「いやさ、俺も最初はネタかと思ってたんだよ。だけど今は違うね、ガチで信じてる!」
その声は、聞くともなしにマヤの耳に飛び込んできた。
斜め右に三つ離れた机に座る男子学生の声だった。シンプルに声が大きい。教室内の他の学生の視線も彼に集中したが、それも一瞬のこと。自分とは関わりのない話とわかると、誰もがすぐに興味を失った様子。せいぜいが喧しい学友に眉を顰めたくらいだ。
大学生活一年目、マヤの履修している講義は、大きく分けて二つのタイプがある。
ひとつは、学部共通の必修単位。とにもかくにも履修人数が多い。ひとつの講義に百人以上の学生が集まるのもザラである。教室も大教室か階段教室(……『大学の教室』と聞くとこのタイプが最初に思い浮かぶかも……)が使われることが多い。
人数が多いだけあって同じ教室にいる学生でも、知らない顔、覚えきれない顔がほとんだ。少なくとも、マヤの感覚ではそう。交友関係の広いけーちゃんだって、さすがに全員は把握していない……と思う。たぶん。
もうひとつが、選択タイプの単位。こちらはよっぽどの人気講義でなければ少人数編成だ。使用される教室も高校のときと同じくらいのサイズがメイン。履修人数も二十人いるかいないかという場合が多い。(しかも、出席人数は学期の後半になるにつれてどんどん減っていく)
人数が少なく互いの席の距離も近いので、名前を知っている学生も自然と多くなる。とはいえ、講義ごとにメンバーはがらりと変わるし、高校時代みたく教室の全員の名前がわかるというわけではないけれど。
「まぁ聞いてくれ。俺だって令和の男だ。オカルトだの超常現象だのってシロモノは漫画の中だけの話だって思ってたよ。でもよ、そういうジョーシキがひっくり返るような体験をしちまったんだよ、これが。そしたらもう、この感動を誰かに伝えたくってたまらなくなっちまってさ!」
「なんだそりゃ。お前、変な宗教に引っ掛かったんじゃねえだろうな」
「違うっての! 宗教とかじゃなくって、なんつーか、そう、都市伝説みたいな体験なんよ!」
六月中旬。後者の少人数タイプの講義での出来事である。
さて、声の大きい彼はなんという名前だったか。ササキか、ササモトか、ササザワ? なんとなくそんな響きだったような気がする。実際に名前を呼んだことは、たぶんないはず。同じ講義を取ってはいるが、マヤにとっては友人どころか知人と呼べるかも怪しい間柄だ。
そんな相手の話なんて、普段であれば躊躇なく意識の外に置き去りにしてしまうのだが……。ふと気づけば、耳に入った『オカルト』や『都市伝説』といった言葉にマヤの意識は引き付けられていた。
もしかしたら、ササ……くんも人間ではない存在と関りを持ったのだろうか、と考えてしまう。
明らかに、ここ最近マヤが体験した常識離れした事件たちの影響だった。
「マヤ? どしたんよ、あいつの話が気にでもなんの?」
「うん、ちょっとだけ」
「都市伝説とか、あんた好きだったっけ。怪獣とはちょいとジャンル違いじゃない?」
隣の席のけーちゃんが首を傾げる。
講義の開始まであと数分。男子学生の熱弁はいよいよ佳境に入ったらしい。
「俺は悟ったね。都市伝説とかネットミームってやつの中には、確かな真実も存在してるってことを。もちろんデマとかデタラメがほとんどだと思うぜ? だけど、理性的な思考で判断すれば、その中に隠された重大な事実に気づくこともできるんだって!」
「前振りがなげーよ。んで? 結局、ササジマはなにを体験したってんだよ」
「それよ! 俺自身が体験したんだ、こいつは絶対に間違いない。いいか、よく聞け……」
そこでいったん言葉を切り、溜めに溜めて、ついに彼はこう叫んだ。
「
ざわめきが死んだ。教室の全員が彼のことを凝視していた。
「あいつ、ちょっと黙らせてくるわ」と般若の形相のけーちゃんが立ち上がった。
………
……
…
「まず前提として、ソウマくんがこの件に対して義務や責任を負う必要はないの。それは理解しているわよね?」
