少女は星を追いかける   作:まんじゅう卍

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第39話 たかしまゆうな

 

 7月。梅雨の空気など何処へ行ってしまわれたのか。連日続く猛暑に、私達は汗を流し続けている。少し遅れた別れと出会いの季節は一瞬で過ぎ去っていた。

 私はそんな季節を噛み締めながら、若葉と丸亀城の周囲をトレーニングの一環としてランニングしている。空気を切って進む音と、自分と若葉の一定のリズムとなった呼吸が一つの音楽のように奏でられる。

 友奈は少し前に退院し、今は体力を戻している最中だ。ただ、気になることがあった。

 

「若葉ちゃん。最近の友奈ちゃん、どこか様子おかしくない?」

 

「そうだな。以前より、口数が減ったか?」

 

 若葉も友奈の些細な変化を気になってはいたようだった。

 

「口数も減ったし、部屋に籠る回数増えたようにも思うんだ」

 

 ご飯も食べるし、トレーニングもしている。しかし、それ以外の時間だ。自由な時間、友奈は皆と過ごすことを好んでいた。それを、ここ1週間近く見ていない。

 

「ちなみに、精霊の使用が著しい私達は大丈夫?お互い確認しとこうよ」

 

「何をするんだ走りながら」

 

「下手なカウンセリング?」

 

「元気か?」

 

「超元気」

 

 私と若葉は同時に吹き出した。2人ともそのせいで呼吸が乱れ、琴音が笑わせるからだの、若葉が本当に下手なカウンセリングをするからだの、言い合いをしてみたりする。一度立ち止まり、これなら私達は大丈夫だと言う確信が生まれたところで、友奈へと話は戻った。

 

「最近はバーテックスの襲撃もあったが、球子も復帰し、順調だと思っていたのだがな……」

 

「まだ友奈ちゃんが不調って決まったわけではないけどね」

 

 息を整え終わった私達は再び走り出す。

 若葉は自分の抱えている推測を確信に変えるため、私に問う。

 

「不調になる要因に心当たりは?」

 

「あの鏡型のバーテックスかなぁ……」 

 

「琴音もそう思うか」

 

「最後のは辛いよ」

 

 友奈が鏡型のバーテックスからぶつけられた『私は、お前を怨むぞ!友奈ぁっ!』と言う捨て台詞。少なくとも、心を揺さぶるには十分すぎた。

 それを言われる事となった一件を、彼女は話すことはしないだろう。しかし、当事者でない私ですら心の揺さぶられ方は相当なものだった。本人なら尚更だろう。おまけに、友奈の性格の特性上、それを人に話すことはしない。心に澱みが溜まってくばかりで、吐き出すことをしなければいつかは暴発することは目に見えていた。

 

「リーダーとして、何とかしてやりたいが私にはそれが出来ない。誰かとの対話は友奈頼りな所があったからな」

 

「私とかね」

 

「良い例だな」

 

 若葉は浮かべていた困りを崩し、クスリと笑った。私は冗談で、「私も交渉は上手いよ」としたり顔をしてみたら、お前のは脅迫だと再び困り顔にしてしまった。

 確かに私のは常に脅迫じみてる。本当の交渉術と言うのをいつかは学んでみても良いかもしれない。話を私から友奈に戻そう。

 

「私の偏見だけど、友奈ちゃんって私よりそう言う所頑固そうじゃない?」

 

 自分の事を表に出そうとはしない友奈の決意は、私以上に固そうだと思ったことはこれまでも何度もあった。以前、私の部屋で彼女の地元である奈良の話をした時も端々に感じ取れた。

 

「友奈ちゃんって周りに凄い気を遣ってる割に、自分の意思は凄い固いよね」

 

 私とは大違い。なんてまた言ってみたりする。

 

「琴音は影響を良くも悪くも与えられすぎるからな」

 

「おかげで助かってますよ」

 

 良くも悪くも影響を与えられすぎるから、私はここにまだ立てているのだと思う。

 再び信号に引っかかり、私達は足を止める。乱暴に汗を拭いながら、若葉は表情に影を落とした。

 

「意外に見えてなかったのかもしれない。友奈はそう簡単に折れないと決めつけていた節はある」

 

「あるんかい。まあ、私も同感」

 

 若葉の言う通り、友奈だけは切り札の悪影響にも打ち勝ってしまうのではないかと言う悪い期待感を抱いていたことは否めない。しかし、それほどまでに彼女の精神力が強いと言うのもまた事実だった。

 今回の件で、本当に精神にダメージが入っているのかは定かではない。それでも仮に彼女が心を閉ざしているようならば、私達が今度は支える番なのだ。

 

「それほどまでに、あのバーテックスは人類にとっては脅威という事だな。今後も出てこないとは限らない」

 

「攻撃能力自体はなかったから今回は勝てた。次、他のバーテックスと連携なんて取られた暁には勝てる自信はないね」

 

