希望の家は、あの日を境に時が止まっていた。まだあの時までは、この家では暖かな物語が明日に向けて真っ直ぐに進んでいたことだろう。
真っ直ぐ進むべき明日が、バーテックスと言うイレギュラーによって分岐した。運命とはわからないものである。
「吾妻さんは…ここになにを…取りに来たのかしら」
「あれしかないでしょ」
希望がこの家に戻ってきた理由。私と千景さんが他の部屋を見て回るころには、希望がその理由を持って戻ってきた。
「やっぱりね」
「この先、どうなるかわからないけど……。これだけはどうしても取り戻したかったんだ」
そう言って大事そうに抱えていたのは、希望のフルートだった。そのフルートは2年ぶりに主人と再開したからか、それまで気力を失っていたというのに今では銀色に燦々とその姿を輝かせている。
「あとは良かった?」
「うん。……ごめん、私のわがままに付き合わせて」
希望が頭を下げた、その時だった。
希望は窓に背を向けていたからわからなかったのか、それとも別のことに気を取られてその存在を探知できなかったのか。
そこの過程はどうでも良い。
バーテックスが、私たち目掛けて建物の壁などそもそもなかったかのようにその身体を突入させた。
破砕音が私たちの鼓膜を揺さぶる。爆発にも似た音の中、私は必死に希望に手を伸ばした。
「!?」
「希望!危ない!」
「……このっ!!」
なんとか私が希望を抱き抱えて真後ろに飛び退った所をカバーするように、千景さんが前に飛び出した。
奇襲、尚且つ狭い屋内。これだけの悪条件の中でも咄嗟の判断による完璧な連携。それでも奇襲をくらった事に対して全て対応できるはずもないのが必常。
「くっ!」
「っ!希望!」
私の胸の中で希望が苦痛に呻く。
希望の右手には、深々と窓ガラスの一片が突き刺さっていた。
それに視線が奪われたのも一瞬。次々に事態は悪転していく。
「チカちゃん!そのまま飛び降りれる!?」
「………無理ね」
「いや、でも。勇者の私たちならーーーーー」
出来なくない。そう言おうと思って千景さんの隣に並んで、突入してきたバーテックスを撃破し、破壊された場所の端から階下を見下ろす。
「どこから湧いてきた?あいつら」
思わず口の端が引き攣ってしまった。いかんせん、バーテックスがうじゃうじゃと私たちの足元に集まってきているのだから。
気持ち悪い。そんな可愛い感想を言えたら私の『楽天家』と言う気質も極まれりと言ったところ。軽口でも「こんなの余裕だよ」とは少なくとも言えない状況だった。
「どうしよね」
「…乃木さん達の…助けを待つしかない…わね…」
「でも、多分この状況。若葉ちゃん達も気づいてないと思う」
今頃あの梅田の地下を調査している若葉ちゃん達に、地表の私たちの状況が伝わるとは思えない。
状況は絶望的。かくなる上はーーーーー。
「駄目、琴音」
私が切り札を使おうとした矢先、希望の血に塗れた右手が私の手に触れた。
「ははは。感覚ないのに、動くもんじゃん」
「希望?」
「手の神経持ってかれたみたい。そんなことはどうでも良いんだよ」
どうでもよくないわけがない。そんな言葉が口を吐きかけたのを、希望は遮った。
「絶対に切り札だけはダメ!」
私が見たことがないほどに必死な表情で止められるものだから、無意識のうちに切り札を使用する。という突破方法を捨てた。
希望をこのまま治療もせずに置いておくわけにも行かない。
となればどうするか。結果的に言えば、若葉ちゃんの判断は正しかった。利用する手はない。
「チカちゃん、希望のこと任せた」
「……まさか、貴女」
「簡単な話だよ。飛び込んで、一気に殲滅してくる」
私は抱いていた希望を壁に預けると、有無を言わせぬ前に崩壊したベランダからバーテックスの群衆へと飛び込んだ。
5階と言う高さは、高いようで思ったよりは高くない。そんなことをぼんやりと考えながら、私は無心で【倶利伽羅剣】を鞘から引き抜いた。
バーテックスは多くて30近く。無謀にもほどがある。
だけども、やらねばならぬ時は誰にでもある。それが私は人より少し多いだけ。
まず一刀のもとに6体切り伏せた。そこにできた狭い空間の中がこれからの私の戦場。
生きるも死ぬも神のみぞ知る。とはよく言ったものだ。身体中を覆う生命を脅かす危機感。それが今の私には、心地よい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何事も備えあれば憂いなし。と遥か昔に言った人は尊敬に値すると思うことが今日以上にあるだろうか。いや、ない。
