郡千景にとって、秋山琴音と言う人物はライバルでもあり、自らに理解を示してくれる良き相手という認識が僅かにはあった。
つまるところ、友奈に届かないにしろ、他の人々に比べて相当に信頼はしていた。過去も相まり、他人に興味がない千景にとってそれは驚くべき事でもあったと言えよう。
千景が琴音を信頼していた理由として、全くもって真逆な性格なのに、どこか自分に似ている気がしたからと言う漠然とした気持ちがあった。しかし、今わかった。千景が自分に似ていると錯覚していた、秋山琴音と言う人物は『東郷琴音』と言うもう1人の人格の残滓だったのだ。
「……秋山、さん…」
その絶対的力で、傷一つ付けられなかったサソリ型バーテックスを討ち取った彼女は、そのままの勢いで残党となった通常個体を次々と撃破していく。
その勢いたるや、友奈の精霊。一目連など恐るるに足らず、衝突すれば琴音が圧勝するだろう。
彼女を支配する感情は怒りでも、痛みでもない。そこにあるのは自分よりも強いものを倒せると言う快楽のみ。
杏や球子を助けた時の彼女は、まるで英雄だった。きっとその時の彼女に勝る輝きというのは、一般的に見ればこの世に一つとないだろう。それがたった一瞬で怪物となった。秋山琴音と言う人間を英雄とするならば、東郷琴音と言う人物は愚劣極まるただの一般人。英雄になる権利も持ち合わせていない、力を持ってはならぬ人種。
(……でも、そうよね。わかるわ……)
千景は今の琴音を否定できない。何故なら、自分も同じだから。非常に似ている。この力があるからこそ、自分は価値がある。価値がないと思ってきた自分の人生には価値があった。それを周囲に知らしめたいと言う気持ちが千景にないとは言い切れないのだ。
(だけれど、あのような姿に私は…なりたいの?)
価値があると示すために、あのような姿になる事を許容しろと言うのか。
千景はこの瞬間、自分の目指すべき姿が一瞬にして白紙化した。どうなりたいか、どうしたいのか。それが一切見えなくなってしまったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
若葉は以前、本州調査の際にひなたにこんな相談をしていた。
「私は、琴音の考えがいまいちピンと来ないんだが、どうしたらいいと思う?」
ひなたは最初、若葉の問いにこそピンと来ず、キョトンと首を傾げた。そのあと、「なるほど」と手鼓を打つ。
要するに若葉は琴音の行動原理がわからないのだ。しかし、ひなたは既に琴音の本質を見抜いていた。
「若葉ちゃんは琴音さんが託したことをすればいいと思います」
「と言うと?」
「琴音さんは今、一手に全てを引き受けようとしてます。だけど、必ずこぼれ落ちます。その時、若葉ちゃんは琴音さんが溢してしまった『正しさ』と言うものを拾えばいいんです」
きっと、琴音さんは真っ先に『正義』と言うものを捨てるから、と。そのひなたの言う『正義』と言うのは万人の想像するものとは違う。
ひなた曰く、琴音にとって、その『正義』は秋山琴音という存在そのものだと言う。
若葉はそれ以来、琴音が何か言うのを待っていた。短い時間とは言え、すれ違いもした。同時に和解もした。そして、本当にひなたの言う通り、琴音は若葉に自らの正義を託したのである。
若葉は樹海の植物たちの合間を駆け抜ける。その身体には精霊、源義経を宿していた。
何度も蔓を踏みしめるたびに若葉の速度は上がっていく。一段、二段、三段、四段ーーーーー。
若葉が今の琴音に手を届かせるにはこれしか方法がなかった。琴音は今や、毘沙門天という最強の力をその身に宿している。本気で琴音を止めようと思うのならば、若葉も今出せる全力を出す以外に方法はない。
(!?)
錯乱している琴音は、サソリ座の攻撃を受けて行動不能となっていた球子と杏を睨みつける。そして振り上げられた右手には名前も知らぬ刀が握られていた。
(琴音は杏や球子をわかってないのか!?)
琴音にとって、杏と球子の存在は忘れてはならないくらいに大きいはずだ。秋山琴音となった後も友達の増えなかった琴音にとって、希望や友奈、千景、杏、球子という仲間は戦友でもあり友達でもあったはず。そんな大事な人達を、忘れてしまったのだろうか。
(そんなことあってたまるか!)
