ようこそ享楽至上主義の教室へ【特殊タグ無し版】   作:アネモネ

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The die is cast.

 投票日が明日に迫った、放課後。

 

 授業を終えたDクラスの教室の扉の側に。彼女は──京楽菊理は立っていた。

 

 それは誰かを待っている、などという理由ではなく聞き耳を立てるため。教室を締めきっていても耳を澄ませれば声は廊下で聞けるのだ。

 

 学級裁判が開かれているそこからは誰も、担任の茶柱すら出て来ない。期待通りの展開にクスリと笑みがこぼれた。

 

「山内くん。あなたは保身に走り、綾小路くんに批判票を集めさせようとした。そうでしょう?」

 

 中からは堀北による冷徹な糾弾の声が聞こえる。

 

「坂柳さんと密かに通じていて、彼女の意のままに動かされていた。自分を守る以外の理由として交際の約束を餌に釣られた、なんてこともあったのかもしれないわね」

 

「それは捨て置けないトピックだねえ。Aクラスと組んでこのクラスを裏切る可能性があるということじゃないか」

 

 高円寺が堀北を援護するように話しているのは、保険のためだろう。ターゲットとなった綾小路。その企みを暴かれた山内、彼を非難している堀北。この3人の誰かが退学者になる可能性が高いが、高円寺も絶対に安全というわけではないのだ。彼の得票数がどうなるかは予測がつかない。

 

 あるいは。単なる気まぐれで、クラスのために動く堀北に協力しているのかもしれない。

 

 教室内の話し合いは進み、堀北の淡々とした指摘によって櫛田という協力者も暴かれ、山内の味方はどんどん消えていく。そして。クラス全体へ挙手を求める堀北の行動を、止める男がいた。

 

「堀北さん!」

 

 ガン、と。大きな、無機質な音が響く。机でも蹴ったのだろうか。この光景を見ることができなくて残念、という思いが彼女の頭をよぎった。流石に扉を開けて覗き見でもすれば誰かしら気づいてしまうに違いない。

 

 しかし────やっぱり壊れたか。そう、小さく呟いた。

 

 “あの”誰に対しても何に対しても怒ることがなかった平田洋介が、クラスメイトである堀北鈴音と言い争っている。

 

 そして。冷たく、低く。重い言葉が、彼から放たれた。

 

「堀北……ちょっと黙れよ」

 

 教室内の空気が凍りついているのが伝わってくる。冷気とすら言えるその雰囲気を確かに感じ取ったククリは楽しそうに、(ささや)くように歌った。

 

誰が殺した駒鳥を(Who killed Cock Robin?)」「それは私と(すずめ)が言った」

 

 平田は山内だけでなく、みながみな仲間を陥れることを何とも思っていない、Dクラス全体に怒りを抱いているらしい。

 

 その怒りの矛先はこの学級裁判を始めた堀北へと向けられる。

 

「──君の存在がいけないんじゃないか?」

 

 言いがかりのような平田の声を、堀北は冷静に対処していく。自暴自棄になった彼の縋るような綺麗事を、偽善として跳ね除ける。

 

「残念だけど、私の意見はもうクラス全体が知るところとなった。あなたの望んでいた自然な投票というのは既に不可能となったのよ?」

 

 幾分か冷静さを取り戻した平田はそれでも尚きっぱりと告げた。

 

「そうだね……だから僕は明日、堀北さんに批判票を投じることにするよ。クラスを誘導し票を操作しようとした君を、僕は容認しない。できない」

 

 教室内のざわめきは広がるばかり。そこに紛れるように小さく声を出した。

 

「私の弓に矢をつがえ」「私が駒鳥を殺したの」

 

 歌い終えたククリは満足そうに頷く。

 

 学級裁判も終わったことだし、ひとまずは退散しよう。そう考え、弾むような足取りで廊下を進み玄関へと向かった。

 

 

 

 §

 

 

 平田洋介という人間は。文武両道、眉目秀麗、人当たりがよく皆から好かれ、さらにクラスをまとめ上げる力まである。しかし決して(おご)らない。

 

 誰に対しても、男女どちらに対しても平等に接する。クラスの平穏のために身を粉にしている。

 

 大切な友達を守るために、クラスを守る。クラスが守られれば友達が守られる。クラスを守ることこそが、平田の使命。

 

