「ありがとうございました」
そんな声に背中を押されて店内を後にする。一歩外に出た途端に物凄い解放感を得た。
自動ドア一枚で隔てられているだけなのに、外と内ではまるで空気の重さが違って感じられる。
それが大袈裟はないということは、額や脇の下、掌に滲む汗が何よりも証明していた。もう夏も終わり、季節は秋に差し掛かっているというのに、それらはジワリと気持ち悪く残っていた。
「……ふぅ」
大きく一息を付いて、その解放感を改めて噛み締める。
ジュエリーショップ。文字にしてしまえばなんてことはない、ただの宝石屋さんだ。しかし、今日こうして足を踏み入れてみて再認識させられた。ここは男一人でくるような所じゃないと。
頻繁に女の子にプレゼントを贈っているお金持ちみたいに、何度も通っていれば馴れるものなのだろうか。
……いや、きっとそんなことはない。どこまで行ってもそんなことはないだろう。高級品が並んでるからって訳じゃないけれど、どうにも変な緊張感を強いられる。
店内は綺麗に清掃されているし、店員さんだって上品で親切な人ばかりだった。いや、だからこそだろうか。非常に息が詰まる。凝視されているわけでもないというのに、言葉では表せない妙なプレッシャーを感じて、体が強張ってしまうのだ。
しかしまあ、それも終わったことだ。これで一世一代の大勝負をする準備は整った。
そう。俺が理由もなくこんな場違いなところに訪れるわけもない。それはプロポーズの際に添える小物を入手するためだった。
だから今までの居心地の悪さも、それへの関門の一つだと思えばなんて事はない。
「よしっ!」
手に持った小さな箱を決して失くさぬよう鞄の奥へ、かといって傷がついたりへこんだりしないように丁寧に仕舞い込む。
そして、気合いを入れるように小さく呟いてから、我が家へと向けて足を動かし始めた。
●
「……よしっ!」
マンションの一角。自分の家の玄関の扉を前にして、俺は再び気合いを入れ直す。他人にでも見られたら恥ずかしくて仕方がないような絵面ではあるが、この後に控えていること考えたら、そうでもしないと身体を動かすことができなかった。
「……あれっ!?」
踏ん切りをつけて、目の前にある扉を開けるためにポケットに手を突っ込んだ。
が、何故かあるはずの家の鍵の感触がそこにはなかった。
「えっ、えっ!?」
……おかしい。いつも右のズボンのポケットに入れているはずなのに。
一瞬にして血の気は引いていく。
あせりながら自分の服のあらゆるポケットに手を入れ、パタパタと叩き、その所在を確認する。すると、スーツの内ポケットにそれを見つけて、ホッと胸を撫で下ろした。
安堵と共に、とてつもない虚脱感に襲われる。自分の中から気力が根こそぎ奪われていくような感覚。それは先程の決意の塊まで奪い去って行ったかのようだった。
「はぁ……」
前途多難。
このホンの数分の出来事が、まるでこれからの事を暗示しているような気がして、俺は大きくため息をついた。
「あっ、航太さん。お帰りなさい」
「……ただいま。花陽」
「お疲れ様です。遅かったんですね」
ガックリと脱力する俺を同居人は笑顔で迎え入れてくれる。今はそんな彼女の労いが、ただただ優しく心を癒してくれた。
「もう少しでご飯できますけど、どうしますか? お風呂もすぐに入れますけど」
それとも私にしますか?