フェアリィ・クレイドルの地下階、真昼のように眩い照明に照らされた探偵事務所で、ソウマとランカがテーブルを挟んで向かい合っていた。いつも通りのパーフェクトな笑顔を浮かべた吸血鬼探偵にじっと見つめられて、ソウマは思わず困り顔でお手上げのポーズ。
「ええ、もちろん。そこはわかっていますよ」
「ドリームイーターの『古い知人』だったかしら。その人物が計画しているという『隔離環境』の話は、確かに気になるところではあるけれど……」
こてん、とランカが首を傾げた。夜空のような黒髪がさらりと揺れる。
「だけどソウマくんはそれを聞かされたというだけ。部外者と言っても差し支えないわ」
「まぁ、はい。でも、だからといって何もしないっていうのも落ち着かないというか」
「ドリームイーターの思う壺ね」
「ほんと、ぐうの音も出ませんよ」
言ったもの勝ちのハメ技だ。聞いたときにはもう術中。無視をするのも難しい。
夢喰いの老紳士の言葉にものの見事に絡めとられたソウマはもう苦笑するしかない。
「ああ、当たり前ですけど、なにか調べてみるっていっても僕の手が回る範囲でですよ。大学も今年で卒業ですし、残りの単位の確保と就職活動、それから夜の仕事が優先です」
「私の事務所のアルバイトは?」
「僕に回ってくる仕事があるなら、優先度高めで請け負いますよ」
「それは重畳ね」
お得意様ですから、とソウマが頷けば、ランカがにっこりと微笑んだ。
「わかったわ。ソウマくんが自分の本来の仕事をきちんと理解しているのなら、その余暇時間に何をするのもあなたの自由ですものね。ドリームイーターの言葉が気になるのなら、それを探るのも選択肢のひとつでしょう。私ももうとやかくは言いませんわ」
「なんかすみません。変に気を揉ませちゃったみたいで……」
「ただの年長者のお節介よ。でも、ひとつだけ約束。身の危険を感じたらすぐに手を引くこと。これは、ひとりの友人としてのお願いです」
そう口にした女探偵のたおやかな笑みに変化はない。
けれど、正面からソウマを射抜いてくる彼女の視線がいつもより真摯なものに感じられた。
「わかりました、肝に銘じておきます。僕だって迂闊なことをして火傷したくはありませんから」
「素直でよろしい」
「……というか、そもそも調査といってもなにを調べればいいのかもわかっていませんし」
ソウマは顎に指を当てて思案顔を作る。おそらく、ディリータの語る『古い知人』の情報は警察(もしくは別系統の政府組織)にも共有されていることだろう。彼らは彼らで伝え聞いたその計画に対して捜査を進めているはず。その組織力はソウマ個人とは比するべくもない。
それを理解したうえで、敢えて個人で動くとしたら、いったい何から手を付けるべきなのか。実のところ、その取っ掛かりすらないのが現状である。
「うーん……、ランカさんはどう思います? 例の『隔離環境』について」
「そうね、特定の目的を持って孤立を選択するコミュニティというのは、歴史的にもいくつか例があるけれど。今回のケースでは、明確に『未来』を意識しているのがポイントになるかしら」
「主催者が純血の人外ともなれば、寿命も時間感覚も普通の人間とは違いますものね」
「そもそもの目的が『世界が変わっても、その影響を受けず、人間が人間であり続ける環境』を作ることでしょう? 百年単位、千年単位の社会変革をすり抜けることを目的としているのよね。それは裏を返せば、共同体の運営計画も数百年のスパンで構想されているということ」
「その場合、ひとつの課題が浮き上がるわ」とランカが人差し指を立てる。
「なんだと思う?」
「……シンプルに考えて、人間はそんな長く生きられないわけで。住人の世代交代とかですか?」
「ご明察。その通りよ」
日本人の平均寿命は84歳。赤ん坊の頃から『隔離環境』に置かれたとしても、コミュニティの構成員でいられる期間は百年にも満たない。もし本当に千年先を見据えて共同体を運営するつもりなら、どこかで新たな世代を
「外部から新たな住人を受け入れる……、のは難しいですよね」
「外の世界の変化をシャットアウトするのが『隔離環境』の目的だもの。世代交代のたびに
