ようこそ享楽至上主義の教室へ【特殊タグ無し版】 作:アネモネ
「ではこれから、追加特別試験『クラス内投票』を始めます。順番に名前を呼んでいきますので、呼ばれた人は投票室に移動を、それ以外の人は教室で待機していてください」
9時ピッタリになって入ってきた坂上の言葉にクラスメイトたちは粛々と従う。なんの憂いもないのだ、当然だろう。
朝、龍園からクラスに告げられた指示は一つ。個々に渡された紙に書いてある人物へきちんと投票すること。それだけだ。
真鍋志保は自分が受け取った紙を眺めた。7つの名前が丁寧な字で記されている。金田あたりが書いたのだろう。
クラスの賞賛票には金田悟、批判票には京楽菊理の名が全員のところにあるらしく、もちろん真鍋の紙にもそう書かれている。プロテクトポイントを金田に獲得させることに皆驚いたものだが、特に不満は出なかった。龍園であれ金田であれ自分以外がやるなら好きなだけ頑張って欲しい、という感じだ。
他クラスへの賞賛票については説明がなかったが、別に興味もない。ちゃんと暗記して、その通りに投票すれば何も問題ないだろう。
「次。真鍋さん」
坂上に呼ばれた真鍋は、のんびり歩を進めた。
全員の投票が終わってから、しばらくして。チャイムと共に坂上が教室に戻って来た。
「ようやくかよ。集計だけってのに随分とかかったな」
静かな教室に龍園の悪態が響く。この程度は慣れっこの坂上は大人の対応をした。
「お待たせして申し訳ありません。それでは、追加特別試験の結果を発表します。まずは────」
「坂上。一ついいか」
しかし龍園はまだ言いたいことがあるようだ。やれやれという仕草を見せつつも坂上は彼へ発言の許可を出す。悲しきかな、これも慣れである。
「他クラスの結果も決まってるんだよな?」
「ああ。だが2000万ポイントの行使があるかどうかはこれから聞くことになるため、暫定的なものだ。確定次第、各クラスの退学者や賞賛票の1位は一階の掲示板にて告知される」
「そうか」
ニヤニヤと笑う龍園は、これから発表されるクラスの結果を把握しているからだろうか。既に他クラスの結果に興味が移っているようだ。それを頼もしいとみるか、恐ろしいとみるか。龍園に従っているとはいえ彼を信頼なんて出来ない真鍋は後者。ゾクリと寒気を感じた。
「もし他に質問のある方がいれば今のうちにどうぞ…………いないようですね。では同票も多かったことですし、賞賛票と批判票のそれぞれを一番多く集めた生徒の発表からさせていただきます」
ゴクリと息を呑む。結果はわかっているとはいえ、緊張感が漂っていた。
「賞賛票の1位は金田くん。40票の獲得でした」
立ち上がった金田が全体に向けて礼をする。パチパチと拍手が送られた。
プロテクトポイントの獲得。羨ましくはあるが、後生大事に抱えることもできない。十中八九、その活用のため働かされることを思うとむしろ持たないほうがいいような気すらするものだ。
問題は、次。退学者の宣告だ。
「続いて、批判票の1位は────」
みな物音一つ立てることなく、坂上の言葉に耳を傾けていた。そうしなければいけない空気だった。
「21票を獲得した生徒────」
39票ではないのか。そう不思議には思ったものの、おそらく他クラスからの賞賛票による結果なのだろう。
京楽菊理。その名が告げられるだろうと考えていた真鍋は次の瞬間、何が起こったのかわからなかった。
「真鍋さん、あなたです。残念ですが、2000万ポイントによる救済が行われない場合には退学という形になります」
え、という戸惑いの声が教室のあちこちから発せられる。それを真鍋は呆然と聞いていた。
坂上はそのまま全ての生徒の賞賛、批判票の発表をしていく。だが、クラスのほとんどは自分たちの票の結果など気にしてはいないだろう。問題は、何故退学者が
京楽菊理の得票数は、賞賛票が7票。決して多くはないものの彼女へと39票の批判票が集まったであろうことを思うと、どう考えてもおかしい。
