ゲートに入り、背後の扉が閉まる。瞬間、身体が強張るのを感じた。こんなことは初めてだ。自覚していないだけで、やはり緊張しているのだろうか。
身震い一つ、緊張をほぐす様に行い、スタートに備える。瞳を閉じて、深呼吸。ゲート入り後に毎度行うルーティーンだ。午後から降り出した雨が足元を濡らす感覚を覚える。
片足を後ろへ、重心を前の足へ載せて、スタートの体勢を取る。前の足が音を立てて地面に沈み込む。足場の緩さを再確認し、ゴールまでの道のりの厳しさを想定する。流れる水滴は冷や汗なのか雨なのか、彼女本人にも分からなかった。
背後が静かになる。全員のゲート入りが完了したことを察し、レースへ気持ちを切り替える。瞬間、ゲートが開く。
最初は抑えめに。バ場の緩さから日本のレースほどの加速は見込めない上、内枠であることから最初から前に行こうとしてもほかのウマ娘に囲まれてしまう可能性が高い。
左側――外ラチ側からぐんぐん前へ進むウマ娘の姿が見える。言うまでもなく、我らがチーム・ジャパンの筆頭、ケープチャンプの背中である。いの一番に先頭位置を確保し、他のウマ娘を引き連れるように走る姿は頼もしくもあり、日本最強の壁の高さを感じさせる。国内で中距離GⅠを走るならば、間違いなくどこかで勝負をすることになる相手だろう。
「(――いや、今はとにかくこのレースに勝つことを考えなきゃ)」
流石にシニア級混合のレース、世界最高峰の舞台であることも相まって、周囲を走るウマ娘から感じる「圧」は今までの比ではない。あっという間に隊列が形成され、彼女はその最後方に位置を取ることになった。
コースの形状はニエル賞で既に確認済みである。最初の1,000mはひたすら直線を走るコース。そのうち後半600mが上り坂だ。そしてこのぬかるんだバ場であるから、先頭を高速文化の日本ウマ娘が走っているにも関わらず、全体のペースはあまり早くない。さしもの日本最強ウマ娘、ケープチャンプもこの足場には苦戦しているようだ。
上り坂に差し掛かる。よりパワーが必要になった上、雨で身体が冷えてスタミナが奪われる感覚がある。この2,400mは想像以上に過酷な道程かもしれない。パワーを脚に込めて、かつ滑って転ばないように重心移動に気を付けながら坂を上る。これだけでかなり神経を使うことを強いられている。レース前半も終わっていないのに、激しく体力を消耗させられている。
最後方から隊列を臨みながらついていく。ちょうど目の前には昨年の凱旋門賞の覇者が祖国と同じカラーリングの勝負服を身に纏って走っている。
「(この後ろに、うまく控えれば――)」
しかし難しい。彼女がつきたい位置は既にほかのウマ娘が持っている。彼女がいるのはその内ラチ側。前も外側も阻まれ、身動きが取れなくなっていた。
そうこうしているうちに前半の直線が終わり、隊列が右を向く。峠を越え、下り坂に転じる。これまた足場との勝負を強いられる。足を前方に滑らせて転ばないように、また重力に従って必要以上にスピードが上がらないようにしっかりと踏みしめなければならない。これまた神経を使わせるコースにほとほと苦心する。
視界の右側、遥か遠くラチの向こうに、隊列の先頭に黄色と緑の勝負服が見えた。隊列の先頭を走るケープチャンプである。しかしすぐ後ろに1人、アイルランドのウマ娘がぴったりくっついている様子。先頭は取れているが、思ったように距離を稼げていないということだろうか。やはり日本最強にもこの渋ったバ場は難しいのだろう。
そしてコーナー中盤、つまり最終コーナーに差し掛かった辺りであるが、ここにきて隊列の外側を走るウマ娘たちがペースを上げ始めた。先ほどまで目の前にいた昨年度覇者のウマ娘は既に3バ身以上離して前方へ、自身の周囲を走るウマ娘たちも次々にギアを上げていく。
「(もう仕掛けに入るのか! 続かなきゃ――!!)」
続かなければ、追い越せなくなる。前半ずっと後方につける作戦を取るということは、ここからの上がり脚で勝ち筋を見いだせるということだろう。ならば無理をしてでも位置を上げなければ、彼女に勝ち筋はなくなってしまう。
しかし思うようにスピードが上がらない。ここまで渋ったバ場を蹴り上げるためにパワーを使い過ぎたか、はたまたスパートの掛け方がこの芝に合っていないのか、加速が伸びず、気が付けば自身が隊列の最後方になってしまっていた。
カーブを抜け、目の前に直線が現れる。ロンシャンレース場レース場名物のフォルスストレートだ。カーブを抜ける直前、未だ先頭を走るケープチャンプを見る。なんとかスピードを上げて前のウマ娘を追い抜こうとするが、その差は寧ろ開くばかり。目の前に大きな差を残しながら、最終直線へと入ってしまった。
「(バカな! ありえない! いくらなんでもこんなに差があるなんて!)」
ゴールは未だ400mも先にあるが、全力で脚の回転を上げる。なんとか加速しようとするが、隊列はなおも遠い。その隊列は既に横に大きく広がり、1人ひとりが視認できるほどになっていた。レース中は先頭のケープチャンプ以外その様子を確認できなかったが、ここでようやく視界に入る。
タマスダレも全体のスピードに追い付けなくなっており、最後方まで下がっている。グリードフルートも何とかついて行っているものの、先頭までは遠く及ばない。そしてずっと先頭を走っていたケープチャンプは、既に数人のウマ娘に追い抜かれており、もはやこれ以上の挽回は不可能だろう。
つまるところ、日本勢の勝利は既に絶望的であった。
「(認めない! 世界がこんなに遠いなんて認められるわけないじゃない!)」
逸る気持ちとは裏腹に、目の前に広がる差が縮まる様子は依然としてない。ただただ広がり続ける差に頭が真っ白になる感覚を覚えながら、白と緑の勝負服を纏ったウマ娘がゴール板を駆け抜ける様子をただ見つめていた。
気が付いた時には、自身も既にゴール板を駆け抜けた後だった。
着順は――19位。最後に1人追い越したが、先頭からは物理的にも心理的にも大きな差を見せつけられ、キャリア初の海外GⅠ挑戦は、屈辱の結果に終わってしまった。
散々引っ張りましたが、終わりは呆気ないです。