ホームレスがトリニティの生徒になる話   作:ちゅーぴか

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 アートワークスヨカッタ……


イトシンキング

 

 あれからしばらくの時間がたった。

 補習授業部はヒフミ先輩以外、見事に第一次特別学力試験不合格となり、合宿が行われているようだ。ハナコ先輩から水着パーティーの写真が送られてきた。あれから行けてないけど、みんな仲良くやれているだろうか?

 

 いや、仲良くできているだろうな。ヒフミ先輩の包容力すごかったし、アズサ先輩のかわいさもすごかったし。コハルちゃんとかハナコ先輩と相性よさそう。私よりも全然。

 

 

 

 

 ……ハナコ先輩のトリニティ嫌いは、私のせいで加速したと思う。その尻拭いを補習授業部のみんなに任せるのは無責任だと思うけど、私が下手なことするより効果的だと思う。だから補習授業部に深く関わることはやめていた。

 

 ……いや、それも言い訳かもしれない。私が補習授業部と関わりたくなかったのにはきっと別の理由がある。

 

 

 

 

 やっぱり、先生(大人)は怖い。

 

 どうしても、頼る気になれない。先生が何かしたわけではないのにこんなことを言うのは申し訳ないけれど……やっぱり、好きになれない。

 

 先生との関わりはこの前会ったのくらいだけど、年季を感じさせるような落ち着きを孕んだ振る舞いに、背中が妙にぞわりとしたことは記憶に新しい。

 

 

 

 

 あと、ミカちゃんも一度だけ先生に会いに行ったようだ。多分用事は……トリニティの裏切り者についてだろう。

 

 ……ミカちゃんはまだ止まらない気なんだろうな。やはり、自分のミスで親友を死に至らしめたという事実は、彼女から冷静さを奪うのに十分すぎた。たとえそれが嘘だったとしても、ミカちゃんがそれを知る方法はない。

 

 それもすべて私の責任だ。

 

 ミカちゃんを救うには、私では力不足だった。私は彼女に醜態を晒してばかりで、彼女の心の穴を埋めてあげることができなかった。ミカちゃんがまだ止まらないことがその証拠だろう。

 

 なにより私の無能を証明するのは、セイア様が生きていることの確証が未だ得られないことだ。

 

 如何せんコネがない。加えて、一部の生徒の間では「暴力行為を起こしたが付き人の特権でもみ消した奴」として噂され、何かと忌避されてしまうことも少なくない。

 

 つまり私には、ミカちゃんを救う方法がない。

 

 

 

 

 だけど……選択肢だけは残してあげたい。

 

 

 

 

 ナギサ様は多分助けてくれない。ハナコ先輩には青春を楽しんでほしい。先生には……頼りたくない。

 

 

 

 

 ……だから私は、私の持てる全てを利用する。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほう……生きていたのか、糸巻イト」

 

 そんな思いを胸に、私は自分の過去と対峙する。

 

 

 

 ***

 

 

 

 さて、ここはトリニティのど真ん中。帰宅途中のイトちゃんこと私は、とある異変に気が付いた。

 

「なんか、騒がしいな……」

 

 さっきからさほど遠くないところで銃声が聞こえる。それに、黒いセーラー服を着た正義実現委員会の姿も見える。

 

「何が起こって……!?」

 

 近くの正実の子たちの声が聞こえた。各々の動きはまばらで、統率が取れている様子はない。彼女らが混乱しているのは明らかだった。

 

「ゲヘナです! ゲヘナの美食研究会が!」

「こちらに向かっているとの情報!」

「早くハスミ副委員長へ連絡を!」

 

 委員長よりも副委員長への連絡が急がれる様子は異質ではあるが、ツルギ委員長は勝手に出動するとある意味信頼されているのだろう。あの方の冷静さとバーサーカーぶりの二面性は非常にギャップがある。

 

 しかし、そんなことよりも気になることがある。

 

 

 

 

 ……ゲヘナが、こんなところに? エデン条約も目前に迫った、この時期に?

