夢魔さんは眠りたい   作:子守家守

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勇者ちゃんは目覚めない

「ドッペルゲンガーだってさ」

 

 ソウマの言葉にヤマノは首を傾げた。何の話だろうか。

 マンションでの襲撃事件から一週間後のことである。ソウマから連絡があり、ヤマノは彼と喫茶店で落ち合ったところだ。

 ヤマノより早く待ち合わせ場所で待っていたソウマは、ホテルスタッフの姿ではなく、クリーム色のデニムジャケットを羽織った恰好だった。インナーは黒のタートルネック。制服姿よりも雰囲気が柔らかくなったように感じる。

 

「どっぺる……え、何の話?」

「君を呪っていたあのおじさんの話。そういう種族なんだって」

 

 そう言ってソウマがコーヒーを啜る。今日はミルクも砂糖も入れていない。ブラックだ。前に会ったときは砂糖を二つくらい入れていた記憶があるけれど、その辺りのこだわりはないタイプなのだろうか。ケーキセットの紅茶を飲みながらヤマノはそんなことを考える。

 

「うーん、どこかで聞いたことがあるような……。あ、世界には自分のそっくりさんが三人くらいいるとか、その人に会うと死んじゃうとか、そんな話だった?」

「ホラーとかオカルトの導入だとそんな感じだね」

 

 テレビ番組かなにかで見たフレーズをヤマノが口にすると、ソウマが頬を緩めて頷いた。

 

「要するに、自分の分身を目撃するっていう超常現象なんだけど、その"そっくりさん"の正体を指してそう呼ぶこともある。つまり、姿を変える能力を持つ種族(シェイプシフタ)の中でも、特定の人間に変身することに特化した種族。それがドッペルゲンガーで……」

「それが、あのおじさんの正体。守衛さんに変身してたんだ」

「そうそう。そういうこと」

「別の誰かに変身できるって、他にも悪いことに使えそうな能力だよね」

「実際、昔はかなりあくどい使い方をしていたらしいよ」

 

 マグカップをソーサ―に戻したソウマが神妙な顔になる。

 

「彼、かなりの土地持ちらしくて、都内にもいくつかマンションを持ってるんだって。ヤマノさんの住んでるあのマンションもオーナーはあの人。定職はなくても不動産収入で食べていけちゃう人種だね」

「わぁ……、勝ち組さんだぁ」

「戦前からの由緒正しい大地主だったみたい。だけど、本人から話を聞いた感じ、どうもそれは彼のご先祖様が色々とダーティな手段で土地の権利を搔っ攫った結果なんだとか……」

「それ、ドッペルゲンガーの変身を利用して、ってこと?」

「うん。みたいだね。当時の正確な事情まではさすがにわからないけど」

 

 ヤマノもソウマも渋い顔。

 自分たちどころかあのおじさんも生まれる前の話だ。加害者も被害者もきっとお墓の下。そうだとしても、理不尽と思わずにはいられない。

 

「でも、じゃあ、"昔は"っていうのは?」

「今は個人情報の管理とか身分証明の手順が厳しいからね。姿かたちを真似るだけだと、悪いことをしてもどこかで足が着く可能性が高い。そういう意味で昔ほど無茶はできなくなったみたい」

「誰かに変身しても、大きな取引をするには書類とかで本人確認が必要、みたいな?」

「そういうこと。その辺りの時代の変化は彼も理解していたみたいでね、大っぴらに誰かに変身するような真似はしてこなかったんだってさ。人間としても怪物としても前科は無し。大人しいものだよ。だからこそ、誰にも正体を知られずに、今まで人間として生きてこられたんだろうけど」

 

 意外な話だった。もっと能力を濫用する危険なおじさんというイメージがあったのだが。

 ヤマノがそう感じてしまうのは、きっと初対面の印象のせいだろう。守衛に変身してソウマの首を絞めている姿が、ヤマノとドッペルゲンガーのファーストコンタクトだ。どう見たって危険人物。良い印象を持つ方が難しい。

 

「ただそれでも、種族に由来する本能的な欲望……、言うなれば()()()()が常に彼の中にあったみたいだね。変身して人前に出るようなことはしなかったけれど、自分の部屋でこっそりと誰かの姿に化けたりはしていたみたい。つまり……、あー、なんというか……」

