相変わらずイトちゃんが痛そうです。
「う゛っ……げほっ……!」
エデン条約調印式。ミサイルの投下による狂乱の中、その地下にある一際静かな洞窟には一人の少女の苦痛に満ちた声が響き渡っていた。
「誰だ。何の目的でここに来た」
そこには数多くのアリウス生徒がおり、そしてその集団の中に渦中の人物がいた。
「言え。どうやってここを見つけた。目的は何だ。我々の会話をどこから聞いていた」
渦中の人物……糸巻イトは、すでに満身創痍ながらもアリウス生徒の一人に拷問を受けていた。
銃身で頭を何度も殴られ続けた彼女にはもう喋る気力すらない。
「予備戦力は? ここまでの到着予定時刻は? トリニティ側はこの事態をどこまで把握している?」
「ぁ……っ、げほっ!」
いくら殴ろうと、いくら痛めつけようと、彼女が口を割る気配は一向にない。そんなイトの様子に嫌気が差したのか、はたまた放っておいてもいずれ消えゆく命に興味を無くしたのか、アリウス生徒は倒れるイトの上から降りた。
これでひとまずの苦痛からは解放される……。
そう、イトが安堵したのも束の間だった。
「がほっ!」
仰向けで寝転がるイトの脇腹に、強烈な蹴りが入る。
イトの身体は少しの間宙に浮き、そのまま転がってうつ伏せの状態になった。
「お、おい……」
それは、凄惨な現場を周囲で静観していたアリウス生徒の一声だった。
「そいつ……死んじまうぞ……?」
その声を聞いても、イトの拷問は終わらない。
彼女はイトの上に乗り、髪を乱暴につかむ。
「……何を言っているんだ?」
そしてそのままイトの頭を持ち上げ……。
「うっ…あぁ……」
「こいつは……」
そのまま、勢いよく地面へ叩き落とした。
「トリニティの生徒なんだぞ?」
その衝撃は、発せられた音を聞けば一目瞭然だった。
「っ、ぁ……」
その光景には、暴力に慣れたはずのアリウス生徒たちでさえも目を背けた。
「ましてこいつはティーパーティーの関係者だ。我々アリウスの憎しみの元凶……」
「だ、だからってなにも殺すことは……」
アリウス生徒たちは十分な訓練を受け、統率を取れるほど優秀だ。しかし、過激な思想を持つ者、温和な思想を持つ者……その思想はやはり十人十色である。
「……何だ貴様」
彼女はガスマスクに張り付いた返り血を気にも留めずに、外野の生徒をぎろりと睨んだ。
「マダムの意志に背くつもりか?」
マダム。その言葉を聞いた瞬間、周囲にいた生徒たちの肩が跳ねる。
「い、いや……」
「ならば黙って見ていろ」
そうして彼女は立ち上がり、地面に伏せるイトの背中を踏みつけ……。
「……いいか、決して忘れるな」
……ちぎれかけの左腕を掴んだ。
「っ、ああああっ!!!」
イトの悲鳴が響く。
左腕にかけられる力は増していく。
傷口からはとめどない血液が溢れ、ぶちぶちと筋繊維が切れる音がする。
「いっ、づ……あああっ……!!」
「
誰もが息を飲む。
こんな光景、アリウスでの訓練でさえ見たことがない。
こんな悲鳴、聞いたことがない。
ここまで明確に、人に死が迫っている様を眺めたことなどない。
……しかし。
その場の誰も、動くことはなかった。
誰も止めることはしなかった。
だって、全ては虚しいものだから。
貧困を強いたのは。
すべて、
だから。
「こいつは、こうなって当然———」
「スーッ、ススッ」
ちがうよ。
誰かが、そう言った気がした。
「何を……」
「スッ、ススッ、スーッ」
アリウス生徒たちが身に着けているガスマスクとは異なる、不吉な仮面を身に着けた少女、秤アツコが手話を用いて語り掛ける。
「こいつを……人質に……?」
「スッ、スーッ、ススッ」
アリウス生徒は、辛うじて繋がっているだけのイトの左腕を乱雑に投げ、考え込む素振りを見せた。
「……確かに、腐ってもこいつはティーパーティーの関係者。人質としての価値はあるかもしれないな」
そう言い放った彼女はイトの背中から足を下ろした。
同時にアツコはイトへ近づき、その顔を優しく持ち上げる。
「……」
しかし、イトはもう呻き声さえ上げることは叶わない。
その時、アツコはイトの胸元へ何かを忍び込ませた。
「スッ、スッ」
ごめんね。がんばって。
そしてその言葉を最後に、イトの意識は途切れた。
***
イトがいない。
どこを探しても、見失ったイトを見つけることができない。
「どこ……」
