「あなたはさ、これでなにかがわかるって、本気で思ってるわけ?」
フェアリィ・クレイドルの探偵事務所を訪れたナナミは開口一番にそう毒づいた。
一週間ぶりに足を踏み入れた女吸血鬼の根城は、相も変わらず、地下施設とは思えないほどの明るさだった。煌々と輝くLEDが影という影を部屋の隅へと追いやっている。空調の設定も完璧で、適温に保たれた室内には新鮮な空気が常に循環している。
人間にとっては快適な環境だ。だけど、それが吸血鬼にとっても快適な環境なのかと疑問に思ってしまう。
いや、科学で説明ができないからこそ、彼女は今も『怪物』なのかもしれないけれど……。
「そうね、新しい発見がある可能性は低いと思うわ。だけど、可能性が低いからといって、今すぐに調べられるものを放置するのも怠慢でしょう? こういう風に、わかりきったと思えることでも丹念に何度も調査を繰り返して足元を固めていくのは、むしろ警察のやり方ではないかしら」
「……あなたに警察の手法を語られるだなんて、悪い冗談ね」
優雅に微笑むランカを睨みながら、ナナミは肩に掛けていた保冷バッグをテーブルに置いた。密封されたバッグの口を開くと、内部の低温との温度差で白い靄がバッグから溢れてくる。接客テーブルの対面に座ったランカが目を細めてその揺らめきを眺めていた。
ナナミは白手袋を嵌めた腕を保冷バッグの口に突っ込んだ。開口部を上から覗き込んで、バッグに収められた品を指で掴む。彼女が取り出したのは、ゴム栓を嵌めた一本の小さな試験管だった。冷え切ったガラスの内側では赤黒い液体がゆらゆらと波打っている。
それは、首なし殺人の被害者――、更科勇人の遺体から採取した血液だった。
「こんなものを融通させるだなんて、いったいどんな裏技を使ったのよ」
「勘違いしているようだけれど、これは私から要請したことではないの。被害者の親族から遺体の血液を私に調べさせて欲しいという要望があって、なんやかんや警察がそれを受け入れたという形ね」
ナナミから試験管を受け取ったランカが、内部の液体を照明に透かして見つめている。試験管の血液を透過した光が、彼女の瞳を深紅に染めていた。
いや、本当にそれだけだろうか。赤くなったランカの瞳の深さは底なしで、見つめているだけで平衡感覚を失いそうになってしまう。今にも足元がぐらりと傾いて、彼女の目の中に落ちていってしまいそうだった。吸血鬼と血液というホラーな組み合わせが、そういう妖しげな引力を醸し出しているのかも。
「それってさ、ご遺族としては、これで身元の鑑定が覆ることを期待しているってことよね」
軽く首を振って深紅の引力から抜け出したナナミは、額に皺を寄せながら呟いた。
警察は首なし死体の身元を更科勇人と鑑定している。その根拠となったのは彼の実家から採取されたDNAデータだ。鑑定の精度は高いが、百パーセントではない。ランカの再鑑定で結果が変わる可能性も僅かにではあるが存在する。
残された家族からすれば、その僅かな可能性に縋りたくなる気持ちもわかる。ナナミはそう思ったのだが、しかし、彼女の言葉を聞いたランカはどこか醒めたような冷たい表情を浮かべていた。
「ナナミ刑事は、被害者の両親と会ったことがあるかしら」
「それは、ないけれど。私は都内の捜査が担当で、被害者の実家までは行っていないから……」
「そう。更科家はね、地元では有名な名家なの。先々代、つまり、被害者の曾お祖父さんのころから資産家として色々な事業に手を出していて……。私があの家と縁を繋いだのもその頃の話ね」
「ああ……、そんな感じの話は捜査チームでも聞いてるわ」
実際、更科家の実家の捜査に赴いた同僚は、地方の旧家の見本のようなお屋敷を目にしたらしい。玄関で着物を着たお手伝いさんに数人がかりで出迎えられて面食らったという話だ。家もデカけりゃ持っている土地もデカいということで、熊でも出そうな裏山をいくつも所有しているのだとか。
