夢魔さんは眠りたい   作:子守家守

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自由恋愛式マヨヒガ(6)

 他人と一緒に漫画喫茶を訪れたのは初めてだった。

 

 ソウマが漫画喫茶を利用するのは数か月に一度くらいのこと。たまに気が向いてふらりと店に入る程度で、他の誰かに誘われたり、逆に誰かを誘ったりということもない。

 漫画であれ小説であれ、読書はひとりで楽しむ趣味だと思っている。物語の外の他人を気にしながら本を読むというのがシンプルに苦手なのだ。そういう意識もあって、友達と一緒に漫画を読みに行くという発想は、ソウマの中には存在しないものだった。

 

 だから、マヤと二人で店に入ることになったのは、ソウマにとっても思わぬ展開だった。

 ペアシートの存在は知っていたが、まさか自分が使うことになるとは……と、表情に出していないだけでけっこう驚いてもいた。

 

 こういった店がデートスポットとして使われることもあるという話を聞いたことは確かにあった。けれどもソウマとしてはあまりピンと来なかったというのが正直なところ。カップルで来て楽しい場所なのかな、と首を傾げたくらいだ。

 

「……」

「……」

 

 実際、ロングソファに並んで座るソウマとマヤの間に会話はない。二人ともそれぞれのページを捲るのに集中している。読んだ漫画の感想を言い合うこともなかった。というか、それをするにはジャンルが悪い。推理漫画の感想合戦なんて、致命的なネタバレと紙一重。迂闊な発言ひとつで人間関係が砕け散ってもおかしくはない地雷原だ。

 

 ただ、その沈黙続きの空間に不満があるのかと聞かれれば、そういうわけでもない。

 

「ん……」とマヤが小さく身じろぎする。彼女の黒髪がソウマの肩をさらさらと撫でた。

 お互い黙って漫画を読んでいただけのはずなのに、いつの間にかマヤの頭がソウマの腕に寄りかかっていた。ソファの中央に沈み込むように身体が傾いて、ほとんどもたれかかっているような状態である。羽のように軽い彼女の頭が、ソウマの腕を柔らかく押している。

 

 落ち着いた静けさの中で、ページを捲る音が小さく響く。

 触れ合った身体からほのかな温かさを感じている。

 

 ロケーションとしては特殊な部類だろう。物置のように狭い部屋に、人間が二人も詰め込まれている。質の良いソファがあるとはいえ、普通ならストレスを感じてもおかしくはない空間だ。

 

 だというのに、居心地の良さを感じるのはどうしてだろうか。

 

 ひとつには、一緒にいる相手が気心の知れた間柄だということが大きい。

 それから、漫画や映画といった没頭できる娯楽が置かれていることもその一因に思えた。

 一緒にいるからといって、会話をしないといけないわけでもないし、過剰に気を遣わなくても構わない。まずはそれぞれで物語の世界に没入して、たまに思い出したように現実に帰ってきたときには、隣の誰かと触れ合ったり言葉を交わしたり。そういう気楽さがこの場所にはあった。

 

 自分で体験してみてわかったが、確かにカップル向けのスポットになるかもしれない。

 お互いに自然と距離を詰められるし、多少会話がぎこちなくても誤魔化しが効く。もちろん、完全に自分の世界に没入してしまったら二人でいる意味もなくなってしまうが、そこだけ気を付ければコストパフォーマンスに優れたデートスポットとして独自の強みがありそうだ。

 

「むぅ」

「あの、マヤちゃん?」

 

 ……それはともかく、いつの間にかマヤの頭が胸板のあたりまで移動しているのだが。

 開いたページから視線を下げると、ちょうど彼女の旋毛が見える。放っておくとこのまま人間クッションにされて、そのままずるずると膝枕の体勢まで滑り落ちていきそうな気配。

 ため息をひとつ。ちょうどよく読み終えた漫画を閉じて、彼女の小柄な両肩を「よいしょ」と垂直に立て直した。紙面に集中していたマヤの顔が動いて、不思議そうな表情でソウマを見上げてくる。天然でじゃれついてくる子猫を連想。鋭い爪を隠しているところもそっくりだ。

 