「先生、集計ミスとかじゃないんですか!?」
「結果に間違えはありません」
真鍋の取り巻きである藪が問いかけるも坂上はきっぱりと返す。
みな混乱している雰囲気の中、真鍋は勢いよく机を叩いた。
「…………どういう、どういうことなのよ!!」
その視線は、言葉は。一人の少女へと向かう。
「ククリさん! あなたが退学するって、確かに言ってたでしょ!?」
烈火の如き怒りは、しかしさらりと流された。
「うーん、そうは言ってないけど、確かに批判票を集めるようには言ったね」
「だったら! 何で、私が!!」
「みんながそう投票したからだね」
のほほんと告げる彼女には悪びれた様子もなければ驚いた様子もない。これが予定調和と、そういうことなのか。
だがそれを真鍋が受け入れられるはずもない。
「裏切ったってこと!?」
「ええと、ちょっと違うな。とはいえ私もよくは知らないけど……たぶん、龍園君からの指示書。クラスの半数くらいのものには、私だけじゃなく真鍋さんにも批判票を入れるよう書かれてたんだよ」
「は?」
「お互いに渡された紙の確認とか、しても数人ぶんだけでしょ。そうなると誰も違和感は覚えない」
龍園は全員の投票先を指定していた。京楽に批判票を全員が投票させられるとなれば、他の名前はそう気にしない。もとから批判票と賞賛票で打ち消すと言われていたのだ。ただ指示のとおりに投票すれば問題ないと誰もが考えるし、もし投票先を
「でも、あんたの得票数はどういうことなのよ」
「ちゃんと批判票は39票入ってたと思うよ。でも他クラスからの賞賛票によって消えたってわけだ」
「……騙してたの!? あんたが退学するって、そう、そう……!!」
「結果的にそうなった以上はだまし討ちと言われても仕方がないかな。ただ一つだけ弁明しておくなら私はこれで退学になるならそれはそれでいいと思ってたよ」
「はっ、そんなの口先だけなら何とでも言えるわね。だったら何でこんなことしたのよ!」
「退学するこの瞬間まで心穏やかに過ごせたでしょう? こうでもしておかないとクラスが乱れる可能性があったからね」
にこにこと変わらないその表情は、こちらを馬鹿にしてるとしか思えない。真鍋はつかつかと彼女に詰め寄る。教師である坂上の目の前だが、それすらもうどうでもよくなっていた。
「私に恨みでもあるわけ!?」
「まさか。別に真鍋さんには特に恨みもないよ。私がクラスを裏切ったとかいう根も葉もない噂が流れたのは悲しかったけどね」
実際には真実も交じっているので、根も葉もないというわけではない。しかし証拠も持たない真鍋に反論の余地はなかった。
もともと、真鍋が噂を広められたのはククリや龍園がこのことについて何も言ってこなかったからだった。その前提条件が変わった今、風向きも変わる。ひそひそと囁かれるクラスメイトたちの声は決して真鍋に味方するものではないだろう。
不安定な欺きが暴かれ、迫り来る嘘の音が聞こえるようだった。それでもどうにか話そうと言葉を絞り出す。
「あ、あれは……」
「自分の罪を人に押し付けるのはよくないかな」
ぎくり、と真鍋は身体をこわばらせた。確かにどうせ退学するなら自分の罪を背負って消えてくれれば、と思っていたのだ。
クラスの女子カーストの上層に位置する真鍋は、同時に問題児として見られる側面もあった。彼女は誰かを共通の敵に仕立て上げ攻撃することで人の上に立っている。その顕著な例が船上試験での軽井沢に対する態度だろう。
今の場所で満足できない真鍋はその対象をククリとし、彼女を
自分の企みも心情も全て見透かしたようなククリの言葉に対して恐怖が少しと、抑えきれないような苛立ちが湧いてくる。
「あんたが、あんたが、あんたさえ……!!」
理屈などもうどうでも良かった。激昂した真鍋はククリの胸ぐらを掴む。彼女を脅かすようにグイと顔を近づけた。
「そうだ、あんたが隠したがっていたことを言ってあげるわよ。林間学校の時もわざわざ念押ししてきたものね。かる────」
いざわ、とまで口にする前に。多めの吐息を含んだ囁きが、耳に届く。