若葉は最後のもう一度地面を踏みしめて、一気に琴音へと距離を詰めた。その速度はもはや人の目には追えない。琴音も例外ではなかった。
若葉は、琴音に対して【生太刀】の横っ腹を叩きつける。重力を無視した高速移動による攻撃の加速。渾身の一撃だった。琴音を傷つけず、無力化するために数秒の刹那に思い浮かんだ最善の方法。
現実問題、琴音は若葉によって奥へと押し込まれる形で共に後ろに吹き飛ばされた。琴音を樹海の蔓に叩きつけ、若葉はそのまま一度距離を取った。若葉は砂塵の中に映る影を見て思わず苦笑いするしかなかった。
効いていないわけではなかった。毘沙門天と言う軍神の、その顔を歪める程度には予期してない方面からの攻撃は効果があったのだ。だと言うのに、若葉の手には1ミリたりとも手応えはない。
「若葉ちゃんが私を攻撃するなんて。私、何か嫌われることしちゃったかな……」
琴音はそんなことをボソボソと呟きながら砂塵の中からゆっくりと、そしてぼんやりとした動きで姿を現した。
「琴音、私はわかるのか?」
「もちろん。私の大事な友達の1人だもん。けど、他の人は知らないなあ。誰?この人たち。私をまた虐める新しい人?どうしてそんな人を若葉ちゃんが守ってるの?」
琴音は若葉の背後に座り込んでいる球子と杏を指差して首を傾げた。その所作は本当にただの少女のものであった。だからこそ、尚のこと恐怖を煽る。若葉は背筋が凍るような感覚を背負いながら、琴音と正面から対峙した。
「目を覚ませ琴音!お前が今攻撃しようとしてるのは、大事な仲間だ!友達だろ!!」
若葉の必死の言葉に琴音は眉をわずかに動かす。けど、それだけだった。琴音はそれ以上の反応を見せはしない。
力の反動か、全身から流血していることにすら苦痛という感情すら見せない。寧ろそれすら受け入れている。痛みを全て受け入れる姿は出会った頃の琴音を若葉に彷彿とさせた。
「琴音。お前はどこに向かおうとしているんだ」
若葉はコロコロと変わる琴音を最初から見てきた。誰1人と信用しない琴音を。前向きで明るい琴音を。誰かを守るために自らを蔑ろにする琴音を。
頬を伝って樹海に落ちた若葉の冷や汗を追いかける琴音の視線は、やっぱり定まっていない。段々とコミュニケーションすら取れなくなるほど化け物に成り果てて行く琴音を、若葉はどうすることもできない。
「あは、あはは。やれる。これで、私を傷つけた人を跡形もなく、邪魔する人も一緒」
奇妙な笑い声をあげたあと、ギロッ。と若葉達を睨む琴音は睨む。
「さっき、私を殴ったよね。痛かったよ、痛かった?あはははは。違う、痛くないてないや。じゃあ、何?まあいいや。とりあえず倒さなきゃ」
支離滅裂な言葉を並べると同時に、その威圧感は爆発的に増加した。言葉通り、殺す気で行かねば止められない。若葉にそう思わせるほどの迫力。
ここでようやく千景と友奈も合流した。2人は琴音の変わり果てた様子を正面から目の当たりにし、足をわずかに鈍らせる。それでもすぐに意識を若葉達に向けた。
「若葉ちゃん!」
「…なに、あれは、本当に秋山さんなの?」
今の若葉にとって、この2人が来てくれたのは何よりも吉報だった。2人が連れて行ってくれれば、自分が背後の2人を守る必要がないからである。
「千景、友奈いいところに来てくれた。杏と球子を安全なところは頼む。私は琴音を止める」
「それはいいけど…あなた…あれに勝てると、思うわけ?」
樹海化にも時間がある。時間がかかりすぎると現実世界にも影響を及ぼすのである。それを、千景は言いたかった。
若葉は逡巡したのち、小さく頷く。
「大丈夫だ。私は負けるわけには行かないからな」
若葉は千景の言葉を額面通りに受け取った。千景は、それからは何も言わずに杏を抱えると戦場を離脱した。
友奈も同様に撤退を開始した。その背中を見送ったあと、若葉は気合いを入れ直す。さて、若葉が取ることのできる方法は限られたわけである。琴音を殺すことは若葉は本気で考えていない。ならば、若葉が取るべき手段は限られる。
(私が殺すのは、琴音の心だ)
東郷琴音にとって、乃木若葉と上里ひなたという存在以外は誰も信じるにたり得ない存在である。なら、若葉はそれを逆に利用する。それしかこの状況を打破できる要素はなかった。
