五月の前半、山埜摩耶の日常は矢のように慌ただしく過ぎていった。
約一か月分のスタートダッシュの遅れを取り戻すためのスプリントである。うつらうつらとさまよっていた自動操縦のドローンを手動操作で軌道修正するようなものといってもいい。遠回りしたことで見つかったものも確かにあるのだけれど、それはそれとして失われた時間が存在するのも事実だった。
モザイクみたいにぼやけている友人の顔と名前をどうにか一致させて、聞き流してしまった講義の内容を追いかけて、それから、ミミズがのたうつようなノートの内容を解読して……。そうこうしているうちに、五月の上旬はあっという間に過ぎていってしまった。
そして、月の半ばも過ぎたころ、ようやく身の回りのあれやこれやが落ち着いてきたマヤは、ふと気づく。
「なんだか周りのみんなのほうが私よりも忙しくしてるような?」
「ほーん……、そりゃそうじゃろなぁ」
マヤの呟きに同じテーブルに座ったけーちゃんが気のない返事を返した。頬杖を突きながらタブレット端末を眺めている。片側の耳にはイヤホン。ぞんざいな対応だけど、それを許容できるくらいには気安い間柄である。
平日の夕方、自宅のリビングでのことだった。マヤとけーちゃんは現在、二人でマンションの一室をルームシェアしている。
四月の事件の後、マヤは結局、以前のマンションから引っ越すことになった。オーナーが逮捕されて周囲がごたごたしていたし、あの日明らかになったオーナーの所業を考えると、普通に暮らそうとしてもむずむずするような居心地の悪さを感じてしまったからだ。
そんなようなことをマヤが漏らすと、けーちゃんは即決でルームシェアの提案をしてきた。どうやら彼女も上京して早々ながら引っ越しを計画していたらしい。マヤの事情は彼女にとっても渡りに船だったようだ。
結果、さくさくと話は進み、二人は都内の学生マンションの一室を家賃折半で借り受けることとなった。個人が負担する家賃は前の住居よりも安く、それでいて広さや部屋数といった居住環境は向上している。これなら元のマンションの事情を抜きにしても引っ越して正解だったといえるだろう。
唯一の懸念といえば、同居人と上手くやっていけるのかというところだが、今のところマヤとけーちゃんはひとつ屋根の下で平穏無事に生活を営むことに成功していた。
けーちゃんは常日頃からどこかに遊びに出ていることが多く、タイミングの問題でマヤと顔を合わせない日も結構あるのだが、そういった生活サイクルのズレが却って良かったのかもしれない。
「そりゃそうだ、って……、どういうこと?」
「どういうこともなにも、アンタどこのサークルにも入ってないんでしょ。大学行っても講義受ける他にやることがないとなりゃあ、そりゃ周りの人間が忙しそうに見えるっての」
「……サークル……?」
「講義が終わったあとに忙しそうにしてるヤツはさ、すぐにサークルに顔を出そうぜってヤツか、そうじゃなきゃどこぞでバイトに勤しんでるヤツだろうて」
「……バイト……?」
「おい、なんじゃいその『そういえばそんなのもあったような』みたいな顔は」
タブレットから顔を持ち上げたけーちゃんが胡乱な視線でマヤを射抜く。
図星だった。引っ越しやらのごたごたに加えて遅れ気味だった講義に追いつくのに手一杯で、サークルやらバイトやらはマヤの頭からすっぽりと抜け落ちていた。
彼女は「むぅ」と頬を膨らませ、怪獣マグカップのホットミルクをちびちびと飲みながら、上目遣いでけーちゃんに問いかける。
「でも、もう新歓とかも終わってるよね? こんな時期にサークルに入っても大丈夫なのかな」
「そんなん平気平気、気にしなさんな。むしろな、新しい子が入るっていったら、飲み会の口実が増えたってみんなして喜ぶに決まってるって」
「そんなものかなぁ」
「これ、実体験だから」
「けーちゃんってどこのサークルに入ってるの?」
「テニサー。男女混合のな」
「わぁ……。ちゃらい響き」
「ちゃらくて悪いか? 我JDぞ」
