「ちょっと待って。誰、東郷琴音って」
「もれなく秋山琴音のことだ。まあ、話を最後まで聞け」
希望が早速話を中断させたことに若葉は眉に皺を寄せた。確かにこれから聞いておけばその理由もわかるのだから遮る必要はない。希望は佇まいを直し、改めてその話に聞き入った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
若葉と琴音が初めて出会ったのは小学1年生の冬だった。
「東郷、琴音……」
涙で濡れた目頭を強く擦り、真っ赤に腫れた目で琴音と名乗った少女は若葉のことを見た。声は震えており、幼い若葉でも琴音という目の前の少女が何か辛い目にあっていると言うことはすぐに理解できた。
「何があったんだ?」
そう問う若葉に、琴音は首を横に振った。何もない。そう言わんばかりの勢い。どう見たって何かあったと言うのに琴音は一向にそれを認めようとはしない。
それどころか今にもこの場から走り去ってしまいそうであった。そんなふうに思ったからかもしれない。若葉は衝動の向くままに琴音の手を掴んだ。突然手を掴まれた琴音は驚きのあまりその手を振り解く。
「もとからそう言うつもりで……」
その目は警戒心に満ちていた。何人も信じない。周りは皆敵だと言わんばかりだ。
「違う。私は、本当にお前…東郷さんの事が心配になったから声をかけただけだ」
「最初、みんなそう言ってた。けど、みんな私を酷い目にあわす…。私は…あなたも…既に嫌い……」
明確な敵意を向けられ、若葉は言葉に詰まった。何を言っても信じてもらえないだろうと思ったから。
「わかった…。今日のところは私が引こう。見る感じ、同じ学年だろうしまた会うこともあるだろう」
若葉が諦めて背を向けた時、琴音がボソリと呟いたのを若葉は聞き逃さなかった。
「…私が何かされてても…見て見ぬふり…した方がいいよ…」
「それはどういう…」
若葉が振り向いてその意味を聞こうとしたが、琴音の姿は既に目の前からいなくなっていた。
そんなことがあった次の日から若葉は自然と目で東郷琴音のことを探すようになっていた。なぜ琴音のことを気にかけてしまうかはわからない。それが不思議だから、その理由も若葉は知りたかった。
幼い若葉の好奇心は東郷琴音という1人の人物に向かって行った。
だが、それから2ヶ月近く若葉が琴音の姿を見ることはなかった。
若葉と琴音が再開したのは小学2年生の頃だった。
「あ」
「………」
2人が再会することができたのは単純にクラスが一緒になったからだ。新学期。クラス発表の貼り紙の前でばったりと出会した。それは運命的なものであったと今の若葉は思う。
「あら。お二人ともお知り合いだったんですか?」
2人の不思議な繋がりに若葉の隣にいたひなたは首を傾げた。なんと説明したものかと若葉が悩んでいると、琴音は背を向けてスタスタと廊下を歩いて行ってしまった。
「確かあの人は…」
「知ってるのか?ひなた」
「はい。けど、良い方ではありませんが」
「どう言うことだ?」
「私もよくわからないんですが『いんらん』?らしいですよ」
「はあ?なんだそれは」
「私も意味がわからないので使いはしませんが…。まあ、言っては行けない言葉ってのはわかります」
ひなた同様に初めてその言葉を聞いた若葉も恐らくその言葉はいい意味ではないと言うのは勘づいていた。だが、何故あの東郷琴音と言う人物がそんな言葉を言われなければならないのか。若葉は更に一歩、琴音に踏み込む決意をこの時固めたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ここまで話、若葉は一息ついた。やはり、まだ話すだけで身体の内側が痛む。腕のあたりに走る鈍痛に顔を歪めた。
「あ、ごめん。冷静に考えたら若ちゃん……」
「いや気にするな。ただ、寒いから一度部屋には戻らせて欲しい」
「わがままだな〜。さっきは自分で外に出たいって言ってたのに」
「なんだか希望は琴音に似てきたか?」
「それ琴音にも言われた」
どの辺が似てきたのかと聞かれれば希望自身も大体のところは気がついていた。
若葉に肩を貸して、広場から無事ベッドまで運び終わると希望はベッドの近くまで椅子を持ってきてそこに腰掛ける。
