お気をつけくださいませ。
ここ、原神かよ。
目の前で繰り広げられる大道芸――《神の目》による元素力を用いた不思議で幻想的な光景を前に、生まれ落ちたこの世界を正しく認識した俺は呆然と心の中で呟いた。
*
テイワット大陸に存在する七国の一つ、水と正義の国《フォンテーヌ》。
その中心都市であるフォンテーヌ廷の一画に建てられた集合住宅、そこに住むごく一般的な家庭に俺は生まれた。
生活は豊かでもなければ苦しくもない。両親の仕事も貿易商品の卸売りを行う中規模な商店の雇われ社員。もちろん神の目を持っているということもない。まさにありふれた、ごくごく普通の一般市民。
幸せとは何気ない普通の生活、とは誰が言った言葉だったか。それはある意味真理なのかもしれないが、かといって全面的に肯定するのも難しい。
人生、少しばかり刺激があってこそ楽しいものだ。まして、俺のようにせっかく生まれ変わったのなら、ついつい冒険心や好奇心が顔を覗かせたとしても責められまい。
何せここは原神世界――テイワット大陸。元素力を用いた様々な不思議が溢れる世界なのだから。なら、もう少し非凡な生活やら才能やらを手に入れてみたいと思うのも仕方ないものじゃなかろうか。
そう、何故かは知らないが俺にはかつて別の俺だった記憶――いわゆる前世の記憶がある。
そこは地球という惑星の日本という国であり、そこで今と同じく一般家庭に生まれて一般的な人生を歩んでいた俺は、死んだと思ったらこの世界に生まれ落ちていた。
死因は交通事故による……ショック死、なのだろうか。まぁ故郷日本ではありふれた死因だった。
赤ん坊の頃は随分混乱したものだったが、人間とは慣れるもので割とすぐに新しい人生を受け入れた。そして両親に連れられて外出した先で見た大道芸で、ここが原神の世界だと気付いたのだった。
かつて俺自身もプレイしていたゲーム『原神』。アニメ調のキャラクターが広々としたオープンワールドを駆け回り、元素を用いた多種多様な戦闘や冒険を繰り広げるそのゲームに俺は一時期どっぷりハマっていた。
キャラクターや戦闘システムもさることながら、作り込まれた世界観や設定、張り巡らされた伏線に、感情を揺さぶる壮大で緻密なストーリーに俺は魅了された。
アップデートの度、新たなストーリーが追加される度に、ワクワクしながらゲームを起動していたことを覚えている。今でも記憶に残る素晴らしいゲームだった。
……で、今は当時とは違った形で原神に関わっている。プレイヤーではなく、テイワットの住人として。
「はぁ……」
店のカウンターに肘をついて、溜め息をこぼす。
客商売として褒められた行為ではないのは重々承知だが、少しばかりの息抜きぐらい許して欲しい。
俺は神の目なんて持っていないし、今世だって平々凡々な生き方をしてきたと自負しているが、こと俺自身に関してはかなり特殊な部類に入ると思う。
なにせ生まれ変わりである。そんな体験をした人間はまずいないだろう。
そして何より、俺は元プレイヤーだ。旅人の視点でモンドから始まる冒険を一度経験した身であり、それはつまりこの世界の歴史のようなものを知識として既に知っているわけである。
まさに特殊。特異な人間といえるだろう。こんな存在、この広いテイワット大陸といえども俺しかいるまい。
が、同時に俺は何の力もない一般人でもある。
一般家庭に育ち、一般的な学校を卒業して、フォンテーヌ市内のそこそこ大きな商店に入り、今はこうして店先を任されているだけの一般人。
護身程度の武力はあれど、兵士や宝盗団が相手では敵わないし、神の目がない以上は元素力だって扱えない。
一応、そういう特殊な生い立ちというか背景を持っているんだから少しばかり特別な力でもあれば良かったのに。そうすれば、俺だって今頃は物語のような冒険をしていたかもしれない。
時折、そんな風に思って溜め息をつくこともよくあること。前世なんてものがあっても、結局何の力も持っていない。そんな凡人が抱いた空しい空想を、どうか笑って欲しい。
まぁ、とはいえだ。強い力なんてなくても、なんだかんだで旅人の冒険と共に世界は上手いこと回っていくのだろうから、生きるだけならば問題ない。
そんなわけで、俺は今日も今日とて一般人らしく生活のために働くのみである。
