フェアリィ・クレイドル。
ソウマが勤めるホテルの名称である。表向きは普通のシティホテルだが、スタッフに特殊な血筋の者が多く、彼らによる
フロントで来訪を告げたマヤは、エレベータで地下へと案内された。降下するエレベータが止まったのは地下二階。開いた扉の向こうは、地上階と比べると質素な雰囲気の廊下だった。照明も絞られている。しかし、じめじめしていたり薄汚れているわけではない。むしろ清掃は隅々まで行き届いている様子。
バックヤードというわけではなさそうだ。廊下にいるのはマヤだけで、周囲に従業員の気配はない。背後でエレベータの扉が閉まる。冬のような静けさが四方からすり寄ってくる。
フロントで指示された通りに廊下を進む。いくつか扉を見つけたが、そのどれにもネームプレートは掛かっていなかった。それらを横目に見ながら廊下の奥へ。
廊下の終点、突き当りの扉が目的の部屋だった。真鍮のプレートが掛かっている。『B221b』と刻まれていた。部屋番号だろうか。シンプルに解読するなら、地下二階の21号室bといったところ。ただ、ここまで廊下を歩いた感じ、この階に二十も部屋があるようには思えなかったけれど。
意識して背筋を伸ばしてから、扉をノックする。
「どうぞ」と部屋の中から返事。涼やかな女性の声だった。
扉を開ける。内側から眩い光が溢れてきた。思わず目を細める。薄暗い廊下とは打って変わって、真昼のように明るい照明だった。けれど、その明るさにもすぐ目が慣れる。
奥行きのある広い部屋だった。中央に低いテーブルとそれを囲うように接客用のソファが二つ。左手の壁にはスチール製の書架が並んでいる。正面の奥まったところに大きめのオフィスデスク。『所長』の三角席札がこちらを向いていた。
「こんにちは、あなたがヤマノさんね。そちらに座ってくださいな」
そう言ってオフィスデスクに座っていた女性が立ち上がる。黒髪を腰まで伸ばしたほっそりとした女性だ。顔立ちは西洋風で、ドールのように冷たく整っている。見た目は若い。マヤよりは年上に見えるけれど、それでも二十代の半ばくらいに見えた。デスクを迂回してこちらに近づいてくる。歩き方に品があった。どこか貴族的な印象。
美人さんだな、とマヤは思う。見つめていると吸い込まれそうな引力がある。促されて接客スペースのソファに腰掛けた。テーブルを挟んで対面に彼女が座る。上品な微笑みが正面に浮かんでいる。
「はじめまして、ランカと申します。ソウマくんから聞いてるかしら?」
「はい、探偵さんなんですよね」
「そうね。だけど正確には、名探偵さんだから」
「え?」
「ただの探偵ではなくて、名探偵。そう呼んでくれると嬉しいわ」
一瞬、反応ができなかった。ジョークだろうか。笑った方がいい? でも、目の前の彼女は一分の隙も無いパーフェクトスマイルを崩していない。つまり、大真面目に言っているのか、それとも鉄面皮でからかわれているかの二択ということ。どっちにしても曲者だ。
「用件はアルバイトの希望よね。もちろん大歓迎。でも、注意しないといけないことがいくつかあるから、まずはそこから説明していきましょうか」
目を丸くしたマヤを気にもせず、ランカがマイペースに話を進める。
彼女の運営している探偵事務所は、法人登記もされているれっきとした会社であるらしい。オフィスの壁の高いところには探偵業届出証明書なる証書も掲げてあった。発行者として公安委員会の朱印が押してある。お上の許可を取ったうえで行われているお仕事というわけだ。
つまりそれは、探偵業を行う上で、国の定めた法的な拘束を受けるということ。正直、マヤには探偵の仕事に関する法律の知識なんてまるでないのだが、ランカの説明によるとこまごまとした実務上の規定がいろいろとあるらしい。
「それを全部覚えてね、っていうわけじゃないわ。絶対に抑えておくべきことは雇用契約書に書いてあるから、まずはそれをしっかり確認してもらうところからね。あとのことは実地でおいおい覚えていけばいいから」
そう言われて差し出された契約書をマヤは目を皿にして読み込んだ。迂闊なサインをして痛い目を見たことは記憶に新しい。ソウマに紹介された仕事とはいえ、ここで腑抜けたチェックをしてしまうようではあれはなんのための経験だったのだという話だ。
業務内容には書類の作成、整理、および現場での調査とあった。張り込みや尾行といったワードも散見される。不謹慎かもしれないけど、ちょっとわくわくするかも。