「すまない。助かった」
「いえいえ。それで、話の続きお願いしたいな」
言われずとも。と若葉は頷き再び琴音の過去を話し始めた。きっとこの流れで最後まで話してくれるだろうと。希望はそう思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
小学2年生にもなると段々と『そういった問題』が顕著に表舞台に出始める。琴音は若葉たちの学年におけるその問題の最初の被害者であるとも言えた。
小学1年生の頃は無意識でしていた行動は2年生にもなってくると意図的なものへと変化していく。
若葉とひなたの目にもその変化はありありと映り込む事となった。
「また今日も学校きてるじゃん」
「あいつの親、なんかやばいらしいぜ」
「キモいよね」
クラスメイトから向けられるその言葉の数々に琴音は一切の反応を示さなかった。と言うより、きっと示してしまったら現実だと気がついてしまうから敢えて聞かないふりをしているように見えた。
反応を示さない。これがこの時の琴音の唯一の処世術だった。
それよりも若葉が首を傾げたのはクラスメイト達の発言の数々だ。なぜ、よくわかりもしない事で人を傷つけるのかわからない
「東郷さん」
若葉はクラスが同じになってから約2週間は言われた通りに静観を貫いていた。だが、遂に我慢ならなくなって帰り際に琴音に声をかけた。
「…乃木…さん」
「一緒に帰らないか?方向も一緒なのだろう?」
「私も一緒させてもらえませんか?」
「上里…さんまで……」
琴音は相変わらず警戒の目を向けた。けど、以前ほどではないように見えたのは若葉の気のせいではあるまい。
「私に…近づかない方が…いい……」
それでも視線を逸らして1人、前をどんどんと歩いて行ってしまう。思いの外速い琴音のスピードに、若葉とひなたも早足で追いつく。
「な、なんでついてくる!?」
「近づかない方が良いと言われたら近づきたくなるのが私たちなんです」
微笑みながらそう言うひなたを見る琴音の目はまさしく変態を見る目をしていた。
「……好きにすれば…」
「それならそうさせてもらおう」
その日から若葉とひなたは琴音に声をかけるようになった。まずは帰り道から。そして次は教室へとステップアップしていくようにして3人は関係性を深めて行った。
ゴールデンウィークをすぎる頃には琴音にとって若葉とひなただけが、唯一心を許せる人となっていた。
若葉とひなたは、休みの日に招かれた若葉の家で琴音からなぜ自分がこんな事になっているのかを聞いた。
「りこん?」
「うん。…私は、よくわからないけど…。お母さんが…悪いことをして……それが近所に広まっちゃった…みたい……」
その『りこん』と言うものが何故琴音を虐げる理由になるかはわからない。だがきっと、大人たちにしてみればその『りこん』と言うのは酷く聞こえが悪いものだというのは理解できた。
「大丈夫ですよ。琴音さん。私と若葉ちゃんはそんなことまったく気にしにませんから。若葉ちゃんも友達が少ないので是非とも友達になってあげてください」
「ひ、ひなた!?別に私は友達がいないわけではなくてだなーーー」
「ぷっ。あははははははは!」
2人のやりとりに琴音は腹が捩れるのではないかと言うくらいに笑った。ここまではっきりとした表情を見せるのはこれが初めてのことで、若葉とひなたは顔を見合わせると互いに喜びの気持ちが奥底から湧き上がった。
「私、2人だけは信じて良かった」
辛い思いをし続けていた琴音にとって、若葉とひなたは一筋の光だった。同時に若葉とひなたにとっても琴音はいてくれないと困る存在となって行ったのは事実だった。
だが、それを見ていて気に食わない人が現れた。若葉はなんだか最近後ろ指をよく刺されていると感じる時が多かった。最初はただの勘違いだと思っていた。
ーーーー事件は夏休み前に起きた。
若葉の上靴が無くなったのだ。
「……おはよう」
若葉が理解が追いつかず、靴箱を眺めているところに琴音が登校してくる。琴音は挨拶をしても返してくれない若葉の顔を覗き込んだ。
若葉は反射で靴箱の扉を閉める。それがやはり違和感に感じたのか、琴音が眉を顰めた。そして無言で若葉の靴箱を開ける。