「新しい飲み物でも持ってこようか?」読み終えた漫画を持って立ち上がる。

「うん」マヤが頷いて、コテンと首を傾げる。「その本、読み終わったの?」

「返してくるついでに、ドリンクバーに寄って来るから」

「私、小説のコミカライズってあんまり読んだことないんだけど、どんな感じだった?」

「うーん……、いや、話の筋は記憶通りだったし、イラストも綺麗だったんだけど」

「だけど?」

「メインキャラの男の子がひとり、女の子になってたね」

 

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 

「来た。ランカさんから返信」

 

 メッセージが届いたのはそれから数十分ほどしたころのことだった。

 解析を依頼していた『落書きらしきもの』についての報告だった。振動したスマートフォンをタップして画面を遷移させる。隣に座るマヤが漫画を閉じて画面を覗き込んできた。ロングソファの上で顔を寄せ合って、『自称名探偵』にして『物知り吸血鬼』の見解に目を通す。

 

「えっと……『扉に書かれた文字は、ある種のアンカーだと思われる』」

「アンカー?」マヤが首を傾げた。「錨のこと?」

「うん、つまり、離れた場所を繋げるための目印、重石のことになるのかな」

 

 メッセージを読み進めながらソウマはランカの見解を補足する。

 

「文字というか紋様だったみたいだね。道理で読めないわけだ。『系統としては過去に日本の東北地方の異種族が使っていたものに類似性が見られる』だってさ」

「過去って、どのくらい昔のことだろ」

「百年単位の昔でもおかしくないよ。あの人の持ってるデータって、その頃からずっと蓄積されているものだから」

 

 ランカ曰く、自分自身がまさにその時代に目にしたものを集めているだけのこと、らしい。

 実に長命種らしい適当な言い草だ。とはいえ彼女は、その情報を粗雑に扱ったり、おいそれと外部に露出したりはしない。必要なときに必要な分の情報だけを提供するのが彼女の流儀だ。それが当時を共に生きた人外に対する仁義であり、また自身の持つ商売道具の希少性を保つための処世術でもある、と彼女が語っているのをかつて聞いたことがあった。

 

「それで、そのアンカーが書かれているとどうなるの?」

「扉と扉を繋げるルートが生まれる。『ここではないどこか』にジャンプするための目印になる」

「地図の目的地に印をつけるみたいな?」

「まさにそんな感じの役割みたいだね。どうやら、いきなり当たりを引いたみたいだ」

 

 おそらくそのブースが、その日ササジマが利用していた個室なのだろう。

 本棚の大部屋で漫画を選んだ彼をこっそりと追いかけて、個室を特定した『彼女』がなにかを仕掛ける。そこまでは想定の通り。

 

 問題は彼女がそこからどうやってササジマを『部屋』に連れ込んだのかだ。

 

 可能性はいくつか考えてあって、例の落書きにも複数の解釈を想定できた。

 たとえば、部屋の中の人間に暗示を掛けて現実の別の場所にある『部屋』に誘導するだとか、直接幻覚を見せることで『部屋』の存在を錯覚させるだとか……。要はビートルの中でマヤと議論した三つのパターンのいずれもが、その時点ではまだあり得る状態だったわけだ。

 

「だけど、ランカさんの知識が正しいのであれば、『彼女』の手口はまず間違いなく」

「ワープポイント方式だよね」マヤが頷いた。

 

 全体的に曖昧な記憶の中で、ササジマの印象に色濃く残っていた『扉を開けた』という行為。それがトリガーとなって彼を例の部屋に導いたのだろう。

 当然ながら、漫画喫茶の狭い個室をそのまま『S〇Xしないと出られない部屋』に改装することは不可能だ。扉の紋様がアンカーとしての機能を有しているのであれば、扉の先は漫画喫茶とは別の空間に繋がっていたと考えるのが妥当だろう。『神隠し』という表現もあながち的外れではないのかもしれない。

 

「でも、そんな大事な紋様をそのままにしておくのは、けっこう迂闊じゃないかな?」

「確かに」マヤの疑問にソウマは頷いた。「目立たないように書かれてはいたけれど、実際こうやって僕らの目には止まっちゃったわけだし……」

「なにか消すわけにはいかない理由があったとか?」

 