 だがその使命は。今日、つい先ほど砕け散った。

 

 表情を取り繕う余裕すらない。倒れ込むようにベンチに座る。

 

 このベンチは寮への帰り道の途中にあるため、当然その付近を通る人は多い。普段の平田ならばたくさんの生徒に声をかけられていたことだろう。しかし今は彼のその何もかもを拒絶するような雰囲気を乗り越えられる者はほとんどいなかった。

 

 そう、ほとんど。

 

「平田くん」

 

 堀北鈴音。入学当初は対人能力に多大なる難があった彼女も、綾小路のおかげかその態度は改善されてきている。そんな彼女は平田の様子を気にしていないのか、気にしてはいるものの言わなければならないと思っているのか。山内に批判票を入れるべき。淡々と、論理的にそう告げた。

 

 何も答えられないでいる平田には構わず、堀北が立ち去った後。入れ違いになるように現れた男子生徒は縋るような目を向けてきた。

 

「平田ぁ……」

 

 山内春樹。坂柳との交際を目的に綾小路へと批判票を集めるよう、工作し。それが暴かれてしまった彼に残された手段は同情を引くことだった。

 

 自分は退学したくない。だから綾小路に批判票を入れてほしい。他人の目のある場所で平田に絡みすぎるのはまずいと思ったのか、一方的にそれだけ訴えると彼もまた帰路についた。

 

 はぁ、とため息を吐く。どうすればいいのかわからない。部活の先輩に頼むなど、手を尽くしてはみたものの2000万ポイントを用意するのは不可能。ならば誰かが必ず退学しなければならない。誰かを犠牲にしなければならない。わかってはいるのだが、受け止めきることができないのだ。

 

 こんな時に相談できるのは一人。その人物の訪れを待つ平田は近づいてくる気配に顔を上げる。しかしそこにいたのは綾小路ではなかった。

 

「こんにちは、平田君」

 

「……京楽さん」

 

 クラスメイトに対し、自らへ批判票を投じるよう話すことでクラスを平穏にした存在。平田は彼女と知り合い程度の仲であったが、ここ数日は何度も声をかけられていた。

 

 平田は恋愛をしたことがない。女子を好きになったことも、軽井沢との契約を除けば付き合ったこともない。軽井沢と恋人のフリをしたのは、彼女が虐めに遭うのを阻止するためにと頼んできたからであり。そこに一切の恋愛感情はなかった。軽井沢のほうからその関係の解消を提案してくれ、無事に自分の手を離れたことを平田は喜ばしく思っている。綾小路による良い影響なのだろう。

 

 そんな平田だが人の感情に鈍いほうではない。最近の彼女の接近は龍園による指示の可能性もあったが、自身に何らかの特別な想いを向けていることは伝わってきた。

 

 今もその黒い瞳を()らして平田を見ている彼女は、やや躊躇いつつも口を開く。

 

「大切な、話があるんだけど……休憩スペースとかでお話することは難しいかな?」

 

 おそらく、これがクラスメイトからの言葉であれば平田はにべもなく断っていた。しかし彼女とは、退学者に立候補した彼女とは話したい事柄もあった。もしかしたら誰か、Dクラスとは関係ない生徒に聞いてほしいという気持ちがあったからかもしれない。

 

「うん、大丈夫だよ」

 

「ありがとう」

 

 はにかんだように微笑む彼女に続いて、平田は並木道から移動する。

 

 休憩スペースというところは人から見えづらい場所となっているし、監視カメラもない。ただしちょっと歩けばそこは通学路であるからして、そのうち誰かがやって来る可能性も高い。綾小路に相談したいこともあって平田は手早く話を終える気でいた。

 

 自分も、相手も。言う内容は既に決まっているに違いない。

 

「僕も少し話したいことがあって……先に、いいかな?」

 

 頷く彼女に平田は覇気のない声で礼を述べた。

 

 ベンチに腰掛け、懺悔するような心持ちで語り始める。

 

「僕は、Dクラスが大好きだ。全員が、必要な存在だと思っている。誰が欠けるのも嫌なんだ」

 

 君もそうだろう? 問いかけるような平田の視線に、彼女はあいまいに頷いた。

 