「欲求の解消手段として、変身してた?」

「……まぁ、ストレートに言っちゃえば、そんな感じ」

 

 ソウマが気まずそうに目を逸らしてコーヒーを口に入れた。

 ヤマノはこてんと首を傾げる。何かおかしなことを言っただろうか。彼女はソウマを不思議そうに見つめながら、ショートケーキにフォークを刺して彼の話の続きを待つ。

 

「ともかく……、そういう欲求が積もり積もって、最終的に"これ"に行き着いたってわけだ」

()()()()()()……」

 

 ソウマがテーブルに置いた書類を見て、ヤマノは露骨に顔を顰めた。

 A4サイズに小さな文字がびっしりと並んでいる。書いてある内容は言い回しが難解な上にいちいち回りくどい。甲だの乙だの、前項だの次条だの、たった一行の中でさえあっちこっちに参照箇所がワープしている。迷路みたいな書類だ。

 

 その正体は、不動産賃貸契約書に付属する、賃貸物件の利用規約。

 ソウマが見せたのはその中のほんの一部、貸借人の個人情報に関する規定の部分だった。

 

 カッコの中にカッコが連続した挙句、詳細は別のページを参照しろなどと言ってくる冗長な文章が延々と続いている。どう頑張っても読んでいると目が泳いでしまう。

 眉間に皺を寄せて文章を睨むも、ヤマノは早々に匙を投げた。疲れた表情を隠しもせずに、渡された書類をソウマにつっ返す。

 書類を受け取った彼は、苦笑しながらその中の一枚をテーブルに置いて指差した。

 

「書き方が回りくどいけど……、重要なのはここの表現だね」

 

『この契約において得られた貸借人の個人情報について、建物所有者はその秘密を守り適切に管理しなくてはならない。

 ただし、この規定は、賃貸人が()()()()その個人情報を参照する限りにおいて、その利用を妨げるものではない』

 

 例によって例のごとく、契約書内の別ページやら関連法規の条項を参照させる指示文が連打されているのだが、その辺りをスパッと省略するとそんな感じの規定になるらしい。

 説明されても頭痛が痛いみたいな感じ。ヤマノは思わず額を抑える。

 

「ええと、この、"業として"っていうのは?」

「普通に捉えるなら、"事業として"って意味だね。つまり、マンションの管理運営に必要な限りにおいては、入居者の個人情報を利用することがあるよ、という規定」

「なら、普通じゃない捉え方は?」

「業と書いてカルマと読む、みたいな感じ」

「……。やっぱり釈然としない……」

 

 屁理屈だ。けれど、屁理屈を通すことで効果を発揮するのが呪いというものなのかも。

 マンションに入居する際、当然ヤマノもこの契約書と利用規約にサインしている。夢の中で勇者が言っていた、"名前を縛られている"というのは、どうもこのことを指していたらしい。

 

「これ、サインしちゃうと具体的にはどうなるの?」

「単純に他人の外見を真似るだけなら、この手の小細工は必要ないみたい。ただ、対象の個人情報に紐づける形でこういう契約を結んでおくと、外見からさらに踏み込んで、その人の内面までコピーできたりする……、っていうのがドッペルゲンガーのおじさんの証言」

 

「……それって、つまり、あのおじさん、人目に付かないところで私に変身して、こっそり私の心まで覗いて楽しんでた、ってことだよね」

 

 言葉にしてみて、一気に背筋が寒くなった。

 気持ち悪い。生理的な嫌悪感が足元から這い上がってくる。

 変態だ。変身欲求がドッペルゲンガーの本能だとしても、このやり方はダメだろう。アウトだ、アウト。完全にライン越えだぞ、この野郎。

 

「大丈夫?」ゾワッとしたところで彼が声を掛けてきた。「ごめん、変な話聞かせちゃったね」

「……ううん、平気。詳しい話を聞きたいって言ったのは私もだし。ソウマさんは気にしないで」

 

