ようこそ享楽至上主義の教室へ【特殊タグ無し版】 作:アネモネ
(SS︰野球)
4月2日、春休みも終わりが見えてきた頃。並木道の中、各学年の寮へ続く分岐点に差し掛かったあたりで綾小路は後ろからの気配に気づいた。
「おーい、カピバラ麻呂〜!」
振り返れば、ククリがブンブンと手を振っていた。何だと訝んでいるうちに、彼女はタタタと子犬のように元気よく駆け寄ってくる。そして綾小路が先ほどまで歩いていたケヤキモールへの道でなく、学校へ続く道のほうを手で指し示した。
「野球しようぜ!」
「野球?」
まるで某国民的アニメの台詞のような誘い文句に、綾小路は首を傾げた。
何でも卒業生との交流試合をやることになったらしい。試合、と言っても普通に遊びのようなものだそうだ。
綾小路は何となく夏休みのことを思い出した。一之瀬たちのクラスとプールで行ったバレー。あの時みたいにゆるい感じなのだろう。
「いやー、私も知らなかったんだけど坂上先生が野球好きらしくてね。めっちゃ燃え上がってたの。だからメンバー集めのお手伝いしてて」
野球は初心者だが、と自己申告する綾小路に「大丈夫大丈夫」とククリは力強く頷いた。
グラウンドに着くとそこそこ多くの生徒が集まっている。中には龍園やアルベルト、石崎など坂上の教え子たちの割合が高い。クラスに呼びかけでもしたのだろうか。
「参加者連れて来ました!」
明るく話すククリに龍園は高圧的な口調で言い放った。
「帰れ」
どうやら全然『大丈夫』ではなかったらしい。
本来であれば龍園を止める立場の坂上も、野球の基本ルールすら
「ごめんね、麻呂君。せっかく来てもらったのに」
「龍園がいたのは想定外だったんだろ? 仕方ない。それに観戦だけでも楽しめるからな」
「うぅ、ありがとう……」
実際、他クラスの運動能力を把握できる機会というのは貴重ではある。
お詫びにジュースでも買ってくるね、とククリが飛び出していったことにより一人きりになった綾小路は、ゆっくりとグラウンドを眺めた。
集結した卒業生にも在校生にも野球部はいないらしく、そこまで技量の差は無さそうだ。
「意外と仲良くやってるな」
わいわい騒いでいる生徒たちを見てぼそりと呟く。あの輪に放り込まれるよりは、今しているように外から静かに鑑賞する程度のほうが綾小路には向いていそうだ。
ツツピー、ツツピーとどこかからシジュウカラの鳴き声も聞こえる。うららかな春の陽気の中、ふわりとそよ風が頬をなでた。
こうしてのどかな時間を過ごすと、やはりこの学校に来て良かったのだという実感が湧いてくる。普通の、平凡な学生として過ごす3年間はホワイトルームでは学べるはずもないものだ。
綾小路は別に、あの人道的にひどく問題がある施設での生活に不満があったというわけではない。ホワイトルームで教育を受けたからこそ今の『綾小路清隆』が形成されている。よってあの場所を間違っているとも、取り潰したいとも思わない。
綾小路が不満を抱いたのは、最高傑作と呼ばれる自分自身に対してだ。
ホワイトルームという白く狭い世界で最も優れているというのは純然たる事実。この先も自分を超えるホワイトルーム生は誕生しないことを、綾小路は確信している。
だが、外の世界ではどうか。例えばスポーツ。バスケットボールにおいてクラスメイトの須藤は綾小路より優れている。1戦2戦したところで、勝ち目はない。球技のカリキュラムはホワイトルームでは不必要と判断されていたのだ。
その須藤がいればこのグラウンドでも素晴らしい活躍を見せてくれたに違いないな、と考えている綾小路の耳に、明るい声が届く。
「ただいまー。ん、すっごいぼーっとしてたけど何か考え事?」
「大したことじゃない。須藤がいれば野球も上手くこなしただろうなと思っただけだ」
戻ってきたククリからペットボトルを受け取り、並んで座った。