 

 

 

 

 ふと頭をよぎるのは、あの日のセイア様との対話で得た、一つの仮説。

 

 

 

 

 ……エデン条約は、崩壊する。

 

 

 

 

「……っ!」

 

 そんな焦りから、私は物陰に隠れながら正実のみんなが向かった先を見た。

 

「んんっ!? んーーーっ! んんんんんっ!?」

「御覧なさい。このゲヘナ給食部長の、感涙にむせび泣くほどの同意を!」

「猿ぐつわのせいで、何を言ってるのかさっぱりですけどね★」

「うわっ、マグロがまだビチビチ跳ねてる! ひれでビンタされてるっ!?」

「イズミ、ちゃんと捕まえてて! それすっごい高いんだから!」

 

 そこにいたのは5人。内一人は明らかに誘拐されたような被害者の風貌だ。よって首謀者は4人。イズミと呼ばれた少女が随分と大きなマグロを抱えている。

 あれは確か……展示中だったはずのゴールドマグロ? 売り飛ばすつもりだろうか? ……それにしてはしっくりこないような?

 

「ところでこれいつ食べられるの? マグロにはビンタされるし、黒いセーラー服の子たちに追いかけられるし、そろそろお腹すいたんだけど!」

 

「黒いセーラー服って、それ正義実現委員会じゃん!? こっちの風紀委員会と同じくらいヤバいよ! どうするのハルナ、逃げ切れるの!?」

 

 イズミさんの言葉に赤い髪の少女が焦りを漏らした。

 しかし、ハルナと呼ばれた銀髪の少女は余裕の笑みを一切崩さない。

 

 

 

 

「ふふっ……逃げられるかどうかなんて、大した問題ではありませんわ」

 

 その言葉に、私は戦慄する。

 

 あの余裕は本物だ。本当に大した問題ではないと考えている顔だ。それも、トリニティが誇る武力集団、正実に追われながら。

 

 ……まさか、正実とやり合えるだけの戦力が———

 

 

 

 

「大事なのは食べられるか、否か!」

 

 

 

 

 ……そんな私のおバカな考えは、いとも容易く崩れ去る。イトちゃんがいとも容易く……なんちゃって。

 

「つまりは「食べるか、死ぬか(eat or die)」! ただその二択のみ! それこそが、私たち美食家が歩むべき孤高な道なのです!」

 

 つまり、この人たちは実に愉快なお方たちということだ。まあ「美食研究会」なのだから、希少種たるゴールドマグロを味わいたいと考えるのは至極真っ当な思考である。

 ヒントは十分だった。それなのにこの回答に至れなかったのは反省だ。ハナコ先輩ならすぐに分かっただろうに……私もまだまだである。

 

 

 

 

ドバババババ!!!

 

 

 

 

 そこへ銃声が響く。正実の生徒によるものだ。夜中なのにこうした出来事に対応せねばならない正実の人たちには頭が上がらない。

 

「そんな高らかに喋ってないで、適度に戦って逃げないと!!」

 

 赤髪の少女が声を上げる。今のところ給食部長を含めて二人目の常識人に見えた。苦労してるんだろうな……これからも苦労は絶えないだろうから頑張ってほしい。ひそかに敬礼を送る。

 

 ……いや、こんなことしている場合じゃない。要するにここが戦場と化すということだ。一応武器は持っているけど、口径の小さいハンドガンとグレネードだけ。ちょっと心許ない。銃なんてまともに撃ったことないし……。

 

 そんな風に考えている、その時だった。

 

 

 

 

ドォオオオオオン!!!

 

 

 

 

「うわぁ!!」

 

 

 

 

 最初に聞こえたのは爆音。さらに全身を襲う衝撃。

 

「うぅ……」

 

 次いで知覚できたのは痛みだった。徐々に意識が正常に戻ってくると、自分のすぐ近くで爆発物が起爆したことが分かった。

 

 巻き込まれた。流れ弾か何かに当たったのだ。そして私は焦る。

 

 

 

 

 ……やばい。やばいやばいやばいやばい!!

 

 今日の用事は誰にも言ってない! もしここで何らの傷を残してしまえば、ここにいたことがバレてしまう! ミカちゃんはともかく、ハナコ先輩にはこれだけでも十分すぎるヒントになる!

