもないし、新しい法度のお陰でこれから値下がりする。待つほど質も上がるだろうから好いもんと出会い易くなると思えば大したことないさ。それにしてもお前、おぶって判ったがかなり重いな」
「わいの足より先におまんの腰がやられるかもな」
初めて会ったとき、慶誓の眼は善住から見てやや下にあった。しかし今はすっかり追い越されてしまった。過酷な武者修行で筋肉も付き、岩のように硬く重い。それでも善住は山の往来に慣れていたため確かな足取りで福宝院の方へ登っていた。