「明日まで沈黙を貫こうと思っていた。無策で試験に挑むことこそが唯一残された道だと。僕は……自分が退学になってもいい。そう呼びかける覚悟が、持てていなかった」

 

 覚悟の問題だけではない。クラスのまとめ役である平田が、クラスから抜けるということの意味。Dクラスの試験へのハードルは飛躍的に高くなるだろう。それは自惚(うぬぼ)れでもなんでもなく、誰もが想像できることだ。

 

「でも、僕は同じ過ちを繰り返した。あの時、反省したはずなのに……」

 

 悔しさで視界が(にじ)む。中学時代の、あの時。

 

 平田と小さい頃から仲の良かった友達、杉村。中学で虐めの対象になってしまった彼を、平田は助けることができなかった。自分がターゲットになってしまうことを恐れ、傍観者として過ごしてしまったのだ。

 

 そして。杉村は、飛び降り自殺を図った。一命は取り留めたものの彼は今も植物状態にある。

 

 しかし、話はこれで終わらなかった。

 

 新たな虐めがまた始まったのだ。しかもより大規模なものが。

 

 平田は考えた。虐めが絶対に起きないようにするにはどうすればいいのかを。その答えは──『暴力による支配』。それは成功した。してしまったのだ。平田という絶対君主の下、ただ無機質なロボットのように学年全体が統制されていた。平田が須藤や龍園のように特別喧嘩が強いわけではなくとも、人が本気で行う攻撃というものに反抗できる特殊な人間はいなかったのだ。

 

 異変に気づいた学校側は全クラスを解体、再編し卒業まで厳しい監視を行うことで対処した。平田は入試成績は悪くなかったであろうにも(かかわ)らず自身がDクラスに配属された原因はこの件によって内申点が低いことだろうと推測している。

 

 今度こそは、平和的にクラスをまとめていこうと決心したはずなのに。

 

 山内がターゲットにされ、攻撃される行為。それが虐めと重なって見えた平田は、止めなくてはと(かたく)なになり、恐怖で皆を支配しようとしてしまった。

 

「僕はもうダメだ。それに、代わりに皆を導けそうな人もいる」

 

 綾小路清隆。彼にならクラスを任せられるだろう。平田は綾小路が堀北を隠れ蓑にしつつクラスのために様々な手助けをしてくれたことを知っているし、厚く信頼している。

 

「だから京楽さんと同じように、退学者として名乗りを上げようと思うんだ」

 

 それは、決意表明。同じ立場であるが故に打ち明けた話だった。

 

「そっかぁ……」

 

 軽く俯いた彼女の表情はその長い黒髪によって隠されてしまい見えない。どう返答しようか迷っているのだろう、と平田は考える。

 

 しばしの沈黙の後。彼女は唐突に立ち上がり、平田と向き合った。自分だけ座っている状況というのも悪いと感じた平田が動こうとするも、肩に置かれた手がそれを止める。

 

「私、平田君のこと、前から気になってたの」

 

 軽井沢と別れて以降何度か同じような言葉を聞かされた平田はこの後の展開が想像できた。彼女から得る答えに少し期待していた身としては、失望を禁じ得ない。そう、思った。

 

 だがその表情は今まで平田に告白してきた少女たちとは明らかに異なっていた。聖母のような、慈愛に満ちた微笑み。彼女が普段漂わせているアホっぽい雰囲気も鳴りを(ひそ)めている。

 

「平和主義で、人格者で。一之瀬さんとかひよりんと似てるかなーって。でもどこか違うと思ってたんだよ」

 

 彼女は平田の肩から手を離さない。人との距離感が近いタイプなのは知っているが、それにしても異様な近さだ。

 

 何かがおかしい。チリチリと頭のどこかで警鐘が鳴っている気がした。

 

「それで最近気づいたの。何となく龍園君と同じ匂いがするって」

 

 普通ならば侮辱にしか聞こえない言葉。しかし平田には心当たりがあった。自分も感じていたのだ、龍園のやり方は昔の平田とそっくりだと。

 

 どうして、それを、彼女が。

 

 わからない。さらにわからないのは、彼女が平田に何を言いたいのかということだ。

 

 甘い香りが鼻腔(びこう)をくすぐる。最近になってから彼女は香水を使い始めたようだった。

 