 

 

 

 

 あの事(・・・)は、誰にもバレるわけにはいかない!!

 

 

 

 

 逃げなきゃ……。そう思い、転がる身体を起こすために地面に手をついた、その時だった。

 

「っ!? ぐっ、うぅ!?」

 

 右手から伝わる、圧倒的な違和感。引き裂かれるような激痛に喘ぐしかなかった。

 

 

 

 

 改めて自分の右手を確認すると、そこにあるのは———信じられないほどグニャグニャに折れ曲がった指だった。

 

 

 

 

 ……やらかした。傷を残してしまった。

 

 これは、私の個人的な問題だけじゃない。ゲヘナ生が「ティーパーティーの付き人」に怪我を負わせたという事実を残してしまう。

 

「うぅ……」

 

 やっとの思いで身体を起こし、瓦礫の影にもたれかかる。

 

 ……もしこの怪我をエデン条約反対派に見つかれば、これを理由にゲヘナとの因縁を作られてしまう可能性もある。

 この怪我は、明らかに失敗だ。私の危機感が足りなかった。

 

 ……しかし、苦難はそれだけで終わらない。

 

 

 

 

「止まりなさい、ゲヘナ!」

 

 意志のこもった声。凛とした正義感と確実な強さを孕むその声に、私は聞き覚えがあった。

 

 

 

 

 ……正義実現委員会副委員長、羽川ハスミ様である。

 

 この方はまずい。ハスミ様はゲヘナ嫌いで有名である。エデン条約に向け理性的な判断を下してくださることへの疑いはないが、私の怪我があればもしかしたら話は変わってくるかもしれない。ハスミ様はそれだけ優しい方だ。

 

 ひとまずこの場は身を潜めるほかない。それに、折れた指を元に戻さなければ。

 

「うっ、ぐうぅぅ……」

 

 適当な木の板を噛み、歯を食いしばる。痛いと分かっていながら力を込めるのはなかなか難しい。

 

 

 

 

 ———パキッ

 

「がっ、ぁ……」

 

 痛い……けど、痛みには慣れてる。何とか声は押し殺すことができたし、指も元の位置に戻った。右手の指は一本残らず赤黒く変色してしまったが。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 次は固定だ。そう思い、咥えていた木の板を指へあてがう。包帯代わりの布は、今着ている私服のパーカーを破くしかないかな……。

 

 私がそう思い、服の裾へと手を伸ばした、その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……イト?」

 

「っ!?」

 

 突如降りかかる人の声に、私は反射的に顔を上げた。

 

 その声の主は、先生だった。

 

 

 

 

「っ! どうしたのそのけが———」

 

 私は大慌てで、私の怪我に驚く先生の口を無事な左手で塞ぎながら先生を押し倒す。かなり強めに抑えてしまっている気がするがそんなことに気を遣う余裕はない。

 

 なぜこんなところに先生が? 何でこんなタイミングで? 私の怪我を見られた!?

 

 

 

 

 ……くそっ! やっぱり、大人は嫌いだ!!!

 

 

 

 

 しかし、そんな私の理不尽な怒りとは裏腹に、私はさらに追い詰められることになる。

 

 

 

 

「先生! 指揮をお願いします!」

 

 

 

 

 それは、本来ハスミ様しかいなかった場所から聞こえた……ヒフミ先輩の声。

 

 ……それだけで見なくてもわかる。大方、ハスミ様への連絡が入ったところにたまたま先生率いる補習授業部が居合わせ……対美食研究会へと同行したのだろう。

 私以上に身体が脆弱な先生は、流れ弾を防ぐために物陰から指揮を送る作戦……なんだと思う。

 

 ……つまりこの場には、ハナコ先輩もいる。

 

 それは、考え得る限り最悪の———

 

 

 

 

「……っ! 先生、手短に話します!」

 

 私は先生の上に乗り、先生の耳元へ口を近づける。万が一にも聞かれるわけにはいかない。

 

「私がここにいたことは、他の誰にもバレたくないです! ……ので! みんなには私がいない体を装ってください!」

 

 

 

 

「……あれ、先生?」

 

