意味がないのはわかっている。
しかしそれでも、彼は問わずにはいられなかった。
「イヴ、眠っているのか?」
返事はない。
答える者はどこにもいない。
波打ち際の砂浜に刻まれた文字のように、
その問いはやがて掠れて消えていった。
………
……
…
コイケの通う大学では、学部棟のエントランスに掲示板が設置されている。
デジタルサイネージではなく、緑のコルクに画鋲を突き刺して使う骨董品だ。
貼られているのは、定期試験の情報、休講の連絡、サークル活動のイベント広報などなど。昔からの伝統らしいけれど、令和のこの時代になんともレトロなものだと思う。
そのチラシがコイケの目に留まったのは、ただの偶然だった。
掲示板の片隅に貼られたA4のチラシ。イラストのひとつもない、文章のみのシンプルなものが、カラフルなサークルのチラシの群れにひっそりと埋もれていた。
内容は、アルバイトの情報。募集主として学内の研究室の名前が書かれている。
仕事の概要を見てみると、特に難しそうなものでもない。研究室の教授が開催する講演会で雑用のようなことをするだけらしい。多少の前準備があるものの、ほぼ日雇い、単発のアルバイトだった。
報酬はそこそこ。けれど、雇い主の身元がはっきりしているのはプラスポイント。最近の闇バイトのニュースなんかを見ていると、変に美味しそうな儲け話より、手堅く安全な仕事の話のほうがよっぽどありがたい。
ちょうど所属しているサークルの関係で懐が寂しかったところだった。講演会の予定日のスケジュールもフリー。コイケは深く考えることもなく、チラシに記された番号に連絡を入れてみた。
………
……
…
「それで、結局、どこに向かってるんですか?」
ソウマは黒塗りのワゴン車の後部座席に座らされていた。
フェアリィ・クレイドルの入り口で座席に押し込まれてから、かれこれ二十分は走行している。
車は3ドアのワンボックスで、後部座席だけでも3列あるが、座っているのはソウマの他にもうひとりだけ。後部座席と運転席の間には仕切り壁があり、進行方向の視界はゼロ。左右と後ろの窓もスモークされていて、外の景色はまったく見えない状態だった。
多少息苦しい雰囲気だが、もちろん護送車というわけではない。座席のクッションは適度に柔らかく、自然光が入ってこないというだけで、照明そのものは十分な明るさを保っている。
クーラーが効いていて、室温も快適。
季節は夏だが、そのことを忘れてしまいそうになる。
「今は説明できない。到着するまで待って」
後部座席の唯一の同乗者、ナナミ刑事が仏頂面でそう言った。
彼女と顔を合わせるのも、そこそこに久しぶり。アオイヤマ・ソバコの事件以来のことである。
フェアリィ・クレイドルのボスを介して、どこぞから呼び出しが掛かったソウマのことをホテルまで迎えに来たのがナナミだった。つまりこれは、警察かその関連組織による呼び出しだということ。
「さっきもそう言われて、もうずいぶんと経ちましたけれど。せめて呼び出された目的くらい、説明があってもいいのでは?」
「それも、着いたら話すから。悪いとは思うけれど、もう少し我慢してちょうだい」
そう言って、ナナミ刑事は腕を組み、唇を一文字に結んでいる。
彼女の横顔は、どことなく不機嫌そうな感じ。もっとも仕事中の彼女は鋭い表情がデフォルトになるので、割と見慣れた表情ではあるのだけれど。
せっついても答えは返って来なさそうだ。ソウマは諦めて座席に深く腰を沈める。
わざわざこんな車が用意されているのだ。それなりに機密のある場所が目的地なのだろう。残念ながら、思い当たる場所はまったくない。というか、曲がりなりにも一般人であるソウマが、警察に呼び出しを食らうというのもかなりのレアケースだ。
確かに、フェアリィ・クレイドルに勤め始めた頃、警察から捜査協力を打診されたことはある。
しかし、ソウマに出来ることと言えば、誰か(……この場合は、容疑者とか被疑者になるだろうか……)を眠らせてその夢を共有するということだけだ。
前提として、夢の中の出来事がすべて真実とは限らない。眠っている被疑者が夢の中で罪を告白するようなことがあっても、それが正しいかは不明だし、証言が証拠能力を持つというわけでもない。現実の捜査に活用しようにも、真偽不明の曖昧な情報を提供するくらいが関の山である。
しばらく試行錯誤があったものの、当時は結局、警察への捜査協力の話は立ち消えとなってしまった。それ以降、警察に類する組織から新たに話を持ち掛けられたということもない。
だから、今のこのシチュエーションはソウマにとってかなり意外な状況だったりする。
もっとも、ソウマを呼び出しそうな人物に、ひとりだけ心当たりはあるのだが……。