「しばらくは仮採用という形になるわね。書類仕事は私が見てあげるから安心して。現場に出るときは先輩とコンビを組んでもらうわ。言い方は悪いかもしれないけれど、あなたが問題を起こさないかしっかり監視させてもらいます」
「採用試験みたいなものですか?」
「そういう面もあるけれど、やってもらうお仕事自体はクライアントから正式に請け負った依頼です。仮採用だろうとアルバイトだろうと、やるからには責任をもって任務に当たるように」
「よろしい?」とランカが薄く笑う。威圧感はないけれど、有無を言わせない迫力があった。やはり上流階級のにおいがする。前世で会った貴族に近い雰囲気。現代日本ではけっこう貴重な属性ではないだろうか。
「なにか質問は?」
「ランカさんは人間ですか?」
「違います」
タイムラグのない返答。それを問われることがあらかじめわかっていたかのよう。
仕事には関係のない質問と言われればそれまでだけど、彼女は気を悪くした様子もなく、三日月の形にした唇を人差し指でくいと持ち上げた。白い歯が見える。エナメルが輝いていた。綺麗な歯並び。けれど、犬歯の大きさに違和感。鋭く長い。まるで牙だ。
「見ての通り、吸血鬼です」
「わぁ……。はじめて会いました」
彼女の言葉がすとんと腑に落ちる。見た目は人間と変わらないけれど、纏っている雰囲気がとてもそれらしい。だけど、その感覚はたぶん偏見。だって、マヤは前世でさえ吸血鬼に会ったことはないのだから。吸血鬼に対する先入観は、間違いなく現代のサブカルチャに影響されたものだ。
「ヤマノさんは……、人間かしら」
「はい」
「うん、やっぱり。純粋な人間でしょう?」
「そうですね」
マヤを見つめるランカが目を細めた。なにかを確かめるような視線だった。
「だけど、ぴりぴりするわ」
「ピリピリ?」
「肌がね。こう、ちくちくぴりぴり。あなたのことを警戒するようにって、私の感覚が主張しているの。珍しいわ。ヤマノさんくらいの年齢の人間にこういう感覚を覚えるのは、本当に久しぶり。ええ、とても興味深いわ」
吸血鬼が微笑んだ。
優しい笑顔だった。獲物を見つけたときの笑みではない、と思いたい。
………
……
…
さっそく仕事をひとつ任された。
地下の事務所から地上に戻ったマヤは、ホテルを後にして最寄りの駅へと向かう。指定の場所で先輩のアルバイトと落ち合うようにという指示だった。目的地は電車で三駅の距離。二十分もせずに着くだろう。
仕事の内容は家出人の捜索らしい。ランカからは鍵を一本渡されていた。何の鍵かは聞いていない。詳しいことはこれから合流する相方が知っているという話だ。
使い方がわからなければ持ち逃げもされないだろう、という判断か。つまり、まだそこまで信用されていないということ。だけど、そのくらいの用心深さはむしろ当然だと思う。もしかしたら、単に説明が面倒だっただけなのかもしれないけれど。
指定の駅で電車を降りて、改札口から離れた場所の駐車場へ。五、六台も停まればいっぱいになりそうな狭い駐車場だった。そこのフェンスに男がひとり背中を預けている。
見知った顔である。ソウマだ。ランカからは彼が今回の相方となる先輩アルバイトだと聞いている。マヤはほっと息を吐いて、早足で彼に駆け寄った。
「やぁ、お疲れさま。採用面接はどうだった?」彼が軽く手を挙げた。
「面接? うーん、そういう雰囲気じゃなかったけど。とりあえず、仮採用にはなったみたい」
挨拶をしながら近づき、預かっていた鍵を手渡す。
ソウマがそれを一瞥してからポケットに入れた。
「あと、探偵じゃなくて名探偵だって」
「うん?」
「ランカさん。自分でそう言ってたよ」
「ああ……。そういえばそうだったね」
「本当なのかな?」
「あの人が名探偵かって? どうかな。けっこうきわどいところだと思うけど」
駐車場を離れて二人で歩き出す。行き先はソウマが知っているらしい。
午後三時。まだ日の高い時間帯だ。周囲にはマンションやアパートが建ち並んでいる。マヤたちの他にも歩道を行く人はそこそこ多い。といっても、渋谷や新宿ほどごみごみとしているわけではない。視界の範囲に常に二、三人は誰かいるようなイメージだ。降りたことのない駅だからこれがこの地域の平均なのかはわからないけれど、間違いなく地元の田舎よりは賑やかな感じ。
「クローズドサークルで殺人事件を解決したとか、迷宮入りになりそうな怪事件で犯人を言い当てたとか……、そういう実績は確かにあるらしいよ」
「すごい。それなら十分に名探偵じゃない?」
「うん、まぁ、そうなんだけど……」
「歯切れが悪いけど、どうして?」
「ちょっと肯定も否定も難しいラインなんだよね。ま、その辺りはまたあとで話そうか」