「お。スチームバード新聞……ちょうど旅人の活躍が載っているじゃないか」
カウンターの上に置かれていた購読している新聞の記事が目に入り、思わず文章を目で追う。
どうやらこの世界の旅人は蛍――双子の妹の方で、今はどうやらスメールまでの冒険が終わったところのようだ。
大賢者アザールの失墜と、今後は草神であるクラクサナリデビが実権を握ることが書かれていた。
「ということは、マハールッカデヴァータも原作通りってことか。んじゃ、いよいよフォンテーヌ編かぁ」
もしかしたら、どこかで生の蛍ちゃんを見れるかもしれない。そう思うと、一人の原神ファンでもあった俺は自然と心が弾む。
しかし、それは同時にこの国にある災害が襲いかかるということでもあるわけで……。
「暢気に喜んでいるわけにもいかないのがなぁ」
あの予言が必ず訪れると確信している人間は、この国でも数少ない。それはつまり、備えや対策などがほとんど行われていないということでもある。
ナヒーダ曰く、あの予言は世界樹にも刻まれている。つまり、未来の知識と言って間違いない確定した未来だ。
それを知っているのに、何もしないなんて出来るわけがない。
周囲の人間に注意を促したり、リネが配っていたマジックポケットを活用して荷物を纏めておくように言ったり、パニックにならないように落ち着かせることぐらいは多分できるだろう。
逆に言えば、それぐらいしか出来ないわけだが。
「まぁ、やるだけやらないとな」
俺はそう独りごちて、新聞をカウンターに置いた。
*
『人々は皆、海の中に溶け……フリーナは自らの神座で涙を流す。そうして初めて、フォンテーヌ人の罪は洗い流される――』
あの日。
予言が実現し、フォンテーヌの多くが一度水没した日からしばらくの間……フォンテーヌ人を待っていたのは怒濤の日々だった。
予言のように海に溶けることはなかったとはいえ、国中が短時間水没したのは事実。水に浸かったことで機能しなくなった機械や使い物にならなくなった物品、はぐれてしまった人や家財道具の捜索。中には当面の生活もままならない立場になった人も多くおり、それらの対応に人々は追われていた。
幸いヌヴィレット様がすぐさまそれらの救援策や補助、補償などの取り決めを行ってくれたおかげで、今さえ凌げば元の生活に戻れる希望は見えている。そのため人々の顔に不安はあれど絶望はない。
結果的に、あれほどの災害であった割には比較的早くフォンテーヌは元の生活を取り戻した。水神がいなくなったことで発生しなくなった律償混合エネルギーについても、ヌヴィレット様がプネウムシアをコントロールする術を知っているとのことで、それが代替エネルギーとして運用され始めてからはエネルギーへの心配もなくなった。
これらの功績を知った人々は「さすがヌヴィレット様!」と喜んでいる。俺はそんな皆に同意しながらも、心の中では一国のエネルギーすら片手間で賄えてしまう出鱈目さに、改めて「龍王パネェ」と思う次第であった。
水神であるフリーナ様が神を騙った罪で裁かれ神の座を退き、戴く神がいなくなった不安を誰もが忘れるほどに忙しい日々だった。
そうしてやがて生活もある程度安定し、ようやく自分も周囲も落ち着いてきた頃。
いつものように店番をしていると、誰かがカウンターの前に立った。
ぼーっとしていた意識をお客さんのほうに向けて――俺はぎょっと目を剥いた。
「すまない。ここにパスタの大袋は置いていないかな。纏め買いをしたいんだけれど」
そこにいたのは、この国の人間であれば知らない者はいない……青の瀟洒な洋装に身を包んだ可憐な少女だった。
「ふ、フリーナ様……!?」
「……そうだよ、フリーナだ。その、何か言いたいことでもあるのかい?」
どことなくバツが悪そうな顔で腕を組む姿は、歌劇場で一度見た時の姿と変わらない。強いて言えば髪が短くなっていることぐらいか。
他にも白が目立った部分が黒に変わっているが……そういえば本来のフリーナ様の服装はこうだったか、とストーリーにおける彼女の心の中の記憶でのことを思い出す。
と、そこまで思い出したところで、フリーナ様を……お客様を放っておいてしまっていることに気付く。