 なかなか返事をしない先生を心配するヒフミ先輩の声が聞こえる。時間の猶予はない。ここで私も必殺技を使うとする。

 

「さもなくば、先生が大事にしているフィギュア……全部ぶっ壊します!!」

 

 瞬間、先生の顔が一気に青ざめる。この前に先生の財布からちらっと見えたレシートの内容を覚えていて正解だった。二桁万円のフィギュアの購入履歴があったのだ。相当大事にしているはず。

 

 

 

 

「先生? 大丈夫ですか!?」

 

 いい加減不安になったのだろう。ヒフミ先輩の声に緊迫感が増した。

 

「……じゃあ、お願いしますよ」

 

私はそう言い残し、先生の上から降りる。

 

 

 

 

イト……後で病院に絶対連れて行くから……ごめん! 瓦礫に躓いて転んじゃった!」

 

 先生は起き上がるなり、そう言い放つ。さすがは大人、こういうことは慣れっこなのだろう。

 

「えぇ!? 大丈夫なんですか!?」

 

「大丈夫だよ、心配かけてごめんね」

 

 ヒフミ先輩はうまく騙されてくれたようだ。たくさん先生のことを心配してて、本当にいい人。かわいい。

 

 

 

 

「先生……そこに誰かいますか?」

 

「……っ!」

 

 ……さすがはハナコ先輩。相変わらず聡い。私は先生へ目で訴えかけるしかない。お願い! うまく隠してください!!

 

「だれもいないよ?」

 

「そう……ですか」

 

 先生さすがのポーカーフェイス。大人の責任を果たしてくれてありがとうございます。

 

 

 

 

「それじゃあ……いくよ、みんな!」

 

 先生はそういうと、懐からタブレット端末を出した。

 

 

 

 ***

 

 

 

 せ、先生すごい……。

 

 あの戦いを見た私の感想はそれだった。補習授業部や正実のみんなの動きが、先生の指揮によって明確によくなっているのが分かった。

 もちろん的確な指示による戦術もすごいけど、先生の強みはきっと生徒一人一人の特性をよく理解していることだろう。直接参加はしていないけど、私にとっても実りのある戦いだったと思う。参考になった。

 

 ある程度戦った後、美食研究会の人たちは各々バラバラに逃げたものの……一人を除いて全員捕まったようだ。あの給食部長の方も捕まってしまったらしい。とてもかわいそう。

 

 捕まった彼女らの身柄は本来ならトリニティ側が処罰を決めるのだが、時期も相まって処置はゲヘナへ託されるそうだ。

 また、このゲヘナへの受け渡しをシャーレが担当することになった。第三者が介入することで両校の政治的な摩擦を解消することが目的だ。

 

 この提案をしたのはハスミ副委員長だったらしい。失礼だが……彼女がしっかりと理性的な判断をしてくれて一安心である。

 

 それと、先生の尽力もあって私の存在はみんなにバレていない。フィギュアの効力がすさまじい。これからも必要とあらばこの手法を使わせてもらうことにする。

 

 

 

 

 そして、話は現在に至る。

 

「……あなたは?」

 

 私は目の前の人にきっかり90°のお辞儀をする。

 

「わ、私は糸巻イトと申します!」

 

 美食研究会をゲヘナへ輸送している先生の下へ、尾行した私が「私も連れてって」と突撃したのだ。

 理由は一つ。ゲヘナの生徒を一度この目で見てみたかったからだ。

 

 トリニティにいると、ゲヘナの悪口はよく耳にする。野蛮だとか、角がどうだとか……。両校の間の溝は非常に深いものだ。

 

 でも、私はみんながみんなそうだと考えたくないのだ。何かの枠組みで一括りにできるほど人間は簡単じゃない。必ずいい人だっているはず……。

 

「糸巻イト……。確か、聖園ミカの……」

 

 美食研究会みたいなテロ集団じゃなくて、せめて普通の人が来てくれたらなぁ……。

 

 

 

 

 ……なんて考えていたのに、まさか風紀委員長(空崎ヒナ)が来るなんて。

 

 私よりも小柄なはずなのに、戦車でも前にしているのかと勘違いするほどの威圧感を覚える。しかも私のこと知ってるし、目つき鋭いし……。正直言って怖い。さっきから震えが止まらない。

