1941(昭和16)年 3月
富士山の裾野に広がる富士演習場で、降り積もった雪を巻き上げながら走行する一団があった。
それは今まで中戦車しか保有していなかった帝国陸軍の戦車隊の中で、初めて重戦車を装備した部隊であった。
一式重戦車───後に太平洋戦争において開戦劈頭の南方作戦から戦争末期のマリアナ諸島防衛戦まで様々な改良を受けながら戦い抜き、連合国軍戦車部隊を幾度となく壊滅に追い込んだ戦車であった。
一式重戦車開発の経緯は、1939年のノモンハン事変終結まで遡る。一連の事変でソ連軍機甲部隊を相手に在満関東軍戦車隊は、歩兵と共同で戦い、多数のソ連製戦車を撃破した。
しかし事変の末期、ソ連軍が投入したある中戦車との戦闘で関東軍戦車隊は予想外の苦戦を強いられた。
今までのソ連製戦車と違い、強力な砲と強固な装甲を持ったこの戦車は、後にT34と呼称される物であった。
この時実戦投入されたのは、試作段階の物だったため関東軍でも何とか撃破できたが、撃破した車両を見聞したところ、自らが保有する九七式中戦車や開発途上の一式中戦車よりも砲も装甲も強力だということが判明したのであった。
更に事変終結後、ソ連の独裁者スターリンは日本と満州を牽制する目的でまだ試作段階であったKV-1戦車を満州国に贈ったのであった。
このKV-1戦車を見た満州国の政治家達は、この戦車を装備したソ連軍が国境を越えてなだれ込んで来ると考え、外交政策をソ連に対して融和政策に切り替えつつ、自らの宗主国でもある大日本帝国にこのKV-1戦車を送ったが、帝国陸軍はあまり関心を示さなかった。
もともと帝国陸軍内部における戦車は、騎兵の代わりであり、歩兵隊と一緒に戦闘する物という考えが大多数を占めていた。
しかしインドシナ半島進駐の際に発生した、メコンデルタ戦車戦で大敗した事により、機甲科将校を中心により強力な重戦車の開発・配備を望む声が日増しに増えていた。
特にメコンデルタ戦車戦で壊滅した第四戦車連隊を保有していた第一戦車師団からは、師団長自ら重戦車の配備を強く求めていた。
そこで陸軍省は、三菱に重戦車の設計・開発を依頼すると、僅か三ヶ月で設計を完了させると、その性能に満足した陸軍も直ちに生産開始を命じたのであった。
その結果、現在では満ソ国境線には満州国で生産された約三〇〇両の一式重戦車が配備されていた。
更に陸軍は、予てから永田鉄山が提唱してきた既存師団の完全機械化を開始した。
永田鉄山が陸軍の機械化を提唱し始めたのは、第一次世界大戦終結後であった。
欧州大戦後、宇垣軍縮により師団定数を減らした陸軍をかつてのような「訓練された精強な陸兵を主体にした部隊」を取り戻すことはできないと断言していた。
そんな状況で戦力を維持するために必要なのは、火力であり、機械による機動性と装甲であり、通信装備だった。
1910年代から1930年代まで続いた好景気は、相対的に陸軍予算を増大させ、彼の構想を後押しした。
また同時期に、進展した日本社会の自動車化も大きな原動力であった。
特に三菱、豊田、日産等はフォードやGM社で研修を受けた技術者達により量産性に優れ、安定した性能を発揮する小型自動車から大型トラックを生産し、軍部にも納入されていた。
これにより陸軍の機械化は順調に進んでいた。
一方今次大戦の主力兵器とも言える航空機に関して、陸軍は既に主力戦闘機を一式戦から川崎製の三式戦「飛燕」への機種変更を開始し、1941年末には全ての飛行戦隊の機種変更を終える予定であった。
しかし海軍航空隊では主力である零式艦上戦闘機である問題が発生していた。
それは空中分解問題であった。
元々軽く造られ、過剰なまでに肉抜きされていた機体は、1940年末頃から保有する航空隊で事故が相次いでいた。
加賀飛行隊に属する零戦二一型が降下途中で水平尾翼が吹き飛び、危うく墜落しかける事故があり、これを受け横須賀航空隊が同じ二一型で同じ条件下で降下したところ、突然空中分解し、搭乗していた特務士官搭乗員が殉職してしまったのである。
横須賀航空隊から報告を受けた海軍航空本部は、直ちに零戦を装備する飛行隊全てに飛行禁止令を出し、零戦による降下制限を掛けたのである。
しかし各飛行隊からは、これでは戦闘にならないと不満が噴出、九六艦戦に戻すよう訴える部隊が出始めたのあった。
これを受け、製造元である三菱は昼夜問わず原因究明に当たったが、遂に主任設計者である堀越二郎が過労で倒れてしまった。堀越の跡を継いで原因究明に当たった技術者の曽根技師は、原因を過剰なまでの軽量化とすると、航空本部に対して零戦の発動機を中島製「栄」エンジンから自社製である「金星」エンジンを18気筒化した「極星」エンジンに換装し、その分余ったリソースを機体構造の強化に回すよう強く進言した。
現状の社会情勢によっては、日米開戦も有り得ると考えた海軍は、これを許可すると現在生産ラインに乗っている全ての零戦を破棄すると、直ちに極星エンジンを搭載した零戦の戦力化を急がせた。
帝国海軍航空隊は聯合艦隊司令長官 山本五十六大将の大号令で、42年末までに軍用機三万機体制を整える事が決まっていた。
戦闘機の総数は一万機をその中で零戦が占める総数は四〇〇〇機である。
開発元の三菱航空機だけでなく、最大の航空機生産能力を持つ中島航空機も三菱からライセンスを受けて、改良型零戦をフル回転で生産していた。
しかし、三菱側の設計チームのオーバーワークを考えた海軍航空本部は試験運用中の川西航空機の試作局地戦闘機を増加試作機の名目で量産ラインに乗せたのであった。