慌てて居住まいを正して向き直る。
「い、いえ失礼しました。えっとパスタの大袋でしたね。もちろん置いてあります。いくつ必要ですか?」
「……とりあえず、一つあればいい。足りなくなったらまた買いに来るからね」
そうか、そういえば歌劇場を去ってからフリーナ様は一人暮らしということになるのか。
となると、自炊も今は始めたばかり。ならばパスタという選択はその扱いやすさから正解だろう。しかし、ソースとなるといきなり自作するのは少し難しそうだが……。
「もしよければ、オススメのソースもいくつかありますが、どうでしょう?」
「ソースか……たとえば?」
「オーソドックスなトマトソースやミートソースなら、温めてかけるだけのものが。ある程度は日持ちもしますし、味も当店……というか私のオススメです」
「ふむ。なら、それも貰おう」
「かしこまりました」
頭を下げ、パスタの大袋とソースを紙袋の中に入れる。それなりの重さになるが、フリーナ様の華奢な腕で持てるのだろうかとふと思う。
今はまだ神の目も持っていないだろうし……という俺の心配は余所に、フリーナ様はひょいとそれを持ち上げた。そういえば片手剣をある程度扱うだけの腕前はあるのか。そう考えると不思議ではないのかもしれない。
荷物を受け取り、お金を払ったフリーナ様は「ありがとう」と言葉を残して踵を返そうとする。
そこで俺は、咄嗟に「あ」と声を漏らしてしまった。
それを聞き留めたフリーナ様はその場に留まる。
しまった、と微かに後悔する。引き留めるつもりはなかったのだが……つい心の中でずっと蟠りのように沈殿していた思いが零れ出てしまったらしい。
それは、原作のストーリーをやった時にも思ったこと。そして今、原神の世界で、フォンテーヌで、フリーナ様の下で過ごして、改めて思うようになったこと。
いつか、フリーナ様に言えたらいいなと思っていたことを言う機会に恵まれ、つい口をついてしまったのだ。
やってしまったと思うが、引き留めてしまったものは仕方がない。いざ本人に伝えるとなると気恥ずかしいが、ここは覚悟を決めるべきだろう。
「あー……フリーナ様」
「ん、なんだい?」
「その……これは私個人としてなのですが、一言お伝えしてもよろしいでしょうか?」
窺うように言ったその言葉に、フリーナ様は痛みをこらえるように顔を強張らせた。
その顔はまるで、来たるべき時が来た、と言っているかのようだった。
「……ああ。遠慮することはない。僕は神ではないし、君たちを騙していたのは本当だ。予言に対して、被害を食い止めることも出来なかった。……どんな言葉だろうと、僕には聞く義務がある」
それは、五百年のあいだ神を騙って人々を欺き続けた自責の念ゆえか。
だとしたら、なんという責任感の強さだろうか。
彼女が神を演じたことで、フォンテーヌという国は救われたのだ。だというのに、それを責めるなんて……あるわけがないというのに。
五百年……五百年だ。人の身にはあまりにも長すぎる時間を、彼女はひたすらフォンテーヌに住まう人々の未来のために犠牲にしてきた。
いつやって来るかもわからない、予言の対抗策が成る《約束の審判》。その日が必ず訪れるとただただ信じて。
神の目も持たず、ただ死なないというだけの、人間のまま。神であることを疑われてはならず、また誰にも真実を知られてはならない孤独の中を、ただひたすら。
周囲の誰もが人として成長し、愛する人と出会い、子を残し、命尽き果て、更にその子がまた成長し……そんな、人が得るだろう営みの全てをその目に映しながら、彼女はずっと尽くしてきた。
どれだけ羨ましかったことだろう。どれだけ寂しかったことだろう。
どれだけ涙したことだろう。
それでもなお、人の世界を愛し、国を思い、ただの一度もフォンテーヌの人々を守るという意志を揺るがせることはなかった。
そしてその五百年は、ゲームの中のフィクションではない。ここは現実で、彼女は本当に国の人々をその小さな背に背負って五百年を一人だけで頑張ってきたのだ。
予言で人々が溶けなかったことだって、彼女の献身があってこその成果。彼女の努力が無駄ではなかったことは、今こうして俺たちが生きていることが証明してる。
……しかし、その事実をフォンテーヌの人々が知ることはない。