 深呼吸。それからフォークに刺さったケーキをぱくり。舌の上が甘い。ほんのり幸せ。

 ヤマノは沈みそうになる気持ちを切り替える。過ぎたことの一言で片づけることはできないけれど、ドッペルゲンガーの呪いはもう解けているはずなのだ。現在進行形の危機ではない。そう考えれば、この気持ち悪さも多少は……、本当に多少だけど……、軽くなる、かも。

 

 一週間前のあの日、ヤマノの部屋で二人が調べていたのは、"上京してきた前後のタイミングで、ヤマノが肉筆で名前を書いた"書類だった。

 夢の中の勇者のヒントから、自筆のサインが呪いの起点になっているとソウマが推測したからだ。前世の夢を見始めた時期もわかっているのだから、チェックするべき書類の作成時期もヤマノが上京した前後に絞ることができる。該当する書類はそこまで多くない。

 

 そこまでわかればあとはもう総当たりだ。

 条件に当てはまりそうな書類は、大学関連のものと東京での新生活に関わるものばかり。入学手続きの控えやら履修登録の案内、あるいはネット回線の契約だったり電気料金の口座引落依頼書などなど。そういった書類を精査して、おかしな箇所がないか探していく作業である。

 最終的にはソウマがマンションの利用規約の文面に違和感を覚えて、言い回しのおかしいところを発見したのだが、そこに至るまで実に疲れる作業だった。よくもまぁこんなわかりにくいところに呪いのキーワードを隠したものだと、ぐったりしながらヤマノは思ったものだ。

 

 ちなみに、解呪の手続きはさらにシステマティックで、賃貸契約を仲介した不動産会社に連絡を入れて、利用規約の疑問点を指摘し、入居時に書いた同意の撤回及び保留を申し出る、というものだった。

 当然というべきか、不動産会社はその受諾を渋ったのだが、ソウマが知人の法律家――オカルト関連の仕事を専門で請け負うという、界隈のプロフェッショナルがいるらしい――に依頼することで、半ば強引に手続きを進めたようだ。具体的なことはヤマノにもわからないが、その要請を受けて不動産会社が何かしらの対応をした段階で、ヤマノのサインを利用した呪いは効力を失ったらしい。

 

 なんというか、非常に現代的というか、リーガルな解決手段だ。

 

「この利用規約って不動産屋さんで書いたやつだよね。あの会社もグルってことかな」

「そこはまだ調査中。あのおじさんに協力者がいてもおかしくないし、オーナー権限で利用規約の作成に口を出して従わせただけって可能性もある」

 

 そう言ってソウマが眉を斜めにした。

 ブラックのコーヒーをマドラで無意味に撹拌しながら、彼は言いにくそうに続きを話す。

 

「ただ……、同じパターンで規約にサインをしていたのは、ヤマノさんだけじゃないみたいだね。つまり、彼が変身欲を満たすために、"ストック"していた相手が他にもいるってこと。もしかしたらあのマンション以外にも、そういう目的で入居者を募っていた物件があるのかも」

「それって、私たちを日替わりのオカズにするために、ってこと?」

 

 自然と声が低くなる。ソウマがそれに微妙な顔で頷いた。

 ヤマノは意識してゆっくりと息を吐き出した。あの野郎、もう一発ぐらい蹴りを入れてやればよかった。守衛からの変身が解けて、ヤマノの部屋の玄関で倒れ伏したドッペルゲンガーの姿を思い出す。気絶しているからと情けを掛けて追撃を止めたのは失敗だったかもしれない。

 

「いずれにせよ、そういう経緯でドッペルゲンガーはヤマノさんの内面に触れて……」

「勇者ちゃんの存在に気づいた、ってことね」

「あのおじさん、もともと鬱屈していたところがあったみたいだね。自分の種族の能力を隠して生きる生活に不満があったりとかさ。それで、まぁ、自分の道を突き進んだ勇者の人生が眩しく見え過ぎて、こう、弾けちゃったというか……」

「拗らせすぎ。迷惑すぎ。自分勝手すぎ」

「……ごもっとも」

 

 小さく鼻を鳴らしてヤマノは紅茶をぐいとあおった。いまいち美味しく思えない。マイナスの感情が舌を麻痺させている。良い香りが台無しだ。もう二、三個砂糖を入れてやろうか。そういう気分だった。