 

 

 

 

「それで、どうして先生と一緒にいるの?」

 

 

 

 

 空崎さんの言葉に、私は息を飲む。

 

 空崎さんが言いたいのは……「せっかく先生が政治色を弱めてくれたのに、ティーパーティーに関係が深いおまえが出てきたせいで台無しになったんだけど、どう責任を取るつもり?」ということだろう。

 

 風紀委員長の噂は何度も聞いたことがある。圧倒的な強さと冷酷さ。一度規則違反者を目にすれば、地獄の果てまで追い詰める……。

 

「ご、ごごごごご、ごめ、ごめぬっ……!」

 

 くそっ! 動け私の口!!

 

「……そんなに怖がらないで。別に責めているわけじゃない」

 

「し、ししし死刑だけは……」

 

「そんなことしない」

 

 私が過去一のビビりをかましていると、先生から声がかかった。

 

「イト、ヒナはいい子だよ。少なくとも私は信頼してる」

 

 

 

「……っ!」

 

 先生の言葉を聞いた瞬間、空崎さんの顔が赤くなる。それは噂に聞く冷酷さとはかけ離れた姿だった。

 

 ……あれ? 聞いてた話よりもずっとかわいい?

 

「あの……私がここにいるのは、単なる好奇心からで……。政治的な思惑は全くありません。ごめんなさい、変なこと言って……」

 

「……っ。そう、わかったわ」

 

 

 

 

 ……やはり、噂などあてにならない。

 

 

 

 

「それでヒナ、聞きたいことがあるんだけど」

 

 先生が口を開く。

 

「うん? 聞きたいこと……?」

 

 先生は今の状況とこの先の展望について、空崎さんに詳しく話した。

 

 ティーパーティーから補習授業部の担任を任されたこと、補習授業部の現状、ナギサ様の思惑———裏切り者の追放と、ミカちゃんのエデン条約に対する考え。それと水着パーティー。

 

 この話を聞けたのは私にとってもありがたい話だった。ミカちゃんは自分を裏切り者の線から外すために、エデン条約の持つ強大な力の危険性を先生に説いたようだ。ミカちゃんの立場に立って考えれば、先生の知っている情報とそうでない情報をうまく織り交ぜたいい作戦だと思う。

 

 しかし、私にはそれよりも印象深いことがあった。

 

 

 

 

 ……へぇ。それ、私にも聞かせちゃうんだ。

 

 

 

 

 ……先生の立場で、私のことは絶対に信用してはいけないはずだ。現状で私以上に怪しく見える生徒はいないはず。その私の前で今の話を軽々しくするだなんて、あってはいけないことだ。

 

 やはり、大人は信用ならない。

 

 

 

 

「エデン条約が軍事同盟、ね……まあ、興味深い見方ではあるかもしれない」

 

 空崎さんが口を開く。

 

「ただ、少なくとも私はそうは思わない。あれはれっきとした平和条約、私はそう考えてる」

 

 それから空崎さんは自分の考えを話した。

 

 ミカちゃんの指摘したのはエデン条約機構(ETO)に暴走の危険性があること。しかしそんな暴走が起こるなら、それは両校のトップ———ナギサ様や羽沼マコトさんらが協力することを意味する。そんな協力ができているのならば、はなからエデン条約などいらない……というのが空崎さんの考えのようだ。

 

 また、ゲヘナ側でエデン条約を推し進めたのは空崎さんだということも言っていた。なんでも、ETOができればゲヘナの治安もよくなるはずで、そうなれば自分が風紀委員長じゃなくてよくなると考えたかららしい。

 

「なるほど……」

 

 ……少なくとも私は、目の前の彼女が噂に聞くような冷酷無慈悲な人間になど見えない。そこにいるのは、ただ他人より強くて優秀なだけの……ちゃんと弱さを持った一人の少女だ。

 

「……糸巻イト、あなたはどう考えているの?」

 

「私ですか?」

 

 急にバトンが来てびっくりした。しかも空崎さんから。

 

「そう……トリニティ側から見た意見も聞きたいから」

 