知っているのは、ヌヴィレット様と旅人、そして二人から話を聞いたパイモンだけだろう。
だからこそ、俺は彼女に言いたいことがあった。
一人のこの世界に生きる人間として。彼女の庇護の下で生きたフォンテーヌ人として。
言いたい――いや、言わなければいけないことがあったのだ。
「フリーナ様……本当に、ありがとうございました」
「……え?」
俺が心からそう告げて頭を下げると、フリーナ様は呆気にとられたように目を見開いた。
俺は顔を上げると、せっかくなので彼女に伝えたかったことをきちんと伝えようと、続けて口を開いた。
「あなたはこの五百年、私たち……俺たちのために神としてずっと頑張ってくれました。本当は人間で、神としての権能もないのに、それでも神として在り続けるのは……並大抵の努力と覚悟じゃ出来ないことだったと思います」
そこにあった苦悩や悲痛はかつて旅人の視点で垣間見た。しかしそれすら、彼女本人が経験してきた現実に比べれば万分の一にも満たないだろう。
常人ならばとっくに諦めて、投げ出しても仕方がない。あるいはその重圧に押し潰されていてもおかしくなかった。
それでもフリーナ様が決して折れなかったのは、ひとえに彼女が持つ意志の強さと人々への想いがあったからだろう。
どれだけの苦難や辛苦に遭おうとも、彼女は世界の素晴らしさと人々への愛を忘れなかった。それこそが彼女の凄さであり、ある女神の言葉を借りれば、彼女の正義なのだろう。
「あと、あなたは俺たちを騙したって言いますけど……俺はそんな風に思ったことはないです。あなたは俺たちのために大変な役目を務めてくれた。それを、騙したなんて言えませんよ」
言って、苦笑した。
それはフリーナ様が一つ思い違いをしているのではと気付いたからだ。
「それに、たぶんフリーナ様は勘違いしていますよ」
「な、何がだい?」
「――俺たちは、あなたが神だから慕っているんじゃないです。俺たちは、あなただからフリーナ様のことが好きなんですよ」
もちろん水神として敬愛していたのも事実だ。
でも、それだけで国中からこれほど慕われるわけがない。
彼女が出演した演劇を見て演技に魅了された。歌劇の鑑賞で笑って泣いて一喜一憂する姿に惹かれた。民からの相談に真摯に向き合ってくれた姿に感動した。
街中を歩くフリーナ様を見て挨拶をしたら、挨拶を返してくれた。猫を追いかけて、逃げられたことに肩を落とす姿を見た。日向のベンチに座って、欠伸をしているのが微笑ましかった。
フリーナ様が慕われているのは、そういうことだった。
長年の彼女の行動の積み重ね。そして、俺たち民と距離が近く何だか人間くさい一挙一動。
水神だから、なんて単純なことじゃない。彼女の行動から感じられるフォンテーヌと俺たちへの優しさ。街で見かける彼女の、目を離せないあどけなさと可愛らしさ。
それら全てが彼女の魅力だった。
尊敬、敬慕、だけじゃない。アイドル、スター、というだけでもない。彼女への思いは、フォンテーヌ人であっても明確に言葉にするのは難しいものだ。
ただふと……そんなフリーナ様を見かけた時に、俺たちはぼんやりとこう思うのだ。
やっぱり、この国に生まれて良かったなぁ――と。
そんな気持ちを何とか言葉にしようとするならば、好き、という一言になるのだろう。
神だから、ではない。そう思わせてくれるフリーナ様だから、俺たちは彼女のことが好きなのである。
「改めて、フリーナ様。五百年のあいだ神として俺たちのために頑張ってくれて――本当にありがとうございました」
彼女の事情、予言回避の真実を知るのは、ヌヴィレット様と旅人とパイモンだけ。
しかし彼らは、かたや最高審判官であり水龍というフリーナ様と肩を並べる存在で、もう一方はフォンテーヌに属さない旅の者だ。
そして、フリーナ様が守ろうとしたフォンテーヌの人々は事情を知らない故に、彼女に直接この件で感謝を伝えることは恐らくないだろう。
だから、たぶん唯一この国の民の中で事情を知る俺だけは。いつか、彼女にお礼を言いたいと思っていたのだ。
だって、これほど俺たちのために尽くしてくれた人に「ありがとう」の一言すら贈られないなんて……いくらなんでも間違っているだろう?