 精霊を使ったところで、どこまで太刀打ちできるか。先が読めない戦いの幕はすでに開けている。

 私と若葉が今後のことを考え、憂鬱な気持ちを呼吸に混ぜて吐き出すと同時に、私達を止めていた信号が気づけば緑色に点滅し、早く行けと最速してくる。私と若葉は慌てて横断歩道を走り切った。そのまま再び走り出す。と思っていたのだが、若葉はおもむろに立ち止まった。

 

「琴音は……たまにだが、どうして無理に笑おうとする」

 

「質問の意味がわからないんだけど」

 

「良いから答えてくれ。私とひなたは前から話してた。……お前は人に気を使って無理にでも笑おうとする。少しばかり…友奈に似ているんだ」

 

「友奈ちゃんがどんな気持ちでいるかを察してくれって話?」

 

「そこまでは言わない。いや、言っているようなものか……。琴音。出来たら、友奈の気持ちを察してやってほしい。その役目は、私には向かないからな」

 

 若葉は申し訳がなさそうに肩を落とした。本来なら自分がと責任感の強い若葉ならば思うのは私だって理解している。それでも、若葉は私に任せたのだ。その意味を、私は汲み取らなければならない。

 私は頷き返すと、若葉は肩の力を抜き、本州と四国を隔てる壁へと目を向けた。

 

「琴音。最終決戦は近いと思うか?」

 

「……すぐにとは言わない。けど、足音は近づいてきてる」

 

 あの巨大バーテックスが完成した時が、私達の決戦の日だ。それがいつになるかはわからない。

 

「友奈の力は必要だ。だから、任せた」

 

「任された」

 

 壁から目を逸らすと、若葉は次に丸亀城へと目を向けた。それから彼女はポツリと呟いた。

 

「海は、皆で行けると良いな」

 

 私の目には若葉の背中しか映らない。彼女がどんな顔をしながら、それを口にしたのかは本人以外誰もわからなかった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

〜同日、夕方〜

 

 友奈は1人、部屋の中で天井を眺めていた。最近閉じこもり気味な友奈に杏や球子。詩音や千景は部屋を訪れてくれる。それは嬉しかったのだが、自分が酷い顔をしてるのではないか。言動がいつも通りと違うのではないか。そのせいで、皆に気を使わせてしまってるのではないか。皆の輪を乱してしまってはないか。

 そんな不安ばかりが、天井のシミと一緒にぐるぐると回り続けている。

 

(明るくしなきゃ……いつも通りの私でいなきゃ)

 

 そう思えば思うほど、表情を作る筋肉が強張って、言葉が喉の奥でつかえてしまう。友奈にとって、皆の優しさは今や申し訳なさという名の棘になって、彼女の心をチクチクと刺していた。

 

(コトちゃんはノゾちゃんの一件の辛さを武器に、今も頑張ってる……。私は……あんな……)

 

 あんな嘘に塗れたバーテックスの捨て台詞が、ここまで心を蝕むとは思いもよらなかった。

 友奈は一度たりとも、人からあのような事を言われたことはなかった。これは嘘ではない。本人が忘れているわけでもない。正真正銘、誰の口からも聞かされた言葉ではない。

 

(嘘が響くほど、疲れてたのかな)

 

 退院したばかりで身体の調子も悪いのだろうと友奈は薄手の布団を肩のあたりまで持ち上げる。

 そして再び、天井を見上げ、皆を守り続けてきた拳を天井に向けた。傷だらけになった拳は、皆のために戦い、皆の代わりに傷ついてきた何よりの証拠だった。

 

(私は勇者なんだ……。今回もこんな気持ちを抱えたのが私で良かった。誰かが傷つくくらいなら…私が……)

 

 この先も、誰かの代わりに傷を引き受け続ける。

 そうすれば、みんなは元気でいられる。仲良くいられる。

 

(私が盾になれば、誰も泣かなくて済むから)

 

 自己犠牲という名の、あまりにも純粋で、あまりにも危うい免罪符。

 そう自分に言い聞かせることで、友奈はようやく呼吸を整えることができた。

 だが、その心根の優しさが、今は彼女自身を追い詰める毒になっていることに彼女自身はまだ気づいていない。

 突き上げていた拳を力無くベッドに横たわらせると、己の信念が足場から崩れ落ちそうになる。それを、友奈は目を閉じて徐々に修正していく。しかし、いつもなら修正できる箇所が、何故か今回は出来ない。

 

「あ、れ?」

 

 不思議な感覚だった。積み上げても、積み上げても、それは音を立てて崩れていく。それを何度も積み上げる。積み上げる。積み上げる……。するとまた崩れ落ちる。

 高嶋友奈はそれが己の心が折れている事だとはわからない。わからないから意味もなく積み上げようとする。仮に理解したとしても、彼女は自らの心の内を打ち明けることはしないだろう。だって、打ち明けてしまえば周りの空気を悪くしてしまうから。

 崩れたものをまた積み上げようとした時、扉がノックされた。返事をしようか迷い、逡巡していると謎の笑い声と共に「やられたらやり返す!」と言う物騒な言葉が友奈の耳に届いた。

 不安定だった足場は急速に形を取り戻し、「高嶋友奈」を即座に作り上げていく。そして布団を跳ね除け、いつも通りの元気いっぱい。明るいトーンで声を出した。

 