なんてベタベタな台詞は流石に言いやしないけれど、まるで夫婦のようなやり取りを花陽と交わす。そう、まるで彼女は新妻のように見えた。
しかしあくまで、今はまだ「ように」という段階だ。それを現実のものにしなくてはならない。それが今日の俺の使命であり、大きな決意。
そう思い返して、どうにか再び気持ちを立て直したのだった。
●
……どう切り出したものか。卓に付きながら頭を巡らせる。
普通に、結婚してくださいとでも言えば体裁は整うのだけど、それじゃあつまらない。いや、別にプロポーズに面白さなんて物は必要ないけれど、なにかこう物足りない。
ましてやジュエリーショップで買ったのもエンゲージリングでもなんでもなくて、小さな花を模ったネックレスだ。それだって、もしサイズが合わなかったらとか、デザインが彼女の好みから外れていたらだとか、一応そんな理由は存在している。けれども、やはり無難に行き過ぎている間は否めない。
そもそも、こんな大切な事なのにノープランだということ自体おかしいのだ。しかしなにぶん、思い立ったのが今日の昼過ぎ、ましてや仕事中のことだったのだ。何かきっかけがあったというわけでもなく、本当にふと発心したのだ。
そしてその足で宝石屋へと向かっていた。だからといってはなんだが、その後のことなんて考えている余裕もなかったのだ。
仕切り直して後日にするという手も勿論有るにはあるのだが、決心したこのタイミングで実行しないと、今度は逆に逡巡してしまって行動に移せないような気がする。
「それじゃあ、食べましょうか」
食事の支度を終えて、花陽も俺の対面の席へとつく。そして「いただきます」というかけ声と共に二人で箸を伸ばした。
しかし、当然それを口に運んでいても、別のことが頭を占めて味なんて分かりはしなかった。
それは、せっかく作ってくれた彼女に失礼な行為だった。これじゃあいかんとかぶりを振って思い直し、改めて並べられた料理へと目を落とす。
脇に大根おろしを添えた秋刀魚の塩焼きに、かぼちゃの煮物、そして旬の野菜のサラダ。
いかにも秋の献立といった感じの料理が並ぶ。そして当然、主食の米がデンと存在感を示している。
……ご飯、お米、ライス。
「そうか……米か……」
思わぬ所に切り口を見いだして、一人呟いた。
「そうなんですっ! やっぱり分かりましたか!?」
そんな俺の独り言に花陽は反応する。テーブル越しに身を乗り出さんばかりに、勢いよく語り始めた。
「今日から新米なんですっ! あぁ、この形、色ツヤ……今年のお米もとてもいい出来ですぅ。あっ! それに今日は特に上手く炊けたんですよ」
花陽は時にうっとりとしながら、そしてまたある時には鼻息を荒らげながら、懇々と今年の新米の良さを説き続ける。そんな彼女の喜々とした表情を見せられては、気付きませんでしたとは口が裂けても言えそうになかった。
「相変わらず花陽はご飯大好きなんだな」
「はい! 花陽の生きる糧ですから」
「じゃあ、その……お米にまみれたいとか思わないか?」
「えっ? 航太さんのおかげで、今でも十分たっぷり食べさせてもらってますけど」
イマイチ話が上手く伝わっていないようで、俺の意図とは違った答えが返ってくる。
まあ、それも仕方がない。今のは探りというか、ジャブみたいなものだ。
「なんていうか、もっと、浴びるような感じでさ?」
「浴びるように……ですか?」
要領を得ないといった感じで、花陽はキョトンとした表情を浮かべる。が、それも一瞬のこと。直ぐに理解がいったように、パッとその表情を変える。
「あっ、えへへ。ちょっと待って下さいね」
伝わったのか。そう安堵しかけた所で、花陽はそそくさと台所の方へと引っ込んでしまう。そしてしばらくして、何かを手に戻ってきた。
「お待たせしました」
そう言って花陽がテーブルの上に乗せたものに目をやると、そこには酒瓶と小さなグラスが置かれていた。
「はいどうぞ……そうですよね。これも元はお米ですもんね」
花陽は俺に手渡したグラスに少しずつそれを注いでいく。
「もう、飲みたいなら普通に言ってください。別にダメだなんて言いませんよ?」
「えっ、あ、うん。ごめん」
「でも浴びるほどはダメですからね」
ああ、なるほど。
確かに、酒を大量に飲むことを浴びるほど飲むなんて言い回しをするし、花陽の言う通り日本酒の原料は米だ。そこから彼女は、俺が酒を飲みたがっていると察したんだろう。たったそれだけのワードからそこまで辿り着いた花陽には素直に感心した。
しかしそれは最早クイズというか、連想ゲームの様相を呈していた。花陽の推察力に感心こそするが、本来の目的からは大きく遠ざかっていた。
どうせだったら本題の方を察してくれていたら、というのは無理な注文なのだろう。