焦燥感に身を任せ、ヒナはひたすらに変わり果てた古聖堂を走り回っていた。
イトの容態はヒナのみが知っているものだ。あれは決して動いていい身体ではない。
そもそもあの時、イトの手を離すべきではなかった。冷静になったヒナの頭にはしてもしきれない後悔が募る。
「っ、邪魔!」
行く手を阻むユスティナ聖徒会の頭をヒナは自分の愛銃で外すことなく打ち抜く。こうした作業はもう何度も行ってきた。
しかし見つからない。ユスティナ聖徒会相手では尋問さえできない。
そんな時、銃声がひしめき合うこの場でヒナは自分の名を呼ぶ声を確かに聞いた。
「ヒナ!!!」
「先生……?」
それは先生の声だった。ヒナが倒したユスティナ聖徒会の群れは偶然にも先生を取り囲んでいたものだった。
「せ、先生……!!」
ヒナは偶然の巡り合わせにそっと胸を撫でおろした。
ひとまず先生が無事。それはヒナの個人的な感情を抜きにしても非常に大きな意味を持つ。この混乱を収められるのは先生しかいない。
それだけじゃない。この人なら、今ヒナが直面している問題も解決してくれるかもしれない。そう希望を持つことができる。
一刻も早く。その意志でヒナは口を開いた。
「先生! イトが……」
しかしヒナはそこで言葉を止め、逡巡する。
……果たしてそうだろうか?
「……ヒナ?」
この状況で、四方から銃弾が飛び合いどこから流れ弾が飛んでくるかもわからないようなこの状況で。
果たして先生は、無事で居られるのだろうか。
「っ、ぁ……」
否。
ヒナの思考では、それ以外の答えが見つからなかった。
イトの命が危ないことを伝えれば、この人は確実に助けに向かってしまう。先生が生徒を見捨てることなどあり得ないということはヒナの経験から明らかだった。
しかしそれは、先生の命を危険に晒すことと同義。そしてその影響はキヴォトス全体の危機にまでも直結するだろう。
「ヒナ? イトが……どうかしたの?」
しかし……しかしだ。
あの出血だ。イトの死は刻一刻と迫っているはず。
こうして迷っている間にもイトは苦しみ続けているはずなのだ。
……そこでヒナは初めて、自らに与えられた残酷な二択を理解した。
「っ、はっ…」
呼吸が浅くなる。
ヒナに与えられた二択。それは先生を危険に晒し見つかるかも分からないイトを捜索するか……
……イトを見殺しにして、先生をここから逃がすか。
「……なんでもない」
迷う時間すら、ヒナには与えられなかった。
「先生、こっち!!」
ヒナは覚悟もできないまま、先生の手を取り戦場から逃げ出した。
***
ずるずる。ずるずる。
古聖堂の戦いの音がはるかに遠のいた。そう実感するほどカタコンベを進み、果てにはアリウス自治区へ足を踏み入れたところ。
住民の多くが戦場へ出向いているせいか、いつもよりも静かなその場所に重い荷物を引きずりながら歩くアリウス生徒がいた。
「はぁ……」
思わずため息がこぼれる。
「なんだって私がこんなこと……」
己に課せられた任務に不満が募る。それは糸巻イトの運搬だった。
せっかく訓練した技術が一切活かされない任務だ。アリウス生徒が退屈と感じても無理はない。
「しかしこいつ……ひどい有り様だな。生きてんのか?」
彼女はふと背後のイトの姿を見やった。
顔面には痛々しい打撲跡、それに出血。それに全身には、ミサイルによる切り傷が無数にあり……そしてなにより、ちぎれかけの左腕。
こんな有り様では放っておいてもすぐに死ぬだろう。正直、人質としての価値には疑問が残る。
「でも任務だしなぁ……」
しかし上官の命令は絶対。そう教育されたアリウス生徒は与えられた任務には忠実だった。
どれだけ進んだろうか。ふと振り返ってみれば、イトの身体から絶えず流れ続ける血液がこれまでの道筋を示していた。さながらヘンゼルとグレーテルである。
「やっべ……これ、アリウス以外のやつもここまでこれちゃうんじゃ……」
カタコンベは道が変化し続ける不思議な場所だが、それもすぐにってわけじゃない。
もしもこの道しるべに気づく者がいれば、あるいはアリウス自治区への侵入を許す結果を招くかもしれない。
……イトをこの場に放置して、証拠隠滅に注力した方が良いだろうか。
アリウス生徒がそんな思考を巡らせた、その時だった。
———ピピッ
アラーム音のような機械音が、イトの方から響いた。
「……何の音———」
ドォォオオオン!!