梅田の地下に入る前、杏は若葉に一つ作戦を伝えていた。
「若葉さん。1人か2人、琴音さん達を見張れる人を置いておきませんか?」
「理由を聞いてもいいか」
「バーテックスの動きが少なすぎる気がします。バーテックスには知性があると琴音さんは良く言っていました。私もそれには同意見です」
「……バーテックス達が琴音達を襲う可能性があると」
「はい。偶然とは言え、私たちは琴音さん達から離れてしまいました。バーテックスにとって、今1番邪魔なのは秋山琴音と言う存在です。乃木若葉と言う勇者以上にその存在を恐れている可能性は大です」
バーテックスからしてみれば、琴音1人にどれほどまでの辛酸を舐めさせられてきたろうか。
仮にそれを共有しているとするならば、バーテックスはここぞとばかりに秋山琴音を狩りに来る。
「本当に可能性としては万に一つです。ですが、対策しておくに越したことはないと思います」
杏の説明を珍しく真面目な顔で聞いていた球子は、手を挙げて自らその役目を引き受けた。
「タマがここに残る。あの3人が行った方向に異変があったら連絡すれば良いんだな」
「タマッチ先輩……」
1人でここに残ると言うことは相当のリスクを伴う。それを理解した上で、球子は手を上げたのだった。
その覚悟を無駄にするわけにもいかず、若葉は杏の助言通り球子を地下道への出入り口に待機させることにした。
と言うのがわずか5分前の話。しかし、予想以上の速さで事態は急転した。まだ若葉達は地下街に入って100メートルと進んでいない。
そんな時に監視をしていた球子から連絡が入ったのである。
『若葉!聞こえるか!』
「ああ、聞こえる」
『今すぐに戻ってきてくれ!バーテックスのやつら、タマを無視して3人のところに向かってやがる!』
それから若葉達は状況を逐一聞き出す前に駆け出していた。来るまでに5分間かかっていた100メートルを3秒で駆け抜ける。
「友奈、ひなたを任せた!杏は友奈と共に後から来い!球子は私に続け!」
地表に飛び出した若葉はひなたの護衛を友奈に託し、その勢いのまま自らの身体に精霊を宿した。
かつての自分本位の暴走ではない。仲間を救うための暴走という手段を、若葉は取ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
荒廃した世界で踊る一つの人影。わたしの目には、それはどうにもこの世界には見合わない美しいものに見えた。
感覚のなくなってしまった右手が力なく、その存在に手を伸ばそうとするがそれは叶わない。
いつまでも届かない。届かせなければいけないのに、わたしは置いてかれるばかりだ。いつもそう。気づいたら、みんなわたしの手の内から零れ落ちている。
(わたしが琴音に必死な理由は…きっとこれだ……)
今度こそわたしも、大切だと思った者を失いたくない。だと言うのに、その失いたくない人は誰よりも無茶をする。
自分の才能を知るうちに、誰よりも犠牲になることを望み始めた。
あまりにも酷い矛盾だと思わないか?と思いながら、わたしは棚の上に埃を被った家族写真をみる。
「ねえ、千景ちゃん。この世界ってかなーり残酷だと思わない?」
応急処置を施しながら千景ちゃんは無言でわたしをジッと見つめたあと、「…そうね」と首を縦に振った。
そんなに可哀想なものを見る目でわたしを見ないでおくれよ。そう笑い飛ばすことができたら、わたしはまだ元気だ。そこまで憐れまれて仕舞えばわたしだってもうダメと言うことも理解する。
「もうこれやと、フルート吹けへんな……」
「吾妻さん……」
自分に対して鼻で笑う。わがままを言って、油断して。挙げ句の果てに自分が生きる理由であった特技すら失った。
琴音に対して気が抜けている。なんて言ったのが今では懐かしく、あまりにも馬鹿らしい。
「…秋山さん……!」
「えっ…」
自分のことで精一杯になっていたわたしとは違い、千景ちゃんはずっと琴音の身を案じていた。今思えば、わたしに応急処置を施した時以外、千景ちゃんは琴音から視線を外していなかった。
つられて琴音の方に視線を向けると、琴音はーーーーーー。
「うそ、」
琴音を包囲していた2体のバーテックスがその口を大きく開け、遂に仕留めにかかる。琴音は、それに気づいていない。