「行くぞ琴音。お前のその心、今一度こじ開けてやる」
「………」
言うが早いが、どちらかが合図をしたわけでもない。数秒の睨み合い。2人を繋ぐ糸が、はち切れんばかりに張られたその瞬間、2人は同時に引かれ合うようにしてその足を一歩踏み出す。
達人同士の勝負が一瞬で着くように、この2人の決着もまたその一歩によって決まったーーーーーー。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『東郷琴音』という人格の基本理念は「無いものねだりをしない」というものだ。自分に友達はできない。だからこそ、誰も友達なんていらない。と言うのが生きていく上での処世術でもあった。
それに対して『秋山琴音』はどうだったろうか。彼女は乃木若葉に与えられた楽天的。という言葉を胸に欲しいものを手に入れられるようになった。そして、手に入れた力を誰かのために振るうことを決意した。
『東郷琴音』と言う人物と『秋山琴音』と言う人物は表裏一体。されど、勘違いしてはならない。『東郷琴音』は手に入れた力を無差別に誰かに使いたいわけではないのだ。
少なくとも今、この時だけは愚かにも一つの願いが叶うかもしれないと、ぼんやりとした脳で思ってしまったのが全ての誤りだったとも言える。
「今ならかつて自分を苦しめた人を倒せるかもしれない」
この文字列に『東郷琴音』は心惹かれた。
私は悪くない。
これは当然の報いだ。
そう。ただ、少しやり返すだけ。
言い訳に次ぐ言い訳。仮定に次ぐ仮定。誤りに次ぐ誤り。不運なことに『東郷琴音』と言う人物の歯車は、これでもかと言うほど噛み合ってくれなかった。
『東郷琴音』は精霊と言う力にかこつけて『秋山琴音』を押さえ込んで再びその人格を現した。しかし、『東郷琴音』の精神は精霊である【毘沙門天】に勝てるほど強くない。飲み込まれるのは必然だった。
これに関しては『東郷琴音』が『秋山琴音』に勝てない時点でそれは察するべきだったろう。
そんな琴音の意識は奇跡的に、手から伝わる感覚によって引き戻された。手のひらが感じているのは、何かを断った時の気持ち悪さ。頬にベタリと付着し、不快感を与えてくるのは赤い液体。
「え」
そのわずかに漏れ出た声が琴音の感情を全て物語っていた。
横一文字に薙ぎ払われた若葉の身体からは、血がこれでもかと流れる。 若葉はその持ち前の運動能力と幸運によって致命傷は避けていた。それでも、激痛がその身体を蝕む。
斬られるその直前、若葉は刀を放り出していた。どうしてそんなこと?と愚問なことを口走りそうになった時、琴音の耳元で若葉が囁くように言った。
「大丈夫、か?こと、ね」
「若葉、ちゃん?」
「この、くらいしか…お前を止める方法が、見つからなかった、からな」
未だに琴音は自分がしてしまったことを信じられてはいない。もとより精神は強く見えるだけのハリボテである。唯一の親友を傷つけたという事実は今の琴音の心を折るには十分すぎた。
今の琴音がその命を奪いたいと思っていたのは若葉などではない。自らを傷つけてきた人達だったはず。バーテックスなどという未知の存在を倒せると理解してから、これならやれるなどと思ってしまったから。
「あ、ぁぁあ………」
違う。違う。その痛みは目の前の少女が負うものではない。それは別の誰かに背負わせるためのものだったはずだ。
琴音の精神は不安定となり、勇者装束も解除される。
こんなことになるのなら、もう1人の自分を飲み込む必要もなかった。強くて、何もかもが手に入った彼女のままで良かった。なぜ、あそこまで彼女を脅してまでこの力を使ってみたいなどと思った?
「なん、だか昔の、琴音の、目をしてる、な。ははっ。大丈夫だ。わた、しはまだしっかりと、お前のことは、見えてる…。死には、しないさ」
若葉は安心させるために小さく笑うと一層手に力を入れた。だが、琴音は既に上の空。
解けて絡まって、また解けて。そしてまた絡まった。運命の糸という名の残酷な現実はこれ以上なく複雑に『東郷琴音』へと襲い掛かり、絡まり、縛り上げる。
同一人物であって同一人物ではない。その奇妙な矛盾が、今後の勇者たちにどのような影響を与えるのかは誰も想像はできやしなかった。