「そろそろね。降りる準備を」
ふと、ナナミの声。
車が斜めに傾くのを感じる。緩やかな下り坂を下りているらしい。相変わらず外は見えないが、どうやら地下に入ったようだ。しばらく走行して、また水平に戻る。下りていたのは、2階分か3階分くらいの感覚。
車が減速する。細かく左右に曲がる気配のあと、完全に停止した。
ナナミが立ち上がり、後部座席のドアを開けた。促されるままにソウマも車外に出る。
白い照明に照らされた駐車場だった。床も壁もコンクリートで、窓はなく、天井は高い。普通に歩くだけでも靴音が何重にも反響する。やはり地下にある駐車場のようだ。白い塗料で引かれた駐車スペースは10台ほど。ソウマたちが乗ってきたワゴンの他にも、駐車中の車が3台あった。
振り返ると、登り坂のトンネルが駐車場の一角から伸びていた。車はあそこから下りてきたようだ。他に地上へと繋がるルートは見当たらない。いよいよ秘密基地みたいな雰囲気だ。
「こっちよ。付いてきて」
正面にガラスの扉が見えた。ナナミはそちらに歩いていく。
運転席は閉じたままだった。結局、ソウマは運転手の姿を一度も見ていない。
ナナミがカードキーでロックを解除して扉をくぐる。その背中に遅れないようついていく。
入ってすぐのところに守衛の詰め所。ガタイのいい大男がじっと見つめてきた。彼の目の前で、もう一度カード認証。緑のランプが点灯したところで、ようやく視線の圧力が和らいだ。
白い廊下を進む。無骨な印象の駐車場と打って変わって、建物の中はシンプルながら洗練された雰囲気だった。近未来的といってもいいかもしれない。床面はつるりとした光沢があって、照明は自然光に近くなるよう調整されている。ときたま緑の観葉植物が置かれているのが目に入った。
意外にも、人の姿はそれなりにある。廊下を歩いている間にも数人とすれ違った。スーツ姿とラフな格好の者が半々だった。見た目の年齢は中年から壮年といったところ。ソウマと同年代か、それ以下の年齢の者は見かけなかった。
廊下の突き当りでエレベータに乗った。
ナナミがボタンを押して、下の階に移動する。ここにもカードのリーダがあった。階層の移動にもカードキーが必要らしい。ずいぶんと厳重なセキュリティだ。
エレベータのドアが開く。箱を下りると、また廊下。左右に等間隔で扉が並んでいる。
そのひとつを選んで、ナナミが扉の横のインターフォンを押した。
「ナナミよ。ソウマくんを連れて来たわ」
「ああ、入ってくれたまえ」
返答は男の声。そのトーンに聞き覚えがあった。
微かな駆動音を立てて、扉が横方向にスライドする。
清潔感のある部屋だった。個室としてはそこそこの広さ。壁際にスチールタイプの本棚。厚みのある専門書とラベリングされた青いフォルダが並んでいる。
個人の研究室という雰囲気だ。
奥にタワータイプのコンピュータが置かれた机があり、そこに見知った男が腰掛けていた。
「やぁ、ソウマくん。悪いね、急に呼び立てて」
「ディリータさん……。ええ、どうも、お久しぶりです」
青い瞳と彫像のような容貌がソウマたちを出迎えた。
あの日、彼が語っていたことを思い出す。
数年前の
多くの異種族や混血が、人類との新たな関わり方を模索する段階に入っている。とりわけ数百年を生きる長命種たちは、いずれ来たるであろう『人類』の変貌を、自身の長い人生でいつか必ず直面する不可避の重大事と捉えているようで……。
『これから先、やらかす者も多く出るだろうな』
ディリータが悪辣な笑みと共に残した言葉がソウマの脳裏にこだまする。
自然と眉間に皺が寄った。呼び出しを受けた時点で予測はしていたものの、やっぱり厄介事に巻き込まれたらしい。しかも、今さら回れ右も出来なさそうな雰囲気。
「立ち話もなんだ。こちらに掛けてくれたまえ」
室内には簡素な応接セットが設えられていた。ディリータに促されて、ソウマは座面の低いソファに座る。一方、ナナミは部屋の入口から動かない。ドアに背中を付けて、腕組みをしながら部屋の中を睥睨している。
ふと疑問に思う。ナナミはどういう立場でソウマを案内してきたのだろう。彼女はこの施設にずいぶんと慣れている様子だった。初めて訪れたという感じではない。ソウマの案内とは別に、すでにこの場所でなにか仕事があったのかもしれない。
「ここって政府の研究所かなにかですか」
「ああ。ソバコくんの件の後、日本政府との交渉の結果、私はここの配属となった。長ったらしい正式名称もあるのだが……、単に『地下技術研究所』と呼ばれることが多い。あるいは略称にして『地下技研』だな。関係者の間ならそれで通る」
「地下という単語がダブルミーニング、みたいな?」
