翌日、マヤは再びフェアリィ・クレイドルの地下を訪れた。
ランカの探偵事務所のドアを開けると、そこにはすでにソウマの姿があった。所長席とは別の事務机でPCを叩いている。昨日言っていた業務日報の作成だろうか。
「クライアントから依頼内容の変更の申し出があったわ」
事務所に入ったマヤが挨拶をしたところで、所長席のランカがそう言った。
バイト二人の視線が彼女に集まる。キーボードを打っていたソウマも顔を上げていた。
「前提となる情報から話しましょうか。更科勇人さんのマンションで発見された遺体のパーソナルデータが、東北の彼の実家に残されていた生体情報と一致したわ。よって、亡くなっていたのは更科勇人さん本人で間違いない、というのが警察の結論」
「それなのに、依頼は『変更』なんですか? 『完了』でも『中止』でもなく」
ソウマが怪訝そうに眉を傾けた。生死はともかく、探していた相手は見つかったというのに、これ以上なにを続けろというのか。彼の顔にはそう書いてあった。
首なし死体の身元が判明したことに対する驚きはないようだったが、それはマヤも同じだ。発見された場所が場所だ。そうなのかも、くらいの予測は彼女もしてあった。それに、悲しいとか可哀そうといった感情もほとんど湧いてこない。きっと文字通り面識すら無い相手だからだろう。
「提示された新しい依頼は、更科勇人さんの
デスクに両肘をつきながら、ランカがはっきりとそう言った。
言葉の意味を咀嚼して、マヤはソウマと顔を見合わせる。
「本気ですか?」とソウマが渋い表情を作った。
「そんなの警察がもう動いてますって」
「警察が捜査をしているからって、私たちが捜索をしてはいけないという道理はないわ」
ランカがさらりと言うと、ソウマがますます額に皺を寄せた。
そもそもどうして事件現場に被害者の頭部が残されていなかったのか。普通に考えれば、それは犯人が持ち去ったからにほかならない。犯人を追う警察がその過程で被害者の頭を捜索するというのは当然の流れだ。そのくらいは探偵歴二日のマヤでもわかる。
日本の警察は優秀だ、と聞くことは多い。マヤはこの国の捜査機関についてそれほど詳しいわけではないが、それでも個人の探偵事務所などとは比較にならない組織力があるのだろうとは容易に想像できた。
だから、いくらランカが被害者の頭部を探すと意気込んでも、結局は警察の捜査の後追いにしかならないのではないか。そういう疑問がどうしても浮かんでしまう。
「もちろん、警察と並行して私たちが動くことの意味はあるわ。つまり、警察が大っぴらにしないであろう捜査状況を、クライアントにお伝えすることができるということだけれど」
その疑問に先回りするように、ランカがゆったりと微笑みながらそう言った。
「最終的に誰がどうやって息子の頭を見つけてくれるのでも構わないけれど、それはそれとして途中経過は把握しておきたい。結局のところ、これはそういう依頼なのよね」
「そんなこと言って、警察が黙ってることを外部に漏らしちゃうから、ナナミさんにまた睨まれるんですよ……」
「あら、それは心外だわ。私だって何から何までクライアントに喋っちゃうわけではなくて、伝えて良いことと悪いことの区別はしっかりとつけているのに」
ソウマが非難の目を向けるもランカは涼しい顔。まるで柳に風。このくらい図太くないと女探偵なんて稼業はやってられないのかもしれない。
「でも、行方不明の頭だなんて、どうやって探すの?」
マヤは根本的な疑問を口にする。
生きている人間を探すのと、死んでしまった体を探すのでは、後者の方が難しそうに思えた。生きている人間であれば残さざるを得ないような痕跡も、死んでしまえばもう現れることがなくなってしまう。となれば、発見のための手掛かりも当然少なくなってしまうのではないのだろうか。
