完全な無の世界に、真紅のパルスが迸る。
極小の空間は瞬く間に押し広げられ、散逸していた自己が再び、寄り集まる。
コーラルの見せる幻覚。
潮流の中に、自己を認める。
あれから、どれだけの時が経ったのだろうか。
最後に引鉄を引けなかったのは、おそらく、俺の甘さだ。
俺は、結局、何ひとつ果たすことは出来なかった。
友人達の使命も。
621を、自由にしてやることも。
このコーラルの焼き付いた身体では、何も。
何ひとつ、果たすことは叶わなかった。
そうだ。私は、死んだのだ。
《何処までも独り善がりな男だ。本当に何ひとつ変わっていない。…ハンドラー・ウォルター》
聞き覚えのある声が、忘れもしない男の声が、頭に響く。
コーラルの優渥な熱が、虚空に広がってゆく。
この感覚には、覚えがあった。
「…今更もう遅い。俺も、貴様も、もはや死人の身だ」
《申開きのつもりなら、余りに児戯だぞ? 永遠にここに留まるつもりでいるというのか》
「この高次意識の集積地に、貴様と共に"居る"…それ以上に、何がある」
《それは違う、お前の自我は。この不活性コーラルの潮流にあって…お前は未だ"向こう側"にいる》
「何を…」
《平易な言い方をすれば、お前はまだ生きているということだ》
コーラルの熱が、高まってゆく。
身体が炙られるようだ。
もう、失ったというのに。
《ちょうどいい機会だ、教えてやろう。この星の今の姿をな》
「何…」
《見るがいい。お前の犬が選んだものの、成れの果てだ》
ルビコン3は、
大地から立ち昇る紅い火柱は、おそらく宇宙空間にまで達している。
《コーラル焼却塔だ。共存を選んだルビコニアン達の、健気な悪足掻きの一端だ》
火柱は、一本ではない。
《お前には分かるだろう。分かってしまうだろうな…くくく》
地平線の向こうには、赫赫と燃える真紅の火柱が、無数に聳えていた。
《オーバーシアーの、ハンドラー・ウォルター…》
子供の頃、いつか見た空は、今のような色をしていた。
アイビスの火が起きる前の、技研都市の空だ。
飽和したコーラル。破滅の前兆。
「…あんなもので、コーラルの増殖は抑えられない。…抑えられるはずがない」
「塔」は何十年も前に、棄てられた方法のひとつに過ぎない。
車輪の再発明、いや、それ以上に意味の無い…悪足掻きだ。
《お前の犬は…とんだ裏切りを遂げたようだな。知識もなく、膠着した警句を闇雲に追いかける。そこに待つのは、ただ破滅に他ならない》
「…黙れ」
《人とコーラル…共に生きるというのは、余りに遠い道だ。あるいは過去ならば、また別の方法も取り得たかもしれんが》
「……」
《いずれにせよ…賽は投げられなかった。ルビコンの解放など、所詮はこの程度が関の山だ》
「…何が言いたい」
《…HAL 826のコクピットには、まだ残っているんだぞ?》
「何を……くっ…!?」
身体の内側が、灼けるように痛む。
無いはずなのに。失ったはずなのに。
《…わかるか、ハンドラー。これがお前の使役していたものの…本当の姿だ》
耳鳴りがする。身体が重い。
重みを感じる。
自分がそこにある、という感覚だ。
魂だけの世界ではない。
肉体という、回帰すべき場所がある。
そうである、べきなのに。
《企業に弄くり回されたお前の身体は、あの戦いを越えて、なお死んではいない。コーラルジェネレーターからの電力供給は、お前の人工心肺を未だに駆動させつづている》
…何だ、この抵抗は。
向こうに戻るべきなのに。
俺は、どこかで忌避している。
再び、生きることを。
生きなければならないということを。
《血液に溶けたナノマシンは、傷付いたお前の身体を修復し続ける。脳髄に焼きついたコーラルは、こうして"私"というCパルス変異波形とのリンケージを築き上げる》
今再び、機会が与えられようとしている。
友人達から引き継いだ使命、コーラル焼滅の道。
再び生きるということは、否応なく、もう一度使命と向き合うということを意味する。
一度失敗した身で、猶予も無く。
そんな漠然とした閉塞感が、俺に逃げ道を提示する。
もういいのではないか、と。
それは甘苦な罠だ。
諦めを受け入れるのは容易い。
だが受け入れれば、それもまた俺を苦しめる。
俺の中に残ったものは、そういったものしかない。
…いや。違う。
ふと、思い出す。
それはまるで、差し伸べられた天使の手だった。
もし621に、逢えるなら。
許しを求めているわけではない。
だが、もし叶うのならば。
もう一度だけ、会わせてほしい。
この期に及んで、そんなことを考えてしまう。やはり、俺は甘いのだろう。
《強化人間C11-002 ハンドラー・ウォルター。それが今のお前だ》
…奇妙な感情だ。
自分でも、整理がつかない。
高揚しているのか、俺は。
「…スッラ」
《お前には、意味が必要だろう。これは死人からの恨み言だがな。生きるべき者は、生きろ》
乾いた瞼を開く。
そこには、ACのコクピットが広がっていた。
割れたモニタが、見開かれた相貌の、紅い輝きを照り返す。
《そうだ。そうでなくては、私が殺された意味がない…くくく》
「…メインシステム、再起動」