一瞬の逡巡。わたしを置いて、千景ちゃんが飛び出そうとしたところでーーーー。
絶望を照らす稲妻が飛来した。
「……なに、今の」
千景ちゃんは視線だけでその神速で駆けるものを追う。
その稲妻はバーテックスの上を飛ぶように移動した。それはかつての英雄。源義経の八艘飛びを彷彿させた。
八艘飛びとは、源義経が源平合戦最後の戦い。壇ノ浦の戦いで見せた、海に浮かぶ船から船へと跳躍して瞬く間に敵を倒したという実に神技と言うに等しいものである。
重力など気にしないと言わんばかりの動きをみせる『それ』は琴音を包囲していたバーテックスを次々に討ち滅ぼす。
そしてわたし達を包囲していたバーテックスは一瞬のうちにその姿をこの世から消したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「ははは!ははははははは!」
食らえ狂え。共に踊りましょう。協奏曲を奏でるのはバーテックス。あくまでこのステージの主役は私。踊り狂って自分が誰なのかを忘れることなど厭わない。
出鱈目なステップ。流れる曲は不協和音。これほどまでに酷いステージはこの世に二つとないに違いないだろう。
込み上げる笑いはもれなく私のものだ。不協和音の出所。それは私の笑い声とバーテックスの悲鳴。その音すら、心地よい。この快楽に身を包まれてしまっても構わない。
「その程度で私に勝てるとでも、思ったか!!」
一度味わった敗北の味は今でも忘れていない。あの痛み、苦しみ。私の左眼の古傷は思い出すだけでジクジクと痛みを伴う。それと同時に身体中に刻まれた過去の傷も痛む。
その痛みは私の脳のアドレナリン分布をさらに加速させた。その痛みも最早自分を動かすためのエネルギー。
おかしいとわかっている。希望に相談すべきだということも既に知っている。けれども、この感覚を手放すのがとても惜しい。
どれほどその狂気に取り込まれ続けたかはわからない。だが、そんな私を正気に引き戻す一筋の閃光が私の視界を覆った。
「誰だ、私の邪魔をするのは!!」
敵を殺す快楽を阻害された事による苛立ち。私の目にははっきりとその存在が映っている。
若葉ちゃんは人では到達し得ない速度を持ってして、私を包囲していたバーテックスを全て打ち滅ぼした。実に、わずか15秒程度のことである。
その実に15秒の間に、私を高揚させていた感情は落ち着きを取り戻し、果てにはこれまで感じていなかった恐怖を心の底から湧き上がらせ、膝から崩れ落ちさせた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
何度も何度も浅い呼吸を繰り返す。脳が酸素を求めて必死に血液を全身へと巡らせた。
ぼんやりとした視界が鮮明になる時には、若葉ちゃんは私の目の前に立っていた。その勇者装束を風に靡かせ、私を見下ろしている。
「若葉ちゃん…来てくれたんだ」
「杏の作戦のおかげだな」
さっきのは何?と聞く前に私の頬に強い衝撃が伝わった。
その部分を触るとなんだかヒリヒリと痛んだ。なんだか私、最近良くこうされるなあ。と言う場違いな感想すら浮かぶ。
「そんなに死にたいか!」
「そう見える?私が?」
「ああ、少なくとも私にはな。もう少し方法だってあっただろう!どうしてお前はそこまでして自分を蔑ろにする!」
次の瞬間、私と若葉ちゃんの距離が異様なまでに近づいた。ぼんやりとした頭では胸ぐらを掴まれたのだと気づくのに時間を要してしまう。
私が答えに窮している所にタイミング悪く希望を抱えた千景さんが降りてきた。腕を負傷した希望を見た後、若葉ちゃんの形相は一層恐ろしくなった。
「希望を守るのが琴音の役目だったはずだ。それすらも守れなかったのか」
「違うよ!若ちゃん!これは、私が悪いの。琴音は悪くない」
千景さんに支えられながら希望は私と若葉ちゃんの間に割って入る。
それで冷静になった若葉ちゃんは私を掴んでいた手の力を緩めた。
「……すまない。こんな事をしたかったわけではないんだ…」
「あはは。謝らないで。私が馬鹿なだけで、若葉ちゃんはなに一つ間違ったこと言ってない」
私がまた愛想笑いを浮かべると、若葉ちゃんはそれが心底嫌だ。と言わんばかりに顔を顰めた。
若葉ちゃんがそんな表情をするのがとても珍しかったから、私はしばらく若葉ちゃんの顔を凝視してしまう。
「どうしてそんな顔してるの?」
「なんでもない。希望、怪我の具合は」