 その問いに対する答えは、ランカの送ってきたメッセージの後半にあった。

 スマートフォンの文面をスクロールして辿り着いたそこには、次のような記述があった。

 

『紋様がその場に残っているということは、消したり動かしたりすることになにかしらのリスクかコストがあるということ。その紋様、まだ機能しているかもしれないわよ』

 

 スマホの文面から揃って視線を持ち上げる。

「まさか」と、ソウマとマヤは顔を見合わせた。

 

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 

 店内の端末を使用すれば、各ブースの利用状況が確認できた。

 (アンカー)の紋様が書かれていた扉の個室は、端末上では利用中の表示となっていた。誰かはわからないが、その個室を利用しようとしている客が存在するということだ。

 

 新たな『獲物』が『捕食者』の網にかかってしまったのかもしれない。

 

 ペアシートに備え付けられた端末でそのことを確認したソウマとマヤは、すぐさま紋様の書かれた扉の前までやってきた。個室の扉は閉じられている。パッと見ただけでは左右の別の個室の扉との違いはなにもない。濃い木目の模様の端のあたりに、筆書きの紋様がひっそりと書かれているだけだ。

 二人は口を閉じて静かに周囲の様子を窺う。個室の中からは物音ひとつ聞こえてこない。隣のマヤに視線を向けると、彼女は黙って首を振った。彼女にも人の気配は感じられないようだ。

 

「入ろう」

 

 ソウマは小声で短くそう言った。最悪、誰かが部屋の中にいたとしても、自分の部屋と間違えたと言い訳すればいい。そんなことを考えながら扉のノブに指を掛ける。

 細く息を吐き、思い切って扉を開いた。個室の内部が視界に映る。黒い合成革のフラットシートだ。ソウマたちのペアシートよりもやや手狭な印象。手前に座椅子、奥にPCと接続されたモニタ。

 

 人の姿はなかった。漫画やドリンクのカップも見当たらず、誰かが使用している形跡もない。

 開け放った個室の入り口で、ソウマは肩越しにマヤのことを振り返る。彼女も目を細めて部屋の様子を観察してた。今のところはただそれだけなので、目下のところわかりやすい脅威はなさそうな様子。危険に対する彼女の嗅覚は、ソウマにとって十分すぎるほど信頼に値する。

 

「マヤちゃんはそこにいて」

「うん。なにかあったら、すぐ追いかける」

 

 個室の内と外の境界を意識する。目に見えてなにかがあるわけではない。廊下と同じ透明な空気が途切れることなく続いている。部屋の景色が歪んでいるとか、空間が捩じれているような予兆は感じ取れない。

 息を止めて、右足から踏み込んだ。地面から微かに浮かせたつま先が、なんの抵抗もなく境界を越える。そのまま床に着地して、足の裏にソリッドな感触。

 

 なにも起こらない。

 身体は半身だけが個室の中に入っている状態。目に映る室内の様子にも変化はない。

 

 僅かな逡巡。しかし、後戻りを選択する段階ではないと判断。

 左足を引き寄せて、全身を個室の内に収めた。やはり、なにも起こらない。開け放たれた扉のすぐ内側に立ち、後ろを振り返る。廊下にはマヤの姿。ほんの少しだけ眉を傾けて、じっとこちらを見つめていた。

 

「部屋に入っても、外は見えるね。声は聞こえてるかな?」

「聞こえてる。ここから見ていても、なにもおかしなところはないよ」

 

 マヤの返答にソウマは頷いた。その場に立ったまま、顎に指を当てて考える。

 ランカの読みが違っていたのか、それともなにか『移動』の条件を満たしていないのか……。

 

「個室の扉に紋様が書かれたのは、おそらく、ササジマくんが個室の中にいるとき」

 

 そう呟いて、ソウマは開きっぱなしの扉に手を掛けた。

 一瞬、マヤとアイコンタクト。それから、扉を戻して個室の出入り口を閉め切った。

 

 外界との繋がりが遮断される。廊下の音が遠ざかる。

 薄い壁をすり抜けて聞こえていた環境音も、ふっと消えてそのまま凪いだ。

 ちり、と室内の明かりが揺らいだ。空気が重くなったと感じるのは錯覚か。

 