 憤懣やるかたないという彼女の様子に、ソウマが困り顔で肩を竦めている。

 

 結局のところ、あの男が抱いていたのは、記憶の中の勇者に変身したいという、ドッペルゲンガーの本能と彼自身の屈折した願望とが混ざり合った歪な欲望だった。

 しかし、勇者はヤマノの記憶の中にいるだけで、彼女がヤマノに代わって表に出てきたことなど一度もない。さすがのドッペルゲンガーも、現実に存在しない人物をコピーすることはできなかった。だからこそ、彼はヤマノの身体に勇者の人格を()()させようと画策していたわけだ。

 

 ヤマノのドッペルゲンガーとなることで、あの男と彼女との間にある種のパスが繋がっていた。

 彼はその経路を使って、彼女が夢の中で前世を追体験するよう呪っていたのだ。そうやってヤマノと勇者の境界を曖昧にしていき、勇者が彼女の主人格となるよう誘導していく。そういう目論見だったらしい。

 

「……それで、あの人はこれからどうなるの?」

「今は警察に逮捕されて取り調べの真っ最中。個人情報の不正利用とかストーカー規制法違反とか……、表向きの容疑はそんな感じ」

「その言い方、表になっていない容疑もあるんだ」

「その通り。同意も得ずに誰かに変身したり、特定個人を呪ったりしたことがそれだね。一般に公布されてる法律が想定していない権利侵害の類型だけど、こっちはこっちで表沙汰にならない方法で処分が下るはずだよ」

 

 曰く、警察やら裁判所やらの国家機関には、そういった怪物・魔法・超常現象が関わる事件を専門に扱う部署が存在しているらしい。もちろん、世間には公にされない形で。

 この手のオカルト的な犯罪を起こした人物は、罰金などの刑罰が科せられるほか、そういった組織の監視下に置かれるのが通例だという。やっていることが悪質であれば政府施設に拘禁されるケースもあるのだとか。

 

 それは要するに、人であれ怪物であれ混血であれ、罪を犯した対象を捕捉して処罰するシステムがこの国には構築されているということ。

 結構抜け目ないんだな、とヤマノはちょっと感心してしまう。被害に対する公的な救済手段が存在せず、取れる選択肢が泣き寝入りしかない社会よりかはよっぽど健全だ。

 

「だからまぁ、あとのことは警察とか法律の専門家に任せれば大丈夫。僕のほうからもそっち方面の知り合いに話を通してある。警察が聞き取り調査に来たり、民事の賠償請求の打ち合わせがあったりするかもだけど、そのくらいだろうね」

 

 そう言ってソウマは彼女にいくつか名刺を渡してきた。困ったときの連絡先、とのこと。書かれている肩書は、刑事やら弁護士やら無料相談所やら。その中には加茂クリニックの名刺もあった。なるほど、こういう形でオカルト界隈のネットワークが繋がっているのか。

 

「と、そんな感じになってはいるんだけど。ヤマノさん自身はどう思う?」

「どうって、なにが?」

「罪が軽すぎるだろとか、こっちは人格を消されかけたんだぞとか、そんな感じの不満はない?」

「うーん……、でも、表沙汰にならないだけで、裏には裏のルールがちゃんとあるんでしょ? それに則ってきっちり罰を与えますよ、っていうのなら、それに任せるのが妥当なんじゃないかな」

 

 そりゃ、もう一発くらいぶん殴ってやりたい気持ちは確かにある。けれど同時に、もう関わり合いになりたくないという気持ちもあって、両者を天秤に載せるとこちらの方が重くなるのだ。

 ちょっと……、だいぶ……、いやかなり、あの男と顔を合わせることに嫌悪感がある。言語化の難しい生理的な拒否感だ。敢えて言うなら、顔も見たくないほど嫌いな相手、となるだろうか。

 

 ヤマノがそう言うと、ソウマはあからさまにほっとした表情になった。

 一週間前、彼女がドッペルゲンガーを蹴り飛ばしたのは、正当防衛の範囲内ということで決着している。しているのだが、過剰防衛に当たるのではないかという議論も実のところあったのだ。