「だから、なんていうのかな……、あの家にも体面があるのよね。身内が殺されて、ハイそうですか、とはいかないわけなの。警察に任せるだけじゃなくて、なにか家としても行動を起こしているというポーズがないと周囲に示しがつかない、とでも言えばいいかしら」
「……なにそれ。調査は家のためで、被害者の頭部を見つけることは二の次だって言うの?」
「もちろん、家族の身体を取り戻してあげたいって気持ちも嘘じゃないはずよ。でも、家中での立場がちょっと微妙な感じなのよね。彼、長男ではあるのだけど、高校の時の交通事故で更科家の跡継ぎ候補からは外されちゃったみたいだから」
「ヤな感じだわ、そういうの」
捜査情報の共有として、ナナミも被害者の家庭環境についてある程度聞いてはいる。旧家には旧家のしがらみがあるということだろう。公僕としてそういった価値観を一概に悪習と断ずるつもりはないが、やはりナナミ個人としてはどうにも好きになれない考え方だった。
「まぁ、それはそれとして。依頼人の思惑がどういったものであれ、私たちのやるべき仕事は変わらないわ。そうでしょう、ナナミ刑事?」
「そこで『私たち』って括られるところにイラっとするのよね……。あなた、自分が民間人だっていう自覚はあるのかしら? いくら色んなところにツテがあるからって、ところかまわず嘴を突っ込んでいたら、そのうち公務執行妨害かなにかでしょっ引かれるわよ」
「ご忠告痛み入るわ。ええ、もちろん、引き際は弁えています。私、これでも警察の仕事には大きな信頼を置いていますの。捜査の邪魔をしようだなんて、とてもとても」
大袈裟にお手上げポーズを作りながら、ランカは唇を綺麗な三日月にした。
「なにしろ、警察は『あの人』の元の職場なのですから」
「……ほんと、一言多いわね、あなた」
『あの人』のところを強調した彼女の物言いに、ナナミが憤然と鼻を鳴らした。その様子を見て微笑みを深めながら、ランカが試験管のゴム栓を取る。錆くさい血の匂いが試験管から溢れた気がした。
ランカがそのまま試験管を呷る。缶ジュースのような気軽さだった。彼女の白魚のような喉がコクリと動くのが、ナナミの目にはっきりと見えた。
「…………」
「それで、あなたの鑑定は?」
被害者の血液を飲み干したランカは、目をつむって沈黙している。腕を組んだナナミがもったいぶるなとせっつくと、吸血鬼の探偵はゆっくりと目を開いた。
小さな吐息が地下の探偵事務所にこぼれる。目尻を僅かに下げたランカは、左右に首を振って、残念そうに口を開いた。
「たとえ首なし死体でも、その血を飲んでみれば失われた顔の形をイメージできるわ。今、私の頭に浮かんだのは、捜査のために提供された写真とまったく同じ顔だった。……この血は、間違いなく更科勇人さん本人のものよ」
………
……
…
「死んだ人間を探してるとか、意味わかんねーし」
金髪男はそれだけ言うと、意外にもソウマたちに大人しくついてきた。
抵抗するつもりはないらしい。今ここで抵抗しても無意味と悟ってのことか。あるいは、たとえ暴れたとしてもマヤには敵わないと理解したのかもしれない。
いずれにせよ、『D』という人物の人相を知っているのは彼だけなので、多少不貞腐れていようと、協力的になってくれるのは素直にありがたいと思うソウマである。
S駅の改札は人でごった返していた。老若男女問わず、日本人から外人まで、多種多様な人間が無秩序に入り乱れている。この中にソウマたちの監視を指示していた『D』がいるのだろうか。
「ソウマさん、あの人……」
足を止めて周囲を見回すソウマの袖を、隣に立っているマヤが引いた。彼女の視線は人ごみの中の一点に集中している。その視線の先に、ひとりの男が彫像のように悠然と立っていた。ソウマがその姿を認めたのに一拍遅れて、後ろからついてきていた金髪男が「あ」と声を上げた。