「……ぁ、や……その……」
そして、フリーナ様にきちんとお礼を言いたいという胸の内にため込んでいた願いを完遂して満足した俺とは裏腹に、そのお礼を受け取ったフリーナ様はなんだか困惑したように目を泳がせていた。
しかし、さすがと言うべきだろうか。「こほんっ」と一つ咳払いをすると、あっという間にその表情は常の強気な面持ちへと変わっていた。
「な、何を言うかと思えば、そんなことか。そうかしこまらないでくれたまえ。なにせ、それは僕にとって当たり前のこと。それこそが僕のすべきことで、使命だったんだからね」
自然な様子で上位者然とした態度を見せて笑うその姿は、まさに見慣れたフリーナ様のものだ。
水神として俺たちの前に立っていた時と何ら変わっていない。
ある一点を除けば、だが。
「えっと、フリーナ様?」
「ん、なんだい?」
「もしかして、泣いていらっしゃいます?」
彼女の目は、はっきりとわかるほど潤んでいた。
きっと誰が見たって涙をこらえているとわかるぐらいには。
俺の指摘に、フリーナ様の白磁のような頬に朱色が差した。
「な!? そ、そんなわけないだろう! これは、そう……そのだな……ええと……何でもないさ! 君が気にすることはない!」
「えぇ……そう言われましても」
さすがに目の前でフリーナ様が泣いている姿を気にしないなんて無理なのだが。
というか、指摘した途端に一気に超越者の如き威厳が霧散したな。しかし、このフリーナ様もまた我々フォンテーヌの民には見慣れたものだ。マスコットとして愛されている際のフリーナ様と言えばわかりやすいかもしれない。
「き、君が変なことを言うからだぞ! 僕にとってフォンテーヌを守ることは当たり前で、そのためにしてきたことだって僕が勝手にしたことだ。だから、お礼が欲しいなんて思ったこともない! 本当だ! 思ったこともない、のに……」
彼女は抱えた袋をぎゅっと胸に抱えて顔を押しつけた。
まるで、今の顔を誰にも見せまいとするかのように。
「なんで……嬉しいんだ……っ……!」
小さな肩が細かく震える。
少し力を込めて触れれば壊れてしまいそうなほどに華奢な体だった。
こんなに小さな体で、あれほどの重責を誰にも悟られずに抱え込んで、全うしたなんて本当に頭が下がる思いだった。いくら感謝を述べても足りることはないだろう。
けれど同時に、その小さな肩が今喜びの感情で震えていることを嬉しくも思う。
彼女が見返りを求めたことなんて一度としてない。けれど、だからといって感謝の印として贈られた言葉に喜んではいけないという道理はない。
きっとフリーナ様はこれからも変わらずお礼なんていらないと言うだろう。でも、きっと俺たちは彼女に感謝を捧げるのをやめることはない。
何故なら、彼女はそうされて当たり前のことを、ずっとずっとやってくれたのだから。
――そうして感慨に耽りながらフリーナ様を見ていると、不意に俯いていた顔が上がる。
そして、その青い瞳がこちらを見つけると、その目が睨むように吊り上がった。
「な、何を笑っているんだ!」
どうやら、俺は気付かないうちに笑みを浮かべていたらしい。
かつてプレイヤーとして覗き見たフリーナ様の歩んできた軌跡。それを知る身からすれば、喜びの涙を浮かべるフリーナ様の姿には、感じ入るものがある。
それゆえ自然と浮かんでいた笑みだったのだが、さすがにそのまま理由を話すわけにはいかない。
俺は「いや、何でも」と答え、「ただ……」と続けた。
「ただ、さっきは少し元気がなさそうに見えたので、元気が出てくれたなら嬉しいなぁと思いまして」
ちなみに、これは誤魔化すための嘘ではなく本当のことだ。
店先に現れたばかりのフリーナ様はどことなく陰を背負っていた。それに比べれば、今のフリーナ様の表情は随分と明るい。それを嬉しく思うのは当然だった。