「この特別試験で平田君が悩むことはわかりきってたからね。だから近くで見ようと何度も会いに行った」

 

 互いの顔の間隔はさらに狭まり、少し動けば触れそうなくらいにまでなっていた。肩に食い込んだ彼女の指によって骨がミシミシと悲鳴を上げている気がする。この華奢な腕のどこから湧いたのかと不思議になるくらいの力強さは、逃げるという選択肢を平田から奪った。

 

「その上で結論を出したんだよ。あなたには、『暴君』が似合うって」

 

 彼女の左手が首筋を撫でた瞬間。ぞくりとした悪寒が走る。ひんやりとした手の感触はまるで刃物を当てられているかのような錯覚を平田に与えた。

 

 花が(ほころ)ぶように笑みを浮かべる彼女からは何の敵意も悪意も感じない。それが、逆に恐ろしい。

 

「平田君の綺麗事は誰をも幸せにはしないしできない。んー、そうだなあ。そもそも入学直後の段階から決まってたよね。Sシステムの仕組みに龍園君も坂柳さんもすぐに気づいていた。一之瀬さんはどうかはわからないけど、少なくともDクラスのように授業態度等での過度な減点はなかったのはクラスポイントの差からもわかるでしょ? はじめから平田君たちは間違っていたんだよ。そのへん、Dクラスが不良品と呼ばれる所以(ゆえん)かな」

 

 じっとまっすぐ見つめてくる星空のような瞳に吸い込まれるようで。光に、呑まれる。ただ漠然と、本能的に平田は感じた。

 

 モノクロの世界だ。彼女の黒い瞳と、髪と、白い肌と。それだけしか目に映らない。入らない。

 

 全ての感覚が薄らいでいく。肩の痛みも、うるさいほど頭で鳴っていた警鐘も、頬をくすぐる彼女の髪も。何もかもが気にならなくなる。

 

「授業をサボる人とかちゃんと聞いていない人がいるなら注意すればよかった。なのに平和主義の平田君はクラスの輪を乱したくなくてできなかったんだよね。だからDクラスはクラスポイントが0になってしまった」

 

 注意したところで、Dクラスの生徒たちが聞く耳を持っていたかは正直わからない。しかし今の平田には反論する余裕などなかった。

 

「プライベートポイントのことにしたってそうだね。Dクラスは、一番ポイントを持ってないのに一番金遣いが荒い。一之瀬さんたちみたいに積立貯金するのは難しいかもだけど、船上試験とか林間学校の時も報酬のポイントをクラス管理じゃなくて個人のものにしちゃってたのは悪手としか言いようがないと思うよ」

 

 子どもを諭すように、出来の悪い生徒へ講釈するように彼女は話す。

 

「マキャベリの君主論にある言葉だけどね。『決断力のない君主は、当面の危機を回避しようとするあまり、多くのばあい中立の道を選ぶ。そして、おおかたの君主が滅んでいく』……ぴったり当てはまるんじゃあないかな? 平田君のおかげでクラスごと崩壊しかけてるっぽいし」

 

 甘い、甘い、砂糖菓子のように甘ったるい笑顔で彼女は毒を吐く。(もや)が掛かった思考はただ流れてくる言葉を受け止めることしかできなかった。

 

 全て自分が間違っていたせいなのか。はじめから、クラスのまとめ役をやろうなどとしなければよかったのか。自分が、自分が、自分が、自分が、自分が────

 

「平田君の平和主義は、どちらかといえばただの臆病に近いもののように感じるなあ。自分に批判票を入れさせようと決意したのも単なる逃避にしか聞こえないもん。この先もどうせまた退学者は出ることになる。そういう学校だからね、ここは。それを見るのが怖いんでしょう?」

 

 パキリ、と何かが壊れる音がする。ほんの少しだけ残っていた矜持だとか希望だとか、そんなものだったのかもしれない。

 

 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。彼女の冷たい手がその雫を拭う。

 

 肩にかかる圧力が消えても、動く気力など湧いてはこなかった。

 

「『そこで君主は、野獣の気性を、適切に学ぶ必要があるのだが、このばあい、野獣のなかでも、狐とライオンに学ぶようにしなければならない。理由は、ライオンは策略の罠から身を守れないし、狐は狼から身を守れないからである。罠を見抜くという意味では、狐でなくてはならないし、狼どものどぎもを抜くという面では、ライオンでなければならない』と、まあDクラスには()()(しん)(ちゅう)の虫がいることがまず問題だと思うけどね」