グラウンドでは野球の試合が無事に開始されたようで、審判を務める坂上の宣言がこちらにまで響いてきていた。
「須藤某かぁ」
「須藤がどうかしたのか?」
「うーん、とね」
ククリは少し悩むように空を見上げる。間を置いてから、そっと口を開いた。
「麻呂君ってさ。7月の逆転裁判の時、何で須藤某を助けたのかなあ、と。今考えるとわりかし不思議で」
キラキラとした視線が綾小路を射抜く。純粋な、ふと浮かんだ疑問という感じだ。
「初めて出来た友達を助けたいって思ったんだろうな。多分」
あの時、同じような質問をしてきた堀北に対して放った言葉を綾小路は繰り返した。
「んー、なるほど。そっか……」
ククリは納得していない様子。当然だろう。彼女は綾小路の本質に気づいている。この1年で、それだけの関わりがあった。
自分が無事であることを最優先とする冷血漢。綾小路の父親と、綾小路自身の本質は同じだ。しかし異なる点はある。自らの正しさを疑うことのない綾小路の父は、他者へ手を差し伸べることなどない。
例えば、
だからといって綾小路がホワイトルームに戻るわけでもないのに、綾小路の父は無駄に彼らを追い詰めたのだ。
他者を役立つように上手く使うことが肝要だと綾小路は思う。例えば須藤は体育祭での出来事を経て、堀北の武器に、そしてDクラスの戦力としても重要な人間となった。中間試験の時、あるいは暴力事件の時に須藤を見捨てていたら起こり得なかったものである。
しかし。綾小路も無為に払いのけはしない、というだけで必要があれば幾らでも切り捨てる。
「山内も須藤と同じ枠組みだが、あの時は状況が状況だった」
「クラス内投票はねえ。どうしようもなかったよね」
うんうんと頷いたククリは言葉を付け加えた。
「でも、ぶっちゃけ須藤某と池君、山内君が一緒にいるのはよく見かけたけど……麻呂君はそうでもなかったような……」
「オレは一応『友達』のカテゴリには入ってたが、優先度は低かったからな。体育祭の後はなおさら距離を置かれた」
生まれたての小鹿を見るような温かい目が綾小路に向けられる。
今は綾小路グループの面々がいる、と言い訳しつつも綾小路は話の方向を少し逸らすことにした。
「クラス内投票で退学と言えば、弥彦もだな」
グラウンドでは葛城がキャッチャー、アルベルトがピッチャーとなり卒業生たちからストライクをもぎ取っている。なかなか息の合ったバッテリーのようだ。
「そうだね。葛城君からは戸塚君のこと、色々とお話を聞いたな〜。他クラスだから私も全然親しくしないまま、いなくなっちゃったし」
にこにこと微笑むククリは「入学式のとき、葛城君と戸塚君が──」といくつかのエピソードを披露した。
綾小路にとっても親しいとは言えない相手だったが、葛城が弥彦に持っていた印象はもちろん異なるらしい。
そうして葛城と難なく会話しているところからするに、ククリは彼の警戒心を解くことが出来たのだろう。相変わらず人の懐に入るのが上手い少女だ。
「山内君とも全然話したことなかったけど。彼は、どんな人だったのかな?」
「山内は……そうだな。嘘をつくのが得意で、あとはいつも何かと騒がしかった。最初に友達らしい会話をしたのはたしか水泳の授業の前のことだったか。山内たちが開催していた女子の胸の大きさの賭けに加わった」
一口1000ポイントという今思えば豪勢なあの遊びは、まだポイントの価値を知らない4月だから出来たものだろう。オッズの最下層グループには堀北の名前があったが、ククリも同じクラスだったのならばきっと……そう、考えている綾小路に「どうかしたのかな?」と凍えるような笑顔が向けられた。
「何でもないです」
「ならいいけど。でも、そういう賭けとか良くないと思うよ。特にその内容が!」
女子がイケメンランキングやらお金持ちランキング、気持ち悪いランキングに死んでほしいランキングなんて物騒なのまでもを作るのは良くて、何故こちらは駄目なのか。