「そうなると、共同体のメンバー同士で子供を産んで、その子をそこで育てていく方向ですか」
共同体に男女双方が属するなら、それが一番自然な形になるだろう。内部で世代交代が完結すれば、外部と接触をする必要もない。『隔離環境』を維持するためにも妥当な手段に思える。
共同体内部で生まれた第二世代を外の世界に触れさせずに育てるというのも、『人間の変化』を最小限に抑えるという共同体の目的に適うものだろう。
「ドリームイーターの『古い知人』とやらは、共同体に属する
「確かに……。でもそうすると、外部との接触はさらに少なくなるわけで、外から調査の手を伸ばすのは余計に難しくなりそうな感じですね」
「ところが、この世代交代の方式にも問題があるの。共同体の男女関係が内部で完結してしまう場合、ときとして外部の血を受け入れる必要が出てくるのよ。『隔離』の本来の目的とは矛盾するようだけれどね」
そう言って、ランカはティーカップの紅茶を口に運ぶ。
透き通った琥珀のようなストレートティーがふわりと甘い香を漂わせた。
「ええと……、それって、親の血が子供の中で濃くなりすぎる、みたいな話ですか?」
「いわゆる
「それを避けるために、共同体の外部の遺伝子が必要だと?」
「そうね……、たとえばだけど、一組の男女が出産適齢期の三十歳前後に子どもを二人産む、と仮定しましょう。以降、この二人はそれ以上の子どもを産んだりしない、という設定ね」
「一組の夫婦に二人の子どもだから、人口の増減を抑えようとするパターンですね」
「そう、閉鎖環境での人口政策はそうならざるを得ない。使用できるリソースの制限が強いし、かといって人口減少は共同体の崩壊に直結するリスクだから」
あくまで仮定ではあるが、ソウマもその意見に異議はない。
増えすぎればパンクするし、減りすぎればあっという間に萎びてしまう。外界から隔離された共同体の運営というのは、風船みたいにデリケートなものなのだろう。
「そうなると、三十年サイクルで共同体に次の世代が誕生することになるわ。六十年で二世代。九十年で三世代ね。最初の構成員と合わせて、ほんの百年で四世代の人間が共同体に属することになるの。そしてそれは、その分だけ遺伝子の交わりも進むということでもあるわ」
「その場合の、ええと、
「コミュニティのスケール次第ではあるけれど……、狭い世界の中で
「……それは、自由恋愛による出産を想定しているのがいけないのでは?」
ソウマのその疑問にランカは首を横に振った。
曰く、男女関係の平等化や誘導が行われる可能性は低いだろう、と。
「『隔離環境』の目的は、『人間らしい人間』を維持し続けることでしょう? 恋愛感情の抑制や極端な血統の管理のような、いわゆる
「じゃあ、外部の血を受け入れるために、精子バンクとかを利用するっていうのは……」
「コミュニティの主催者が、人工授精を『人間のあり方を変化させるもの』と認定するか次第かしら。ただ、こんな社会実験を企画するくらいなのだから、やっぱり自然交配にこだわっていそうな雰囲気はあるのよね」
ティーカップをソーサーに戻して首を傾げる。吸血鬼の潤った唇が薄っすらと弧を描いていた。
「つまり、『隔離環境』の遺伝子が変に偏ったりしないように、ときには外部の遺伝子が必要になる。だけど、外部の成人を新たなメンバーに迎えるのは、
「この設問、ソウマくんならどう回答するかしら?」
「いや、そう言われても……。うーん、理想を言えば、内部と外部の接触が最低限で、なおかつそこに人間的な男女の触れ合いがあり、子どもを作ることに男女ともに積極的になれて、それでいて後腐れなく別れられるような出会いをセッティングができればいいんでしょうけど……」
ありえます、そんなのって? と思わずソウマは渋い表情を作ってしまう。
そんなアルバイト探偵の渋面を見つめながら、女探偵が艶然と微笑んだ。
「普通はありえないかもしれないわ。だけどだからこそ、そういう奇妙な出会いの情報が、ソウマくんの調査の取っ掛かりになるかもしれないでしょう?」