ようこそ享楽至上主義の教室へ【特殊タグ無し版】 作:アネモネ
京楽菊理は家族というものを知らない。
母親は彼女を産んだときに死んだ。生前の写真等は見せられたこともあるが、実際に生きている姿をククリは一度も見たことがない。永遠に見ることもできない。
父親はその逆パターン。生きている、としか知らない。どうもククリはいわゆる外の子という境遇らしく、父親に会ったことも無ければその名前も顔もわからないのだ。
周囲があれこれ言うことは多いものの、ククリ自身はこれらの境遇を特に気にしたことはない。気にかけることもないだろう。
「両親と触れ合うことが出来ないとは……人肌の温もりから得られるものも沢山ありますのに」
お父様お母様大好きを公言する少女より贈られた言葉だ。この意味を理解はしていないし、出来るようになる気もしないというのがククリの率直な感想だった。
まあ、ともかく。別にだから、というわけではないだろうが。京楽菊理は生まれながらにして怪物であった。
ククリの身体の仕組みは常人のそれとは異なる。いや、彼女以外の人間と彼女の身体とではもはや別物と言っていい。
異常、ただその一言に尽きる。
例えば。火事場の馬鹿力、という言葉がある。人間には無意識にリミッターがかけられている。火事などといった危機的状況でなければ本当の『全力』を出すことはできない。脳がこの『全力』を抑えるのは自らの身体を守るためだ。これはいわば諸刃の剣。人間が真に『全力』を出せれば強烈な一撃をも繰り出すことができるが、反面身体が壊れ大怪我をすること間違いなしなのである。
しかし。ククリにはこのリミッターは存在しない。そんなことで壊れるような身体など持ち合わせていないのだ。一体全体どういった身体構造をしているかについてはまだ解剖を受けていないので判然としない。わかる範囲では、例えば細いにも拘わらず強靭な筋肉繊維。見た目は普通、いやいっそ華奢とすら言える体格であるにも拘わらず驚くべき怪力を発揮している。さらには皮膚やら骨まで特別性なのか、その身体への攻撃は非常に通りづらくなっている。攻撃を繰り返し受けようとダメージが蓄積することもないのだ。
ククリを研究材料にしたいという者は後をたたない。だがそのことごとくが退けられているのは、彼女の父が手を回した結果らしい。政治家だとか金持ちなんだろうなと適当にククリは考えている。隠し子に対する愛情なのか、謝罪の気持ちなのか、自身の利益のためなのか、そこはよくわからないが。
ククリを育てたのも父の手の者らしかった。そう伝えられたことは一度もないが、少なくともククリの母の血縁者であるオシャレなお姉さんはそう認識していた。その男、「京楽」は彼女が物心つく前からそばにいた。彼の教育方針は非常にシンプル。「何事も楽しめ」、そうククリにずっといいきかせてきた。ククリが一度怒りにとらわれると全てを破壊し尽くさなくては収まらない。だったらストレスを溜めないようありとあらゆる全てを楽しんで過ごせばいい、という馬鹿げた話であったが、彼女にとってこれは思いのほか性に合っていた。
ククリは「京楽」を父と思ったことも兄と思ったことも家族と感じたこともない。だが、幼い頃癇癪を起こしたククリのそばにいてくれたことは感謝している。彼でなく他の人物であったならば、おそらくククリはその人物を壊してしまっていたことだろう。ククリの父がこの男を世話係に選んだのもその戦闘力を買ってのことに違いない。彼女はそう確信している。故に、母の親戚から「一緒に暮らさないか」と善意による打診を受けても断ってきた。
中学。いわゆるお嬢様学校であるそこを舞台に、ククリは楽しんだ。自身の死後の解剖権を餌にして「何か楽しいゲームを開催してほしい」と学年1頭脳明晰な少女に依頼したのだ。彼女の父はとある研究所の所長だった。1年生の頃から綿密に計画を練ったらしく3年生になってから実行されたそのゲームで『神様』を名乗りクラスを掌握した彼女とククリはあくまでもフェアに対峙した。1プレイヤーとしてゲームを楽しんだのである。
その少女、『神様』はどういう存在だったのか。その始まりは胡散臭い噂だった。曰くとあるメールアドレスを使い『神様』に相談すれば何もかも上手くいく、と。例えば成績が上がった。例えば憧れの先輩と仲良くできた。例えば他校の男子との出会いがあった。交際にまで発展した。例えば友達と仲直りに成功した。クラスメイトたちはその恩恵を被るごとにやがてこの『神様』を信じ、ついには崇拝の域にすら達した。その命令を聞けばいい、聞かなければいけない、と。
