1940(昭和15)年 8月
大本営統帥部に属する帝国陸海軍将官の間には重苦しいでは表現し切れない程の空気が流れていた。
その原因は、先月行われた北部仏印への進駐であった。
泥沼化した中国内戦介入に解決の糸口を見出すべく、近衛首相は中国大陸の南に突き出したインドシナ半島への帝国軍進駐を決定した。
フランス植民地のインドシナ半島は、日本が支援する北京の国民党政府と中国の正統政府の座を争っている南京の民主党政府軍への補給路になっていた。
それを断つというのが進駐の理由であり目的だ。
この先月にドイツへ降伏したヴィシー・フランス政府は日本軍の進駐を渋々承認した。
帝国軍のインドシナ北部進駐は、平和裏に行われるはずだった。
進駐の主役は帝国陸軍であった。
帝国海軍の役目は、陸軍を載せた輸送船団の護衛とトンキン湾に逼塞するフランス極東艦隊の監視であった。
だが進駐した帝国陸軍と仏植民地軍との間で、些細なことを原因にする武力衝突が発生した。
そして戦闘は、忽ちの内に日本軍が進駐した北部インドシナ全土へ拡大し、進駐は侵攻作戦へと変貌した。
その最中、フランス極東艦隊の戦艦が、遠巻きに監視していた帝国海軍南遣艦隊へ突如発砲。
戦艦の主砲戦距離としては目と鼻の先から放たれた三三センチ主砲の直撃を受けた「伊勢」、「日向」は忽ち船体から炎を吹き上げながら大破し、慌てて援護に入った「扶桑」、「山城」も有効的な反撃が出来ず大破させられ、這う這うの体で本土へ帰還する羽目になった。
これを受け、フランスの租借地である海南島を制圧していた海軍陸戦隊の上空援護を担っていた海南島支援部隊に属する空母「天城」、「龍驤」は指揮官である角田覚治少将の命令で、直ちに索敵機を放つと海南島を挟んで西に広がるカムラン湾を南方─シンガポールかフィリピンへ向け驀進中の仏艦隊を捕捉した。
それから小一時間後、大日本帝国海軍航空隊は1918年秋の第一次世界大戦停戦以来、32年振りに列強航空部隊との本格的な戦闘を開始した。
この戦闘で帝国海軍は、多くの戦訓を得ることになる。
仏艦隊へ攻撃を行った帝国航空隊は、結果的にこの艦隊を取り逃した。
仏艦隊は先進的なレーダーと高性能な無線機を搭載した戦闘機隊により、帝国海軍航空隊からの攻撃を妨害し続けたからだ。
この航空攻撃失敗を受け、帝国海軍は南シナ海に展開し、シンガポールの英国極東艦隊を牽制していた小沢治三郎少将率いる第二南遣艦隊が新月の闇夜を利用してフランス艦隊へ夜戦を挑んだ。
結果は惨敗だった。
フランス艦隊は艦載電探で日本海軍が誇る夜間見張員よりも早く小沢艦隊を発見し、砲弾と魚雷を見舞った。
先制された小沢艦隊は混乱し、同士討ちの醜態まで晒した。
インドシナ半島の戦闘は激化の一途を辿り、日本政府はヴィシー・フランス政府との取り決めを破って南部侵攻を決断。
近衛首相の決断は、東アジアと太平洋に激震を齎した。
進駐前から近衛政権の武断的行動を批難していたアメリカ合衆国と大英帝国は、石油と屑鉄といった戦略資源の対日輸出全面禁止と、在米英日本資産の凍結を実施すると発表した。
大日本帝国臣民は、自分たちが選挙で認めた政権が招いた事態の重大さに漸くきづいたが、もはや後の祭りだった。
戦いは更なる大きな戦いを呼び、歴史の歯車は唸りを上げて回転し、東洋の島国は転がる石のように戦乱への坂道を突き進んで行った。