根暗そうランキングで見事上位入りを果たしていたらしい綾小路は男女差別を訴えようと考えかけ、しかし賢明にも口を
「もっとこう、山内君大活躍ぅ!みたいな話はなかったのかね」
「活躍か」
綾小路が山内を便利に使った時もあった。
「……あれは今から36万……いや、半年前の出来事だ」
「随分と豪快な言い間違いにびっくりだよ」
無人島試験において、Dクラスのリーダーである堀北鈴音は体調を崩していた。正確には学校から船で移動していた時から既に熱があったのだ。そこで綾小路は、スパイをしていた伊吹に堀北がリーダーだと認識させた後でリタイアさせようと手を打っていた。
キーカードを上着のポケットに入れて常に身につけていた堀北に、ありったけの泥を被せる。こうすれば堀北が水浴びしている間に伊吹はキーカードを確認し盗むことが出来るし、川の冷たい水は体温を奪い堀北の体調をより悪化させる。この泥をかける実行役として綾小路が選んだのが山内だ。日頃からふざけた言動を見せる彼であれば何かしようと周りからも自然な行為に映る。
「佐倉のメルアドと引き換えにと言ったらすぐにオレの頼みを引き受けたな」
「うわあ……」
ククリの視線の温度が下がった。明らかにドン引きしている。
「結局、適当に誤魔化してアドレスは教えなかったぞ」
「うわあ……」
さらに温度が下がった。氷点下と言ってもいい冷え込み具合だ。
その冷たい目を見て、無人島試験といえば他に大きな出来事があったのを綾小路は思い出した。軽井沢の下着盗難事件。犯人である伊吹は盗んだそれを池の鞄に入れたのだが、下着を発見してしまった池は綾小路に押し付けたのである。その場にいた山内も巻き込まれるのは御免だと逃げていた。平田が機転を利かせてくれていなければ、綾小路は変態の汚名を着せられていたに違いない。あの時は流石の綾小路も少し冷や汗を流したものだ。
しかし伊吹のDクラスへの潜入が龍園の指示によるものだったということは、下着の件も同じなのだろうか。まあ、キーカードを探すために鞄を漁っていた彼女による思いつきの可能性もあるのだが。
綾小路が何となくパンツ窃盗教唆の容疑をかけていると、グラウンドでは丁度その龍園がバッターボックスに立っていた。
「不良がバットを構える姿はやっぱしっくり来るなあ」
「それは釘バットのことを言ってるのか?」
「うーん、あれ現実的に考えるとすごい作りづらそうだし使いづらそうじゃない?」
その通り、と思いの外冷静な意見に綾小路は賛同を示した。
そんな風に2人が話しているうちに、甲高い、小気味良い音が鳴り響く。龍園のバットが上手くボールを捉えたようだ。
「むー、凡退すればよかったのに」
けっ、とククリが悪態をつく。彼女は龍園に対してはかなり狭量だった。小学校からの仲だからということなのか。彼女の態度が幼なじみのスタンダードだとしたら、坂柳も綾小路に同じような感情を持っていることになるが……やはり、分からない。
まあ、坂柳の敵対は心配せずとも大丈夫だろう。少なくとも月城の問題が片付くまで、綾小路と彼女は休戦中である。
「戦いは在校生側がやや優勢、かね」
「そうっぽいな」
元々、卒業生と在校生ではやる気が違った。卒業生たちはただ思い出づくりの一つとしてエンジョイしているだけだろうが、在校生側は龍園がいることからして坂上がポイントで参加者を募ったことが予想される。
坂上の野球への熱い想いから「良い活躍を見せればボーナスプレゼント」あたりのことを言われているのかもしれない。
「でも卒業生の人たちも、よく集まってくれたよねえ」
「それより、まだ学校に残ってる卒業生が意外といることにオレは驚いた」
「まあ3年間ずっと過ごした学校だもん。できるだけ長く居ときたいんじゃあないかな。お別れは寂しいものだよ」
「確かにな……オレも、堀北兄と別れるのはどこか寂しかった」