なぜ『神様』にクラスメイトたちが従うのか。そこには仲間外れになりたくないという集団心理と、多かれ少なかれ秘密を握られているという個々の事情があった。指令によって万引きといった犯罪のスリルを楽しむという遊びに興じる者も一定数存在したのだ。この『神様』という立場を用いて彼女が引き起こす事件はやはりククリに対しての殺意が大きいものであったが──ククリが早く死ねばそれだけ早く解剖できるのだから当然だろう──クラスはこれを乗り越え、誰一人欠けることなくゲームは終了した。してしまった。
お嬢様学校には権力者を親に持つ子どもが多い。事件はあっさりと揉み消され、心に傷を負ったクラスメイトたちは海外であったり別の場所へと転校した。ククリのみ学校に残ったため事情を知らない他クラスに編入。『神様』を演じた少女はというと娘より研究を取った父親に切り捨てられ、幽閉される日々を送っているらしい。彼女にゲームの感想やお礼を言ってあげることなくこの高校に入ってしまったことをククリは少しばかり後悔している。
ククリは自身の異常性について深く考えたことはない。特に興味も湧かないのである。
だがそれ以外の人物はそうとは限らない。
もし彼女について説明をつけるならば。奇跡的な、進化。あまりに陳腐で魔法のような言葉だが、そう表現するよりほかはない。
ダーウィンの進化論を例に取ってみよう。
キリンの首はなぜ長いか。
実は大昔のキリンは、現在のキリンより首が短かった事が化石よりわかっている。しかし首の長さが中間のキリンの化石は見つかっていない。
よって。突然変異で首が長い種のキリンが誕生した。首が長ければ、高い枝に届くようになり葉をたくさん食べて栄養を多く摂れる。栄養状態のいいキリンの方が、当然生きていく上で有利である。そして長年の生存競争の結果、長い種は生き残り短い種は滅んだ。だからキリンの首は長い、という説をダーウィンの進化論は唱える。
では人間はどうか。
一般的に猿人→原人→旧人類→新人類への進化が考えられている。新人類つまり現生人類に、突然変異種が現れたならば。それはいずれ現生人類を絶滅させるのだろうか。
実際に起きてみなければ答えの出ない問題、それを防ぐ手立ては?
人工的に、天才を作るという実験。どんな人間もその施設のカリキュラムを受ければ優秀に育つ。生まれた時から徹底した教育を受けさせ、睡眠時間から食べる物までありとあらゆるものを管理していくことで子どもたち全員を天才として育てあげる。そんな施設があれば。突然変異種にも対応できる、のかもしれない。
約20年前より。初年度の1期生から1年毎に新しいグループが作られ、何百人もの子どもたちが別々の指導者の下で教育され、どのグループが一番効率よく育成できるかを検証している。外観も、廊下も、部屋もすべてが白一色の施設が。埼玉のとある山奥には存在するらしい。
§§§
坂柳有栖はただ、うっとりと見とれていた。その姿はさながら恋する乙女。ほう、と息を吐く様子すら可憐である。
綾小路とククリの、純粋な力勝負。しかも観客は自分のみという状況がそれはそれは嬉しかったのだ。
開始直後。その力のぶつかり合いは均衡を保っていた。しかし時が経つにつれその天秤はククリの側へと傾いていき。やがて、決着がついた。
バン、と力強い音が屋上に響く。
「勝者は──ククリさんです」
「わーい、勝ったどー!」
敗者・綾小路清隆はまだ少し痛む右手をさすりつつ、悲しげな声を出した。
「勝負って腕相撲なら先にそうと言ってくれ……」
「え、まさか喧嘩するとでも思ってたの? こんなか弱くてしかも生徒会役員のククリちゃんと?」
心底不思議そうな顔をされた綾小路は心の中でぼそっと呟く。本気を出さなかったとはいえ自分と腕の力が推定で互角、ともすればそれ以上だった少女がか弱いなんて嘘だろう、と。
しかし確かに何で戦うとかを確認していなかったのは綾小路のミスである。今思えば腕試しとか手合わせとか腕相撲っぽいワードが飛び出していた気がしなくもない。それに、ククリが右手だけ手袋を外していたのもこのためであれば納得がいく。一回勝負、と言っていたのも腕相撲の話だからだったのだろう。
「でもでも、麻呂君とっても強かったよ」