「そうね……。ここはひとつ、現地調査担当のソウマくんの意見を聞いてみようかしら」
「いや、いきなり意見と言われても」
その疑問に対して、ランカは突然のキラーパス。ボールを投げつけられたソウマがため息を吐いた。
彼は諦めの表情を一瞬浮かべた後、顎に指を当てて、考えをまとめようと目を細めている。
「そもそも、どうして死体の首が切られていたのか、っていう疑問がまずあるのだけど」
「捜査の攪乱、つまり、被害者の身元の特定を遅らせるためかしら」ランカが口を挟む。
「それなら持ち去られた頭部は今ごろ川か海に沈められているか、それともどこかの山に埋められているかでしょうね。犯人を捕まえて自白でもさせない限り、発見は難しそうだ」
渋い顔でそう言いつつ、「だけど」とソウマは首を横に振った。
「おそらく、首を切った目的はそれじゃない」
「どうしてそう思うの?」今度はマヤが首を傾けた。
「頭だけを持ち去っても大した捜査妨害にはならないことくらい、犯人だってすぐに気づくことだよ。本気で被害者の身元を隠蔽するつもりなら、首だけ切って終わりのはずがない。どうせなら全身をバラバラにして、分断したパーツを持ち去って、事件そのものの発覚を遅らせようとするんじゃないかな」
「うーん……、まずは首を切ってみて、思ったより大変だったから諦めたとか。計画は立てたけど、首から出た血を見て気持ち悪くなっちゃったり……」
「そう考えるには残された胴体と現場の状態が綺麗すぎる。首の断面に歪さはなかったようだし、あの風呂場も解体作業の途中って雰囲気じゃなかった。やるべきことをやって、しっかり掃除をしてから現場から撤収していった、っていう印象だよ」
言われて、マヤは現場の様子を思い出す。
記憶に焼き付いているのは、第一に首のない死体。それから真っ白なタイルと乾いた空気。浴槽には水気がなく、血生臭いにおいもほとんどしなかったと思う。それはつまり、死体から流れ出た血を誰かが丁寧に洗い流して、そこからさらに水分が乾ききるほど時間が経ってからマヤたちが部屋を訪れた、ということ。
そう考えると確かに、隠蔽工作の途中で慌ただしく犯行現場から逃げ出すような犯人像とはズレているようにも思える。
「でも、それならなんで犯人は首を持ち去ったの?」
「それがわかれば苦労はしないんだけど……。ただ、理由が何であれ、リスクを負って現場から持ち出したものを、すぐさま処分してしまうって可能性は低そうな気がする。ともすれば、今もまだ犯人が被害者の頭を手元に置かれているっていうのもあり得る話なのかも……」
皮肉そうに口を斜めにしたソウマがランカに視線を向けた。所長席に深く腰を沈めて彼の話に耳を傾けていた探偵所長は、ぱちくりと目をしばたかせてからゆっくりと首を傾げた。
「もしそうなら、結局は犯人を見つけないと被害者の頭も見つからない、ということかしら」
「かもしれませんね。やっぱり警察に任せた方がいいと思いますよ」
「……そうね、確かにそれが道理かもしれない。それでも、当探偵事務所はクライアントの依頼に基づき、失われた頭部の捜索を行います。これは決定事項よ」
ランカがきっぱりと決定を口にする。ソウマが軽く肩を竦めることでそれに応えた。
彼女の視線がマヤにも飛んでくる。ほんの少しだけ躊躇してからマヤも頷きを返した。先行きの不安が三割、好奇心が残りの七割といったところ。
「仕方ない。基本に忠実にいくとしますか」とソウマが呟く。
「基本って?」
「探偵は足で稼げ。誰の台詞だっけ」
その声に「少なくとも私ではないわね」とはランカの言。
「ひとまず被害者周りの聞き込みからかな。というかそれくらいしか取っ掛かりがないか」
「ええ、朗報を待っているわ」
「あんまり期待しないでくださいね。どうやったって警察の捜査が先行するんですから。いっそランカさんが警察の動きを探った方が情報は早いかもしれませんよ」