突如として、イトの身体が爆発した。
「わっ!? なんだ!?」
爆風に飛ばされながらも、アリウス生徒は瞬時に臨戦態勢を取る。
敵襲だろうか? それとも他のアリウス生徒のいたずら? あるいは手榴弾の誤作動か?
あらゆる可能性を考慮するも、この舞い上がった砂煙の中では状況の把握は叶わない。
次に取るべき行動を考える。
最も考慮すべきは敵襲だろうが……それよりも、頭を支配するのはもっと緊急の事情だ。
……糸巻イトが見つからない。
砂埃が落ち着き、視界が確保される。
それでもなお、イトの姿は捉えられない。
そこにはもぬけの殻となった廃墟の街しかなかった。
「どこだ!? どこにいった!?」
アリウス生徒を焦燥が包む。
まさか……意識を取り戻したのか?
そして、あの重傷で逃げおおせたのか?
……いいや、そんなはずはない、とアリウス生徒は考える。
たとえ意識を取り戻したとしても、あの重傷では俊敏に動けまい。
逃げたのだとしてもそう遠くへは行ってないはずだ。
銃を改めて握りなおす。
「早く出てこい! これ以上痛みを味わいたくはないだろう!」
あの拷問の現場を見てきた身だ。こんな脅しは無意味と知りつつも、アリウス生徒は声を張り上げた。
集中しろ。
意識を研ぎ澄ませ。
影の一つ、足音の一つを見落とすな。
重傷の人質を取り逃がすなんて失態、マダムに知られれば……
……処分されるのは自分なのだ。
その時だった。
……ぞくり。
その時アリウス生徒は確かに後方に、背筋が凍るような気配を感じた。
「っ!?」
思わず反射で振り返る。
しかし。
「な、なんだ!?」
後方を確認することは叶わなかった。
一瞬遅れてガスマスクに血をかけられたのだと気づく。
「視界が…!」
状況の把握も束の間、今度は腰の部分をまさぐられる感覚を覚えた。
そしてアリウス生徒は、そこにあるものを理解して戦慄した。
そこには確か……
サブで用いるハンドガンが……!
「ま、まて———」
しかし、アリウス生徒がそれを理解した時にはもう遅かった。
そして間もなく、アリウス生徒の顔面のほぼゼロ距離から発せられる一弾倉分の銃声が大きく響いた。
「はぁ…はぁ……」
そこに立っていたのはイトだった。イトは自分が気絶させたアリウス生徒を見下ろす。
「ごめんね……」
誰に届くでもない言葉をつぶやく。
イトの意識を覚醒させたのは、アツコがイトの胸元に忍ばせた時限爆弾だった。イトの頭には意識が途切れる前に見たアツコの手話が流れる。
そんな記憶に思いを巡らせながらも、イトの意識はすでに別の方向へ向かっていた。
「にげ、なきゃ……」
イトに確証はないが、ここは敵の本拠地なのだ。そんな場所で爆発音に銃声まで上げてしまった。
一刻も早くこの場を離れなければ、敵の増援が来ることは明白だろう。
「ちも、とめなきゃ……」
全身の激痛を堪えながら歩みを進める。
しかし……。
「あうっ……」
一歩を踏みしめることすら叶わず、イトの身体は地面へと転がった。
「はぁ…うでも、きって……やいて、しけつして……それで……」
……それで?
イトにはその先が分からなかった。
仮に、運よくこの場を切り抜けられたとして、その次は?
現在地も分からない、敵の本拠地のどこか。帰り道も分からない。逃げ場なんてどこにもない。
加えて敵はアリウス生徒たち。イトが万全の時でさえ一人だって倒せるか分からないのに、それが徒党を組んで自分を追い詰めるこの状況。
……イトは優秀だ。このキヴォトス全体を探しても、彼女以上の頭脳はそういるものじゃない。
だからこそイトは理解してしまう。
自分に待ち受ける、絶対的な運命を。
「うぅ……っ」
その時、イトの目からは涙が流れていた。
「しにたくない……しにたくないよぉ…………」
生まれたときから道具として扱われ続け、
それでようやく……また誰かと笑い合うことができたというのに。
「しにたく…………ない……………………」
それを果たせず終わるなんて。
「おねぇ……ちゃん……………………」
静まり返ったアリウス自治区、その一角。
すでに動かなくなったイトの下へ、一つの足音が近づいていた。
漆黒に身を包んだその者は、暗闇に溶け込むように呟く。
「クックックッ……」