 キック一発とはいえ、相手の顎の骨を粉砕してしまっているのは、まぁ、確かにやりすぎの一歩手前と言っていいかもしれない。ドッペルゲンガーの量刑に不満を持った彼女が留置所に殴り込みにいかないか、結構はらはらしていたソウマであった。

 

「それじゃあ、これで一件落着ってことになるかな。もちろん、続報があればまた連絡するけど」

「うん、ありがと、ソウマさん。そういえば、これもまだ()()()()()()()()()の範囲内なの?」

「まぁね。安心してよ。今さら追加料金がどうとか言ったりはしないから」

 

 ソウマが微笑みながら言う。肩の荷が下りたというような柔らかい表情だった。

 

「ヤマノさん、最近はちゃんと眠れてる?」

「え、うん。呪いが解けた日から、ずっとぐっすり眠れてるよ」

「よかった。それが聞けたのが今日一番の収穫だよ。これでようやく仕事をやり遂げた気分になれる。こういう日は経験上、僕も良質な睡眠が取れるんだ。ほら、これでWIN-WINでしょ」

 

 テーブルの向こうでソウマが屈託なく笑う。黒のショートポニーが愉快そうに揺れていた。

 瞬間、ヤマノは自分の財布の中身を想像した。期せずして一か月の節約生活を送ったおかげで、生活費にはそこそこ余裕がある。頭の中のソロバンが、次の収入までに出費できる限度額を弾き出す。

 

 ……多分、大丈夫。

 自分でもびっくりするくらいの速さでその結論を導き出して、ヤマノはおもむろに口を開いた。

 

「でも、ソウマさん。その睡眠だって、誰かがいないと取れないのが夢魔なんでしょ?」

「ん、まぁそうだね。だから、これからバイト先に今夜の受付枠を――」

「その枠、私がもらうから」

 

 コーヒーカップを持ち上げかけた姿勢で、ソウマがぴたりと固まった。

 ぱちくりと二、三のまばたき。それから探るような視線でヤマノを見つめてくる。

 対するヤマノは澄ました顔を作って優雅に紅茶を啜ってみせる。ちょっと背伸びをした気分。けっこう決まったんじゃないかと心の中で自画自賛。

 

「えーっと、ヤマノさん?」

「マヤでいいよ」

「はい?」

「名前。呼び方」

 

 気合を入れて笑顔を作る。イメージするのは記憶の中の勇者ちゃん。

 あの子のことが嫌いなわけじゃないし、なんならヤマノだって彼女に憧れている。

 勇者ちゃんが時たま見せる笑顔は、世界一カッコいいって、信じているのは嘘じゃない。

 その最高にカッコいい笑顔を、目の前の恩人に向けて披露してやるのだ。

 

「だから、私にも良い夢を見せてね。素敵な夢魔さん」

 

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 山埜(やまの)摩耶(まや)が前世を夢に見ることはなくなった。

 

 記憶がなくなったわけではない。前世の記憶は今でも思い出すことができる。勇者の足跡を思い浮かべることも簡単。ただ夢の中で彼女の人生を追体験することがなくなっただけだ。

 つまりそれは、おかしな呪いを掛けられる前の状態に戻ったということ。異常から正常への回復であり、失ったものはなにもない。

 

 だというのに、彼女は喪失感を感じている。

 

 それはなぜなのか。

 ふとした瞬間、胸の中に空白が浮かんでくるたび、彼女は一抹の寂寥感を覚えながら自問する。

 

 きっとこの喪失感は、あの夜、夢の続きを見てしまったことに由来するものなのだろう。

 夢の終わりと目覚めがイコールではなくなったとき、彼女は前世と対話する機会を得た。

 それは、記憶の中の存在だった前世の人格に、彼女が初めて触れた瞬間だった。

 

 前世も、記憶も、過去のことだ。そうカテゴライズしてしまえば安全に処理できる。

 だけど、意思と、人格は、現在(いま)の時間軸に存在していて、過ぎ去ってなどいない。

 地続きの夢の中で、映っている人物が同じだとしても、それらはまったく別のものなのだ。

 

 だから、そうだ、この喪失感は夢を見なくなったことが原因ではなくて、

 夢の中で彼女の人格と会話する機会が失われたことによるものなのだろう。

 