3月31日、堀北学の旅立ちの日。綾小路は彼からもらった言葉をよく覚えている。この学校生活で『綾小路清隆』という名前を、それに付随する記憶を、思い出として周囲に刻めばいいと。
そのためには今までとは少し、変える必要があるだろう。作ったキャラを今更剥がすのは不自然なので行わないが────
「やっほ〜。いやー、なんや、えらい楽しそうやな」
唐突に、ちゃらんぽらんなノイズが思考を乱す。
2人に声をかけたのは軽薄そうな男子生徒。綾小路には見覚えがない人物だったが、ククリは彼を知っているらしい。
「裸踊り先輩!」
「裸踊り先輩?」
綾小路は首を傾げた。
「うーん、どうせなら野球部の元部長さんとか呼んでほしいわ」
「だって、お別れ会での先輩の裸踊りのインパクトが大きくて……」
そういえばククリがそんな話をしていた。この人が元部長で野球部は大丈夫だったのか、と綾小路は不安になった。
「いやいや、あん時はマリアナ海溝より深い事情があったんやて。野球拳しててな、負けて一枚一枚脱がされてしもて────」
「だいたい分かりましたから、もういいです」
実にくだらない事情だったようだ。
「後輩が冷たい。ま、それはそうとして俺ら卒業生組が負けとる感じか」
「先輩が入れば流れも変わりそうですけどね」
「流石に野球部が加わるのは反則やろ。石倉クンとかまなぶーん、ふじまきまっきーがいれば良かったんやけどな」
Aクラスの堀北学や藤巻を親しげに呼ぶあたり、この先輩もクラスメイトなのだろう。とてもそうは見えないのだが。
「ところで、お二人さんは何でこない離れたとこおるん?」
「はじき出されちゃったんで見学です見学」
「それは可哀想やね。やったらここは一つ、定番ネタでも披露しよか」
全く理解できない理論によってネタが始まる。
「『あれ、ちゃうちゃうちゃうん?』『ちゃう、ちゃうちゃうちゃうわ』」
「「………………」」
2人は無言になった。ヒューと冷たい風が吹く。
「どういう意味なんだ?」
「あのね、チャウチャウって犬種と、『違う』を『ちゃう』って言うことをかけてるんだよ」
「ネタの解説をされるほど悲しいことはないな……」
先輩は寂しそうに呟いた。
フォローしようとククリが言葉を紡ぐ。
「苦笑いとかならともかく、麻呂君が
「何やって!? ほんなら余計わろかさな……関西人の血が騒ぐ……!」
「献血でも行って沈静化させてきてください」
綾小路の訴えは残念ながら聞き入れられなかった。
先輩はネタ帳らしきものをパラパラめくって確認し、ククリまでもがこのノリに便乗する。
「はいはーい、じゃあ私も担任教師ズのモノマネするねっ」
こうして、綾小路を笑わせようプロジェクトが開幕した。
先輩の関西人としての意地が勝つのか、ククリの綾小路のお友達だというプライドが勝つのか。謎のバトルである。
ククリのモノマネはそれぞれの特徴を上手く捉えており、先輩のネタの豊富さも見事だった。
まさに一進一退の攻防。しかし綾小路の表情筋はピクリともしない。
しびれを切らしたククリはある行動に出た。
「御免! とりゃあっ」
謎の掛け声とともに綾小路の両頬が摘まれる。強制的に口角が上げられることになった。まあ綾小路が笑った、と言えないこともない。
「ちょ、それはずっこい!」
むにー、と言いながらほっぺたを引っ張って遊んでいたククリだったが、飽きたのか注意されたからかパッと手を離した。
「よし、これで麻呂君を笑わせた私の勝ち……ですかね」
「いやどう考えてもチートやろ」
「世の中、勝てば官軍負ければ賊軍なんですよ先輩」
龍園クラスらしい理屈を振りかざすククリに、綾小路はとりあえず告げた。
「もう、グラウンドの試合のほうが終わってるっぽいぞ」
「あ、ほんとだ」
お笑い合戦が繰り広げられている間にも試合は進行し、在校生の勝利という形で決着がついたようだ。
「よう見てるな、自分」