デスクから立ち上がったソウマがジャケットを羽織った。それからマヤに向かって目配せ。お仕事の時間だ。カルガモの子供みたいに彼の後についていく。
先輩に続いて事務所を出る寸前、ふと思いついたことがあった。マヤは足を止めて部屋の奥のランカに振り返る。
「ちょっと思ったんだけど、頭を持ち去ったのって、証拠としてなんじゃないかな」
「証拠?」
その言葉にランカが不思議そうに首を傾げた。前を歩いていたソウマも立ち止まってマヤに視線をフォーカスしている。
ほんのりドキドキする。素人目線を言葉にしていいものか、ちょっぴり逡巡。
「つまり、間違いなくこの人を殺しましたよ、っていう……、ええと、討伐証明的な」
「討ば……、え、今なんて?」
ランカが目を見開いた。優雅な表情が初めて崩れた気がする。
明らかに言葉のチョイスを間違えたことに気づいたけれど、もう後の祭り。いくらなんでも討伐証明はマズいって。モンスターじゃないんだから。マヤは慌てて次の言葉を探す。
「じゃなくて、そう、言い換えるなら、首実検として持って行ったとか」
「……マヤさんは、そのぅ、お侍さんかなにかなの?」
「え……?」
マヤもランカも引き攣った微笑み。二人揃って色々と曖昧になっている。
背後ではたまらずソウマが吹き出していた。
………
……
…
「いやぁ、あの人のあんな顔を見たのは初めてだよ」
ランカの事務所を出て地上に戻ったソウマとマヤは、馴染みのファストフード店に場所を移していた。小さなテーブルを挟んだ向こう側でソウマが愉快そうに口の端を持ち上げている。マヤは自分の頬が熱くなっているのを自覚していた。
「言い方が悪かったんだって、それはわかってるの……」
「伝えたいことはわかるよ。自分のためじゃなくて、誰かに見せるために首を切ったんじゃないか、ってことだよね」
「変な考え方かな?」
「どうだろう。そもそも首なし死体なんてもの自体がアブノーマルだからね。『変だ』とか『普通だ』って定義できるほどの一般的なデータの蓄積なんて存在しないと思うよ」
ソウマの口調はフラットだ。慰めとか気休めで言っているのではないだろう。結構ドライだよね、と思う。別に本気で失言を慰めて欲しいわけではないけれど。
「ただ、日本で起きた殺人事件っていう枠を超えて、世界中の事例にまで視点を広げると、むしろマヤちゃんが言うような動機のほうが多いのかも」
「どういうこと?」
「テロとか反体制運動とか、あるいは逆に独裁的な政権による懲罰とか……。他人に対しての見せしめにするために首を切る、っていう動機だね。たぶんだけど、総数でいえば、個人的な動機による首切りのほうが少数なんじゃないかな」
「でも、それって今回の事件には当てはまらないよね」
「それはそう。だけど、考え方自体はそれほど
微笑むソウマに思わずマヤは頬を膨らませた。気にしていたところをスパっと突かれた感じ。
前世の記憶なんてものがあると、たまに自分の考え方が現実世界のそれとズレているのではないかと不安になってしまう。個性の範疇に収まるならともかく、そういうのが積もり重なって変人扱いされてしまうのは、できれば避けておきたいマヤなのである。
「マヤちゃんはさ、ランカさんに初めて会ったときになんて言われた?」
「えっと、ぴりぴりするって言われたかな」
「ぴりぴり? うーん、それとは別に、前世のことについては何も言われなかった?」
「言われなかったよ。私からも言ってないし。あ、『普通の人間ね』とは言われたかも」
「へぇ……。それはそれは」
意味ありげにソウマが口元を歪める。
どういうこと、とマヤが視線で圧を掛けると、彼は両手を挙げてのお手上げポーズ。
「あの人が吸血鬼だってことは知ってる?」
「うん、それは聞いた」