若葉ちゃんは私の問いにまともには答えず、希望の方に向かった。そんなやり取りの終わった頃に残党を片付け終えた杏ちゃん、タマちゃん、友奈ちゃん、ひなたちゃんが遅れてやってくる。
「琴音さん、無事ですか?」
「…………私は、ね」
ひなたちゃんにそう答えつつ、私の視線は希望だけに向いている。
希望は大丈夫だから。なんて無理に笑顔を作りながら若葉ちゃんと杏ちゃんに容態を聞かれていた。
「…調査は…ここまでですね……」
ひなたちゃんによってボソリと呟かれたその一言は、この調査が中断されることとなることを示していた。
だけど、本当にそれでいいのかとも思う。まだ2日目だ。見つけなければならないはずなものを、何一つ見つけられていない。
希望も自分のせいで無駄足になるなんて結果、望まないはずだ。だからこそ、私が取る方法は一つ。
「ひなたちゃん」
「どうしましたか?」
「希望は私が連れて帰る。だからみんなはーーーー」
「無茶です。いくらなんでもそれは」
ひなたちゃんは決してそれは出来ません。と首を横に振って頑なに譲らない。
「琴音さんは自分の言ってる意味がわかってるんですか」
「わかってないように見える?」
「はい。私の目には琴音さんは何もわかってないように見えます」
向けられる視線は戸惑いに満ちていた。先程の若葉ちゃんと言い、ひなたちゃんと言い、どうして私をそんな目で見るのだろうか。
若葉ちゃんとひなたちゃんだけには、私を遠くに置くような視線を向けてほしくはなかった。
「……諏訪は目指さない?」
「はい。こうなってしまった以上は」
「そっか……」
もしかしたら私は希望がここに来るという選択肢を最初から潰しておかなければならなかったのではないだろうか。
そんな考えが頭から離れなくなり始め、それを振り切るために私は自分の身体の調子が戻ったのを確認した後、希望に駆け寄る。
「傷口はどうなってる?」
「かなり深い。だが、止血は出来たからひとまずは大丈夫だ」
希望ではなく若葉ちゃんが答える。若葉ちゃんは私を見てはくれなかった。後ろ姿だけでわかる。若葉ちゃんは怒っている。一体何が若葉ちゃんの琴線に触れているのかわからない。こんなこと初めてで、私は若葉ちゃんの背中に聞いた。
返ってきた返答は、私の喉を詰まらせる。
「……琴音。お前は、わかったふりばかりだ。かつての私をお前が許容出来なかったように、今の私はお前を許容出来ない」
ひなたちゃんと似たようなことを言う若葉ちゃん。タマちゃんや友奈ちゃん、杏ちゃん、千景さんは特になんとも思ってない所を見るに、昔からの繋がりのある若葉ちゃんとひなたちゃんにしか感じぬことがあるのだろう。
若葉ちゃんは言った。私は自分の命を軽く見過ぎだと。だとしたら、若葉ちゃんは間違っている。今の私ほど自分の命を重く見て、楽天的に誰かのための死に方を用意している人間などいない。自分の命が大事だからこそ、散らす時と場所は誰か…。今で言うなれば希望のためでなければならないのだ。
「若葉ちゃんが思ってるほど、私は自分の命軽く見てないよ」
私の言葉が聞こえたかどうかはわからない。若葉ちゃんは一言、「そうか」とだけ呟いたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから四国への総員撤退の判断は若葉ちゃんの手によって即刻なされた。それに私や希望が何か意見をすることは許されなかった。
希望は終始、自分の失態を責めるかのように無言だった。抱きかかえていた私の胸に顔を埋めていたのも私は見てみぬフリをした。
四国に辿り着いてから、希望はすぐさま病院へと運ばれ手術をする運びとなった。
巫女が怪我をした。と言うのは大社的にも相当ショッキングな事件らしい。これを境に、巫女は今後勇者の活動には協力しない。と言うのが通例になりそうと言うのが私の今の考えである。
希望の手術が分厚い壁の向こうで執り行われている。その成功を祈りながら、私は冷たい空気の廊下でひたすらに待っていた。
赤く光る手術中の文字。なんだかそれだけでやけに大事のように感じられた。いや、まあ。大事ではあるんだけれども……。
(微妙にまだ信じられないんだよね……)
数時間前まで本州に居たとは我ながら思えず、まだ心が現実に追いついて来ていないことを安易に私に理解させる。
ただ私自身、希望のことばかりに気を取られているわけにも行かない。実言うと、さっきからかなり不快な感覚を無理矢理身体に叩き込まれている。あの時感じた苛立ち。憎しみ。この世の『悪』と名の付く感情がこれでもかと私を覆っているのだ。