別に綾小路もグラウンドの様子から気づいた、というわけではなかった。ある人物の接近があったのだ。
トントン、とククリの肩を叩いてそちらを手で示す。
「ん?」
不思議そうにするククリは彼を視界に入れた瞬間──ぴしりと固まった。
「……坂上先生。いつからいらっしゃったので……?」
試合終了を綾小路たちに伝えに来たのだろう。坂上はわりと前から2人のお笑い合戦を見物していた。
「とても良かったと思いますよ、はい。京楽さんの新たな一面を見ることが出来た気がします」
本心からの言葉。だが逆にそのほうがダメージが大きくなることもある。
「う、うにゃぁぁぁああ!」
ククリの羞恥の叫びが辺り一帯に響き渡った。
(SS︰花より団子)
「お花見をしませんか?」
そんな椎名の提案に、この春休み中べつにやることもない伊吹は軽い気持ちで首肯した。
制服に着替え訪れた先は中庭。普段のお昼休みだと多くの生徒が集い、設置されたベンチもほとんど埋まる人気スポットであるここも今はまったく人が来る気配はない。
「桜が花盛りですね。とても綺麗です」
うん、と同意しつつも伊吹の意識はどちらかというと椎名の持ってきたお団子に向いていた。それを察したらしい彼女はベンチに腰掛けると笑顔で伊吹へと串を差し出す。
はらはらと花びらが舞い落ちる中、のんびりと甘味を口に運ぶ。ある程度満足した伊吹は尋ねてみることにした。
「わざわざ校舎まで来なくてもそこらに桜の樹、あるのに。特殊な品種か何かなの?」
「そういうわけではないです。でも坂上先生管理の花壇もありますし、穴場スポットみたいでいいなと思いまして」
まあ他にお花見をする生徒がいないとも限らないし、静かな場所のほうが伊吹としても好ましい。
「そういやそろそろ部活紹介のリハをやるとか聞いたけど。椎名も参加するの?」
「いえ、別の方です。茶道部の説明は毎年着物で行いますし、私には少々ハードルが高くて……茶道の時でしたら型があるのでまだ平気なのですが」
「確かに決まった作法通りに動くって感じね、あれ」
だから堅苦しそうで、伊吹はあまり得意ではない。それに部外者が参加するようなイベントもあまりないことがあって、未だに茶道経験はなかった。
「文化祭の開催などがありましたら、私たち文化部の活躍の機会も増えたかと思うと残念です」
「そりゃ客はどうするか、とか色々と問題があるでしょ」
「本校の場合は外部開放が極めて難しいですよね。クラスの出し物でしたり、そんなものもできれば面白そうですのに」
「メイド喫茶やりたいとか言い出しそうなヤツらがいるから私は嫌」
伊吹はお祭り騒ぎが大好きな友人と、売上のためなら何でも行うであろうクラスの支配者を思い浮かべた。メイド服を着て愛想を振りまくなんて絶対にお断りだ。
「私も接客系は望ましくないです。人と対話するのも、動き回るのも得意ではないですし」
「じゃあ何を?」
「演劇、などはどうでしょうか。脚本を書くのは楽しそうです」
それだったら演者にならずとも大道具などの裏方に回れそうだ。まだマシな部類ではあるだろう、と伊吹は思った。
「このクラスですと、やはり『カリギュラ』『マクベス』『リチャード三世』あたりが良さそうですね」
「……名前だけ聞いてもどんな話かさっぱりなんだけど」
有名な劇の題材なのかもしれないが、伊吹には聞き覚えがなかった。そんな彼女に椎名は笑顔で説明する。
「どれも一言で表すと暴君のお話、でしょうか」
「あんた龍園を主役にする気なわけ!?」
なんてこと言うんだこいつ、と伊吹は信じられないものを見る目を椎名へ向けた。どう考えてもあの龍園が大人しく従うはずはない。
にこにこと微笑む彼女の様子はいつも通り変わらず。そのマイペースさに呆れつつも、ぶれない芯の強さを頼りになると伊吹が感じたのも事実だった。
(SS:ジム)