「混血じゃなくて純血の吸血鬼ってことも?」
「それは聞いてない」
「とにかく、見た目以上に長生きなんだよ、ランカさんは。何百歳とかそういうレベル。その分の経験の蓄積があるからなんだろうけど、初めて会った相手でもその人が人間かどうかはすぐに判別できるんだってさ」
「人間かどうか?」マヤは首を傾げる。
「人間か、怪物か、混血かの三択。この選択肢からだと、前世があっても人間に判定されるんだなって。ちょっとした新発見だね」
「ソウマさんはどうだったの」
「ばっちり混血って判定されたよ。目が良いのか、それとも鼻が利くのか……、ほとんど喋ってもいないのに言い当てられたから、そのときはかなりびっくりしたな」
まるでシャーロックホームズだな、とマヤは連想する。言い当てられることの範囲が著しく狭くはあるけれど。そこまで考えたところでピンと来るものがあった。
「ひょっとして、それができるから名探偵って名乗ってるの?」
「かなり近い」ソウマが頷いた。「それにプラスして、あの人はもうひとつ特別な技能を持っているんだ。そっちは長命種の経験とは別枠で、吸血鬼の能力に由来するものなんだけど……」
そう言いながらソウマはホットコーヒーの入ったカップをマヤの目の前に掲げた。
乾杯の用意……、ではないようだ。ゆらゆらと揺れる湖面を彼が空いた手で指差している。
「吸血鬼だから、彼女は血を飲む。そうすると、彼女は血の持ち主の情報を得ることができる。どこで生まれたのかとか、家系にどういう血が混じっているのかとか、本人でさえ知らないようなことまで正確に」
いうなれば、コーヒーを一口飲めば豆の産地やブレンドがわかるようなもの、らしい。
……その例え方はどうなのだろう。わかりやすいのは確かだけれど。
「でも、どうしてそれが名探偵になるの?」
「つまりあの人はさ、自分の身一つで血液のDNA鑑定ができるんだ。それも、何百年も前からね。科学的な調査が未熟な時代にそんな芸当ができるともなれば、周囲からどんな風に評価されるかは言うまでもないでしょ」
「……それってずるくない?」
「そうそう、その通り。ずるい人ほど名探偵の適性があるんだ」
ソウマが苦笑しながらコーヒーを啜る。豆の産地なんて気にしていないような飲み方だった。たぶん、名探偵には向かない飲み方だろう。
マヤは在りし日の吸血鬼探偵の雄姿を想像する。ちょんまげやら散切り頭やらの中心で、艶めかしく血を舐めながら華麗に推理を披露する妖しい美女。なるほど、確かにハッタリが効いている。小説から飛び出してきた名探偵みたく思われても不思議はない。
「そっか。だから前に聞いたとき、ソウマさんは『あの人が名探偵かは微妙なところ』なんて言ったんだ。今の時代の警察ならランカさんに頼らなくてもDNA鑑定くらいできるもんね」
「ランカさん自身になにか変化があったわけじゃないんだけどね。能力を失くしたわけでもないし、耄碌したわけでもないし……。本人としては、名探偵と呼ばれていた頃からなにも変わっていないつもりなのに、時代の流れでそう呼ばれなくなっちゃったわけだから」
「それで、名探偵って呼ばれることにこだわってる?」マヤが囁くように言った。
「あるいは、そう呼ばれた頃を拗らせているのかも」ソウマがわざとらしい神妙さで応えた。
「うーん……、でも実際、今も探偵を仕事にできるくらいには有能なんだよね?」
「推理小説の名探偵とはだいぶスタイルが違うけど、そこのところは保証するよ。バイト先として不適切ってわけじゃないから安心して」
「それ、なにを安心すればいいんだろ」
「少なくとも賃金の未払いとかは今までなかったはず。時給にプラスして成果報酬もあり。初心者でも安心な、笑顔の絶えないアットホームな職場だよ?」
「逆に不安になる謳い文句だぁ」