そう言ってけーちゃんは口を斜めにする。マヤの偏見を否定しない辺り、それほど真面目にテニスに取り組んでいるサークルではないのだろう。テニスサークルを名乗る集まりは学内に三つか四つあると聞いたことがある。きっとそれぞれで音楽性が違うんだろうな、と想像する。
「なんならマヤも私のトコに入る? 知り合いがいれば入りやすいっしょ」
「うーん……、そう言ってくれるのはありがたいんだけど。でも私、上手く力加減しないと壊しちゃいそうだから、やっぱりやめておくね」
「え、なにそれ。何を壊すつもりなのさ。実はチャラ男殲滅思想過激派とか?」
けーちゃんが大袈裟に驚いたジェスチャをする。その仕草にマヤは小さく首を傾げた。
「人じゃなくて道具のこと。ラケットを使う球技は昔から苦手なの。勝負に熱が入ると、つい思いっきり振り回しちゃって。それでいつも道具のほうが耐えきれなくなっちゃうから」
「ああ、そういう……。てっきり軽薄な男を物理で再起不能に追い込むぜみたいな話かと」
「けーちゃん、私のことをなんだと思ってるの?」
「だってあんた、ストーカーの顔面を粉砕したせいで前のマンションを追い出されたんでしょ? だから、気に入らない男に対して容赦のないタイプなんじゃないかって」
「話がねじ曲がって伝わってる……」
前に説明したときに言葉足らずだったのだろうか。いや、そんなことはないはず。
「そうだったっけか。まぁ些細な勘違いだよな、うん」
「本当に些細かなぁ」
「そんなことよりサークルだよ、サークル。運動系よりも文化系のほうがいいか? だったらほら、マヤの趣味的にさ、映画研究会とか怪獣愛好会とか……」
と、そこまで言ってから、けーちゃんは不意に口を閉ざした。
「……いや、ごめん、今のなしで」
「え、なんで?」
「あんたがその手のサークルに入会したら道具とは別のものをクラッシュしそうだわ」
「意味わからないんだけど」
「わからないままのマヤでいて欲しいよ、私はさ……」
軽く息を吐いてかっこつけた雰囲気を出すけーちゃん。実際には全然かっこよくないし、言ってることも全然伝わっていないのだが。
ただまぁ、この手の空気になったときは彼女の態度を追及しても意味がないことがほとんどだ。たいていはしょうもないノリでの発言でしかない。彼女と一緒に生活していれば、そのくらいのことは学習することになる。する羽目になる、と言ってもいいかもしれない。
「ま、実際のところ、マヤにやりたいことがあるなら、それができるサークルに入ればいいんじゃないの? 特別やりたいことがないなら、無理に入ることもないべさ」
「それはそれで時間がもったいない気がする」
「だったらバイトだ、バイト。なにをするにしても金があって困ることはないっしょ」
けーちゃんの視線が手元のタブレットに戻る。会話が途切れた。イヤホンは相変わらず片耳だけなので外界との接触を断ってはいないようだけれど。
ホットミルクを飲み終えたマヤは怪獣マグカップをキッチンに洗いに行く。シンクで水洗いを済ませてからテーブルに戻っても、同居人はタブレットを眺めたままだった。ふと興味を覚えて彼女の後ろに回り込む。その動きにけーちゃんも気づいているようだけれど、咎められることはなかった。
肩越しにタブレットの画面を覗き込む。映っているのはカラオケルームだろうか。実写ではなく、バーチャルな背景画像だ。その中心で青い髪の女の子がマイクを握っている。静止画ではない。3Dのキャラクタが滑らかに動いている。
「アニメ?」
「うんにゃ、配信。Vチューバ―」
「歌うたってるんだ」
「そう、四十八時間耐久カラオケ企画。いやぁ、面白いんだけど追いかけるのも大変なんよ」
時間がいくらあっても足りないぜ、とけーちゃんが楽しそうにぼやく。
そういう時間の使い方もきっと悪いものではないのだろう。自分で楽しいと思えることに時間を費やせるのなら、サークルやらバイトやらにこだわらずとも、学生生活を謳歌していると胸を張って言ってしまっていいはずだ。
けーちゃんはいつもアクティブで、楽しいことに積極的にダイヴできる身軽さを纏っている。マヤは彼女のそういうところが好きだし、もっと言えば尊敬だってしていた。
……でも、四十八時間は見る方も配信する方も大変すぎじゃない?