「ベンチプレスをするときはこのセーフティーバーを忘れてはなりません。万が一潰れたとき支えてくれる重要なものですので」
「はい……」
坂上数馬は、ありがた迷惑という言葉を噛みしめていた。
4月、春休み。坂上はケヤキモール内を歩いていた。ジムの体験入会をしてみようと坂上は思ったのである。以前は体を鍛えるか検討するだけしてすぐ諦めたのを考えれば大きな一歩だろう。生徒の成長に影響を受けた、というのもあるのかも知れない。坂上の担当するクラスのリーダーである龍園などは3学期また大きくはばたいている姿を見せてくれた。
この学校の敷地内の施設は、基本的に学生専用というわけでなく、教員であったり他の大人たちも利用することが出来るのだ。パンフレットによると毎月数千ポイントの費用はかかるようだが、今日の感触によっては本会員になることも坂上は視野に入れていた。
2階エスカレーターに乗り2階へ。休憩コーナー近くのベンチの前を通り過ぎ、その正面にあるトレーニングジムの入り口へと足を向ける。受付に着くと、ウェーブがかった長めの綺麗な髪をした女性──秋山と記された名札を付けている──が笑顔で迎えてくれた。この女性スタッフが愛想よく話してくれたところによると、生徒でいう学生証と同じような役割を果たす教員用のカードを提示するだけで書類への記入等をせずともお手軽に無料体験が可能らしい。
「ご提示ありがとうございます。では、中へどうぞ」
男性トレーナーが登場しロッカー室を案内される。そこでの着替えであったり、ロッカー室横に設置されているボトルに水を入れる装置やシャワー室の使用方法などの説明を受けた後、トレーニングウェアを借りた。こうしてレンタルで服が用意されているのは身一つでも通えるようにという配慮だろう。
着替えた坂上が奥のトレーニングルームに足を踏み入れ、男性職員による案内も終わると、耳に慣れ親しんだ声があった。
「坂上先生、おはようございます」
「おはようございます真嶋先生」
長期休みならば私服の教師たちを見かけることは多い。いつもスーツを愛用している茶柱といった例外を除けばであるが、あれはあれで一部に好評のようだ。教員同士の恋愛は規則で禁止されているとはいえ、隠れて付き合う者もいないわけではない。あるいは星之宮のように毎年クリスマスは恋人同士で過ごすなんて人物も……ともかく、真嶋のウェア姿にも違和感はないどころか、体格も大きく筋肉質、高身長に鉄板のような胸板が目立つ彼には本当によく似合っていた。
「もしやジム生になられたのですか?」
「いえ、体験入会でして」
「なるほど。ではどうでしょう、折角お会いしたのですし、少し私のトレーニングを紹介させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、願ってもない。ぜひお願いいたします」
そう答えるほかなかった。筋トレの定番、ベンチプレスを行うらしく、真嶋は準備を始める。
「今回は80kgにします。100kgまでやれないことはないのですが……ちなみにそこまで挙げられるのは100人に1人と言われているらしく」
「はあ」
「しかし無理すれば身体を壊してしまいます。テレビの企画のように一度持ち上げて終わりではありませんからね。数セット繰り返すことで大胸筋を鍛えていきます」
「はい……」
それから3セットを終えた真嶋の誘いを断われず、坂上は他のトレーニング……脂肪を燃焼させる有酸素運動、その一つであるルームランナー、ふくらはぎを鍛えるカーフレイズ等々の手ほどきを受け。
「では。また分からない点などありましたらいつでもお声がけください。春休み中は可能な限りジムに顔を出すようにしていますし、新学期からも夜中にはなるでしょうが同じですので」
「はい、ありがとうございます……」
坂上は悟った。翌日以降、筋肉痛になることを。そして自分はジムの入会届を出さないことを。