「いるよ!入ってだいじょーーーー」

 

 言い終わる前に、本来飛んでくるはずのない扉が、何やら凄まじい勢いで友奈の目の前を通り過ぎて壁に突き刺さった。

 

「ふえ?」

 

 友奈は自分の眼前で起きている事が理解できず、先程まで脳裏を駆け巡っていた事など最早思い出す余裕すらなくなっていた。

 扉の方に目を向けると、そこには勇者の装束を纏った琴音と、ポカーンと口を開けて飛ばされた扉と琴音を交互に見返す千景の姿があったのだった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ランニングを終え、丸亀城に戻った私は若葉と一旦別れ、部屋へと戻っていた。若葉は大社に出向き、ひなたから今後の話を聞くことになっているらしく、ランニングの疲れを感じさせぬまま大社へと向かっていった。

 私は若葉と別れた後は自室へと戻り、勉強に励むことにした。案外、私は勉強が嫌いではなくなっていたらしく、集中していると昼過ぎになっていた。

 

「お姉ちゃん」

 

 私が昼過ぎだと気づけたのは、出かけていた詩音が戻ってきて声をかけてきたからである。

 資料から目を離し、詩音に向けると彼女は悲しそうな表情をしていた。

 

「どうしたん。そんな泣きそうな顔して」

 

「友ねえから来るなって言われた……」

 

「遊びに?」

 

「うん……。今は会いたくないって」

 

 なんと珍しい。友奈が誰かを拒絶するなど珍しいどころか初めてではなかろうか。

 朝方にした若葉との会話が脳裏をよぎる。

 

「多分、友奈は疲れてるんだよ。まだ退院したばっかりだしね。もう少ししたら遊んでくれるよ」

 

 私の下手な慰めに詩音は素直に頷いた。その素直さに応えて、私も彼女の頭を優しく撫でた。詩音はそれだけでは不服なのか、唇を尖らせる。

 

「代わりに遊んで」

 

「もちろん。何したい?」

 

 私が聞くと、詩音は携帯ゲーム機を指差した。私はその携帯ゲーム機に複雑な心境で手に取った。

 先日、千景がおもむろに渡してきたこのゲーム機は、希望のものだと言う。彼女の部屋が撤去される前に密かに持ち出したらしい。

 

「良いよ。やろっか」

 

「本当!? やった!」

 

 詩音はパッと顔を輝かせた。子供の心は移ろいやすい。友奈に拒絶されたショックも、今はゲームへの期待に塗り替えられている。けれど、私の胸の中にある雲は、少しも晴れてはいなかった。

 電源を入れると、液晶に鮮やかな光が宿る。

 この端末の中には、希望が過ごした時間の断片が残っている。セーブデータ、最後に遊んだ履歴、そして設定されたユーザー名。

 画面の隅で微笑むデフォルメされたアバターは、どこか希望に似ていた。

 

「これ、千景さんは本当なら希望と一緒にやりたかったんだろうな……」

 

 私はポツリと独白を漏らす。

 簒奪。またその言葉が頭をよぎる。私は、希望が持っていたはずの未来も、友達も、そして彼女が使い込んでいたこのゲーム機さえも、今こうして詩音と遊ぶための道具として使っている。悪意はないが、それでも少し気持ちは重くなる。

 

「……お姉ちゃん、変な顔」

 

「あ、ごめんごめん。なんでもないよ。さあ、始めようか」

  

 ゲームが始まれば、詩音は驚くほど上手にキャラクターを操作した。一方の私は、手元のボタン操作がおぼつかない。

 

(友奈ちゃんが、詩音を拒絶した……)

 

 その事実が、ゲームのBGM以上に私の頭の中で鳴り響く。

 友奈は、誰かに傷を見せたくないから閉じこもっているのではない。自分が傷ついていることを他人に悟られ、みんなの日常を壊してしまうことを恐れているのだ。

 自分が完璧な太陽でいられないなら、いっそ雲に隠れてしまおうとしている。

 

(それじゃダメなんだよ、友奈ちゃん……。完璧じゃないから、私たちは支え合えるのに)

 

 自分が他者にした事を、自分がされてはいけないと言うのは道理としては反する。それを友奈だってわかっているだろうに。

 ピコーン、という無機質な音がして、私のキャラクターが画面外へ吹き飛んだ。

 

「あーあ、お姉ちゃん負け。弱いなぁ」

 

「くそっ、もう一回! 次は本気出すからね!」

 

 詩音の笑い声が部屋に響く。

 その楽しげな声が、壁を隔てた向こう側にいるかもしれない友奈に届いているのではないかと想像すると、私は少しだけ胸が痛んだ。

 

 それから数回勝負して、5戦4勝。私が歳上としての威厳を遺憾なく見せつけてやったのだが、詩音は「お姉ちゃんなんか嫌い!」と捨て台詞を残して部屋を飛び出していった。と思いきや、戻ってきて、壊さないからフルート練習させてと希望のフルートを持っていったのは少し可愛かった。