「……それは、
真鍋にしか聞こえない程度の、本当に小さな声だった。
ククリのにこりとした表情は少しも変わりない。彼女の唇は相変わらずゆるやかに弧を描き、ほんわかとしたオーラを放っている。ただ、ただ。その目は。まるでその辺の羽虫を見るような、そんな冷ややかなもので。
──ああ、何故忘れていたのだろう。
真鍋は夏休みのあの日を思い出した。頭に浮かぶのは、彼女の手によって無惨にも潰された林檎の姿。
それが、もし。自分の身にも降りかかったとしたら。脳みそが、頭蓋骨が、グシャリと崩れる音が聞こえた気がした。想像するだけで吐き気がする。
そうか、と真鍋は何とはなしに納得した。忘れていたのではない。考えないようにしていたのだ。あの恐ろしい光景について。そしてこの恐ろしい存在について。
どうせ退学させられるなら、と自暴自棄になっていた心が一気に冷えた気がした。軽井沢恵。彼女に手出しはするなと、彼女の過去を口外するなとククリは話していたことだし、もう軽井沢への虐めの件での学校からの処分なんてどうとでもなるので腹いせに全て暴露してしまおうとした真鍋だが、そんな浅知恵など吹っ飛んでしまった。
頭が真っ白になった真鍋に救いをもたらしたのは、しかし彼女を今の状況に陥れた元凶とも言える相手だった。
「少し黙れよ」
笑いを含んだ一言を放ちつつ、龍園はククリの腰に手を回して引き寄せる。
彼女が離れてくれたことに、真鍋は自分から近づいていたことなど忘れて心底ほっとした。
「そのくらいにしておけ」
呆れたように話す龍園の気持ちが今の真鍋にはよくわかった。誰だって命は惜しい。龍園は、ククリが何かする前に止めてくれたのだ。
だがそう感じる真鍋はどうも少数派のようで、石崎は何やら感無量といった様子でガッツポーズしているし、伊吹は龍園を
何かに似ていると思ったら悪役令嬢モノの断罪イベントですねとか椎名はのんびり考えていたし、色々と大丈夫でしょうかと天を仰ぐ金田が一番この状況を正しく理解しているのかもしれない。
担任の坂上すらも龍園が出てきたことで少し距離を取っていた。流石に暴力行為があれば止める気ではあるものの、基本的に坂上は龍園のスタンドプレーを容認、ともすれば歓迎さえしている。
「むー」
龍園の腕の中に囲われたククリが嫌そうに身をよじると、彼はあっさりと拘束を解いた。真鍋はそれが大切な壊れものを丁重に扱うというよりはいつ爆発するか分からない爆弾を慎重に扱うという方が近いことを理解していた。
今度は伊吹がククリを庇うようにその背に隠すのをぼんやりと眺める。どうも伊吹は真鍋と龍園の両名から彼女を守りたいようだった。先ほど真鍋がククリに掴みかかった時に動かなかったのは龍園に止められてでもいたのだろうか。
真鍋がそう、ククリへと視線をやっているうちに。龍園は教卓の上という、もはや定位置とすらなりつつある位置に堂々と腰掛けた。
「この試験の本質。それは不用品の処理だ」
不気味に微笑む龍園にはえも言われぬ迫力がある。教室中の目が彼に引き寄せられていた。
不用品、とすぐそばで言い放たれた真鍋ですら口答えもできずに彼の言葉を待つ。
「真鍋、おまえはやり過ぎたんだよ」
何を、とは思わなかった。心当たりがありすぎた。
龍園がぐるりと教室を見回す。つられてクラスメイトたちに目を向けた真鍋は、気づいた。理解した。
今まで自分が蔑み、虐げてきた弱者の側に立っていることを。哀れみの視線が向けられていることを。
そして何より。この場に自分を助けようとする者はいないことを。
皆から突き刺さる視線はまるで針の
教室という、小さな世界が崩壊していく感覚だった。
真鍋は女子カーストのトップだ。しかしそんなことは龍園という暴君の前ではなんの意味もなさない。
藪も、山下も、諸藤も。真鍋と親しかった女子ですら彼女に声をかけようとはしなかった。自らの保身。それを一番に考えている姿が目に映る。当然だ。真鍋だってそちら側の立場ならそうする。