 

 獅子身中の虫。組織の内部にいながら、害をなす者。つまりDクラスの裏切り者を指しているのか。考えようとしても平田の頭は上手く働かない。

 

「もう一度言うよ、平田君。あなたには暴君がよく似合う。全て壊して、恐怖で支配してあげればいいんだよ。龍園君という成功例が身近にあるからね。やりやすいでしょ?」

 

 Dクラスよりも、龍園のクラスのほうが今のところあらゆる面で上回っている。クラスポイントでも、プライベートポイントの総額でも。今回の試験にしたってそうだ。騒いでいるのはDクラスだけ。他クラスに圧倒的な差をつけられている。

 

「もちろん私も手伝うからさ。暴力的な手段も苦手ではないし、お役に立てるんじゃあないかな。たとえ暴君と罵られようと平田君の全てを肯定するし、辛い時は優しい言葉をかけてあげるよ。もし何か失敗してしまえば私の責任だと思えばいい」

 

 彼女は、退学するのではなかったのか。しかしそこに違和感を覚えるような判断力はとうに失われていた。

 

「世の中楽しんだもん勝ちだからね。さあ、人生を享楽しようよ!」

 

 差し伸べられる手。これは悪魔の囁きだ。わかってはいても、その手を掴んでしまいたくなる。唯一の救いに見えてしまう。

 

 もう、自分は十分にやった。平和主義の平田にこれ以上為す術はない。

 

 暴君に戻れば、非情に徹すれば。後は彼女に全てを委ねてしまえばそれで丸く収まるのでは。それ以外に道は残されていない、そんな考えが頭から離れない。

 

 そして、平田は──────

 

「そのへんにしておけ、ククリ」

 

 はっと、息を呑んだ。聞き慣れた声に脳内の霧が晴れる。ようやく呼吸ができたような気分だった。

 

「むー、いいとこだったのに」

 

 ボソリと呟いたククリが平田から距離を取る。視界が広がった。声をかけてきたのは、やはり綾小路。信頼できる人物の登場に平田は無性に安心する。先ほどまでの自分は、何かおかしかった。判断を狂わせられていた。そもそも他クラスの生徒からの指示に従うのをよしとするなんて浅慮が過ぎるだろう。

 

 危なかった、と平田は思う。もし綾小路がここに来てくれなければどうなっていたことか。

 

 ふとククリに視線を戻した平田はその表情を見て目を疑った。それほどまでに彼女には似つかわしくないものだったのだ。感情を全て削ぎ落としたかのような、人形のような顔。

 

 くるりと彼女は身を(ひるがえ)す。ひらりと白いスカートの裾が揺れた。

 

「ダメだよ麻呂君。人の恋路を邪魔すると馬に蹴られちゃうんだよー?」

 

 プンプン、と擬音がつきそうな様子で綾小路と話すククリの姿はいつも通りに見える。あの無表情は見間違えだったのかと思うほどの天真爛漫っぷりだ。

 

「平田はオレの貴重な友達だ。危害を加えられるのは見過ごせない。おまえも伊吹たちに手を出されては困るだろ」

 

「んー、まあそうだね」

 

「それに平田を操ってもDクラスの賞賛票は動かせないと思うが」

 

「どうかなあ。例えば龍園君への妨害行為として票を使う、とか単純に私を退学させたくない、とか主張してもらえばいい感じにできたと考えてるよ。ま、そっちは必要なくなったから大丈夫」

 

「……なら、何故」

 

「楽しそうだったから」

 

 あっけらかんと話す彼女が何を考えているのか、平田には皆目見当がつかない。ただ、いくつかわかることはあった。一つ、ククリが平田に対して向けていたのは恋愛感情なんてものじゃなかったこと。あとは……

 

「京楽さんは、退学する気はないんだね」

 

 軽く眉をひそめたククリはすぐに笑顔に戻って平田のほうへと向き直り、答えた。

 

「あー、うん。ごめんね、100%嘘ってほどじゃあないんだけど、立候補しといたほうが色々と都合いいなあって思ってさ」

 