「気づかないふりをするのも、ちょいと無理あるよ」
思わず鼻で笑ってしまう。現状問題点しかない私を、大社が解放して調査に向かわせようと思った理由もあまりにも謎だ。
何というか。あのまま私を病院の一室に隔離しておいてくれた方が今回のような悲劇は起きなかったと思われる。
(……大社は私を使わないと行けないほどに焦ってる?いや、そんな理由ないはず…)
また一つ私の中で疑念が湧き出る。本当に何度も言うが、自分の母親の問題が解決されたというのに、どうしてこうも次から次へと私に理不尽な問いかけが向かってくるのか。
「それを全部間に受かるからよくないんだよね。きっと……」
窓なんてないのに少しでも空が見たいと思って壁を見る。所詮壁は壁だ。私の顔が映るはずなどない。だと言うのにーーーーー。
どうして私の顔が不気味に笑って映ってるのだろうか。
ああ、もう。
気分は最低だ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大社にとって秋山琴音という人物は異端児だった。
全体の共通認識としてはあり得ざる覚醒者。というのがある。何より秋山琴音を大社の人々に異端とさせる所以は2つの精霊を宿すことのできる器という点でもあった。
それはどんな勇者にもあり得ないことの一つでもある。だからこそ、大社からすれば秋山琴音という人物は良い実験体と言えた。
遡ること、琴音が戦闘後に倒れた日の翌日。以前より、大社は激化するバーテックスの侵攻に対し、更なる勇者システムのアップデートを試みることを決定。会議の中で、今後予定されている本州調査に琴音の精霊重複の実態と、切り札使用の影響を見るために派遣することを決めたのだった。
しかし、そのことに反対する人物が大社内に1人。箕輪と呼ばれるこの青年だけが琴音の調査同行に反対していた。
「あなた達は、我々のために必死になって戦ってくれている彼女を実験体のように扱うというのですか」
箕輪は大社の組織としての枠組みでは地位は相当に低い。しかし、琴音を古くから知る人物としてこの会議の場に呼び出されていた。
情。というものに箕輪は熱かった。箕輪が必死に琴音を守ろうとするのも、昔助けられた縁から来る情だった。
箕輪の反論に対し、大社の重役達は口を閉ざす。沈黙は肯定だ。そう捉えられればどれだけ良かったか。10人の重役達の反応は全くもってその逆。沈黙を持ってして、箕輪を否定した。
その中で1人の神官が口を開く。
「人類の未来のためには1人の犠牲は許容しなくてはならない。それは科学でも、それとは全く逆であるこの神道でも変わらないのだよ。君も大社の1人だ。人柱。という言葉をしっておろう」
「……秋山琴音は人柱になる、と。そうおっしゃりたいのですね」
「そう言うわけではない。我々と言えど、勇者様たちには誰1人と欠けてほしくはないのだよ。だがね、1人も欠けぬためには誰か例外を1人作り出さなくてはならない時もある」
「その回答はあまりにも矛盾します。それはーーー」
「我々だってわかっている。わかっているとも……。ただ、我々が支援できるのは神樹様に見染められた者のみだ」
箕輪はその話の内容にとてつもない違和感を覚えた。今の神官の言い草では、琴音は神樹に選ばれたことにはなっていない事になる。
大社が支援できるのは乃木、高嶋、土居、伊予島、郡の5人と遠回しに述べた。となれば当然の疑問点が出てくる。
「待ってください。秋山琴音は神樹様の勇者ではないと言うことですか」
箕輪の声は無意識に震えていた。きっとその先の答えは、なんて事のない雑務をこなすだけに彼にはあまりにも重たすぎる。
察しが悪ければどれだけ良かったかと今は思う。
答えを拒もうとした彼に対し、これまで沈黙を守っていた最も上座に座っている神官が口を開いた。
「秋山琴音様は勇者ではあるが、その神の力は土着のものではない。いや、神樹様の力も持っているが、もう一つが問題だ」
「彼女はそれを知ってるのですか」
「……………答えは君の胸の内にしまっておくといい」
もうそれが答えではないか。そんな言葉が思わず口を突こうとしたが、すんでの所で堪える。今の彼と言えど、部をわきまえることが出来るほどにはまだ自分を保てていた。
「ならば、彼女に力を貸しているのは一体」