両腕を大袈裟に広げたソウマが胡散臭くそう言った。
さすがにこれはジョークだとわかる。マヤが乗っかると、彼は愉快そうに唇を弧にした。
「名探偵時代に培った人脈が今も生きてるんだよね。お祖父さんを冤罪から救ったとか、曾お祖父さんが盗まれた家宝を取り戻したとか。そういうのが積もり重なって、ランカさん独自の情報網が作られてるんだ。たぶん、それがあの人の探偵としての最大のアドバンテージ」
「その情報網、今回の事件でも役に立ちそうかな?」
「さて、そこのところはどうだろう……」
彼の瞳が窓の外に向かう。空はどんより曇り空。先行き不透明なんて言葉が浮かんでくる。
たとえば、現場から持ち去られたのが財布や骨董品、宝石みたいなものであれば、その処分を巡ってなんらかの情報がランカの網に引っ掛かるのかもしれない。だけど、今回消えたのは人間の頭なのだ。
犯人がそれをどう扱っているのかはわからないけれど、おいそれと他人に見せたりはしないことは確かだろう。ランカの情報網がどれだけ優れたものであっても、今回の探し物とは接点が一切生まれないことも十分にあり得ることだ。
「まぁ、僕らは僕らで自分たちの仕事をするしかないか」
「うん。聞き込みってどこに行けばいいんだろ」ジュースで喉を潤しながらマヤが問いかける。
「とりあえず、被害者のマンションと、それから通っていた大学を周ってみて……」
「そのあとは?」
「それまでになにか取っ掛かりになる情報が見つかるといいね」
投げやりな口調でソウマが肩を竦めた。
彼の気だるい瞳を見て、杜撰な前情報を握らされてしまい魔物の巣食う迷宮をたっぷり一週間さまよった記憶を思い出してしまうマヤだった。
………
……
…
フェアリィ・クレイドルの地下で、彼女はPCを操っていた。空気の流れさえしめやかな探偵事務所にキーボードを叩く音だけが連続している。
ネットワークを介して方々の知人から情報を拾い集める。もっと昔は、使い魔を操って世間の情勢を調べていたな、とふと思う。ここ数十年の情報技術の進歩にはいつも驚かされてばかりだ。高速かつ広範化した情報伝達のシステムに触れていると、まるで世界が狭くなったかのように錯覚させられてしまう。
そう、錯覚だ。
実際は世界が狭くなったのではない。人間同士で交信できる範囲が広くなったのだ。
今の人間と昔の人間は、果たして同じ種族と言っていいものなのだろうか。
彼女はたまにそんなことを考える。生物学的には同種なのだろう。けれど、思考の形態やコミュニケーションの方式は常に変化を続けている。過去と現在、その差異はこれからもっと広がっていくはず。
人間は、いったいいつまで人間でいるつもりなのか。
そんなことを考えてしまうのは、彼女が人間とは違う時間を生きているからだろう。長命種である自分は、おそらくこれからの人間の変貌を見届けることになる。そういう予感があった。
タイピングの音に混じって、ノックの音。彼女の瞳がディスプレイから持ち上がった。
この部屋に呼び鈴はない。扉を叩く音のパターンから来訪者の正体を予測するのが探偵の修行のひとつだと彼女は今も信じている。
けれど、そんな信条とは関係なく、聞こえてきたノックのリズムを彼女は精確に記憶していた。彼女はいつだってその音を心待ちにしているのだから、それも当然だ。
咄嗟に椅子から浮きそうになる腰を渾身の精神力で繋ぎとめた。
「どうぞ」と朝靄のようにおしとやかな声を出す。上擦らなかった自分を褒めてあげたい。
ドアが開き、右目に眼帯を当てた男が入ってきた。
ソウマたちホテルのスタッフがボスと呼ぶ男だった。白髪交じりの黒髪はオールバック。狼のように鋭い顔貌に、彼女はくらりとしてしまう。
「仕事中だったか?」
「ええ、でも、ちょうどひと段落したところ」
渋みのある低い声は、ジェントルな口調だった。