「……くっ、そ、そんなことを言って、本当は僕を馬鹿にしているんだろう」
「? いえ、言ったでしょう。俺はそういうフリーナ様だから好きなんですよ」
神として振る舞いながらも、民には愛を持って接していたからこそ。俺や、他の皆も。
フリーナ様が水神でなくなった今も、変わらず彼女のことを好きでいるのだろう。
だから、俺が言ったことは全て本心だ。馬鹿にしているなんて以ての外である。
そう素直に伝えると、フリーナ様は先ほど以上に顔を赤くして身を震わせた。
「~~~っ! も、もういい! 君には羞恥心というものがないのか!? 僕の方が恥ずかしくなってきたじゃないか!」
「いや、そりゃ俺だって気恥ずかしさはありますけど、今言わなかったら言う機会なさそうでしたし……つい」
「ついで僕はこんな辱めを受けたのか!?」
フリーナ様はそう言うが、俺にそんな意図はない。
この機を逃せば、フリーナ様と面と向かって会うチャンスなど今後ないかもしれないのだ。だから言いたいことは全て言っておこうと思っただけである。
本筋は彼女に感謝を伝えることであり、馬鹿にするだの辱めを受けるだの、そんな風に言われることの方が心外である。
そう思って憮然とする俺の態度に何を思ったのか、フリーナ様はさっきまでの勢いが嘘のように肩から力を抜き、それはそれは大きな溜め息をついた。
「はぁ……君ね、あまりそういうことを軽々しく言うべきではないよ。僕の経験から言って、そういう類いの好意は明け透けにしない方が喜ばれるものだ」
何故かダメ出しを受けた。
しかしまぁ、確かにいささか焦りすぎていたのかもしれない。彼女の気持ちも考えず、こちらが言いたいことだけを言っていたと責められれば反論の余地はない。
これで彼女に嫌な思いをさせるのは本意ではない。ここは素直に謝ることにした。
「はぁ……なるほど。心からの言葉だったんですが、すみません」
「あ、謝れとは言っていないだろう! はぁ、なんでパスタを買いに来て、こんなに疲れないといけないんだ」
どうやら謝って欲しかったわけではなかったようで、またしても溜め息をつかれてしまった。
「すみません、フリーナ様」
たぶん悪いのは俺なので、もう一度謝る。
こういう謝りグセは日本人的な気質が残っているせいかもしれないなぁ、と思っていると、フリーナ様が指を一本立てて俺に向けた。
「それも、いいよもう」
「え?」
それ、とはどれのことだろうか。
その疑問の答えは、すぐさまフリーナ様の口からもたらされた。
「僕はもう神じゃないんだ。フリーナでいいよ、敬語も必要ない」
「あ、そう? 悪いねフリーナ」
「君は僕を敬愛していたんじゃなかったのか!? なんでそう切り替えが早いんだ!」
魔が差して悪ノリしてみたところ、間髪入れずに突っ込みが入る。
これに関しては、わざとからかい混じりの返し方をした俺が悪い。
「はは。すみません、ちょっとふざけました」
そんな俺に、フリーナ様は困ったように笑って「まったく、もぅ」と呟いて袋を抱え直した。
「さて、それじゃ僕はそろそろ行くよ。いい加減、腕も疲れてきたからね」
「毎度あり、フリーナさん」
彼女は「うん」と答えて、じっと俺を見つめてくる。なんだろうと思っていると、「君は……」と言葉が続いた。
「君は、まったくおかしな人だな」
「まぁ、昔から変わってるとはよく言われます」
主に前世の記憶があるせいで、大分変わった子供だったろうと思う。
それを意味してのことではないだろうが、フリーナ様は俺の答えに肩をすくめてみせた。
「だろうね。でも、君の言葉は……嬉しかったよ。その、ありがとう」
「それは俺の台詞ですよ」
「ふふ、そうだったね」
元はと言えば、俺がフリーナ様に感謝を告げたいがために始まったやりとりなのだ。
