今日も異界の空の下で人ごみの切れない町の中を歩く。かつかつ、と響く履き慣れたヒールの裏の音と地面に時折接するこんこん、という手にした杖の小気味良い音だけが救いだ。人混みは苦手だけれど、足を動かさない事には済む用事も済まない。
ここははじまりの町。この世界に降り立った人が最初に気が付く地点で、同時にもっとも市場が賑わう大都市。もっとも、この世界で都市と呼べるほどの国家も人口も存在しないのであくまで比喩だけれど……大事なのは現状、この町で日常品や食料を購入するに困らないという一点だろう。気が付くと話や思考が横に逸れ始めるのはわたしの悪い癖だ。でも、考えずにはいられないことばかりだ。
少し歩き疲れたので手近なベンチに座り、手にしていた紙袋を隣に置き一息ついて少し大きな溜息を吐く。だって。
なぜなら、この世界はわたしが元居た世界ではないのだから。
わたし、スティアーユ・メルクーリアは聖女と呼ばれている……いや。現時点では、呼ばれていた、が正しいのかもしれない。わたしが元々いた世界はこの世界の経済状況や技術レベルと比べるとやや後退していたけれど牧歌的な世界だったように認識している。
創世神グローリアが作り出したとされている世界というお伽話や聖書が広く普及していた影響で世界で最も信仰されていた宗教の名もやはり、神の名を借りてグローリア教と名付けられていた。グローリア教の教えはごくごく単純で『より善く生き、困っている誰かを見つけたら助けてあげましょう』というような……あまりにのほほんとした宗教だったけれど、わたしはそれが好きだった。
わたしの生まれが教団の教皇の娘で、物心ついた頃には既に聖女と呼ばれていたけれど、信者の皆や両親に愛されて育った自覚はあるし、うぬぼれではあるけどそれが高じてわがままに育った記憶もない。近しい人を困らせた事が恐らく無いほどの慎ましさから『聖女様はやはり聖女様だ』と褒められた事もある。そんな小さい幸せと他愛ない事すら思い出せる変わり映えしないけれど幸せな世界が愛おしかった。
そんな穏やかな日々がずっと続くと思っていたのに、突如、教団の大聖堂に次元の狭間が発生したのが全ての始まりだった。
次元の狭間とは様々な原因が理由で魔力暴走が生じた空間の歪みがその周囲一帯を変質もしくは飲み込む現象で、そこにたまたま運悪く居合わせてしまった両親や信者の皆が狭間の向こうに消えてしまった。わたしはそれに運よく巻き込まれずには済んだものの、狭間を閉じてしまえば元居た世界と狭間の向こうの世界が再び繋がる可能性は極めて低く、無数に隣り合った世界同士が奇跡的に再度繋がる可能性に縋るより、わたしが乗り込んで皆を元の世界に戻す方法を模索するのがまだ現実的だとあの場で即断して着の身着のままで狭間へ飛び込んで辿り着いたのがこの世界だった……というのが事の経緯。
両親や信者の皆は一向に見つからない。わたしは威勢よく飛び込んだにも関わらずこの世界で生きることに精いっぱいで、一人でどうにか出来るとうぬぼれていたのが恥ずかしくなるばかりだった。
しかも、何故か元居た世界で学んだ魔法の術式や魔法陣がこの世界では霧散化してしまう。教団で代々聖女が引き継いでいた貴重な装備もこの世界に来るなり魔力と化して消失してしまったし、この世界の法則は他世界の法則の存在……いや、もっと公儀的な何かを許さない傾向がある。つまり、それを紐づけできる明らかな上位存在がこの世界には間違いなく居る。それが次元の狭間を引き起こしたのかはともかく、わたしの故郷の帰還や探し人に繋がるもっとも大きな可能性であるのは言うまでもない。
わたしは日々を繋ぎながらそれを探し求めて、この世界にも生息する魔物や冒険者と手合わせして少しずつ元々の力量を取り戻すべく研鑽しながら日々を重ねている……というのが今のわたしの状況。
一通り状況整理を改めて行ったところで今わたしが何をしにここへきたのか思い出し……そういえば小休止中だったと思いなおして横に置いていた買ったばかりのパン屋果物などが詰められた紙袋を求めて周囲をきょろきょろと見回す。
ない。
無い? そんなわけはない。紙袋に足が生えたとでもいうのだろうか。それともこの世界には紙袋が自我を持ったり紙袋が自走するようになる魔法でも存在するのかと本気で考え始めたとき、ふと猫と目が合う。
「なーん」
