そして、夢魔は彼女の夢に触れる。
瞬間、目の前が白に塗り潰された。
吹雪が吼え猛る。風が悲鳴をあげる。
黒塗りの厚い雲が太陽を覆いつくす。
ここはどこだ?
外界から隔絶した天嶮の果て。
剥き出しの岩肌に囲まれた僅かな土地。
建物はひとつ。
煉瓦造りの館。赤い屋根は常に雪に隠されている。
二重窓の向こうに揺らめく灯りが見えた。暖炉の炎だ。
彼女は、ここで生まれた。
彼女とは、誰だ?
祖父と祖母、父と母、そして彼女と兄弟たち。
この地にいるのはそれですべて。
孤立したコミュニティ。
家族ひとつで完結した世界。
彼女は、ここで生まれて、ここで生きてきた。
言葉を覚える前から、魔法の呪文を子守歌に、
物心がつくよりも早く、剣を握らされて、
吹雪に耐え、獣を狩り、知恵を身に着け、
ただひたすらに、
強く、
強く、
どこまでも強くなれるようにと、そう願われて、生きてきた。
強くなることが、生きるということだった。
だから、祖父も祖母も、父も母も、生きてはいない。
彼らはもう強くならない。成長しない。止まった存在でしかない。
誰も生きてはいない。
ただ死んでいないというだけ。
彼女と兄弟たちだけが、生きている。
その兄弟たちも、やがては強くなることを諦めた。
兄も、弟も置き去りにして、
彼女だけが、生き続けた。
生きても死んでもいない家族に囲まれて、
彼女だけが、生きていた。
旅立ちは15歳の誕生日。
長い長い旅の始まり。
途切れることない吹雪を掻き分けて、彼女は生まれて初めて山を下りた。
遥かな天嶮を背後に、12の昼夜を越えて、人の世界に辿り着いた。
北域の辺境。人類の生存領域の端っこ。雪に染まった小さな街。
山の上よりよっぽど温かくて、恐ろしい獣も現れない、平和な場所。
彼女はそこで初めて、家族以外の人間を目にすることができた。
けれど……。
彼女の出会った誰も彼もが、生きていなかった。
死んでいないだけで、生きてはいなかった。
強くなることを、成長することを諦めて、足踏みを続ける人の群れが、そこにいた。
落胆よりも納得。
わかっていたとも。
どうせそんなものさ。
目指すべき場所はわかっている。
辿るべき道も理解している。
なにより、まだ強くなれると知っている。
彼女は、まだ生きている。
だから、足を止める理由なんてどこにもない。
彼女だけのひとり旅。
悪意の蔓延る街道を歩き、
弱者を飲み込む密林を走り、
黄砂の吹きすさぶ砂漠を抜け、
波濤の荒れ狂う海を越えて、
一日を生き抜き、
一週を耐え抜き、
一か月を跨いで、
一年を幾度も踏み越え、
時を忘れるほどに歩き続けて、
やがて、終着点。
旅の終わりに、彼女は、ようやく生きている存在に出会うことができた。
南の果ての打ち捨てられた古城。
異形たちが王にかしずく魔の巣窟。
破れた壁と砕けた床に彩られた玉座の間。
錆銀の玉座はくすんだ古い血に汚れている。
そこに座すのは、魔王の名を冠する者。
彼女と同じ、まだ生きている存在。
一目見た瞬間に、互いにそれを理解した。
言葉はない。
必要ない。
二人が同時に動く。
剣を抜き放ち、斬りかかる。
有象無象の魔の者たちなど、既に互いの思考の外。
斬り結ぶ剣閃が、風を裂き、空間を制し、近づく者を微塵に切り刻む。
玉座の間は一瞬で鮮血に染まった。
居合わせた魔の者たちが断末魔を奏でる。
弾け飛んだ臓物のほの暗い香りが周囲を満たす。
破れた壁からは月の光。
薄明りの中、鋼のぶつかる火花が、ちかちかと。
必殺の意思を籠めた縦斬りが、分厚い魔王の刃に受け止められる。
返しの一撃は、さらに速く、重い。
相手の刃が滑る。横薙ぎ。その腹を下から突き上げて軌道を逸らす。
もう一度。
放った突きは今までよりも速い。しかし、半歩の足捌きで躱される。
空気が悲鳴をあげる。びりびりと肌が震える。
ダンスだ。
踊るように、交互に技を繰り出す。
剣を振るい、魔法を唱えて、
斬って、燃やして、殴って、穿って、砕いて、
そのたびに、彼女も魔王も、強くなる。
どこまでも、強くなる。
生きているのだと、実感する。
恋にも似た甘い気持ち。
憎悪にも似た暗い気持ち。
彼女は生まれて初めて、他人と本当の意味で言葉を交わした気がした。
ずっとこうしていたい。
ずっとこうしていたかった。
一合ごとに剣速が上がり、一呼吸ごとに魔法の威力が上がる。
生きている。生きている。生きている!
叫びたい。笑いたい。涙を流して喜びたい。
世界そのものが歪むような、致死の絶技が飛び交う極限の戦場で、
彼女は確かに、そう思ったのだ。
そして、それでも、
終わりの瞬間は訪れる。
均衡が崩れたのではない。
ただ単純に、二人が同時に、絶対に相手を殺せる一撃を繰り出した。
たったそれだけのこと。
それだけのことで、永遠に続くとも思えたダンスは終わりを迎えた。
彼女の剣が、
魔王の剣が、
彼女の胸を貫き、
魔王の胸を貫いた。
血が飛ぶ。赤。自分のではない。相手のもの。背中から。勢いよく。やがてゆっくりと。
流れる。落ちる。滴る。小さな音。さらさらと。熱さと冷たさが一緒にやってくる。
限界を超えて駆動していた身体が軋んで止まった。
全身からあっという間に力が抜けていく。
それでも二人は剣は離さずに。
もたれるように、
抱き合うように、
重なり合って、地面に倒れた。
二人の血が混じって床に広がる。
呼吸の音が小さくなる。
鼓動が弱まる。
命が尽きる。
ああ、なんて……。
生きているときに死ねるのだから、
これがきっと、一番美しい終わり方。
暗闇が迫る。
彼女の旅が終わる。
一部始終を見ていた夢魔は、夢の終わりを感じ取った。
鮮やかで、くっきりとした情景が、涙のように滲んでいく。
けれど……、
これは本当に夢だったのだろうか。
世界の輪郭が掠れていく中で、不意にそんな疑問が首をもたげた。
夢の主の覚醒は近い。
そのことを認識しつつ、夢魔は目をつむって現実の方向に意識を傾ける。
その瞬間、夢魔の胸を刃が貫いた。
象に踏まれたような衝撃。
全身がばらばらになりそうな痛み。
意識が夢の世界に引き戻される。
目を見開いた。
眼前には、血濡れた彼女の顔。
笑ってはいない。怒ってもいない。
氷のように冷めた透明な表情。
胸に突き刺さった剣が捩じられる。
心臓と肺を巻き込んで、肉と臓器がミキサーされる。
激痛。喉からせり上がる気持ち悪さ。痺れ。眩暈。
意識が再び遠のく。
期せずして、夢から離脱していく。
なにもかもがあやふやになって、夢魔も彼女も曖昧になっていく。
深海から水面に浮上するように、
破裂するような負荷を代償にして、現実へと帰っていく。
最後に聞こえたのは、耳元からの囁き。
夢の奥に取り残される彼女の遺言。
「お前、人間じゃないな」