さすがにそうは思うものの、楽しんでいる友人に水を差せないマヤだった。
………
……
…
鶏ガラ、玉ねぎ、セロリ、パセリ、ローリエ、粒胡椒。
「"猫のはじめる商売として……"と」
口ずさむのは子どものころからお気に入りのフレーズ。寸胴鍋にお湯を張って、弱火でコトコト三時間。キッチンに持ち込んだ椅子に腰掛けて、のんびり本を読みながら、ときどき鍋を覗いてアクを取る。聞こえてくるのはふつふつとお湯の表面が揺れる音。そのリズムが楽しくて、自然と頬が緩みそうになる。
ソウマはスープ作りが好きだ。
誰かにそれを伝えると、結構な割合で『料理が趣味なんだ』と思われてしまう。だけどそれは大いなる勘違いだ。むしろソウマとしては『スープさえあれば他の料理が多少雑でも食卓の体裁を整えることができる』という思想を持っているので、スープ以外の料理は手を抜きがちなのが実情なのに。
長年の経験によると、どういうわけか『スープを作れる』は『料理を作れる』とイコールで捉えられてしまうらしい。理不尽だ。たとえばだけど、『野球が好き』と言っても『球技が趣味』にはならないのが普通だろう。そういう正確で繊細な区別を是非ともスープと料理の関係にも当て嵌めてもらいたいものだ。
時計を見る。鍋を火にかけてから一時間ほど経っていた。アクを掬って火加減をチェック。湯気から煮込んだ材料の香りが漂ってきている。
ふと、ズボンのポケットでスマートフォンが震える気配。アクを捨てたお玉をお椀に戻してから端末の画面に視線を落とすと、新着メッセージの表示がポップしていた。
「どうしたものかな……」
ソウマはスマートフォンを眺めながら顎に指を当てた。
マヤがアルバイトの斡旋を頼んできた理由はわかる。ソウマの持つ人間社会とは別のコミュニティとの繋がりを求めてということだろう。事実、彼にはそういった混血や怪物の血筋のコミュニティに伝手があるし、そこで行われている人材の募集についても心当たりがある。
「だけどなぁ、モンスター退治はないだろうに」
ひょっとして彼女は、現代日本の怪物界隈について致命的な勘違いをしているのではないかと懸念してしまう。アンダーグラウンドな世界であることは否定しないが、正体不明の怪物が日夜そこら中に跋扈しているわけではないのだ。もちろん、ファンタジー的な意味での冒険者だとか魔物ハンターみたいな職業も存在しない。
……とはいえ、マヤと彼女の前世のことを考えると、そういう世界観の次元もどこかに存在するのかもしれない。幸か不幸か、ソウマの知る限り、まだこの世界はその手の異世界とは接触してはいないはずだけれど……。
それはさておき、マヤのアルバイトの話だ。
コンロの火が揺らめくのを見つめながら、腕を組んで考える。腕っぷしに自信がある、と言われたが、だからといって殴る蹴るの喧嘩商売を紹介できるわけがない。ド直球の暴力装置を求める人材募集もなくはないのだが、その手のビジネスにカタギの女子大生を送り込むのはさすがにダーティが過ぎる。
しばらく考えて、ひとつ心当たりが浮かんだ。
基本的には暴力の行使は無し。場合によっては身に降りかかる火の粉を払う必要があるかも、くらいの危険度だ。一応、人間社会の法規範に照らしても適法の範囲内になる仕事である。
事業主はソウマとも知り合いで、常日頃から人手不足でぶつくさ言っているのを知っている。というか、ソウマもたまにピンチヒッターとして声を掛けられることがあるくらいだ。頻度としては年に四、五回くらいだろうか。改めて考えるとけっこう多いかも。
実際に採用されるかはさておき、紹介するくらいならすぐに先方にも話をつけられるだろう。ソウマは開いたままのメッセージアプリをタップする。
軽快な送信音がキッチンに響いた。ソウマが彼女に送ったのは簡潔な一文。
【それなら、探偵の助手なんかはどうかな?】