 詩音はそのフルートが希望のものだとは知らない。きっと、知ってしまえば2度と手を出さなくなる。それは託した本人が望んだ形ではないだろう。

 

(希望も私以外にもフルートを吹いてもらえる事、望んでるだろうしね)

 

 希望と詩音は直接的な関わりはないが、私の妹なら貸すことも許してくれるだろう。

 私はと言えば、フルートの腕前は当初に比べればかなり上達していた。とは言え、まだ若葉の前で演奏した2曲しか弾けないわけだけど。

 空気を入れ替えようと窓を開ける。すると、まだ私以上に下手なフルートの音色が風に乗って滑り込んできた。下は中庭になっているので覗き込むと、詩音が球子と杏と話しながら楽しそうにフルートの練習をしている。

 

(………取り返しのつかない暴走はしたけど、タマちゃんと杏ちゃんは助けられて良かった)

 

 2人がいなければ、丸亀城はもっと深刻な状況に陥っていたことだろう。秋山琴音の判断はある意味では正解だった。私はそれを上手く引き継げているだろうか。

 

(褒めてくれよ。希望)

 

 優しい言葉で、その軽快な笑い声で「琴音はそのくらいできるでしょ?」なんて言って欲しい。冗談混じりのいじりも。優しい音色も。時間が経てばどうしても風化していく。

 バーテックスの襲撃は止まらない。これなら、いつかは終わる命だったとしても、希望は人間らしく柔らかいベッドの上で眠りについても良かったのではなかろうか。

 耳に鏡型の放った「音」が蘇る。

 

『……琴音。私、死にたくないよ』

 

 本当に彼女は最期、この言葉を残したのだろうか。

 

「作られたものだと思っておこう」

 

 残酷なその終わり方を、私は考えて仕舞えば再び取り返しのつかない事をするだろう。そうすれば、本当に次は無い。

 私の迷いを吹き飛ばすように、詩音の間抜けな音色が耳に届く。

 

「楽譜持っていってあげるか」

 

 希望のアドバイス付き楽譜を手に取ると、私は部屋を飛び出した。窓から。

 

「うわあああああああっ!?」

 

 あまりもわざとらしい素っ頓狂な声を上げながら、私は重力に身を任せる。

 

「こ、琴音さんっ!?」

 

「なっ!?何してんだっ!?」

 

 詩音のフルートを練習する様子を、穏やかに眺めていた2人の表情は一変した。人は本当に驚くと身体が動かなくなるらしい。知っていたようで、微妙に知らなかった事を噛み締めながら私は地表2メートルのところで勇者システムを起動した。

 

「お姉ちゃんまたやってる〜」

 

 詩音は2人とは打って変わって呑気そうな反応をみせた。その反応と共に、私はヒーローさながらの着地をしてみせる。

 ポカーンと口を開けて放心状態の球子と杏。ケラケラと笑いながら、身体を揺らす詩音。予想通りの反応に満足しながら、私は詩音に楽譜を手渡した。

 

「この楽譜には私の友達がアドバイスを書いてくれたんだ。詩音も、これ見ながらやってみな」

 

「うわあ……。本当だ、なんか色々書いてある!」

 

 詩音は楽譜の端々に踊る、希望の丸っこい字を指でなぞった。

『ここは気合で乗り切る!』とか『肺活量命!』なんて、音楽の教科書には絶対載っていないようなアドバイス。それを見た詩音の瞳が、きらきらと輝く。

 一方で、ようやく硬直の解けた球子と杏が、肩を怒らせて私に詰め寄ってきた。

 

「このっ……馬鹿琴音! 心臓が止まるかと思ったぞっ!」

 

「琴音さん、もう! 勇者システムはそんな遊びに使うものじゃありません!」

 

「ごめんごめん、つい。でも今の着地、100点満点だったでしょ?」

 

 おどけて見せると、二人は呆れたように溜息をついた。でも、その瞳にはどこか安堵の色が混ざっている。私たちがこうしてふざけ合えることが、今の丸亀城においてどれほど贅沢なことか、みんな肌で感じているのだ。

 

「……あ、千景さんだ」

 

 杏が視線を向けた先、城の廊下を千景が一人で歩いていた。行き先はおそらく友奈の部屋だろう。

 

「なあ、琴音。友奈の調子はどうなんだ?」

 

 球子に聞かれても、私は首を傾げることしかできない。

 

「私も知らないよ。2人は知らないの?」

 

「私も、タマッチ先輩も詩音ちゃんも、部屋には入れなかったんです。千景さんも。だからわからなくて」

 

 詩音のみならず、杏と球子。ましてや千景すら拒絶するほど友奈の心には影が出来たと言うのか。同時に、朝にした若葉との会話が引っかかる。その信じられない話を前に、私は詩音の頭を再度撫でてから勇者システムを取り出した。

 

「……私、ちょっと行ってくる」

 

「あ、琴音さんっ!」

 

 杏の声を背中で受けながら、私は中庭から再び勇者システムの跳躍力を使って、寮の二階テラスへと飛び乗った。

 廊下を曲がると、ちょうど千景が友奈の部屋の前に立ち、ノックをしようと手を挙げたところだった。

 