「いや、謝る必要はないよ。嘘であれ、それで君のクラスが平穏でいることは事実だ……僕には出来なかったことだからね」

 

「平田君に取れる手段じゃないから気にしなくていいと思うよ。だって平田君が立候補しても、クラスメイトが批判票を入れることはないだろうしね。私の場合は独裁者たっつーのお言葉があったからみんな反抗しなかった。だから恐怖政治、とってもオススメなんだけどなあ」

 

 暴君云々(うんぬん)は本気で言っていたらしい。そこで、疑問が再浮上した。

 

「京楽さんは僕の中学時代のことをどうして知っているのかな?」

 

「中学時代?」

 

 ククリが首を傾げる。

 

「僕が龍園くんと似てるだとかは……」

 

「何となくだけど。あれ、もしや中学で恐怖政治実行済みだったりするのかな。ますますやってほしくなる」

 

 平田の過去を知っての発言ではなかったようだ。だとすればその直感の精度が驚異的だということなのか。戸惑う平田が綾小路に目を向けると、彼はそういうものだから諦めろとでも言うように首を左右に振った。

 

 根拠もなく直感的に当ててくる相手に対抗する(すべ)などないだろう。空恐ろしくなった平田に気づくことなくククリは話を続ける。

 

「麻呂君だって恐怖政治のが楽だと思わない?」

 

「思わないな。オレは今のクラスに不満はないし、それを率いる平田のことを心から尊敬している。変えなくてもいい。変わらなくてもいい。ただ、進んでいけばいいさ。何が正解なんて最後まで戦ってみないとわからないものだろ」

 

 ククリに言っているようで、その実平田へと向けられた言葉のようだった。少なくとも平田はそう感じた。冷えた身体がじんわりと温まるような気持ちになる。

 

 綾小路が、今のままの、醜態を晒した自分を肯定してくれている。恐怖政治の正しさを否定してくれた。

 

 彼女がかけた「暴君が似合う」という呪文。つい先程まで平田を(さいな)んでいたそれが、綾小路のおかげで完璧に解けていた。

 

「ククリ。おまえはDクラスのことを甘く見過ぎだ。恐怖政治をしようとしたところでどのみち上手くは回らない」

 

「えー、そうかなあ。わりといけると思うのに」

 

 愉快そうに目を細めるククリに、平田は力強く宣言する。もう、迷いはない。

 

「綾小路くんの言う通りだよ。それにね、京楽さん。僕は龍園くんのようにはならないよ。決して同じ過ちは繰り返さない」

 

「そっかぁ……それは残念」

 

 ちっとも残念そうには見えない、にこやかな笑みを浮かべてククリは話した。その様子がどことなく龍園と似ているように平田は感じる。彼女の見せた話術も、暴力性も龍園と通じるところがあるのだ。

 

 ふにゃりと笑うククリは純粋そのものとしか思えないが、(およ)そ善意というものがないことは痛いほど理解していた。彼女の纏う雰囲気に惑わされてはいけない。クラスメイトにも忠告すべきかと平田は考えて、やめた。実際に相対してみないとこれはわかってもらえないだろう。

 

「すまないが平田とクラスのことで話があるんだ。もういいか?」

 

 んー、と少し考え込んだ後。ククリはあっさりと告げる。

 

「わかった。じゃ、明日の試験。お互い頑張ろうか」

 

 可憐な微笑みを残して、彼女は去って行った。

 

 その途端。平田はとてつもない疲労感に襲われる。嵐にでも遭った気分だった。

 

 引き際が早かったのはおそらく平田への興味が失せたからだろう。ククリが何を考えているかは読めないが、これ以上今日のような話は持ち出さないように思えた。でも、たとえそうであっても。彼女は厄介だ。もしかしたら龍園以上に。前途多難だ、と平田はため息を吐いた。

 

「大丈夫か」

 

「うん、君のおかげでね。ありがとう、綾小路くん。僕は君に助けられてばかりだね……」

 

 無人島試験の時も。船上試験での軽井沢の一件も。解決してくれたのは綾小路だった。

 

「オレも平田にはよく助けられている。お互い様だ」

 

 そんなことはない。平田は、誰も守れていない。救えない。悔しいが彼女の言った通りだ。綺麗事で人を幸せにはできない。

 