椅子に置いていた手袋をはめながらククリはニコニコと話す。実力を体感とやらができたらしくいつも以上に機嫌がいいようだ。
「そんなことはない。そもそもフェアな勝負ではなかっただろ」
首を傾げるククリに向かって、綾小路は言葉を続けた。
「左利きなのに右手で戦っていたからな。オレを気遣ってのことなら悪かった」
「全然全然。今は右も使えるから、左手のほうが力込めやすいってくらいだよ。しっかし意外とみんなわかるもんなんだねえ。堀北先輩にも気づかれてるっぽかったし。むー、隠してるわけじゃないんだけど、なんかこう、隠しステータス発見されたみたいな物悲しさがある……」
隠しステータスは隠してあるステータスではないのか。しかしそれは突っ込まれなかった。有栖も綾小路もコンピュータゲームの類いはやらないのである。そういった単語には疎い。
「綾小路くんは自身の敗北に納得しているのですね」
「世界には70億にも達するほどの人間が生きているのだから、オレよりも優れた人間は当然この世界に存在する。いちいち気にしてたらキリがないだろ」
「なるほど。それは────いえ、そうですね」
何やら思案顔の有栖をよそにククリは倒れている龍園のほうへと歩いた。2人の会話を邪魔すまい、と思ったのである。
ゴロンと転がして仰向けにさせるとガンガン揺らして起こす。自業自得とはいえ怪我人に対して容赦がない。
「っく……」
「おはよう、たっつー。気分はどうだい?」
「最悪だ」
そう吐き捨てた龍園はちょいちょいとククリを手招きする。はてなマークを浮かべつつククリがその指示に従って顔を近づけると、龍園は勢いよく上半身を起こして彼女の額に頭突した。
ガツンといい音が鳴る。
「うぬぅぃい! 起こしてあげた恩人に向かって何てことをするんだね君は」
「うるせえ。一発殴りたかったがまだ力が入んねえからな。これで勘弁してやるよ」
「謝りすらしないぞこいつ」
目覚めたばかりではあるが元気な様子の龍園に、ククリは「これだから喧嘩慣れしてるヤンキーは……」と毒づいた。
「だいたい他クラスの、しかも坂柳なんて目撃者連れて来るんじゃねえよ。どうせ楽しいからとかそんなしょうもない理由だろ」
「違うもん。ペーパーシャッフルの時にちょっと裏取引してたって立派な理由があるから」
「裏取引のどこが立派な理由だ。にしてもそうか、あの時クジ引きもなくすんなり攻防が決まったのはおまえが工作したからか」
「うん、そうだよ。盛大に褒め称えてくれてもいいよ」
「誰がするかバカが。こうして今、ここにいられることのがよっぽど迷惑だ。おまえには相変わらず良心ってもんがねえな」
「生憎と片親だけでね」
ふんだ、とククリが顔を背ける。ぷくーっと頬を膨らませるといういかにもな仕草を見せていた。
「……綾小路についておまえが知ってることを吐け」
「んー、昔ちょっとキャロルが会ったことあるらしくてすっごく戦いたがってる。何か色々とできるスーパーマンらしいけど腕相撲は今現在私が一勝ってくらいだよ、うん」
龍園は綾小路たちがいるほうに目を向けた。確かに何やら話している様子だ。綾小路はいつも通りの無表情だが、坂柳のほうはかなり楽しげに見える。
「たっつーはまだ戦えるだろうけど、やめといたほうがいいよ。階段下りたとこに堀北先輩と茶柱先生もいるから。階段使わずに降りたり私の持ってきた着ぐるみ被ったりして顔を隠して行くって手段もあるけど。それやらないなら意味ないよ」
「…………これ以上俺が綾小路に手出しすれば、綾小路は自身の正体や軽井沢の過去を隠すことを諦め今日のことは学校側に通告される。そういうことか」
「たぶんね」
「……引き際だな」
暴君が許されるのは、その権力が意味を成している間だけ。強引な手段を選んでおきながらこてんぱんにやられた以上、龍園は責任を取らなくてはいけない立場となった。だから一人退学して終止符を打つ。
「京楽。一つだけ──」
色んな意味で、本当に、本当にこの手だけは使いたくなかった。龍園はゆっくりと息を吐き、また吸う。どうにか心を落ち着けてから言葉を続けた。
「一つだけ、何でも言うことを聞いてやる。だから今から言う指示に従え」
「ほほう。指示って?」
「俺は自主退学する。だから伊吹と石崎とアルベルトを守れ。綾小路は俺さえいなくなればあいつらは脅威でないと理解しているだろうが、念の為だ」