 だけど、もしかしたら、夢魔の力に頼ればもう一度彼女に会うことができるのではないか。

 マヤのその問いに、友人の夢魔は首を横に振った。

 あの邂逅は、マヤと勇者の境界が曖昧になっていたために偶発的に生じたもので、彼が意図して発生させたものではない、と。

 

「似たような場面なら準備できなくもないけど、そこに現れるのは本物の勇者じゃなくて、僕が作り出した仮初の人格を持つ物語の登場人物(キャラクター)ってことになる。君が求めているのは、そういうことじゃないのだろう?」

 

 夢魔の男は申し訳なさそうにそう言った。

 その言葉にマヤは落胆を隠せなかった。その日の夜に夢魔が見せてくれた夢も間違いなく素敵だったのだけれど、それでも胸の奥で疼く喪失感はどうしても消すことができなかった。

 

 もう会えないのかな、とふとした瞬間にため息が零れる。

 彼女の意識はまだ自分の中にあるのだろうか。

 彼女の魂はまだ自分と一緒にいてくれているのだろうか。

 

 それすらもマヤにはわからなかった。

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 四月が終わり、五月に入ったある日、マヤは都内の電車に揺られていた。

 周囲に人の姿はない。同じ車両に乗っているのはマヤひとりだけ。

 珍しい、いつもはもっと混雑しているのに。

 リズミカルな駆動音が耳に心地いい。座席にもたれていると眠くなってきそうだった。

 

 ポケットになにか入っている。取り出してみると、映画のペアチケットだった。

 そうだ、休みだから映画を見に行こうとしていたんだ。

 だけど、誰と?

 けーちゃんには用事があると言われて断られた気がする。

 他に誘えそうな友達って、誰かいたっけ?

 

 車内にアナウンスが響く。

 聞き覚えのある駅名が耳に入った。どうやら次の停車駅らしい。

 電車の減速を感じる。ドアが開いた。マヤはチケットをポケットに戻して降車する。

 

 降りたのはソウマの働くホテルがある街だった。

 駅にも街にも人の気配はない。閑散としている。まだ昼間だからだろうか。

 風の音を聞きながら、がらんとした街角を歩いていく。

 自分の足音がいつもより綺麗に反響している気がした。

 アスファルトに染み込んだ不協和音の汚れが、今だけはすっかり洗い流されたみたい。

 

 ホテルのラウンジでソウマが待っていた。

 待ち合わせをした記憶はないけれど、そこに行けば会える気がしていた。

 テーブルを挟んで向かい合わせに座る。

 ポケットからチケットを取り出して、それをテーブルの上に滑らせた。

 

「これはなに?」

「映画のチケット。一緒にどうかな」

 

 ソウマの指がチケットを拾う。マジシャンみたいにくるくる回して目線の高さへ。

 そういえば彼の趣味も知らないな、と思う。映画が嫌いな人じゃなければいいけれど。

 ああ、でも、映画の途中で居眠りしちゃうことは絶対ないっていうのはわかる。そういう体質なんだもの。うん、そこは加点するところかも。

 

「ふーん……、すごいね、NASAのチケットだ」

「NASA? あれ、そんなタイトルだっけ?」

「ほら、月面行きの航宙券だ。品薄って聞いてたけど、よく確保できたね」

 

 テーブルを滑ってチケットが返って来た。

 目を凝らして受け取ったそれの表面を見る。確かに月と宇宙船のイラストが描いてある。

 十七時発の月世界行き。到着時刻は書いてない。

 壁掛けの時計を見ると、時刻はまだ十六時。良かった、まだ間に合う時間だ。

 予定とはちょっと違うけど、これはこれで楽しそう。

 チケットを無駄にしたくはないし、急いで港に行かないと。

 

「でも、月までどのくらいで着くのかな。明日の講義には間に合わせたいけど」

「さぁ……。でもほら、もう大気圏は抜けたみたいだよ」

 

 気が付いたときには、二人はもう宇宙船の座席に収まっていた。

 ペアシートの隣に座ったソウマがマヤの横にある窓を指差した。

 飛行機みたいな機内から窓の外を覗き込む。真っ暗な宇宙にきらきらと星が輝いている。

 後ろのほうに視線を巡らせると、視界いっぱいに地球の青が浮かんでいた。

 

 じっと見てると上下の区別がつかなくなる。

 宇宙なんだから、それはきっと普通のこと。

 地球は寂しい星だなんて誰が言ったのだろう?