「察しの通り、一般には公表されていない機密の施設だ。異種族や混血に関する研究や、表社会で公開にするには時期尚早と政府が判断した技術を管理・研究している」
「アオイヤマさんに使われている技術もそうですよね。彼女は、今、どんな感じですか」
「彼女はこの部屋にはいない。個室が与えられている。設備環境は非常に充実している」
そう言って、ディリータがPCのモニタに目を向けた。
「この時間は、日課の配信活動中だな」
「彼女、ここでも配信を続けているんですね」
「上層部の許可は得ている。機密保持の関係でひと悶着はあったが……。今は専用の回線を引いて外部とネットワークを繋げている。研究所の内部は独立のネットワークが構築されているから、そちらからは物理的にも切り離されている形だ。彼女の部屋に調整用の端末があって、そこにだけリンクしている」
「つまり、アオイヤマさんは研究所のネットワークにアクセスできない状態?」
「そうだ。物理的なハードはここに存在しているが、研究所についてソバコくんは自室以外の施設を知覚すらしていない。その代わり、彼女はオープンなネットワーク環境で
ということは、ソバコ本人の認識としては、地上に脳とコンピュータがあったときから生活環境は何も変わっていないように感じているのかもしれない。事例が特殊すぎて、ソウマにはその感覚を想像することもできないが……。
ただ、おそらくそれも、ディリータの研究目的からすれば都合の良い環境といえるのだろう。現に彼はこの状態についてなんら不満を抱いていないように見える。アオイヤマ・ソバコというVtuberが
「それでアオイヤマさんは、今も夢を?」
「見ている。私にとって『食べられる』夢をな。非常に喜ばしい経過だ」
「だとすれば、彼女は今も、確かに生きていると言える、と……」
「脳だけの状態でも人間は
ディリータが彫像のように厳めしい表情を僅かに和らげた。
「もちろん、すべての進化が成功裏に終わるわけではない。地球の歴史を振り返ってみれば、生き残った種よりも滅んだ種のほうがはるかに多い。適応に失敗した進化などごまんとある。ソバコくんにしてもそうだ。これから先、彼女の意識がどのように変容していくのか、長期的な観察が必要なことには変わりない。その過程で得られる新たな知見もあるだろう」
「……楽しそう、というか、嬉しそうですね」
「君にもそう見えるかね? ああ、自覚はしているとも。この研究を続けていけば、人間の本質とはなにかという、古くからのテーマに一定の回答を得られるかもしれない。我々のような異種族が求める
饒舌なディリータが顔の皺を深めながら口の端を吊り上げた。
実際のところ、彼の研究はソウマにとっても興味深い。ディリータが観測しているものが、『夢』という身近な現象ということもあるだろう。アオイヤマ・ソバコがいったいどんな夢を見ているのか、気にならないと言えば嘘になる。身体を捨て去り、意識だけの存在となった彼女の夢は、本当に普通の人間と同じものなのだろうか。
「盛り上がっているところ悪いけれど。それそろ本題に入ってもらえるかしら」
不意にぶっきらぼうな声色でナナミが割り込んだ。
彼女がそこにいることにたった今気づいたかのように、ディリータがのっそりと視線を動かす。すでに西洋の彫刻のような厳めしい表情に戻っていた。両者の視線がぶつかり、火花が散ったような気がした。
そうか、以前の事件では二人はそれぞれ追う者と追われる者の関係だったのだ。司法取引によってディリータは警察から追われる身ではなくなったが、刑事であるナナミからすればそれに思うところがあって当然かもしれない。
「そうだな。わかった、場所を変えよう。ソウマくんに見てもらいたいものがある」
ディリータのその言葉を聞いて、入り口に陣取っていたナナミが横にずれた。彼女の空けたスペースをすり抜けてディリータが部屋から出ていく。ナナミに顎で促されて、ソウマがそれに続く。最後にナナミが退室して、そのままソウマたちの最後尾についた。
まるで見張られているようだ。背後からナナミの視線を感じてそう思った。いや、実際に監視されているのかもしれない。少なくとも、三人の隊列を離れて研究所をこっそり探索するような真似は許されない雰囲気である。
ディリータの先導で廊下を戻り、再びエレベータに乗った。彼の操作でさらに下の階へと下りていく。ソウマの印象でしかないが、こういう地下施設は深い場所ほど重要なセクションになるイメージがあった。『見てもらいたいものがある』と言われたが、いったいなにが待っているというのか。
エレベータが停止する。表示パネルには地下9階とあった。