堪えた末に出た問い。ここまで話された以上、勿体ぶられても彼の心の揺らぎというものは治らない。
神官達もそれを理解しているのか顔を見合わせ、同意を得た後に再び上座に座る神官が口を開いた。
「秋山琴音様に力を貸しているのは天の神に近い存在。ということだけはわかっている。我々の口からはそれ以上は何も言えまい」
沈黙が再びこの会議を支配する。箕輪は、何一つと言葉が出なくなってしまった。
琴音に導かれるようにして、大阪から脱出した人々は彼女を奇跡の人だと言う者もいた。しかし、それは投じられた奇跡というより、1人の少女が担うにはあまりにも残酷で大きすぎる業だったのである。
それから数日後、琴音は本州へ調査へと赴き、たったの2日で四国の地に舞い戻ってきた。
しかも遠目から見ても乃木若葉との関係性にはどこかチグハグなものを感じさせられた。
聞けば何があったのか、彼女は答えてくれるだろう。しかし、彼にはそこまでの勇気と権利はない。
彼はひたすらに、彼女の相棒の手術を待つその悲しげな背中を見つめることしかできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
チクタクチクタクと無情にも時というものは流れる。
千景は1人、食堂の壁にかけられた時計を見つめた。普段のこの時間は何をしていたか。そんな疑問がふと頭をよぎる。
今の自分にそんな日常を振り返る余裕があったのかと、千景は思わず笑ってしまいそうになった。
(……それにしても…あの街でバーテックスに殺された人たちは…どんな思いだったのかしら……)
あの調査の途中。神戸までは千景の胸中を支配していたのは怒りという感情だった。破壊された街や殺された人々を思い、無性に募る苛立ち。その根源はバーテックスだと決めつけて、千景は力のままに武器である大鎌を振るった。
しかし、実態はそんなものではなかった。千景は短い本州の調査の中で、命の重みというものを知るうちに、知らず知らず一つの命の価値について以前より考えるようになった。
千景は神戸での調査中、若葉達には知られないようにた一冊の擦り切れた日記を隠し持ってきていた。
その内容は掠れてしまって一部はもう読めない。それでもとある場所で繰り広げられた地獄のような光景を綴ったその日記は当時の様子を鮮明に千景に想起させた。
(私は……未だに自身の価値…というものにこだわってる…のね…)
言ってしまえば、バーテックスに殺された者たちは無価値だったからこそ勇者にも選ばれなかったし、むざむざとその命を散らした。
自分はどうだろう。そう考えた時、なんだか酷くちっぽけで無価値な人間に思えてしまったのだ。
だがしかし、琴音は勇者の時でも、その時以外でも千景に価値があると言った。だったらそれで十分ではないか。
(……そうよ。私は…価値がある……。ただ、死ぬだけのために生まれてきたわけではない……。特別な人間なのよ…私は……)
チクタクチクタクと時計の針は進む。決められた利用価値というものを遺憾無く発揮しながら、千景の耳に小刻みな針の音を届ける。
価値があるものが価値がないものを助ける。それは決して間違いないものだ。
この時、千景の中で間違った思想が芽生えたのは言うまでもない。それを本人が自覚したかどうかは、今は知る由もないーーーー。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
かつて絶望の地下牢とまで言われた梅田の地下街から、ほぼ無傷で生還した奏という少女がいた。
あれから2年。2年という時は1人の幼い子供を成長させるには十分だった。
その少女は今、妹と共に秋山琴音の実家を借受けて生活をしている。
奏は久しぶりに荷物の整理をしていた。
かつて梅田から持って帰ってきた最低限の荷物。これだけは絶対に手放してたまるかと必死なって所持したものだ。
荷物を整理する中で奏はふと思い出したことがあった。当時を偲んだ日記を逃げ帰る途中で無くしてしまったということだ。
今手元にあるのは家族の集合写真だけ。
「絶対持ち帰るとか言っといて無くすとか、私も琴音ちゃんのドジっぷりは馬鹿にできないな〜」
しばらく連絡を取っていないが、きっとあの琴音の事だ。また人類に勝利をもたらしてくれているに違いない。
簡単に荷物を整理し終わった奏は、そんな期待を胸に秘め、届くかどうかわからない便りを琴音と希望にしたためるのだった。