「千景さん」

 

「……東郷さん。あなたも来たの」

 

 千景は振り向かずにそう言った。彼女の背中は、まるでこれから戦場にでも赴くかのように強張っている。

 そんな彼女に私は肩をすくめてみせた。

 

「唯一試してないのは私だけですからね」

 

 意気揚々と友奈の部屋をノックしようと手を挙げると、千景は困惑した声音で私を止めた。

 

「……あなた、勇者の力なんて使って何しよう……と?」

 

「え?なんだろうね」

 

 私は一度自分の身体を見つめ、千景にニヤリと笑い返した。

 

「とぼけるのは…感心…しないわね……」

 

「あはははははっ!やられたらやり返す!」

 

 私はノックした後、返事を待たずに渾身の回し蹴りで扉を吹き飛ばした。寮中に、中庭にも破砕音が響き渡る。

 開けた口が塞がらない千景を横目に、私は友奈の部屋へと問答無用で乗り込んだ。いつかこうして私は友奈に引っ張りだされた。あのまま眠ろうとしていた私を叩き起こし、生まれ変わらせてくれた仕返しだ。

 部屋に入ると、友奈はベッドから起き上がった所で固まっていた。千景同様に私の強行に目を見開きながらも、どこか楽しげに目を細めている。

 

「どんな表情でお出迎えかと思ってたけど、楽しそうじゃん」

 

 まさか私も友奈が笑っているとは思わず、皮肉めいた事を口走ってしまった。少しは怒りだって見せてもいいだろう。だと言うのに、友奈の表情は凝り固まってしまったのか笑顔のまま。それが何故だろうか。自分自身を見ているようで、背筋が凍る。今朝の若葉の言葉が脳裏をよぎる。私はそれを噛み砕き、上塗りするように友奈へと迫った。

 

「閉じこもってた理由は聞いてあげる」

 

「私は大丈夫!少し落ち込んでたけど、琴音ちゃんの顔を見て元気になったよ!」

 

 彼女はそう言って私に満面の笑みを向ける。胸の前で作られた握り拳も心なしかいつもより力がない。

 

(無理してんじゃん)

 

 どこをどう見れば元気だと信じられると思ったのだろう。私の右目に映っている彼女と、彼女から見た自分自身の姿というのは凄まじく乖離していた。

 取り繕っても取り繕っても、埋まらないその溝を自覚しなければ、友奈の心はどこか遠い場所へと消えてしまいそうな感じがした。

 

「高嶋さん……」

 

 ようやく放心状態から解放された千景もようやく部屋に入ってきて、私の隣に並ぶ。

 千景の瞳には友奈を案じる気持ちが嫌というほど伝わってくる。

 もうこの際、千景に全て任せて仕舞えばいいのではと思ってしまう自分がいた。

 

「高嶋さん……本当に、もう元気、なの?」

 

「うん!ぐんちゃんにも皆にも心配かけちゃったよね。けど、本当に大丈夫だから」

 

 念押しするように何度も自分の無事を友奈はアピールした。私はそれが気に食わない。どうして私の泣き言には優しく耳を傾けてくれたのに、自分の泣き言は言おうともしないのか。そういう性格だからと言って、何も無理に箱に詰め続けては限界が来る。そんな箱は不要だ。

 恐らく友奈の抱えてしまったものは、私のように虐げられ、他者への嫉妬心や復讐心で作り上げられた憎悪の気持ちとは違う。

 思えば、友奈はいつだって他人の心の機微には敏感だった。私が自分の出自や簒奪という言葉の重さに押し潰されそうになっていた時、彼女は何も言わずに隣にいてくれた。私のまとまりのない泣き言を、まるで柔らかい真綿で包み込むように、一言も漏らさず聞き届けてくれた。

 他人の痛みには、驚くほど臆病で、それでいて勇敢に寄り添える。誰かが涙を流せば、自分のことのように心を痛め、その涙が乾くまで何度でも、不器用で温かい言葉を尽くしてくれる。

 そんな、他人のためなら無限に湧き出るはずの彼女の慈愛は、自分自身に向ける時だけ、どうしてこれほどまでに枯渇し、冷徹な沈黙に変わってしまうのか。

 

「……そう。それなら、もう一度そのツラを扉の代わりに蹴り飛ばしてあげようか」

 

 私は吐き捨てるように言った。箱をこじ開けるために。

 私に向けるその優しさを、1パーセントでも自分に分けてあげればいいのに。それをせず、ただ「大丈夫」という名の重石を積み上げ続ける彼女に、私は猛烈に腹を立てていた。

 

「琴音、ちゃん……?」

 

 友奈の笑顔が、凍りついたように静止する。私はその瞳の奥にある、今にも崩れそうな砂の城を見逃さなかった。

 

「鏡に言われた事、気にしてるの?」

 

「…………」

 

 私の問いに友奈は口を紡ぐ。大方、その通りだろうとたかを括る。

 

(言われたかどうかもわからない過去の人達に目を向けるのは、もう若葉ちゃんだけで十分だったんだけど)