それゆえ彼女がお礼を言って俺が受け取るのでは、立場があべこべである。
それに気付いたのかフリーナ様は小さく笑むと、一拍置いてくるりと身を翻した。
「じゃあね、なかなか有意義な一時だったよ。……本当に」
「うちのパスタ、美味しかったらまた来てくださいね」
背を向けるフリーナ様に、そう声をかける。
すると彼女は肩越しに振り返り、にこりと笑った。
「ふふん、気に入ったらね」
その笑顔は、水神としてでも大スターとしてでもない。
どこまでも無垢で、自然と惹き付けられるほどに眩しい――ただの少女のような微笑みだった。
*
ちなみにその後。
フリーナ様はめでたくうちの常連となり、なんだかんだで親交を深めていくようになった。
そうしてよく話をするようになると、自然とお互いへの態度も次第に砕けたものになっていった。
名前を呼ぶ時は呼び捨てになり、敬語を使うことだってなくなり、それぞれの私生活すら会話の中で知るようになった。
まぁ要するに、彼女――フリーナは、俺にとって新しく出来た友達……ということになるのだろう。改めて口にするのは照れくさいが。
まさかフォンテーヌの象徴たる彼女とこんな関係を築くことになるとは夢にも思っていなかったが……人生とは本当に何が起きるか分からないものだとつくづく思う。
そんな彼女は今日も今日とて店に顔を出し、カウンターに肘をついて顔を乗せると、覗き込むように店番をしている俺を上目に見つめた。
何がそんなに楽しいのか、店で会う彼女はいつもにこにこと機嫌が良さそうである。
「やあ。今日はなんでそんなにぐったりしているんだい? 仕事が大変なら体を休めるのも仕事の内だよ」
「フリーナ。いや、どうも趣味の釣りが上手くいかなくて没頭しちゃってね」
「へぇ、よほど釣果が悪かったみたいだね。でも、釣りが趣味だったなんて知らなかったよ」
「ああ。どうしても鉄パイプが欲しくて」
「君は何を言っているんだ?」
怪訝な顔をする彼女に、小さく噴き出す。
それにムッとして頬を膨らませる彼女は、整った相貌もあって非常に愛らしい。
――彼女はもう普通の少女だ。ケーキが好きで、小さな動物が好きで、演劇が好きな、ただの女の子。
それでもやはり、かつて水神だった彼女をそうとは見れない者は数多くいる。というか、ほとんどがそうだろう。
外を歩けば、やはり人々は彼女をそのように見る。それは仕方がないことだ。フリーナはそれほどまでに人々にとって大きな存在だったし、今なお多くの人に慕われているのだから。
フリーナ自身、それこそが自身が残した軌跡なのだからと受け入れている。だから問題はない。問題はないのだが……。
でも、思うのだ。ようやく長く背負ってきた荷物を下ろすことが出来たのだから、彼女がもっとただの少女として在れる場所があってもいいのではないかと。
もちろん、自分がそうなれると自惚れているわけではない。けどまぁ、そう在ってもいい、と彼女が思えるような態度で接しようと俺は心に決めていた。
だから、彼女がこういう何気ないやりとりの中で見せる普通の姿に、つい嬉しくなってしまうのだ。
「むぅ、またそうやって笑って! 僕をからかうのがそんなに楽しいのか!?」
「ああいや、フリーナは可愛いなぁと思って」
「なぁっ!? き、君って奴はいつもいつも……!」
顔を赤く染めたフリーナは、カウンターから身を乗り出して俺に詰め寄ってきた。
曰く、「僕は君よりもずっと年上なんだぞ」「少しは大人のレディへの対応を学びたまえ」「そもそも可愛いだとか無闇に言うべきじゃない」「まさか他の女性にも軽々しく言っていないだろうね」などなど。
それら全てをきちんと聞いている振りをしながら、俺は思う。
やっぱり、フリーナは可愛いなぁと。
こっそりと久々に何か書いた。
久々すぎて投稿の仕方を忘れてて、ちょっと困った。
原神面白い。