騎士像のように姿勢の良い白髪の紳士だった。口元には丁寧に白い髭を切り揃えている。顔立ちは西洋風で、青い瞳が静かにこちらを見据えていた。どうやら日本人ではないらしい。服装はグレイのスーツ。木製の長い杖を地面に突いている。ヒストリカルな洋画にでも出てきそうな風体だった。
「あ、あの、センセー。俺、こいつらに見つかっちまって……、マジですいませんでした……」
金髪男が白髪の紳士に駆け寄り、頭を下げる。
「謝る必要はない」
杖の男は鷹揚に頷いた。
「君が発見されたのは想定外だが、それが私にとって問題になるかは別問題だ。むしろ、こうして彼らと会うことができたのは僥倖かもしれない」
杖の男はもう金髪男を見てもいなかった。感情の見えない青い両目は、ソウマとマヤの二人に固定されている。
「今日はもう帰りたまえ。またなにか頼むことがあれば、そのときに連絡しよう」
「……わかりました。じゃあ、俺はこれで……」
金髪男がちらりとソウマを振り返った。捨てられたチワワのような表情だった。彼は溜め息をひとつ吐き捨てると、肩を落としながらとぼとぼと駅から去っていった。
「では、我々も行こうか。ついてきてくれたまえ」
「行くって言うのは、どこへ。……あー、ミスタ・ディーでいいのかな?」
「ディリータだ。今はそう名乗っている」杖の男はそれだけ言って改札の外へと歩き出した。
「今は、ね……」ソウマは隣のマヤと目を合わせて、軽く肩を竦めた。『D』というのは、金髪男がアドレスに登録するために使った略称だったようだ。彼はこの紳士のことを『センセー』と呼んでいたが、いったいどういう関係なのだろう。
ディリータと名乗った男から数歩遅れながら、二人は彼についていく。杖を持ってはいるが白髪の紳士の足取りはしっかりとしたものだった。髪も髭も真っ白なものの、ひとつひとつの所作に老いの気配は見られない。顔立ちからしても四十代か、高くても五十代といった感じだ。
「案内したい場所は、そう遠くではない」と彼は言った。視線は前方に固定されていて、まるで独り言のようだった。彼は歩き始めてから、一度たりともソウマたちを振り返っていない。確かめなくてもついてきていて当然、といった気配をまとっている。
隣を歩くマヤは、いつもよりもソウマに近い位置をキープしている。表情も普段より鋭利な雰囲気。目の前を歩くディリータという男に、なにか感じるものがあるのかもしれない。
「カトゥといったかな。君たちが会っていた男だが」
不意に、ディリータが呟いた。
相変わらず振り向きもしないが、ソウマたちに向けて喋っているようだ。
「以前、葵山傍子の『中身』を特定しようとしていた時期があった。匿名のSNS上でのことだ。どこまで本気だったのかはわからないが、もともと彼がファンの中では目立つ人物だったこともあり、無用な詮索をしないようこちらから警告を行った。行き過ぎた場合は、証拠を固めて訴訟を起こすとも伝えてある。今回、彼のことを監視していたのは、その件の延長でのことだ」
「素性も知れない面会相手にあることないことを喋らないように、って?」
「そうだ。君たちは探偵なのだろう? そう名乗ったうえで面会の約束を取り付けたのなら、彼も肝をつぶしたのではないかな。もしかしたら、探偵というのは訴訟のための証拠集めをしているヤツのことなのかもしれない、と」
そういえば、カトゥは最初、ソウマたちのことを警戒している様子だった。ともすれば怯えていたようにも思える。ソウマたちが面会の目的を明かしてからは態度が和らいだが、なるほど、彼の側にはそういう事情があったのか。
「そういう警告を出す立場にあるということは、あなたは葵山傍子の関係者ということ?」
「私は、彼女のプロデューサだ。彼女との関係性を示すなら、この表現がもっとも適切だろう」
「では、更科勇人との関係は?」
「ここで説明せずとも、すぐにわかる」
駅から十分ほど歩いただろうか。ディリータは幹線道路から折れて、一方通行の狭い道路に入った。しばらく進んだところにオフィスビルの玄関があり、彼はそのガラス戸の中へと入っていく。