下りた先の雰囲気は、ディリータの研究室があったフロアとあまり変わらなかった。照明や壁紙が同じだからそう感じるのだろう。長い廊下が伸びているが、上層よりもドアの数は少ない。
手前から二つ目のドアに制服姿の男が配置されていた。二人組の屈強な男だった。彼らの他には廊下に人の姿は見当たらない。
ディリータは気取らない足取りでそちらに近づいていく。彼が杖をつく音が小さく鳴っている。反響はしていない。地下という閉鎖された空間ではあるが、壁や床の吸音性はむしろ高いようだ。
「手持ちの電子機器は?」振り返らずにディリータが尋ねてくる。
「スマホくらいですけど」
「持ち込みは不可だ。財布も置いていってもらう。カード類があるだろう?」
「だったら、交通系の決済と身分証明もかな」
「ガードに預けてくれたまえ。退室時に返却する。刑事さん、あなたもだ」
背後でナナミが鼻を鳴らすのが聞こえた。
ドアを警備する二人組にスマホと財布、身分証を渡す。ナナミもそれに続いた。
「持ち込めない理由を聞いても?」
「危険がある。保安上の要請だ。詳細は部屋の中を見てから伝えよう」
二人組のガードが預かった貴重品を専用のケースに収め、ディリータに小さく頷いた。
ドアの前に陣取っていた二人がさっと左右に分かれる。その間を通って、ディリータがドアに鍵を刺した。カードキーではなく、物理キーだ。さきほど預けさせられたもののラインナップを考えると、なにか電子的な介入を警戒しているということだろうか。
ロックの外れる音が聞こえた。ディリータが鍵をポケットに戻してドアノブを捻る。
三人で部屋に入った。室内はすでに照明が点灯していて、殺風景な部屋が余すことなく視界に映る。四方の壁はメタリックで、銀色の鈍い輝きを反射している。どうもそういう壁紙というわけではなく、本当に金属が剥き出しになっているようだ。床や天井も同じ材質らしい。
「見てもらいたいものというのは、あれだ」
「……なんですか、これは」
部屋の中央に金属製の物体が置かれていた。それ以外に家具や調度品は見当たらない。
ソウマは中央の物体に近づいてみた。大きさは車椅子くらい。くすんだ銀色をしていて、金属特有の冷たい光沢がある。全体的に角張ったシルエットで武骨な印象だった。
ラグビーボールのような楕円形のボディから、3対6本の脚のような突起が伸びていた。この突起でボディを支える構造なのだろうか。しかし、今はすべての脚が投げ出されていて、ボディも床に接地してしまっている。
「名称は、キャンサー」
「蟹? ああ、言われてみれば……。いや、脚の数が足りない気がしますけど」
蟹と言われれば、確かに蟹っぽい。ソウマの感覚的には、歩行式のドローンというほうがしっくりくるけれど。デザイン的に前後の区別がないように見えるのもそう感じる一因だろう。
六本脚の物体は完全に静止していて、動き出す気配もない。
生物ではない。機械だ。なんらかの機能を持つマシンなのか、それとも造形のみを目的としたモデルなのか。警備の厳重さを考えると、前者の可能性が高いと考えられた。
「日本製の兵器だ」
ディリータが淡々とそう言った。
一瞬、言葉の意味が掴めなかった。
「ヘイキ? あー……、ウェポン?」
「アームズのほうが近い。軍事利用を前提として開発されたものだ」
「えっと、それって僕みたいな一般人に見せていいものなんですか」
「開発途中の未公開兵器だ。本来であれば私でも見ることは許されないだろうな」
「つまり、ルールを捻じ曲げるだけの事情があると」
ソウマは考える。政府と契約しているとはいえディリータは外国人。おいそれと軍事機密との接触が許可されるとは思えない。その前提を覆すだけのなにかがあったということだ。
おそらく、
「その流れで僕を呼び出すことも許可されてるのだから……、問題になっているのは『夢』に関すること?」
無意識に呟いて、
どこからどう見ても金属の構造物だ。生き物とは思えない。
だが、そうだ。
前例はある。アオイヤマ・ソバコだ。生身の脳を機械に接続した人間。
まさか、目の前の機械もそうなのか。確かに、ボディに相当するであろう楕円形の部位には、人間の脳を収められそうな容積があるようだが……。
「いや、人間ではない」
ソウマの思考をディリータが静かに否定した。口に出してはいなかったはず。顔に出ていたのか、それとも考え方をトレースされたのか。単純な連想ではあったから、それほど意外ではない。
しかし、人間ではない、となると……。
「
「システム的な
「別の意味というより、二重の意味だな」
ディリータはソウマの横に並び、
青い瞳がソウマを射抜く。その中に好奇心の色が浮かんでいるのは、研究者としてのサガなのだろうか。
「アカリ・ソウマ。君には、この機械が見ている夢の調査を依頼したい」