 

 失われた人々のために戦っていた頃の若葉を思い出し、まさか友奈がそちら側に行くとは私は思っていなかった。

 若葉の事は口には出さず、次に私は千景へと目を向けた。

 

「千景さん。あなたなら……守っている人々にお前のせいだとか、恨むぞとか言われたらどうします?」

 

 千景は、私の唐突な問いに息を呑んだ。彼女の脳裏には、かつて自分が守ろうとした人々から投げつけられた、あの冷たく、鋭い言葉の刃が蘇ったのかもしれない。そして、もっと向こう側の過去も。

 私は今から千景が口にする事が何となく予想できた。私と千景はどこか似ていると勝手に思っている。そこには似たような過去があるから。私と千景の違いは救いの手を伸ばされたのが早かったか、遅かったかの差だ。それ故に自分自身にもこの問いを投げかけた時、私はこう答える。

 

「………多分…目の前が霞んで…気づいたら…手を出してると…思う。だって、私達は…命をかけて戦ってる。その事を…理解されないのは……辛いし、苦しいわ……」

 

 千景の言葉は、低く、湿った怒りを含んでいた。それは彼女がこれまでの人生で、身を削って体感してきた真実だ。

 

「そうですよね。それが普通の反応。……でも、友奈ちゃん。あなたは違うんでしょ」

 

 私は、再び友奈へと視線を戻した。

 

「友奈ちゃんは、恨まれても、憎まれても、それでも自分が悪かったんだって自分を責めちゃう。相手を許して、自分を許さない」

 

「………」

 

「沈黙は肯定と捉えるよ?」

 

 私の言葉に、友奈の肩が小さく震えた。

 千景さんが吐き出した、人間として当たり前の怒りと言う感情。そして、私が突きつけた、逃げ場のない問い。友奈の気持ちを楽にするには、鋭い事も言わなければならない。その事が私と千景の心を締め上げる。

 友奈は、自分の中に作り上げた完璧な勇者という偶像と、鏡のバーテックスが突きつけてきた、多くの者の醜い本音の狭間で、悲鳴を上げることさえ忘れていたのだ。

 

「……私は、」

 

 友奈の唇が、ようやく動いた。掠れた、今にも消えそうな声。

 

「私は……みんなのことが、大好きなんだ。……みんなが笑っていてくれるなら、私が何を言われても、何をされても、それでいいって……。……そう、思わなきゃいけないって……。私が我慢すれば、波風は立たないから。私が笑ってさえいれば、みんなも安心して笑えるから……」

 

 友奈の言葉は、自分自身に言い聞かせる呪文のようだった。

 奈良から四国へ。地獄のような光景を潜り抜け、絶望の淵を誰かのためにと泳ぎ切った彼女にとって、この丸亀城で得た仲間との平和な日々は、何にも代えがたい宝物だったのだろう。だからこそ、彼女は無意識に自分を……。

 

(やっと理解した。私がどうしてこんなにも今の友奈ちゃんが嫌なのか。自分のことを装置にしようとしていたからだ。それなら、私も?私も装置になろうとしていたの?)

 

 みんなの不安を吸い込み、代わりに安心を吐き出すための、完璧な勇者という装置。友奈の心がズキンと音を立てて痛むと同時に、私の心にも鋭い痛みが走る。

 たとえ心の中に、奈良で救えなかった人々の怨嗟が響いていても。これまで救えなかった多くの人達の怨嗟が響いても。それを表に出せばこの和が壊れてしまう。自分の小さな犠牲で平和が保てるなら、それこそが勇者の使命だと信じ込もうとしていた。

 

「……でもね、琴音ちゃん。積み上げても、崩れちゃうんだよ。自分のことを誰かに話そうとしても……崩れるの……」

 

 友奈は座り込み、ベッドのシーツを白くなるほど強く握りしめた。

 

「鏡に言われたこと……それが、嘘じゃないって分かっちゃうから。私がどれだけみんなのために盾になろうとしても、私の中に生まれちゃった私が、ずっと私を見て笑ってるの」

 

 友奈の瞳に涙が浮かぶことはない。心は悲しんでいるのに、涙を私と千景に見せることはしない。それはきっと、彼女なりの強がりとこんな時にも見せる私達への気遣いだ。

 泣けばいいのにと私は思うが、彼女のこれまでの人生がそれを許さないのだろう。誰かのために、皆の輪を乱さないために。そこだけは紛れもなく友奈の本質だった。私は諦めて友奈の言葉に耳を傾け続ける。

 

「私が……私が犠牲になれば、全部解決するはずなのに。どうして、こんなに苦しいんだろう。……私のやってることって、本当はみんなのためじゃなくて、ただの自己満足なのかな。……ただ、嫌われるのが怖いだけなのかな」

 

 理想論という名の城が、音を立てて崩れていく。

 その崩れた城を、何とか繋ぎ止めようとする一本の積み上げられた石垣。これまで友奈がしてきた事が、無駄ではなかったと証明する者が遂にその手を伸ばした。

 

「高嶋さん……私はあなたに救われたわ」

 