なんてことはない。わたしの紙袋を器用に加えた猫がだいぶ先の地面をちょこちょこ歩きながら去ろうとしていたのだった。どうやらこの世界の猫は人様の食料を今日のお昼ご飯にいただくようだ。なんとリッチなんだろう。わたしは可能な限りの笑顔を浮かべて杖を握り直した。そして即座に発する。
「ライトニングボルトォ!!!!」
「なーんっ!?」
「外しましたか……」
わたしの狙いが甘かったのか猫の俊敏さや危機察知力が上回ったのは定かではないけれど、虚空から発生した雷霆は石畳を少し焼くだけに終わった。この世界の魔法形態を学び始めたばかりだからか威力も精度も話にならない。猫の目が「当たったらどうする気だったの!」と非難しているような気もするけれど。グローリア教の教えに「右頬を張られたら左頬を張り返しなさい」というものがある。
それは悪行を許す寛容さを蔑ろにするものではなく、悪行を是正してあげてそれからどうしてそれをしたのか訊くという物であり、つまりは教えの布教に他ならない。猫に教義が理解できるかわからないけれど、絶賛お腹がすき始めているわたしの怒りが決して猫に向いたわけではない。
「誰の飼い猫なのか、あるいは悪さを覚えた悪い猫ちゃんなのかは知りませんが懲らしめて差し上げます」
「なーん!!!」
わたしが再度魔法を放とうとすると猫は大通りから路地裏に向かって逃走した。もちろんわたしの買い物袋を加えたまま。置いて帰れば見逃す選択肢だって取れたのにあくまで向こうは逃げ切るつもりらしい。
「待ちなさい……!!」
「なんなーん!」
道行く人は誰も助けてくれないどころか「なーんさんが知らない嬢ちゃんに追われてるぞ」とか「なーんさんだ! こんにちはー」とかのたまうばかり。何と冷たいのだろう。必ず全員に布教してこの世界に隣人を助けるという行いを広めなければならないとわたしは猫を追いかけながら決意するのだった。
猫はそのまま路地裏から町を出ていき、町の外へ向かう。外には森や荒野が広がっており、見失えばもう探す目処が立たなくなる。わたしは町を出たことで魔法の制限を解除して確実に猫の足止めを行うことを決めた。
「天涯の果てより来たりし遍く星よ、我が呼び声に応えなさい。其は蒼穹を駆ける煌星にして悠久を揺蕩う凶星。失墜する天災となりて眼前の敵を波濤の如く押し潰せ!メテオストライクッ!!」
「なああああん!!??」
頭上から小隕石群を猫に放つ。周囲に生息していた魔物や冒険者も巻き添えにして荒野に無数のクレーターを生じさせる程の現時点でわたしが使えるこの世界最高の魔法を放ったものの土煙の向こうで猫は悠々と毛繕いをして汚れを落としていた。あの猫はどうやらこの程度では体が汚れたという認識しかしないらしい。
本当にどういうしつけをしたらあんな態度を取るのか飼い主の顔を是が非でも確認しなければならない。
「なんなん」
「なんなん、はこちらの台詞ですよ……!」
人を食ったような鳴き声をすると猫は軽快な足取りで先へ先へ進んでいく。あの様子では本当にすべて避けられたようで飽和攻撃も意味がないのならあまり魔力の無駄うちもできないと悟りそこからわたしは猫を追うことに集中し、街を離れて数日……体力と気力の限界を迎え始めていた。
「なーん」
「はぁ、はぁ……い、いいかげんに止まりなさい……っ」
わたしが空腹と疲労で視界が霞んでいるにもかかわらず猫の様子は未だ元気そのもので生物としての規格が違う気すらしてくる。あぁ、もうだめだ……わたしはぱたっ、と地面に倒れるとそのまま意識を手放した。皆、ごめんなさい……わたしは何も成せませんでした……。
…。
……。
………。
「なーん」
ぺろぺろ。何かに顔を舐められている様な気がする。でも、身体が重くて目を開けるのも億劫で……えっ?
「わたし、生き……てる?」
「あら、目を覚まされたのですわね! なーんさん、お客様の上をどいてくださいまし」
「なんなん」
わたしががばっ、と体を起こすとそこは知らない部屋だった。明らかに豪華な彫琢品が無造作に机の上に置かれていたり、わたしが眠っていたと思われるベッドもはじまりの町の宿屋とは比べ物にならまい質の高さだった。それはまるで王族の部屋のようで。
わたしの上に乗っていたあの猫が部屋に居合わせた女性の肩の上に移動するとその女性がこちらに向き直り笑顔で告げる。
「ようこそお客様、ここは魔王城ですわ! どうかごゆっくりして下さいまし!」
……どうやらわたしは、猫を追ってとんでもない場所に迷い込んでしまったようだった。