ククリは基本的に約束事は守る。生徒会役員でもあるわけだし、綾小路も手を出すことを躊躇うはずだ。人選としては最適。というよりは龍園には他に選択肢もない。
「んー、それだと3つくらいは聞いてほしいなあ、お願い。丁度3人守るんだし」
「…………わかった」
「ほんと?」
効果は抜群だった。
瞬間、ククリがぐっと顔を近づけてくる。ぶつかりそうな勢い。強制的に至近距離で見つめ合うことになる。無駄にキラキラとした瞳が星でも閉じ込めているかのように輝いていた。さっき頭突されたのをもう忘れたのか、と考えかけて龍園は違うと自分で否定する。おそらく頭突ですらも大したダメージになっていなかったのだ。つくづく化け物じみている。
目を見て何がしたいのか龍園にはさっぱりだが、ともかくククリは暫くその体勢を維持するとやがて満足したように頷いて離れた。
「よーし、本当だね? ちゃんと履行しなきゃダメだぞ?」
「ああ、してやるよ。代わりに石崎たちを守れ。いいな?」
「もっちろん!」
そのククリの浮かれように龍園は悪魔と契約でも交わした気分になる。今まで自分と取引した相手はこんな気持ちだったのだろうか。何を要求されるのやらと考えると、この真冬の寒さのせいだけではないだろう。少しヒヤリとするものがあった。
「じゃあさっそく1つ目のお願い言うね、たっつー」
ククリは腰に片手をあてるとびしっとノリノリでポーズを決めて宣言した。何を言われるのかと身構える龍園をにやりと悪っぽい表情で見つめる。
もとから話す内容を決めていたのか、彼女はすんなりと口を開いた。
「私、京楽って名字で呼ばれるのあんま好きじゃないの」
私にとって京楽はあの男だから。そう小さく呟く声が聞こえた龍園は、しかし無反応で彼女が続きを話すのを待っていた。
「だから、昔みたいに。ククリって呼んでほしいな」
「……………………おまえにしてはささやかすぎる願いだな」
本当に実行が容易な願いだ。警戒していたのをバカバカしく感じるほどに。
何を考えているのか、何にこだわっているのかさっぱりわからない。昔も、今も。龍園は改めて認識した。自分は京楽菊理のことが苦手だ、と。一生苦手なままだろう。
ククリ、ククリと龍園は心の中で唱える。大きなため息を漏らしてから、ひどく面倒くさそうにその単語を口にした。
「ククリ。これでいいか?」
予想通りの元気な声で。すぐさま返事がきた。
「うむ、よろしい!」
何が楽しいのかにこにこと笑みを振りまくククリは続けて2つめ3つめの願いを話し始める。
「で、次。私が良いって言わない限り自主退学しないこと。最後がクリスマスパーティーに参加すること。サンタの仮装でね」
「あ?」
「履行するって言ったんだから守ってよね」
とびきりの笑顔を浮かべるククリに、龍園は溢れんばかりの殺意を向けた。が、もちろん効いていない。
「大丈夫だよたっつー。綾小路清隆は龍園翔を退学させたいわけじゃない。だったらもっと別の罠仕掛けてたと思うよ、麻呂君のことだもん」
「おまえはよく知ってるだろ。俺は簡単に人を信じたりしない」
「うわ面倒くさいなこの男」
そこそこ気だるげなトーンでククリは呟いた。
「はいはいじゃあ懸念を1個1個潰してこう。龍園君が退学しなかった時の問題点教えてよ」
「今日のことを道具に脅迫を受ける」
「ないと思うけど、そしたらその時に退学を考えればいいじゃん」
「石崎たちが受けたら?」
「澪の様子に変化があれば私は絶対気づく。バーティと石崎君はたっつーのこと大好きだから、そういうのに屈しないと思うよ。たっつーに相談するね絶対。だから大丈夫」
脅迫を受けても初期段階であれば解決は容易だ。龍園が退学することで脅迫材料を無くせば片をつけられる。それにはっきり言って綾小路的にこの3人の利用価値は薄いだろう。
「学校側へチクられた場合」
「生徒会パワーで澪たちの処罰はプライベートポイント没収くらいになるよう頑張るよ。堀北先輩が卒業した後ならたぶん完璧に揉み消せるね」
「……何でおまえは俺を止めるんだ?」
「そりゃあ、たっつーの支配するクラスが好きだからだけど。楽しくなけりゃさっさとクラス移動するなり入学後即退学してるって。逆に聞くけど、たっつーはもう麻呂君とは戦いたくないの?」
心底不思議そうに問われた龍園は瞑目する。
少し考えればすぐにわかった。
龍園は戦いたいのだ、綾小路ともう一度。次は慢心などせずもっと舞台を整えて。