 千景が友奈の手に、自らの手をそっと重ねた。

 その指先はわずかに震えていたけれど、友奈の冷たくなった拳を包み込むには十分な温もりを持っていた。

 

「ぐんちゃん……」

 

「あなたのしてきたことが、自己満足? 嫌われるのが怖いだけ? ……もしそうだったとしても…そのおかげで私はここにいる。あなたの言う理想論に、私は居場所をもらったのよ」

 

 千景の声は、部屋の空気に染み渡るように静かだった。

 

「あなたが犠牲になれば解決するなんて、二度と言わないで。……だから、これまで高嶋さんが支えてきたものを一つでも……渡してくれたら…嬉しいわ……」

 

 友奈は、千景の言葉を一つひとつ噛みしめるように、俯いたまま静かに聞いていた。

 私は、扉の枠に背を預けたまま、そんな二人を眺めていた。

 

(……ひとまず、良かったのかな?)

 

 友奈にこの先、変化が起きるかはわからない。いかんせん、人というのは幼い頃から心根に持ち続けている純粋な想いを簡単には変えられないからだ。友奈の場合、それが「誰かが苦しい思いをするのなら自分が」とか「みんなの想いを無駄にしないために自分が我慢する」だったと言う話だ。けれど、少しだけでも自分の想いを打ち明けることの機会になれば良い。自分の思った事を口にするだけで崩れる関係性など、友奈は持ち合わせていない事に気がつくことが出来たのではあれば、彼女がこうして過去の怨嗟に囚われ、苦しんだ数日にも意味はあるだろう。

 

「友奈ちゃん。私もそうだけどさ。ここまで来たら、私達のために無理に笑ったりする必要はないよ。だって、私達が見たいのは友奈ちゃんが心の底から笑ってる姿なんだから」

 

「ぐんちゃん…琴音ちゃん……。ありがとう……」

 

 お礼を言う友奈に千景は、重ねた手を離さず、自分で顔を上げるまでじっと待ち続けていた。その横顔には、かつて自分が救われた瞬間の、切実な感謝が滲んでいる。

 一方で私は、床に転がった残骸——私が蹴り飛ばした扉を見つめて、少しだけバツの悪い思いをしていた。

 

(………一緒に直してくれる人はいるのかなあ…)

 

 友奈は千景を。千景は友奈を支えるだろう。どちらかが崩れてもお互いに支え合う。今回の一件で2人の絆は限りなく解けないものとなった。他の面々もそうだ。若葉とひなた。球子と杏。では、私には?

 

(…………やめておこう)

 

 一息ついて、私は友奈に乱暴な入り方をした事を謝ってから、先に部屋を出る事にした。

 私が扉の枠を越えたところで友奈に声をかけられた。

 

「琴音ちゃん!」

 

 振り返ると、力の戻った瞳で私を射抜いている。

 

「私、本当にもう大丈夫だから!ありがとう!」

 

 友奈の満面の笑みを見て、私はお返しとばかりに小さく笑う。

 

「最初の時と言ってる事変わんないよ」

 

 私が揶揄い気味にそう言うと、友奈はピースサインを私に向けた。そのピースサインを見て思った。彼女はもう、問題はないと。

 私もピースサインを返して、今度こそ部屋を出た。

 

「はあ、工具取りに行かないとって、詩音?なにしてるの」

 

 友奈の部屋から出てすぐの所で、詩音は部屋から私が出てくるのを待っていたかのように、フルートと楽譜を手にじっと立っていた。

 私は駆け寄って視線を合わせる。詩音の瞳には今まで見た事がないくらいの決意に満ちていた。

 

「お姉ちゃんには、私がいるよ」

 

 その言葉は、唐突で、けれど重たい石のように私の胸の奥深くに沈んでいった。

 

「……詩音」

 

 詩音は小さな手でぎゅっとフルートを握りしめ、まっすぐに私を見つめている。

 いつから彼女が見ていたかはわからない。しかし、友奈を救おうと躍起になり、扉を蹴り飛ばし、なりふり構わず立ち回っていた私の背中を、この子はどんな気持ちで見ていたのだろう。

 

「お姉ちゃんは頑張りすぎ」

 

「そうかな」

 

「そう」

 

 短い一言と同時に詩音が一歩踏み出し、私の服の裾をくいっと引っ張った。

 

「お姉ちゃんは1人じゃないよ。たまには私にも甘えていいんだから」

 

(……参ったな)

 

 友奈ちゃんの頑固さを笑っていたけれど、私だって相当なものだったらしい。妹にこんな顔をさせてしまうなんて。

 私は膝をついて、詩音を力いっぱい抱きしめた。フルートの冷たい感触と、詩音の温かい体温が混ざり合う。

 

「……ありがとう、詩音。そうだね。私には、詩音がいたんだっけ」

 

「そうだよ。世界で一番かっこいい妹なんだから!」

 

 詩音の誇らしげな声に、私の目尻が少しだけ熱くなる。

 友奈ちゃんには千景さんがいて、私には詩音がいる。希望の代わりだなんて言うつもりはない。希望もいて、詩音もいる。私はなんて幸せ者だろうか。

 