「それより、軽く打ち合わせをしておこう」とソウマが話題を変えた。
ランカからは家出人の捜索と聞いていたが、正確には少し違うらしい。ソウマの説明によると、捜索対象は二十四歳の男性で、今年の三月に都内の大学を卒業した人間なのだという。出身は東北。進学と同時に上京してきたタイプだ。
「依頼人はその人の両親だね。息子が姿を消したのがおおよそ一ヵ月前。警察にはもう捜索願が出ているんだけど、今のところ成果は無し。それで今回、ランカさんのところにも依頼が回ってきた。経緯としてはそんなところ」
もともと家族間で頻繁に連絡を取り合っていたわけではないらしい。息子の在学中は家族もほとんど放任していて、帰省の時期に簡単なメッセージをやり取りするくらいだったという。淡泊な感じがするけれど、このくらいの距離感は男子大学生の家族関係としては珍しいわけでもないらしい。
しかし、いくら普段の連絡が疎遠だといっても、大学を卒業するとなれば話は変わってくる。年明けから三月頃に掛けて、依頼人は息子に卒業後の進路について問いただす連絡を何度か入れていた。リアルタイムの通話には出なかったらしい。ただ、メッセージには反応があって、卒業後は東京でそのまま就職する、とだけ聞いていたとのこと。
「だけど、三月の卒業式が終わったところで、ぷっつりと連絡が取れなくなった」
「それで、すぐに捜索願を出した?」
「いや、就職して仕事が忙しいだけなんじゃないか、って考えて半月ほどは様子見してただけ」
「その人の就職先に連絡とかもしなかったの?」
「それが、就職するとは聞いていたけれど、具体的な企業の名前までは聞いていなかったみたい」
「それは……、うーん、ちょっと普通じゃない印象かも」
「依頼人曰く、『真面目で良い子』だから変なことはしてないだろう、って」
「息子を信頼していた?」
「これを信頼って言っていいのかは怪しいけど」
ソウマが困り顔で眉を傾けた。
マヤは自分の家族を想像する。自分の就職が決まったら、彼らはどういう反応をするだろうか。きっと勤め先について根掘り葉掘り聞いてくるに違いない。最終的な決定には口を出さないにしても、子供の将来がどうなるのか知りたいと思うのは、きっと親としての本能に近い思考のはず。
翻って、今回の失踪者のケースはどうか。依頼人である両親の無関心さは、どうにも歪な感じがする。探偵に捜索依頼を出しているのだから完全な無関心というわけではないのだろうけれど、なんというか、半歩くらい引いたところから息子に接しているような感じがする。
駅から十分ほど歩いたところで、ソウマが足を止めた。四階建てのマンションの前だった。担いでいたショルダーバッグを開いて、白い手袋をマヤに渡してくる。「念のために」とのこと。つるつるした手触りのそれに指を通した。
「ここがその人の住んでいたマンション。一人暮らしだったって話だね。マヤちゃんに持ってきてもらったのが、依頼人から預かった彼の部屋の鍵。これを使って部屋に入って、彼の行き先について手掛かりがないか調べるのが今回のお仕事」
「家捜しだ」
「うん。といっても、ダイレクトに居場所がわかるようなものが見つかるとは限らないけれど」
「じゃあ、仕事してますのポーズ?」
「それは言い過ぎ。別の方法で彼の足跡を追うにしても、生活環境やら人となりの印象は掴んでおいた方がいいからね。ある種の予備調査と言ってもいい」
二人で並んでマンションに入る。一階には申し訳程度の風除室があるだけ。セキュリティは甘いようで、入場はフリーだった。そのまま階段を上がって二階へ。狭い廊下の隅には土埃と草の葉が薄く積もっている。日の光が届かないので昼間でも薄暗い。廊下が北側で、部屋のベランダが南を向く構造なのだ。部屋に入ればもう少し明るくなるだろうし、室温も暖かくなるはず。
「この部屋だ」
廊下の突き当りから三番目の扉でソウマが立ち止まった。表札には更科と書かれている。
同じ階の他の扉と違いはない。黒っぽい無地の扉だ。地面に近いところが砂で汚れている。ドアノブは錆びてこそいなかったけれど、経年で表面の金属がくすんでいた。
静かだった。聞こえるのは隣接する道路を走り抜けていく自動車の音くらい。廊下に立っているのはソウマとマヤの二人だけ。部屋の中から物音が聞こえてくることもない。
ソウマがポケットから鍵を取り出した。向きを確かめて鍵穴に挿し入れようとする。
その腕を、掴んで止めた。
「マヤちゃん?」
ソウマが振り向く。驚いた表情だった。少し力をこめすぎたかも。
「なんだか嫌な感じがする」