「鬼が出るか蛇が出るか……」

 

 閉じた扉のノブに、もう一度指を掛けた。

 ノブを捻り、扉を外に向かって押す。引っ掛かることもなく、扉はスムーズに開いていく。

 

 唐突に、引力を感じた。

 身体が前に傾く。部屋の外に吸い出される。

 穴の開いた宇宙船を連想した。

 たたらを踏む。視界が怪しい。そこにあるのは漫画喫茶の廊下ではない。

 

 歪む。傾く。捩じれる。

 そのさなかに、バランスを崩しながら転がり込む。

 

 明滅。耳鳴り。浮遊感。

 頭から血の気が引く。

 階段で足を踏み外したような落下の感覚。

 なにかの境い目をすり抜ける。

 

 直後、急激に空間のピントが合った。

 足の裏には床の感触。二本足で立っていることを認識する。呼吸を思い出して、自分の吐息の音を聞く。目も耳も、すでに正常な状態に戻っている。

 

「……心臓に悪いって」

 

 頭を二、三度振って、意識をはっきりさせようとする。

 しかし、さっきまで自分がいた場所がどこなのか、そこだけがどうしても思い出せない。どうして自分はこの部屋を探そうとしていたのか、その発端となった動機は覚えている。マヤと一緒に彼女の大学を訪れたのも確かだ。だというのに、直前まで自分がいたのはどこなのか、どうやってこの部屋に入ったのか、そこだけがはっきりしない。

 直近の記憶にフィルタをされたような感じ。ササジマの証言とも一致する。部屋に入るのと同時に、そういう呪いでも掛けられたのか。

 

 気持ちを落ち着けて、自分の周囲を観察する。四方を壁に囲まれたひとつの部屋だった。空間にはだいぶ余裕がある。フェアリィ・クレイドルでソウマがいつも使っている客室と同じか、それよりも僅かに広いくらいだろう。

 

 壁紙はクリーム色で暖かい雰囲気。照明も十分な明るさで、部屋の四隅まで照らされている。どの面の壁にも窓は存在していない。

 右手の壁の高い位置に看板が掛かっていて、デカデカと書かれた文字が目に入った。

 

「イラストでは何度も見たけど、現実になるとさすがにシュールだなぁ」

 

 頭を掻きながら、溜め息。

 看板には『S〇Xしないと出られない部屋』の表記。毛筆の黒い文字で、ずいぶんと達筆だった。どことなく個室の扉に書かれていた紋様と似た印象を受ける。もしかしたら同じ書き手なのかもしれない。

 

「にしても、誰もいない? 意外といえば意外だな」

 

 ソウマは改めてぐるりと部屋の様子を観察する。

 立っているのは部屋の中央。振り返ると、背後の壁に扉があるのが見える。入って来るのに使った扉とはおそらく別のものだろう。冷たい金属性の扉で、見るからに分厚そうな印象である。

 左手の壁際にはダブルサイズのベッド。白い掛け布団でシーツも白。わざとらしいくらいに無垢な雰囲気を醸し出している。枕は大きいものがひとつだけ。二人で仲良く一緒に使え、と。

 奥側の壁に視線を向けると、擦りガラスの引き戸が目に入る。その先にあるのはシャワー室だろうか。照明は灯っているようだが、擦りガラスにはなにも映っていない。どうやらそちらも今は無人らしい。

 

 ひと通り見回してみても、人の姿はどこにもなかった。

 はっきりとは思い出せないが、先に飛ばされた誰かがいる可能性も考えていた気がするのだが……。

 

「あっ……」

 

 そのとき、背後から声が聞こえた。

 振り向くと、いつの間にかそこにはマヤが立っている。前兆はなにもなかった。音ひとつ立てず、空気の揺らぎすら起こさずに、気づいたときには彼女はすでに『出現』していた。

 

 彼女のことは忘れていない。

 顔も声も、性格も考え方も、前世も今世もひっくるめて覚えている。

 無意識に吐息が零れた。彼女の記憶を奪われていないことに安堵する。

 

 ぱちくりと目をしばたかせたマヤは、デフォルトの表情のまま首を傾げて口を開いた。

 

「来ちゃった」

 