しばしの沈黙の後、琴音は短く「…そう…」とだけ漏らすと、その場を離れて行った。若葉は嫌な予感がしたが、何故かその場から動けなくなっていた。
それから少しして、立ち尽くす若葉に何やらひなたが慌てた様子で走ってきた。
「若葉ちゃん!こ、琴音さんが」
「琴音がどうかしたのか?」
「その、口論の末殴られて……」
それを聞いた瞬間、若葉は呪縛が解けたように身体が軽くなり、教室へと走った。若葉が教室に着く頃には、教室全体が暗くどんよりとした空気感に押しつぶされそうになっていた。
担任の教師が一体何があったのかを、恐らく加害者側であろうクラスメイトに尋ねている。
(なぜ琴音ではないんだ…。琴音は多分、私のために…)
まだ詳しいことはわからない。だが、若葉には確信があった。
琴音は自分のために怒ってくれたのだと。
「乃木さん。東郷さんがあなたの上靴を盗んだと言うのは本当?」
「な、何を言ってるんだ!琴音は何も…」
「だけど、東郷さんのロッカーからあなたの上靴が見つかって。東郷さんはそれがバレたから殴ったんじゃないかって言ってるんだけど」
「そんなはずはないです。琴音、何か言ってくれ」
若葉は琴音の肩を掴んでせめて無実を証明してくれと頼み込んだ。だが、琴音は諦めた様子で吐き捨てるようにして言った。
「私の言うことは…基本…信じてもらえないから……。言っても無駄」
その一言はあまりにもこれまでの琴音の人生を色濃く反映したものに聞こえた。本来、平等的立場であるべき教師にすら信じてもらえていない。
冷静に考えて、琴音の両親のことが何故ここまで琴音本人に影響を与えるのか。それすらも意味がわからない。理不尽だと思った。
(誰も信じてくれない。琴音はそう言った。だけど、まだこの場には琴音を信じる者が2人いるではないか)
それは紛れもなく若葉とひなただった。
「私たちを信じて良かったとお前は言ってくれたではないか」
「……」
「私はそれを聞いた時嬉しかった。私もお前を信じる。だから言ってくれ。本当のことを」
若葉が小さく微笑みかけると、琴音の目にも力が戻る。そして琴音は真っ直ぐと自信を持った目で若葉を見た。
「……私はやってない」
これが琴音の世界への初めての叛逆だった。まだ怖いのか、足が少し震えていた。
「叩かれたのだって……。私は…やってないって…言おうとした…だけ…。なのに……」
「もういい。琴音。充分だ」
若葉は担任教師へと向き直る。
「琴音はやっていません。せめて先生が大人であると言うのなら、正しい判断をお願いします」
幼い子供にそう言われてしまえば、大人である教師も立場を考えたのか頷いた。多分、後々適当なことをして厄介な事になるのを避けたかったのだろう。事実、この担任は今まで琴音のことに関して無関心を貫いていた。きっと若葉が関わらなければまともに対処もしようとしなかったに違いない。若葉とひなたはその担任の後ろ姿を白い目で眺めていると、その間に琴音と例のクラスメイトは職員室へと呼ばれ姿を教室から消した。
「ねえ。乃木さん」
「どうした?」
クラスメイトに声をかけられ、若葉はそちらを向く。
「どうして東郷さんを信じたの?だってあの子の家って『いんらん』でしかも『きちがい』なんでしょ?」
若葉は純粋な目をしてそう言うクラスメイトに少しばかり苛立ちを感じた。そういった噂に振り回されない若葉の両親はとてもまともだと。今ならそう思えた。
「あなたはその意味をわかって言ってるのか?」
「ううん。みんな言ってるから」
「なら、やめたほうがいい。意味もわからず使って、おまけに人を攻撃するのは弱い人がすることだ」
若葉のその一言はそのクラスメイトを無言にさせる。そのままクラスメイトは友達の輪にまた入り込むとまたコソコソと何やら話し始めた。
その様子に若葉は口の中だけで呟いた。
人はそう簡単には変われないーーーー。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
結局一連の事件は琴音を嵌めようとしたクラスメイトへの厳重注意だけで幕を閉じた。
琴音の保護者。父親があまりこういったことに関心がないのを良いことに揉み消したとも言える。そんな父親でも、琴音は尊敬していると言うのだから不思議なものだと若葉は感じた。