彼女は少女のようにうきうきしながら所長席から立ち上がり、接客用のソファに来客を誘う。いかつい表情の彼が頷いて、幅広のソファに腰掛けた。彼女はソファの間にあるテーブルをするりとすり抜けて、彼の隣に座ってその胸にしなだれかかった。甘えるように厚い胸板に顔を擦りつける。
「今日はどうされたの?」
「ん、ああ……」
そんなこと本当は聞かなくてもわかっているのに、それでも声に出してしまう。
合理的ではない。おかしな不具合だ。だけど、もしかしたらバグではなくて、対象限定で発生する仕様なのかもしれない。
「別になにを言われたって、怒りませんし、拗ねもしませんから」
「……ナナミがここに来たと聞いたから、な」
「お仕事で、ですけれどね。久しぶりにじゃれ合いになっちゃったわ」
「あまりいじめてやるなよ」
「いじめてなんかいませんよ」
彼女はくすくすと笑みをこぼす。あの女刑事のことは、実のところ嫌いではない。
直接顔を合わせたのは何年ぶりだろうか。鋼のように頑なな性格なのは昔からだけれど、久しぶりに会ったナナミは以前よりも粘り気が増していたように思う。硬度はそのままに靭性が増した感じ。ぽっきりと折れてしまわないようにアップデートされていたような印象だった。
ナナミの変化の要因はなんだろう。
そう考えたときに思い浮かぶのが、彼女に子どもが生まれたという事実。それがあの女刑事のカミソリみたいな価値観に影響を与えたという仮定がしっくりくる。
切れ味はきっと落ちてしまった。だけどそれは、退化でも劣化でもない。なまくらになってしまったかもしれないけれど、同時に折れにくくなった。だからそれは、進化であり適応なのだ。
それが、人間の持つ柔軟性。
短命であるがゆえ、短いスパンで自己を変化させることができるという、生物としての優位性。
「でも、そうですね。カリカリはしていました。たまにはデートでもしてあげたらどうです?」
「君は、それでいいのか?」
「いいもなにも……」
彼女は薄く笑う。ようやく彼と目が合った。
濁った眼だった。濁っているということは、色々なものが混じり合っているということ。綺麗な気持ちも、薄汚れた感情も、なにもかもが溶け合っている。透明な美しさよりも、そっちのほうがずっと彼女にとっては好ましい。
「あなたは、最後には必ず、私のところに帰ってくるわ」
「……そうだな。そうだとも、わかっているさ」
「あなたがどこに行ったとしても、待っている時間なんて、私にとってはあっという間」
彼が目を閉じた。疲れた呼吸が聞こえてくる。いくつもの重荷が彼の肩に載っているのが見えた。少しでも楽になって欲しくて、その背中をさすってあげる。
まるで赤ん坊をあやしているよう。だけど、本当に赤ん坊なのは、どっちだろう。
彼? それとも、自分? 歳を取らない自分は、いつになったら赤ん坊ではなくなるの?
「あの子のことを、まだ愛しているのね?」
「ああ、そうだ。愛している……」
「私のことを、まだ愛してくれている?」
「愛しているさ。いつまでも。ずっと、いつまでも……」
その答えも、本当は聞く前からわかっていた。
彼女は老いない。いつまでも変わらない。いつまでも同じように愛され続ける。
だから、真に考えるべきなのは、
彼女が、彼を、いつまで愛することができるのか……。
彼が老いたとき、今と同じように彼を愛せるだろうか。
自分は、いつまで人間を愛することができるだろうか。
何百年も若いままの彼女は、老人にも大人にもなれず、今も子供のように袋小路で悩んでいる。
わかっているのは、もし彼の頭を切り取って、永久に今の姿を保管しても、そんなものはなんの慰めにもならないということくらい。
筋肉質な彼の首筋に舌を這わせ、二本の牙をぬめった肌に突き立てながら、彼女はどこか醒めた気持ちでそんなことを考えていた。