皆の視線から逃れるようにへなへなとへたり込む。
「真鍋さん。とりあえず、職員室へ行きましょう」
坂上の言葉に、真鍋は力無く頷いた。涙を零さなかったのはせめてもの意地だった。
§
龍園はある男を追って階段を下りる。
水と油とまではいかないが、決して仲がいいとは言えない相手。そして今話しておきたい相手でもある。
「クク、随分と身軽になったみたいじゃねえか」
目的通り葛城をからかってみると、面白いほどに反応してくれる。Aクラスからはやはり戸塚が退学になったらしい。
悔しさで顔を歪める葛城に龍園は追い打ちをかける。
「唯一の味方の喪失を経てめでたく孤立無援になったわけだ。どんな気持ちか教えてくれよ、なぁ葛城」
この程度で心折れるようなら、引き抜かずとも良い。
しかし喜ばしいことに葛城の目はまだ死んではいなかった。
「現状でむやみに動くつもりはない。その必要も、ない」
「卒業まで犬っころみてえに大人しく坂柳に従うのか? 面白い冗談だな」
「…………」
沈黙する葛城の表情は、普段の冷静なものとは明らかに違う。怒気を含んだ彼の顔には鬼気迫るものがあった。
戸塚という守るべき存在の欠落により、葛城を縛る枷が軽くなったのは確かだ。
「はじめっから俺の誘いに乗っておけば良かったんだよ。惜しいことをしたぜ、おまえは」
試験の説明があった日。葛城は龍園の話に耳を傾けることもなく、ただ「何を言われようと断る」とだけ告げて去って行ったのだ。どうせ同じ結末を辿るならより面白い方を、自身の利益になる方を選ぶべきだった。
やはり葛城の資質は坂柳に劣る。だがそれは彼が一人きりでいる場合、という但し書きがつく。優秀な生徒と協力できれば勝負はわからない。
「改めて言ってやろうか。足手まといだった戸塚は消えたんだ。1から
龍園であれば何度でも這い上がる。そんな自信に満ち溢れた声に、葛城は口を閉じたままだった。
戸塚を馬鹿にした龍園への怒り。それ以上に深く重い、坂柳への憤り。何もできない自分へのもどかしさ。
「……
戸塚の退学は坂柳の指示によるものだが、クラスメイトもそれに納得して投票している。誰かが退学しなければならなかった試験。彼女だけが悪いのではない。理屈では、そうだ。
それに、もし葛城が坂柳に牙を剥けば。次は戸塚でない誰かが犠牲になるかもしれない。坂柳はクラスメイトを駒としか見ていないのだ。葛城が今回見逃されたのも、利用価値があるから。以前は坂柳とリーダー争いを成立させていたという事実が示す通り、葛城はAクラスでも上位に貢献できる存在である。
一階の掲示板に張り出されている試験結果を確認した葛城は足早に立ち去った。
「またな」
龍園の言葉に応えることもない。
だが龍園は特に葛城の態度を気にすることなく、またそこにいた綾小路のこともひとまず無視して自分も掲示板へと目を向けた。
【クラス内投票結果
退学者
Aクラス 戸塚弥彦
Bクラス 真鍋志保
Cクラス なし
Dクラス 山内春樹
以上3名。
この試験によるクラスポイントの変動はなし】
Aクラスは戸塚が退学、Cクラスも2000万ポイントでの救済によって退学者なしという既知の結末。Dクラスの山内は知らない名前だ。つまり雑魚が消えただけか、と龍園はすぐに興味を失った。
賞賛票の1位はAクラスが坂柳、Cクラスが一之瀬、Dクラスが綾小路。これには落胆の色を隠せなかった。そこまで期待していたわけではないが、坂柳が喜ぶ結果になったことがどうにも癪に障る。
そんな龍園の様子を見た綾小路が口を開く。
「高円寺なら2位だったぞ。惜しかったな」
「うるせぇ。1位じゃなけりゃ2位だろうが3位だろうが変わらねえよ」
高円寺へのプロテクトポイントの付与。ククリに提案される前から龍園はそれを考えていた。
主な理由は2つ。綾小路にプロテクトポイントを渡したいであろう坂柳への嫌がらせと、今後特別試験に高円寺という不確定要素が入る可能性の排除。退学以外怖いものなどないあの自由人にプロテクトポイントという