何せ、こんなにも心躍る存在にやっと出会えたのだから。
ストンと収まるものが収まった気がする。悩んでいたのがバカらしいほどに単純明快だ。
いくら惨めだろうが、泥水をすすってでも。龍園は再戦したい。勝負を楽しみたい。最後に勝つのは自分でありたい。
戦いたい。それはもしかすると龍園と思考が似ている綾小路も同じ気持ちなのかもしれない。少なくとも龍園はそうであってほしいと願う。
戦いたい。どうしようもなく、煮えたぎるように湧いてくる感情。熱く、熱く闘争心が燃え上がる。
戦いたい。戦いたい。戦いたい。戦いたい。まだ、この舞台に残りたい。
龍園の心は、意志は決まっていた。もう目は逸せない。もともとしつこく諦め悪く執念深く泥臭いのが龍園のやり方だ。
「うんうん、いい眼になったね」
「……ククリ」
「ん?」
「目を閉じろ」
首を傾げつつも従ったククリの襟元に龍園は手を伸ばした。その首にかけている紐ごとお守りを奪い取る。
え、と彼女が驚いているうちに中から紙を取り出した。ククリが体育祭以降ずっと身につけているこの膨らんだお守りの中身は前から気になっていたが、今日になってその内容がおおよそ推測できたのである。
「坂柳との契約書か」
Aクラスへの移動を約束する内容。龍園の予想通りだ。
容赦なくビリビリに破いてから宙へと放り投げる。復元不可能となった紙屑はふわりと浮かび、風に流されて遠く遠くに消えていった。
「ゴミはゴミ箱に捨ててよ。環境に悪いじゃん」
「うっせぇ。それよりおまえ、石崎たちを守るっつったの忘れんなよ」
「はいはい、わかってるって。3学期いっぱいはクラスを絶対裏切らないよ。というか復活早すぎ。これは発破をかけなくて良かった気がする……」
一応感謝してやろうか1ミクロンほど迷っていた龍園だったが、この言葉を聞いてすっぱりやめた。
龍園はゆっくり立ち上がり綾小路たちのほうへと向かう。ククリもトテトテとそれについていった。
「そちらもお話が終わりましたか」
有栖は上機嫌だった。頬が少し上気しているように感じる。綾小路と存分に話ができて嬉しかったのかも、と考えたククリは2人の会話を邪魔しないようにした自分の英断に拍手を送った。
「麻呂君麻呂君。麻呂君は石崎君たちをいじめることなんてしないよね?」
ククリの問いかけに、綾小路は龍園を見やりつつ答えた。
「ああ。オレは今回の件を誰かに言いふらすつもりは無い。下で待機している元生徒会長にも、ここでのことは全て他言無用ってことで落ち着いてる。こっちに対して無茶することさえなければ今日は何もなかったってことになるわけだ」
「信用できねえな」
他者から龍園が信用されないのと同様に、龍園もまた他者を信用することができない。しかも龍園が自分と似ていると感じる男のことなどなおさら信じられないのである。しかし──────
「だが、賭けてやる。もちろん俺の勝ちにな。言っておくがおまえと違って俺はギャンブルでも負け知らずだ」
「……悪かったな、運が悪い人間で」
「うんうん、借り物競争の時の運の格差半端なかったよね」
圧倒的1位とぶっちぎりの最下位であった。龍園の悪運はめっぽう強い。
「そこの坂柳もいることだ、3学期は大人しく順番待ちしといてやるよ。元会長も卒業して来年度に入ったら……首洗って待っとけ」
ペッ、と口に溜まった血とともに言葉を吐き捨てる。そんな龍園を見てククリは床拭かないとだなあ、と呟いていた。証拠隠滅は重要事項なのである。
「今後オレは目立ったことをするつもりもないし、出来れば他を当たって欲しいんだがな」
「それを決めるのはおまえじゃねえ、この俺だ」
「違いない」
どこまでも龍園らしい言葉に、綾小路は軽く頷いた。
「そだそだ。ついでに仲良しの証にみんな龍園君のことはたっつーかドラゴンボーイ、麻呂君のことは麻呂君、キャロルのことはキャロルって呼ぼうよ!」
「それは遠慮したい」
「私も嫌です」
「殺すぞ」
「あれ? おかしいな。ここみんなで仲良くなる雰囲気だよね? 夕日が照らす河原で殴り合った後の感じの空気だよね?」
言ったはいいがそこまで期待もしていなかったらしく「ま、いっか」とククリが呟く。
うーんと伸びをした彼女は空を見上げた。天気は幾分か回復している。まだ冷えるが、雲の隙間から太陽の光が差し込んでいた。どうやら今日は雨も雪も降らないらしい。
これから、ようやく冬休みが始まる。