 ……なるほど。空崎さんは真面目な方だ。ならば私も真面目に答えるとする。

 

 

 

 

「……エデン条約が平和条約であるという考えには完全に同意します」

 

 本当は、ETOができたからと言ってゲヘナの治安が良くなるとも思わないし、風紀委員長を引退したら今度はETOの重役が待っているだけだと思うけど……それを口にするのは空崎さんの願いを嘲る行為だと思うからやめておいた。

 

 

 

 

「ただ……「契約」はここキヴォトスで大きな意味を持ちます。エデン条約ほどの大きな契約、もしも誰かに利用されることがあれば……」

 

 私は先生を睨む。

 

 これは私の本音だ。エデン条約の崩壊があるならば、これしかないと私は考えている。

 

 契約の悪用。人を騙し、陥れ、自分だけが利益を得るよう仕向ける……。

 

 そんなことをするのはいつも……大人だ。

 

 

 

 

「それと」

 

 私は言葉を続ける。

 

「……正直言うと、私はエデン条約がよくわからないんです」

 

「というと?」

 

「もちろん、両校の長年にわたるいがみ合いを公的に解消することの意義はわかります。でも……」

 

 私は空崎さんに近づく。

 

「私と空崎さんは、こうして話しているじゃないですか」

 

「……」

 

「それだけじゃダメなのかなって」

 

 その場に沈黙が流れる。

 

 やはり、私の意見はあまりに身も蓋もない。

 

 それでも私は、こんな理想論が好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「風紀委員長、まだですか?」

 

 沈黙を破ったのは救急医学部の部長、氷室セナさんだった。

 

「……ええ、今行く。……でも、その前に」

 

 空崎さんが私へと近づく。

 

「……?」

 

 彼女が私の右腕へと手を伸ばし……真っ黒に変色した指を持ち上げた。

 

「……っ!」

 

「やっぱり」

 

 

 

 

 ……私は今まで右手を背後に隠していた。うまく隠しているつもりだったのに。いや、風紀委員長相手に隠し通せると考える方が悪かったかもしれない。

 

 私の指を見た瞬間、空崎さんが顔をしかめた。

 

「……これ、ずっと放置していたの?」

 

「……気づいていたんですか」

 

「ええ……。美食研究会(こいつら)のせいよね? ……ごめんなさい」

 

 彼女が私に頭を下げた。

 

「っ! 空崎さんが謝ることでは……」

 

「いえ、これはゲヘナ側の責任よ。……セナ、お願いできる?」

 

「わかりました」

 

 氷室さんはそう言い、私の手を取った。

 

 

 

 

 彼女の手際はとてもいいもので、あっという間に添え木と包帯で私の手が固定された。私はその間、用意された椅子に座りながら「この人の髪色私に似てる」なんて思っているしかなかった。

 

「終わりました。治るまではあまり動かさないようにお願いします」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 氷室さんは処置を終えると、車の運転席に戻った。

 

 

 

 

「……イト」

 

 空崎さんの声だ。

 

「それ、あえて黙っていたのでしょう? エデン条約を前に余計な心配を生まないようにって……」

 

「……そう、ですね」

 

 空崎さんの顔が近づく。

 

「私が言うことではないかもしれないけれど……周りのためといって自分を犠牲にしすぎるのは考えものよ。きっと……イトが傷つくと悲しむ人がいるはずだから」

 

 ……空崎さんの言うことはもっともだ。だからこそ、私の心に深く刺さる。

 

 

 

 

 だけど、それでも私は……。

 

 

 

 

「じゃあお疲れ様、イト、先生。また……」

 

 そう言い、空崎さんは車へと歩みを進めた。

 

「……補習授業部のことは、先生が守るのよね?」

 

「うん」

 

「……そう」

 

 空崎さんは安心したように目を閉じる。……本当に噂はあてにならない。

 

「最後に……イト」

 

「は、はい!」

 

 彼女と目が合った。

 

 

 

 

「あなたの考え……私は好きよ」

 

「……」

 

「……じゃあ、またね」

 

 そう言い残し、彼女を乗せた車が走り出す。

 

 私の胸には、彼女の言葉が温かく響き続けていた。

 

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