 どうにも悪戯っぽい口調だった。思わずソウマは肩を竦める。

 ソウマに続いて瞬間移動を体験したマヤは、物珍しそうにキョロキョロと部屋の中を見回してる。例の『S〇Xしないと……』の看板を視界に収めると、しばらくそれをじっと見つめてから、彼女はちらりとソウマの顔を横目で見た。

 

 互いの視線が交差する。

 かと思えば、どちらからともなく、ふいと視線を外して別の場所に目を向ける。

 どういうわけか、二人とも口は閉じたまま。

 数秒かけて部屋の壁に視線をさまよわせると、合図したわけでもないのに、なぜか同じタイミングで、二人はまた視線をぶつけ合った。

 

「えっと……、いや、なんだろうね、この空気」

 

 いたたまれなくなって、困った笑みを浮かべるソウマ。

 マヤは可愛らしく後ろ手を組んで、静かに上目遣いでこちらを見つめていた。

 

「あー、こほん。とりあえず、この部屋について、マヤちゃんの見解は?」

「ん。ひとまず、敵意や害意は感じないかな」

「閉じ込められてるのに?」

「閉じ込められてるの?」

 

 そう言われてみれば、確かにまだ調べていなかった。

 ソウマとマヤは出入り口と思われる金属扉に近づいてみる。よくよく観察してみると、塗装は内装に馴染んでいるものの、材質や構造はかなり頑健なシロモノだ。表面に触れてみると、鋼材の冷たさが手のひらに伝わってくる。

 ドアノブは銀の円筒型。さっそく捻ってみたが、すぐに回転が引っ掛かった。やはり鍵が掛かっている。その状態で押しても引いても扉はびくともしない。

 

「駄目だね。施錠されてる」

「どこかに鍵がないかな……」

「いや、そもそも鍵穴が見当たらない。ツマミもないし、内側から解錠はできないみたい」

 

 目の前の扉はドアノブ以外完全な平面で、装飾のひとつすらどこにもない。リーダに相当する装置も見つからないのでカードキー方式というわけでもなさそうだ。

 ペタペタと表面を確かめているマヤを横目に、壁と扉の接続部を観察してみる。扉は外開きで、蝶番は内側から見えない位置にあるようだ。どうにかして細工できないかと思ったが、どうやらそれも難しそうか。

 

「そういえば、他に誰もいなかったの?」

 

 手のひらを扉に当てたままマヤが尋ねる。

 それに答える前に、念のため部屋を横切り、擦りガラスのスライドドアを開けてみた。予想通り、その先はシャワー室。浴槽は置かれていないタイプで、物陰らしい物陰もなく、人の姿も見当たらない。

 触れてみるとタイル床が薄っすらと湿っていることがわかる。誰かが以前に使用したものと思われるが、それからしばらく時間が経っているようだ。

 

「みたいだね。僕が部屋に入ったときも、誰もいなかったよ」

「なら、二人きり?」

「……他に誰かいるとしても、たぶん、部屋の外だろうね」

 

 手近な壁に背中をつけて、ソウマは呟く。

 そこにいるのは、被害者か、それとも加害者か。部屋の施錠がなされていることを考慮すると、後者の可能性が高そうか。

 もっとも、部屋の外がどうなっているのかは不明だし(……そもそも『部屋の外』なんてものが存在するのかもまだわからない……)この部屋の主が単に今は留守にしているだけというのもありえる話ではあるけれど。

 

 ただ、この空間の支配者がいるのであれば、その人物は今なにをしているのか。

 予期せぬ来訪者であるはずのソウマとマヤの存在に、そいつがもう気づいているのなら……。

 

「もしかしたら、今も部屋の中を覗き見しているのかも」

「悪趣味」マヤが口を尖らせた。「覗かれちゃうのは……、うーん」

 

 マヤは嫌そうに眉を傾けて、施錠された扉から離れて部屋の中央に戻った。後ろ手に指を組んで、ソウマからは背中を向けている。天井の照明を見上げた彼女は、ゆっくりと左右を見渡していく。壁際のベッドで視線を止めて、たっぷり時間を掛けてから、彼女は振り向いた。

 

「でも、そしたら、どうしよっか?」

 

 その頬に、ほんのりと朱が射していた。

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