キュベロとしての仕事が終えても、九条希実での仕事はこれからだ。
いったんセーフハウスに帰り、返り血と煙の臭いをシャワーで洗い流した。
着替えも済ませ、そそくさとハウスを出る。
外はもうすっかり日が昇っていて、町も色んな音が飛びかえっていた。
平和だ。誰も今目の前を、横を、通りすがった奴が何十人と人を殺している殺人鬼だなんて誰も思わないだろう。
スッと視線を落とすと思いっきり誰かにぶつかった。
「あっ、ごめんなさい! 怪我はありませんか?」
すぐに希実の仮面を被る。
私がぶつかったのは、男の人で尻もちをついてうなだれている。
はて、そこまで強くぶつかってしまっただろうか。
疑問に思いながらも、大丈夫ですかと手を差し伸べる。
「あの」
それでも、その人はうなだれたまま抑揚のない声で呟いた。
「ここはどこですか?」
その言葉に目を細める。
いい大人が迷子か何かか?
そしてようやくその人は顔を上げる。
伏せられていた双眼を見て、頭に何かが横切ったがすぐにそれは消えてなくなった。
「ここは東京都**市**ですよ。お兄さん大丈夫ですか?」
「東京?」
どういうことだと、ぶつぶつ何やらお兄さんは考え始めた。
「お兄さん?」
私が再び声を掛けると、ハッとした顔でこちらを見て立ち上がった。
「すみません、少し混乱してしまいまして。僕は安室透です」
うん。うん? 爽やかに笑った彼の顔から目が離せない。
今どこで自己紹介の下りがあったんだ?
「ご丁寧にありがとうございます。私は九条希実と言います」
ところで迷子ですかと尋ねると安室と名乗った男は困ったような、少し照れたように笑う。
「お恥ずかしながら」
そんな彼の表情に道を歩く女性達が顔を赤らめる。それと一部の男性も。
確かに彼は稀にみるイケメンだろう。
普通の女性なら赤面して倒れてしまっても可笑しくない。
でも、この男の笑みはどこか得体がしれないもののように思えてならなかった。
この男は危険だ。
それでも私は希実を装う。
得体がしれない? どこが? 普通の笑顔じゃないか。
そう“私は”知らない。この男に隠されているものを。
「よかったら、すぐ近くに喫茶店があるんですがどうですか? 私そこで働いていて、少し休まれては?」
でも、彼には悪いが警戒対象だ。
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「あ、希実ちゃん、おはよー」
ドアに付けられた鈴を鳴らしながら私が働いている喫茶店ーコトンーに足を踏み入れる。
「マスター、すみません! 遅刻、ですね」
「いいよいいよ、まだ開いていないしね」
私が9時を過ぎた時計を見て肩を落とすと、マスターはさも気にしてないように笑う。
ところでと、笑っていた彼の眼はゆっくりと開き、私の後ろにいる男性に視線が行った。
「彼は?」
「あ、実は————」
「開店前にお邪魔してすみません、僕は安室透と言います。お恥ずかしながら、迷子になっていたところを希実さんに助けていただいて」
私の言葉を遮って、マスターに簡潔に自己紹介と事情を説明する安室さん。
さらっと下の名前で呼んじゃうあたり、彼は何なんだろう。
「あぁ、そうかい? てっきり希実ちゃんがカッコいい彼氏を連れて来たのかと思ったよ」
そう言ってからからと笑うマスターに私も困った風を装って笑う。
「もうマスター、違うよ。私店開けて来ますね。安室さんも適当にくつろいでてください」
「あ、逃げた」
「そんなんじゃないですよ!」
そうマスターに言いながら、扉に掛かっているプレートを“Closed”から“open”へとひっくり返す。
さぁ、開店だ。
「それにしても」
そんな中、安室さんの呟きが聴こえた。
「喫茶店にしては遅い開店ですね?」
彼はそう言って笑う。