事件がひと段落した頃には若葉たちは夏休みに入っていた。若葉とひなた。琴音はひなたの両親に連れられてプールに来ていた。
遊びを満喫する中、若葉とひなたは琴音にアドバイスをしていた。
「らっかんてき?」
「はい。なんでもそう言う言葉があるみたいですよ」
「簡単に言うと何も考えずに、物事を緩く見ることらしい。今の琴音はひかんてき。と言うらしいぞ」
「難しい言葉…知ってるね」
「それほどでもない」
若葉は昨日ひなたに言われて調べただけにすぎないが、褒められたので胸をはった。
「それでだ。琴音は楽観的でいた方が楽なのではないか?」
「……無理だよ。私は…まだ…。誰も信じられないし、どの人も怖い」
「今すぐにとは言いませんし、押し付けようとも思いません。ただ、そう言う考えもあると言うことです」
「……なんか、ひなたちゃん。すごい頭いいこというね」
「それほどでもありません」
ひなたは昨日若葉となんと琴音に伝えようかを必死になって、親にもアドバイスをもらって今こうして話している。だが、褒められたのでひなたは胸をはった。
「……そんなふうに…生活できるようになれば…いいね…」
そんな未来を思い描いたのか琴音が小さく笑うと、ひなたはその手をガシッと握った。
「なります!」
「そ、そう?」
「あぁ。もしかしたらそのために私たちは出会ったんだ。いいように使ってくれ」
「…い、嫌だよ…。友達を使うのは…。けど、ありがとう…。すごく嬉しい」
琴音はまた小さく笑うと、ギュッと胸の前に手を置いた。
「私、頑張ってみる。それに…私……。若葉ちゃんたちみたいに…強くなりたい……。誰かを守れて…星のように誰かを導ける……希望に…」
なれるかな。自信なさげに首を傾げた琴音に2人は力強く頷いた。
「はい!私たちも協力します!」
その日から琴音は変わった。別に友達を増やしたわけでもない。だが、これまでのように物事全てを悲観的に捉えることはなくなった。
しかし、若葉には一つだけ悩ましいことがあった。
本当に琴音は『楽観的』になって良かったのだろうか、と。本人が自ら望んだこととはいえ、余計な事を言ったのではないかと気になってならなかったのだ。
それでも琴音の日に日に増える笑顔と、豊かな表情を見れば間違いではなかったとも思えた。若葉は、この問いを自らの奥底へと仕舞い込んだのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「そんなことがあったんだ。……けど、ありがとう。私気がついたことあるわ」
「聞いてもいいか?」
「うん。実は今、琴音すごく悩んでるって言ったよね。楽観的だったらそんな風には考えないから。自分1人で抱え込んで、悩み続けるのが本来の琴音なんだね」
希望は話の途中から気づいていた。琴音のあの性格は、本来からのものではない。後から誰かから与えられ付与されたものだと。
「色々合点が行ったよ。あ、でも。一個わからないことがあって」
「名字か?」
「うん。今は秋山だけど昔は東郷だったんだ」
「それはそれでちょっと不思議な理由ではあるんだが」
「ふむふむ?」
「途中で琴音は名字を変えたんだ。自分は父親の右腕になるんだーって。日本海海戦はわかるか?」
「もちろん。あー、そゆこと……」
「それだけの理由だ」
歴史好きな希望にはすぐにどう言う意味か理解がいった。日本海海戦でロシアの艦隊を打ち破った東郷平八郎にとある戦術を取らせた参謀。秋山真之から取っているのだろう。
そんな簡単に名字は変えられるものなのだろうか。と希望は更なる疑問を持ったが、琴音の父親は多くのとんでもない人と繋がりを持っているそうなので案外すんなりと通ったのかもしれないと自分を納得させた。
一通りの話を終え、若葉は一息つく。
「私も…考えなければな……」
若葉も宿題を出されたばかりだった。しかも、それが解けなければ恐らく、今後とも勇者たちと上手くやるのは不可能だと若葉も感じている。
若葉な改めて目を瞑って、答えを探そうとした。
そんな時だった。
「人の話をよくもまあそんな簡単に話せるね」
「琴音!?」
「やあやあ。どうも。東郷琴音ですとも」
聞き覚えのある声に若葉と希望が扉の方を振り向く。
そこにはいつもとは異なる雰囲気の琴音が立っていたのだった。