彼の腕を掴んだまま、マヤはそう呟いた。
小さい声だったけれど、距離が近いからソウマにも聞こえたはず。
「どうして?」
「どうして? ううん、わからない。だけど、良くない感じがするの」
たとえるなら、体の中に見えないセンサがあって、それが警告を発している感じ。そのセンサの正体がわからなくても、真っ赤に光ってビープ音を鳴らしているシステムがあったら、誰だってひとまず警戒するのが普通だろう。そういう感覚だった。
ソウマがマヤをじっと見つめている。身長差があるのでちょっぴり見下ろされてる感じ。マヤの表情を見ながらも、頭の中でさっきの発言を吟味している様子だった。根拠を説明できない直感なんて、あっさり一蹴されてもおかしくはない。だけど、ソウマはマヤの前世のことを知っている。その分の経験値を彼がどう評価するかだ。
「どうするのがいいと思う?」
「私が先に部屋に入る」
彼の問いに即座に答えた。ソウマがますます難しい表情になる。
互いに睨み合うような形で数秒。そういえば今日はアルバイトでここに来たんだったな、と思い出す。暴走する新人バイト、なんてフレーズが頭に浮かんだ。
「わかった。だけど、気を付けて。部屋の中の物には極力触らず、慎重に」
「うん。大丈夫、まかせて」
ソウマから鍵を受け取る。彼の指先が手のひらに触れた。根負けしたとかではなくて、彼の中でしっかりと考えたうえで鍵を渡してくれたのだとわかる。それが嬉しい。
深呼吸をひとつ。鍵穴に鍵を差し込んだ。右に捻ると軽い抵抗。小さな音が鳴ってロックが外れる。ノブを回すと微かに金属の擦れる音。
ドアが開く。部屋の中の暗闇に光が射した。玄関から細い廊下が伸びていて、その奥にリビングがある間取りだ。ベランダに繋がる窓にはカーテンが掛かっているが、生地が薄手なためか僅かに光を透過させている。そのおかげで数秒もせずに目が暗さに慣れてくれた。
「なんだろう。ちょっと変なにおい」
マヤが部屋に入る。玄関で靴を脱いだ。その後ろに少し距離を空けながらソウマが続く。
一人暮らし向けの小さな部屋だ。家具は少ない。ベッドとテーブル、書類ラックくらい。タンスはなかった。ベッドの下に引き出しが見えたので、衣類の収納はそこを使っているのかも。
テーブルの上には本が数冊とプリントを挟んだクリアファイルがいくつか。角を揃えた低い山になっている。クリアファイルにはアニメ調のキャラクタが描かれていた。青い髪の快活そうな少女だ。その姿を、最近どこかで見たことがある気がした。
「どう? なにかありそうかな」
「うーん……、今のところは」
ソウマの声が後ろから届く。部屋に入っても相変わらず嫌な気配は続いている。空気が重く、どんよりと停滞している気がした。しばらく換気がされていないことだけが原因ではないだろう。
しかし、パッと見ただけでは部屋の中に異常は見られない。誰かが潜んでいるわけでもなさそうだし、目につく場所に怪しい物品が残されているわけでもなかった。
もう一度部屋の中を見回してみると、右手の壁にドアがあることに気づいた。曇りガラスのガラス戸だ。たぶん、浴室に繋がる扉だろう。
なんとなく、そちらの空気が澱んでいる感じがした。足元に気をつけながら部屋を横断する。足の裏のフローリングが冷たかった。床にもテーブルにも埃っぽさはない。閉め切った部屋なら、一ヵ月ほど掃除していなくてもこんなものなのだろうか。
ガラス戸の取っ手に指を掛ける。瞬間、悪寒が増した。頭の中の警報が今までよりも強く鳴る。スライド式のドアだった。冷たいガラス戸をサッシの上に滑らせる。そのときにはもう、悪寒は予感に、予感は確信に変わっていた。
ドアの向こうの浴室から薬品のにおいが漂ってくる。理科室を彷彿とさせる独特のにおいだ。
目に入ったのは白いタイル。壁から床の色までが漂白されたように統一されている。
部屋の奥には備え付けの浴槽。水が張られているわけではなさそうだ。空気が乾燥している。
その浴槽に白い腕が載っていた。蠟のように白い、生気のない腕だ。
裸の男だった。
左右の腕をそれぞれ浴槽の縁に載せて、リラックスした姿勢で浴槽の中に座り込んでいる。
浴槽そのもののサイズが小さめなので、ちょっとだけ窮屈そうか。
まるで入浴中のワンシーンを切り取ったかのような光景だ。
だけど……。
その男には、頭が無かった。
真っ白な浴室に、真っ白な肌の男。
その首の断面だけが、鮮やかすぎるほどに赤い。
口の中が渇いていた。
指先が冷たく痺れている。
そうか、感じていたのは死の気配か。
浴室に立ち尽くしながら、マヤはようやくそのことを理解した。