 あの透き通るような青さに人間の感情を当てはめるなんて、結構な傲慢なんじゃないかな。

 

「あ、宇宙猫だ」

 

 暗闇の彼方から茶色の猫が泳いでくる。

 地球(ボール)にじゃれつきそうなくらい巨大で、目を見開いた奇妙な表情をしている。

 宇宙船のすぐそばをすれ違った。

 ほんの一瞬、目が合ったかもしれない。猫パンチが飛んでこなくて助かった。

 あの子はこれから地球に降りて、きっと次の映画の怪獣になるのだろう。

 ちょっと可愛すぎる? それはそうかも。

 

「時間が気になるなら、いっそ船長さんに聞いてみようか?」

「うん、そうだね。それがいいかも」

 

 シートベルトを外して座席を立つ。無重力を泳いで宇宙船の先頭へ。

 コックピットのドアをノックする。返事はなかったけれど、鍵の外れる音がした。

 隙間を作って中を覗く。計器に向かい合う人の姿があった。

 あの人が船長さんだろうか?

 

「すいません、到着時間ってどうなってます?」

「月まで、あとどのくらい?」

 

 二人が声を掛けると、コックピットシートの船長が小さく肩を揺らした。

 細身の腕がコンソールを操作する。すると、マヤたちの後方で空気の抜ける音がした。

 振り返る。機内の側面のエアロックが開放されていた。外部に繋がるタラップが見える。

 

「もう着いてるよ」

 

 コックピットの暗がりから船長の高い声が響いた。

 マヤはもう一度コックピットに目を向ける。船長の姿をしっかり見ようとする。

 意外に小柄だ。シルエットが細い。顔はよく見えないけれど、もしかしたら、女性かも。

 

 それから、なにより目を惹いたのは、太陽のように燃える赤い髪。

 

「降りようか」

「あ、うん……」

 

 踵を返したソウマがさっさと宇宙船から降りていこうとする。

 ほんの一瞬ぼんやりしてしまったマヤは慌てて彼を追いかけようとした。

 その背中に、コックピットから声が掛かる。

 

「長かったはずの旅路も、振り返ってみると案外あっという間だよな」

「え?」

「良い旅を、マヤ」

 

 後ろ髪を引かれた気分。

 咄嗟に振り返ろうとした瞬間、宇宙船が大きく傾いた。

 ターンをしくじってスリップする。

 巨人に投げられたみたいにタラップの向こうへ放り込まれた。

 頭からゆっくりと宇宙に落ちていく。

 ゆっくりなのは、月の重力のせい。

 

 足元の天井に船長が顔を出す。

 赤い髪が靡いている。

 懐かしい顔がようやく見えた。

 彼女が手を振る。

 マヤは手を振り返す。

 

 だけど、二人の距離はどんどん離れていって、

 落下スピードはだんだん速くなって、

 それでも最後には、

 すとん、と

 軟着陸。

 

「ん……ぅ……」

 

 マヤはそこで目を覚ました。

 小さなあくび。それから無意識の伸び。

 しょぼしょぼした瞼を持ち上げて、横になっていた上体を起き上がらせる。

 ベッドの上だ。見慣れた壁の色は自分の部屋のもの。

 近くには誰もいない。

 それはそうだ。自分の部屋で寝ていただけなのだから、ひとりなのは当然だろう。

 

「えっと……、なんだっけ……」

 

 とりとめのない思考が頭の中で遊覧飛行している。

 さっきまで見ていたはずの夢の内容は、もう思い出すこともできない。

 それが普通。夢なんて本来はその程度のもの。

 

 だけど、なんだろう。

 良き夢の残り香だけが、胸の深いところをくすぐっている。

 

「変なの」

 

 不意にくすりと笑みがこぼれた。

 なにかが腑に落ちたような不思議な感覚。

 でも、それだけで、ちょっとは前向きに今日を生きられる気がした。

 

 

 

 

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