 明日の投票のことも、結局どうすればいいか決めかねているのだ。

 

「今回の特別試験、おまえが書くべきはオレと山内、堀北の3人の名前。何も考えず批判票に記入すればいい」

 

「そうすれば結果は他の生徒が決めてくれるってことかな」

 

「ああ。困った時は他のクラスメイトに頼ればいい。平田に助けられた生徒はオレを含めてたくさんいるんだ。皆喜んで協力するさ。頼りたいと思った相手に弱音を吐けばいい。おまえの培ってきた信頼が築き上げた仲間が、いつでも傍にいる」

 

 心に染み渡るような言葉だった。同時に、どうしようもなく残酷な言葉でもあった。

 

「それでも。今回の試験では、そのクラスメイトが失われてしまうじゃないか」

 

「それは甘んじて受け入れるしかない」

 

 容赦なく綾小路は言い放つ。

 

「おまえが立ち止まってしまえば、周りの生徒は次々に脱落していくぞ。だが最後まで、限界まで足掻いて、前を歩き続ければ。きっと全てが終わった時、すぐ後ろには多くの生徒が立っている」

 

 現実を受け止めろ、逃げるな。一人でも多くを守ることを考えろ、と。

 

 冷静に話す綾小路はやはり自分などよりよっぽどリーダーに向いているだろう。彼を根暗呼ばわりする人もいるが、平田にはとてもそうは思えない。こうして言葉を聞いているだけでもその話術の才能を感じる。

 

「おまえのやりたいことは、おまえにしかできないことなんだ」

 

 だが、綾小路は平田ではない。もちろん彼のことを信頼しているものの、やり方や考え方は平田と異なってしまうことだろう。自分の理想を体現できるのは自分しかいない。

 

 それに、平田は。彼に尊敬してもらえる『平田洋介』のままでいたい。

 

 自分に出来るだろうか。いや、やらなければならないのだ。

 

 あの時とは違い、今の平田には仲間がいる。こうやって困った時や立ち止まりそうになった時に、背中を押してくれる仲間が。

 

 また涙が溢れてくる。俯く平田の隣に、綾小路は無言で佇んでいた。

 

 しばらくして。落ち着いた平田は空を見上げる。

 

 青い、心まで晴れ渡るような青さだ。思えばここ数日はこうして穏やかな気持ちになることがなかった。特別試験のストレスで眠ることすら満足に出来ていなかったのだ。しかし今はベッドに入ればすぐに寝付けそうにすら感じた。リラックスできたからだろうか。

 

「今日のクラス裁判の件で自分に間違いがあったとは思わない。でも──堀北さんの行為もまた、誰かにとっての正義だった。僕は自分の過去に囚われすぎて、広い視野を持てていなかったんだ」

 

 ひどい言葉を浴びせてしまった堀北には謝らなければいけない。だが流石に今この状態で会いにいくのは気が引けた。明日の朝、皆の前できちんと謝罪しようと平田は考えた。

 

「綾小路くん。君は僕のことを尊敬すると言ってくれたけど、僕のほうこそ君を尊敬するよ。君に批判票を入れるなんてことは出来ない。まだ具体的には決められてないけれど……投票先は、自分の意志で、自分の責任で決める」

 

 そうか、と綾小路は言葉(ずく)なに頷く。その様子が信頼の証のように思えて、平田はなんだか嬉しくなった。

 

 ああ、と平田は実感する。綾小路清隆は、自分の恩人だ。大切な友達だ。臆病さを捨て、自分の殻を破りそれを認めなければいけない。

 

 杉村の件以来、人との距離を詰めるのが怖くなった平田は誰とでも平等に接する代わりに大切な人を作らないように、皆を苗字だけで呼ぶようにしてきた。

 

 しかし──────

 

「あの……その……今度から、清隆くんって呼んでもいいかな」

 

 気恥ずかしくて少し視線を逸らしてしまう。

 

「僕のことも、その、良かったら下の名前で呼んでくれたらなって」

 

 一瞬の間が、永遠のように思えた。ドキドキしながら彼の答えを待つ。

 

「もちろん平田が、いや洋介がいいなら」

 

 快諾する綾小路に、平田は久しぶりに心の底からの笑みを浮かべた。

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