「ふぅ……」
しかし、まあ、注がれたものは仕方がない。仕切り直しとばかりに大きく息を吐いて、グラスに満たされている液体をグイッと一口で煽った。
●
ぼんやりと花陽の後姿を眺めている。
食事を終え、キッチンの流し場で食器を洗う彼女の姿はさらに所帯じみて見えた。
もう諦めて、直球な言葉にすればいいじゃないか。ただ、結婚してください、そう言ってしまえばお終いだ。そもそも、端から回りくどい言い方をする意味が何処にあるのか。そんな考えが頭を過ぎる。
それは至極当然で、間違いなく正解なのだろう。
しかし、意固地になっているというか、引くに引けない感じに自分の中でなってしまっていた。素直に言ってしまったら負けだ、みたいな感覚に支配されている。何が勝ちで、何が負けなのかは自分ですら良く分からないけれど。
しかし、まあ。少なくともそれが、プロポーズをするという非常に勇気のいる行為の後押しをしているのもまた事実だった。
「……よしっ! これで終わりっと」
そうこうしているうちに花陽は作業を終え、タオルで手を拭きながらリビングへと戻ってくる。そんな彼女に向けて、改めて攻勢を仕掛けることにした。
「あのさ、花陽。さっきの話なんだけどさ」
「え? なんですか?」
「……その、一緒にシャワーを浴びませんか?」
「ふぇ!? しゃ、シャワーですか?」
これでどうだ。そう思いながら花陽の様子を伺う。
すると彼女は一瞬驚いた表情を見せてから、顔を赤らめて、モジモジと恥ずかしそうに自分の洋服の裾を弄りだした。
今度こそ伝わったのかと、期待を込めながら彼女の返答を待ち続けていると、花陽はチラチラとこちらを覗き込みながら、おずおずと口を開いた。
「……い、いいですよ。そ、その私、準備してきますね」
「え、準備?」
了承の言葉を聞いて内心ガッツポーズしていたのだが、その後に続いた単語で一気に現実の戻される。
「って、違う違う!」
「ふぇ?」
「シャワーつっても、風呂のことじゃないんだ」
せっかくなので、それはそれで後程しっかりと楽しませてもらうけれども。
「浴びるのもお湯じゃなくて、その、米なんだ。それも生米。ついでに英語で言うとライス」
「お米ですか? お米……ライス……シャワー……って、それって!?」
ぶつぶつと与えられた単語を反芻しながら、花陽は考える。そして何かに気付いたように勢い良くその顔を上げた。そんな彼女と視線が交差すると、花陽は何かを訴えるような目で口をパクパクとさせながら、言葉にならない言葉をどうにか捻り出そうとしていた。
それに頷くことで返答すると、ついにはその沈黙が破られた。
「ええええぇー!?」
花陽は耳をつんざくような甲高い、そんな悲鳴にも似た声を上げる。
近所迷惑にならないか、なんてことは今はどうでもよくて。ただ、ようやく伝わった。それだけが思考の大半を占めていた。
そしてその事実は大きな安心感を生み出してくれた。
●
「分かり辛いですよぉ、もうっ」
混乱していた彼女もしばらくすると落ち着きを取り戻して、そんな事を口にする余裕も生まれていた。
「いや、スマン。自分でもそう思う」
途中から手段と目的が入れ替わっていたような気がする。一生に一度、あるかないかの事だというのに、我ながらロマンチックさの欠片もないものだったと反省するばかりである。
「でも、嬉しかったですよ。とっても」
にも関わらず、花陽は多くの不満を口にすることもなく、こちらから見ても十分に分かる位に嬉しそうに微笑んでくれた。
「ただ、その……本当に私なんかでいいんですか?」
しかし、そんな表情から一転して、神妙な面持ちで、そして何故か少し申し訳なさそうに花陽は問いかけてくる。
そんな奥ゆかしさも彼女の美点のひとつではあるが、しかしそれは俺にとっては愚問であり、答えが一つしか用意されていない簡単な質問だった。
「当たり前だろ。だからこそこんな話をし出したたわけだし、当然その相手は花陽以外考えられないよ」
「……はい」
花陽は目を閉じて、俺の言葉を噛み締めるようにして、コクリと静かに頷いた。
「……改めて言うよ。大好きだ、花陽。だから俺と結婚して欲しい」
結局、言うのかよ。そんなツッコミがどこぞから聞えて来そうだった。
しかし花陽からはそんな野暮な発言が飛んでくることはなく、彼女は再びニッコリと花の様な笑顔を咲かせて答えてくれるのだった。
クオリティが低いのは忙しかったせいです!(言い訳乙)
冗談はともかく、無理に捻ろうとして逆に失敗する典型のような感じですね……
くしくも話の主旨もそんな感じなわけですが。
ともかくギリギリですが間に合ってよかったです。
改めてかよちんオメデトウ!
そして結婚しよう