1939(昭和14)年 3月 満ソ国境線
曇天の空を切り裂くような飛翔音が響く中、関東軍第一戦車団 戦車第二連隊に所属する九七式中戦車改のキューポラから頭を覗かせていた畠中 勝雄中尉は地平線の彼方を見ていた。
地平線の彼方には、ソ連赤軍の砲兵陣地や歩兵部隊が展開しているであろう場所は、今まさに関東軍 重砲兵第一連隊と満州陸軍 第一砲兵団の一〇五mm榴弾砲による制圧砲撃を受けていた。
その光景に畠中は、複雑な思いを感じていた。
事の発端は、些細な事であった。いつも通りのモンゴル軍による満ソ国境線を越えての威力偵察であり、これを発見した満州国国境警備隊による小規模な銃撃戦は何時しか紛争状態になっていた。
元々満州国の成り立ちは、1911年に当時混迷を極めていた支那大陸に日・英・露共同出資により建国され、猛烈な独立戦争の末、今の満州国が出来上がったのであった。
しかし1917年に起きたロシア革命により、当時のロシア帝国は崩壊し、ソ連が建国された。
そしてソ連は、ロシア帝国が参加していた満州国を独立国とは認めないと一方的に宣言すると、幾度となく国境線で小競り合いが発生していた。
当初は誰もが一、二ヶ月で収束すると思われた小競り合いは既に半年を越えようとしていた。
戦闘当初、日本本土の陸軍省は関東軍に対して紛争の不拡大方針を示し、国境線での防衛に務めるよう命じていた。
しかしそれに反して、関東軍の一部参謀の暴走によりハルハ河を渡河しての攻勢を行った結果、主力師団であった第二十三師団を壊滅させてしまったのである。
更に関東軍は、これを現場に責任を負わせお茶を濁そうとしたため、陸軍省は激怒した。
関東軍司令官植田謙吉中将を監督不行届で更迭すると、作戦参謀辻政信少佐に対しては、勝手に大陸令を騙る命令を出した事により、軍規違反で拘束したのであった。
陸軍省は戦局を立て直すべく、新たに関東軍司令官に梅津美治郎大将を派遣すると、参謀長に東條英機中将を任命した。
「メモ魔」の渾名を付けられていた東條は、満州に着くと早速戦闘に参加した部隊から聞き取り調査を行うと、必要な戦力、物資等を陸軍省に対して速やかに輸送するよう電文を出した。
これを受け、陸軍省は新設されたばかりの機械化工兵を一個師団分送ると、満ソ国境線までの補給用鉄道網の敷設と野戦飛行場の拡充を行いながら、国境線での遅滞戦闘が行われた。
津波の如く押し寄せるソ連軍の猛攻を凌いだ関東軍と満州陸軍は、ソ連軍を押し返すべく全面攻勢に打って出たのであった。
河を挟んだ対岸の高地にある日満軍陣地へと砲撃が行われていたが、紛争当初に比べてその密度は明らかに落ちていた。
後方にある野戦軍司令部から前線視察に訪れていたジューコフ上級中将は渋い表情を見せていた。
本来なら現在行われている倍以上の砲撃が行われる予定であったが、年明けから始まった日満軍による反撃により補給に滞りが起きていた。
ジューコフは渋い表情のまま空を見上げた。
そこには本来飛んでいるであろう友軍機の姿は無かった。
ソ連赤軍空軍は師団相当の飛行隊を送り続けていたが、日満軍による反撃と同時に、日本陸軍航空隊、満州空軍の戦闘機隊との空戦により消耗していた。
それでもソ連赤軍空軍は、欧州方面から飛行隊を転属させ戦闘を継続した結果、日満両航空隊の消耗も相俟って一時は制空権が確保出来そうになっていた。
しかし先月から日本が海軍航空隊を投入した事により、遂にソ連赤軍空軍の戦力が枯渇し、各飛行隊は再編成を必要とされた。
これを機にソ連軍陣地上空に、日満航空隊が大挙押し寄せると、ソ連側の補給路への昼夜通しての爆撃や砲兵陣地への爆撃が行われた。
幾らジューコフが優れた指揮官でも、ここまでくると最早や手の打ちようが無かった。
「閣下・・・」
ジューコフの元に彼の副官が近寄って来た。
「モスクワから閣下へ召還命令が出ました・・・」
「ここまで、か」
ジューコフはそう呟くと、副官を伴い歩き出した。
それから間もなく、1940(昭和14)年 4月ドイツ仲介の元日ソ間で講和が行われ、半年に渡って行われたノモンハン事変は幕を閉じた。