「少しだけツラ貸せよ」
いかにもヤンキーな風貌と性格の龍園のいかにもヤンキーな誘いに、綾小路はあっさりと承諾した。
校舎裏は
「テメエはどこまで分かってるんだ?」
主語がなくてもこの場合、龍園の意図は明白だ。
「坂柳からオレにおそらく38票。おまえから高円寺に40票。一之瀬からククリに40票。それが賞賛票の行方だろう。まとまりがないうちのクラスだけは固まった投票先はなかったが、概ね一之瀬に票が流れたようだな」
綾小路の手元にある情報は他クラスのリーダーの持つそれより少ない。しかし彼の頭脳は小さな手がかりから真実に近い推測を導き出していく。
「いくら一之瀬とはいえ何の見返りもなしに賞賛票を使うとは思えない。あのクラスが退学を回避したところからみても、2000万に足りないポイントを餌に取引したといったあたりか。ククリの退学を防ぎたい人物で多量のポイント所持者はおまえと坂柳の2人。どちらかが動いたんだろう」
迷いのない口ぶりにパチパチと拍手を送った後、龍園はサラリと正解を口にした。隠し立てしようとしたところで坂柳が話す可能性が高い以上、意味はない。
「坂柳だ。言っておくが、あいつが退学になろうが俺の知ったことじゃねえ」
「……世の中には、ツンデレという言葉があるらしいな」
「あ?」
挑発だとは分かっていても、龍園はそれに乗った。単純にイラッときたのである。
地面を蹴り距離を詰め左腕を伸ばす。眼球を抉る勢いで迫る指先に綾小路が対処を考える隙を狙って、龍園は回し蹴りを放った。右足、左足と立て続けの攻撃は普通であれば到底避けられない、喧嘩慣れした動きだ。しかし。綾小路が常識の枠に収まる男であるはずもない。
「ちっ」
余裕を持ったまま回避され、距離を取られた。
「随分なご挨拶だな」
「ほざけ、化け物め」
汗一つかいていない姿から、暴力的な手段はやはり通用しないと悟る。反撃を警戒する龍園に対し、綾小路は淡々と話し始めた。
「これでもおまえには感謝しているんだ。高円寺にも謎の賞賛票が入ったことによってクラスメイトからの疑念が薄まっている。もしオレだけが大量の賞賛票を獲得していたら、坂柳との繋がりが疑われていただろう」
どこから入った票なのか、ということは匿名投票であるため判然としない。だがDクラスにおいては坂柳からの工作活動があったことがわかりきっているのだ。綾小路に投じられた賞賛票は本来山内が得るはずだったものがスライドされたと皆考えるに違いないし、それは真実だ。
しかしここで高円寺も他クラスから賞賛票を得ているとなると途端に話はややこしくなる。当然、坂柳も龍園も特別試験に関する情報を口外することは基本的に禁じているのだ。
さらに今回は一之瀬も坂柳から言われて箝口令を敷いたため、彼女の信者に近いクラスメイトたちが投票先を漏らすはずもない。こうなるとDクラスは完全に蚊帳の外。真相は闇の中だ。
フン、と不快そうに龍園が鼻を鳴らす。
殺伐とした雰囲気を表すように乾いた風がさっと吹く。木々が揺れ、砂埃が大地に舞った。3月とはいえまだ肌寒い。
柔らかく照りつける太陽に向かって、キラリと蝶が飛んでいった。その姿を目で追った綾小路は問いかける。
「イカロスの翼。知っているか?」
「それが何だ」
「いや……少し聞きたくなっただけだ」
遥か彼方の空に憧れるような視線に、龍園はようやく少しだけ綾小路の感情の色が見えた気がした。つまらない、しけた面に僅かな綻びが生じているように思えて。
────発明家ダイダロスと息子イカロスは飛び立った。彼らの作った翼で、ぶっつけ本番である。そしてイカロスの翼は太陽に焼かれ、彼は海に落ちた。
この神話のどこに綾小路が関心を抱いたのか、龍園にはわからない。
例えばグライダーを開発したオットー・リリエンタールは飛行実験中、突風のため墜落死している。
「科学の発展に犠牲はつきものって話だろ」
空に憧れるなんて感傷を龍園は持ち合わせてはいない。
睨めど星は落ちない。ならば、捕まえればいいだけの話だ。