「よし! じゃあ今度、詩音のフルート、特等席で聴かせてもらうからね。練習付き合っちゃおうかな〜」

 

「えー、お姉ちゃん教えるの下手じゃん!」

 

「ひどいな! これでも上達したんだよ?」

 

 そんな他愛もない言い合いをしながら、私たちは廊下を歩き出す。

 背後では、遅れてやってきた若葉が壊れた扉を見て「な、何だこれは!?」と絶叫している声が聞こえたけれど、今は聞こえないふりをしておこう。

 

 そして翌日。

 ひなたも戻ってきて、いつも通り、皆で和気藹々と朝食を食べている時だ。友奈が箸を置いて、突然立ち上がった。

 そして、晴れ渡った空のように鮮やかで爽やかな笑顔で、声で。胸を張って声を上げた。

 

「私の名前は高嶋友奈!出身は奈良県!誕生日は1月11日!血液型はA型!趣味は、えっと、空手!好きな食べ物はうどん!!」

 

 友奈の突然の口上に私と千景。若葉以外はポカーンと口を開けて間抜けな顔を晒していた。それでも構わず、友奈は続ける。

 

「私のこと、みんなに知って欲しいんだ!だから…私はーーーー」

 

 その先の言葉。友奈の本心を聞き、球子と杏。ひなたと詩音は友奈に抱きついた。

 千景はその様子を微笑ましげに見つめ、私は若葉に耳打ちした。

 

「下手なカウンセリングは上手くいったんじゃない?」

 

「お前はやる事が極端だ」

 

 私がニヤリと笑みを浮かべたのを、若葉は苦笑いしながら鼻で笑い飛ばした。それから手を叩き、皆の注意を集める。

 

「友奈の調子が戻ったところでだ。大社から私達の休暇の許しが出た。明後日、約束通り私たちは海へ行く」

 

「「「おおっ!!」」」

 

 若葉からもたらされた吉報に、友奈、球子、詩音は目を輝かせた。

 

「と言うわけで、バーテックスの事は念頭に置きつつも、行く準備はしておいてくれ。以上だ」

 

 言い終わると、皆のボルテージが一層高まった。アウトドア民達は何を持っていくかで話は持ちきりだ。若葉が羽目を外すなよと釘を打つが聞こえてるのかはわからないほどの盛り上がり。

 久しぶりの休暇。最後の夏休みという少し嫌な言葉が脳裏によぎるが、口には出さずに飲み込む。

 その後は浮かれて買い出しに行った球子達を見送り、私と若葉、千景。ひなたは自室へと戻った。

 部屋で本を読んでいると、ノックも何もせずに若葉とひなたが入ってくる。先程とは打って変わって眉に皺を寄せ、困り顔を見せていた。

 

「どしたの」

 

 なかなか深刻そうなので、私が聞くと若葉はひなたと一言二言交わした後、私に用件を伝えた。

 

「琴音。……お前だけには伝えておく。大社は、明日攻撃がある事を前提で私達に明後日の休暇を与えた。切り札の用意はしておいてくれ」

 

「……やっぱりね。大社がただで休暇なんてくれるわけないと思ったよ」

 

 私は読んでいた本のページを閉じ、机に放り出した。

 「攻撃があることを前提に」——つまり大社は、明日の戦いで私たちがバーテックスを殲滅し、力ずくで平和を勝ち取った上でのご褒美だと言いたいわけだ。

 

「ひなたちゃん。……大社は、友奈ちゃんの状態が不安定なのは知ってるんだよね。バーテックス側から来るから、私達にはどうしようもできないわけではあるけど」

 

「そうですね。大社は知った上で、次の敵の大攻勢を退けろという命令を出しました……」

 

 ひなたは悔しそうに拳を握りしめている。

 彼女がどれだけ私たちの盾になって交渉してくれているかは、若葉の表情を見ればわかる。それでも通らない無理難題が来るということは、事態はそれだけ逼迫しているのだ。

 

「いいよ。ひなたちゃんが謝ることじゃない。……むしろ、はっきりしてて助かるよ。明日、敵を全部片付ければ、明後日は文句なしに海に行けるってことでしょ?」

 

 私はあえて軽く言ってみせて、椅子から立ち上がった。

 若葉が、厳しい眼差しを私に向ける。

 

「琴音。推奨はしたくないが、切り札は惜しみなく使う気でいてくれ。最終決戦だ。ここで負けては意味がない」

 

「わかってる。覚悟はしてきたから」

 

 私は若葉の肩を軽く叩いた。

 友奈がようやく自分をさらけ出し、みんなが明日への希望を抱いている。その輝きを守るためなら、私は鬼にでも竜にでもなって見せよう。

 

「若葉ちゃん。……海、絶対行こうね。みんなでたどり着くんだから」

 

「ああ。……約束だ」

 

 若葉は力強く頷いた。

 嵐の前の静けさ。

 窓の外、7月の突き抜けるような青空の向こう側に、すでにどす黒い滅びの足音が近づいているのを、私たちは肌で感じていた。

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