外観は何の変哲もないオフィスビルだった。彼に続いてソウマたちも建物の中に入る。一階のエントランスも変わったところはない。真鍮のテナント看板は二階から八階まで埋まっている。どれも見覚えのない社名だ。ひとつのフロアごとに別の会社が入っているらしい。
エントランスの奥にエレベータがあったが、ディリータはそれを素通りして、さらに奥まったところにある重厚な防火扉を押し開けた。扉の向こうは照明を絞った薄暗い空間で、扉を開けた瞬間に冷え切った空気が足元に流れ出てきたのを感じる。
「こちらだ。足元に気を付けたまえよ」
「非常階段か……」
頼りない白色灯が照らす階段を、ディリータは地下に向かって下りていく。彼の杖が一段ごとに階段を叩いて一定のリズムで反響していた。テンポの異なる三人の足音よりも、むしろその乾いた音のほうが耳に残る感じがする。有機的な動作よりも、無機質な現象のほうがこの場には相応しい気がした。
地下の三階まで下りた。途中の二つのフロアにも扉はあったが、そちらには目もくれず素通りした。下りている間に彼がこの場所について説明することもなかった。
ディリータが鋼鉄製の白い扉を開ける。これも防火扉だ。扉の奥には白いタイル張りの廊下が続いていた。非常階段よりもさらに一段階温度が下がったと感じる。消毒液のような独特なにおいが微かに漂っていて、病院か実験室のような空間が連想された。
「バイオ怪獣の秘密基地みたい」
マヤが小声で呟いた。大真面目な表情だった。
さすがに気になったのか、ここまで背中しか見せなかったディリータが足を止めて振り向いた。仮面のような無表情でマヤと見つめ合う。相手の真意を探るような雰囲気だった。今のが怪獣映画ファンの妄言だと教えたらどんな反応をするのやら。
「ここに怪獣はいない」石像のようにソリッドな口調だった。
「そう、残念」マヤが小さく眉を動かす。彼女が本気で言ってるのか、ソウマにもわからない。
「住んでいるのは、人間だ」
短い廊下の先に扉が三つあった。左右にひとつずつと突き当りにひとつ。ディリータが向かったのは正面の扉だった。これまた真っ白で飾り気のない扉だ。廊下にもインテリアはなにも置かれていなかった。無味乾燥の極みといった感じである。こんな場所にいったい誰が『住んでいる』のだろうか。
「今、戻った」
二人を先導するディリータがノックもせずに扉を開き、奥の空間に声を掛けた。扉を半開きの状態にした彼がしばらくその場で足を止める。部屋の中にいる誰かの反応を待っているようだった。
数秒してから彼は小さく頷き、扉を全開にしてソウマたちのために道を開けた。ディリータの背中に遮られていた部屋の中の様子がようやく目に入る。
「ここは……、電算室か」
「すごい冷房。人が住むには寒すぎじゃないかな」
真っ白な照明が部屋の中を照らしていた。冷風を吐き出す空調の音が唸っている。それほど広い部屋ではない。奥の壁に分電盤があり、左右の壁に沿ってに二列ずつ金属製のラックが並んでいる。中には基板やルータ類がぎっしりと格納されているようだ。部屋の中心にデスクがひとつ置かれていて、そこにタワータイプのパソコンが設置されていた。
部屋の中にディリータ以外の人の姿は見えない。では、先ほど彼は誰に向かって声を掛けていたのだろうか。一応、左右のラックの陰には人の隠れられそうなスペースもありそうだが……。
ソウマとマヤは扉をくぐって部屋に足を踏み入れる。すぐに背後で扉が閉まった。一瞬、耳の奥に気圧が変わったかのような感覚を覚える。部屋に入ったおかげで、今度は二列のラックの奥の方までよく見えた。やはり、人の姿はどこにもない。ソウマは訝し気にディリータに振り返る。
そのときだった。
部屋の中央のデスクトップパソコンから、場違いに明るい声が響いた。
「コンチハッ、探偵のお二方! ようこそいらっしゃいませでっす☆」