夢魔さんは眠りたい   作:子守家守

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誰が彼女を起こすのか(2)

 コイケが連絡を入れたその日のうちに、アルバイトの面接が開催された。

 

 電話口の人物の指示に従って、学部棟の高層階に向かう。

 学部の一年生であるコイケは、その辺りの階層にまだ足を踏み入れたことがなかった。学部棟の一階は売店と大講義室、二階から四階までは少人数での講義向けの教室が並んでいる。入学してからコイケが行ったことがあるのはそこまでだ。

 それより上の階は研究室のフロアで、一年二年で基礎単位を取った後、どこかのゼミに所属するようになるまではあまり縁がない、とサークルの先輩から聞いたことがあった。

 

 エレベータから降りると、静かなフロアだった。同じ学部棟でも一階とは雰囲気が違う。地上の人ごみからは遠く、キャンパスのざわめきも聞こえてこない。エレベータ前のラウンジに若い人が数人座っていたが、普段会っている友人たちよりどことなく大人びていて、皆落ち着いた印象だった。

 

 廊下の案内板で指定された部屋を探して、その部屋のドアをノックした。

 待っていたのは、柔和な容貌の男だった。白髪交じりの黒髪で、分厚い黒縁眼鏡を掛けている。服装は黒いズボンに白のワイシャツ。ノーネクタイだけど、それが逆に没個性。

 

「はじめまして、助教のミウラです」

「コイケです。よろしくお願いします」

 

 ミウラと名乗った職員は見た目通りの柔らかい声質で、コイケを丁重に部屋へと迎え入れた。

 もっとも、コイケは『ジョキョー』という職業について知識がなかったので、実は頭の中にハテナマークを浮かべていたわけだが……。

 

 一応、ここは研究室と呼ばれる場所らしい。けれど、コイケのイメージとはずいぶんと違う。

 部屋のスペースの大半は数組の机とPCで占められていて、他に目につくものといえば分厚い専門書が収められた壁際の本棚くらい。

 物珍しい実験道具や謎めいたサンプルといった()()()()なものはどこにも見当たらなかった。ちょっと残念。だけど、文系学部の研究室なのだから、よく考えてみたらそれも当然か。

 

 採用面接といっても、コイケ以外に誰か候補者がいるというわけではなかった。

 どうやら募集の都度に顔合わせをして、その場で合否を決める形式らしい。予定していた定員になったらそこで募集は打ち切り、という形だ。

 

「うん、問題ないですね。それじゃあ、採用で」

「えらくあっさり決まるんですね……」

「まぁ、言っちゃえばただの日雇いの雑用ですから」

 

 面接はあっという間に終わった。たぶん、10分は掛かっていない。コイケが持ってきた履歴書にミウラが目を通して、そのあといくつかの問答を交わしただけだ。その問答にしても、当日のスケジュールだとか、持ち物や服装の確認といった簡単なものばかりだった。

 

「基本的な受け答えができて、一般的な礼儀作法を抑えていれば、だいたいオッケーです」というのがミウラの言葉。

 適当だなぁ、とコイケは思ったが、そこで引っ掛かるような問題児はそもそもこの手のアルバイトに応募をしてくることがほとんどないらしい。大学が斡旋する御堅い仕事だと考えて敬遠するのが普通だそうな。そりゃそうだわ、と彼女は納得する。

 

「それに、コイケさんはキーホルダですから」

 履歴書をチラ見しながらミウラが言った。

 

「ひょっとして、チャラついてるって意味で言ってます?」

 それとも『お飾り』と言われているのだろうか。コイケは眉を傾けながら言葉を続ける。

「髪色、マズいですか?」明るく染めた自身の金髪を意識しながら彼女は尋ねた。

 

「いいえ、まったく。今回の講演会は一般の社会人を対象としたものですけど、そこまでカッチリしたものでもありませんし。手伝いの学生の髪の色くらい、今時だれも気にしませんよ」

 

「むしろ、開放的な雰囲気で、ウケはいいかもしれませんね」とミウラは優しく微笑む。

 

「こういう仕事は、普段ならゼミか研究室の子にお願いしているんですよ。でも、今回は手伝ってくれる予定だった子の都合が急に悪くなってしまって……。ほら、講演会の開催日がもう近いでしょう? 慌てて募集を始めたところだったのですが、コイケさんが早めに応募に来てくれて、こちらとしても助かったところです」

「えっと、どういたしまして? あんまり難しいことはできないかもですけど、頑張ります」

「専門的な知識が必要な仕事は振らないので、そこは安心してください。ああでも、手が空くようならコイケさんにも教授の講演を聞いてもらいたいですね。学部の子がウチの研究に興味を持ってくれれば、やっぱり嬉しいですから」

 

 そう言ってミウラは照れくさそうにはにかんだ。

 

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 

「色々と疑問はありますけど、そもそもコレはどういう兵器なんです?」

 

 キャンサーの傍に屈みこんで、その構造を観察しながらソウマは尋ねた。

 パッと見た感じ、銃器や刃物といった武装は見当たらない。そういったものを接続するジョイントもないようだ。重量はありそうだから、体当たりでもすればそれなりの威力はありそうだが、間違いなくそんな運用を想定しているものではないだろう。

 

「物理的な殺傷を目的とした兵器ではない。それは、電子戦での運用を想定したものだ」

「電子戦って言われても、雑な知識しか……。ハッキングとかですか?」

「攻撃の一手段ではあるな」

 

 ソウマの背後から頭越しにキャンサーを見下ろしながらディリータが言う。

 

「基本は六脚歩行のドローンだ。内部構造は核となるコンピュータと各種の接続インターフェイス。複数の帯域で同時に送受信を行える無線系に加えて、胴体部のハッチに有線のケーブルが格納されている」

 

 すらすらとディリータの説明が続く。マニュアルのようなものを見ている様子はない。頭の中に入っているデータということか。途中で詰まることもなく聞き取りやすいテンポで、まるで彼から講義を受けているようだった。

 

「味方の精密機器をシールドしつつ、対抗勢力の電子機器を掌握することが主目的となる。そのために多数の電子機器とリンケージを形成することに特化した構造を取っている」

「脚を付けて歩かせるのはなんのために? 映画とかの知識ですけど、そういう仕事は戦場から離れた後方でやっているイメージがあります」

「脚があるのは歩兵に随伴させるためだな。このサイズも運用部隊における運搬の利便性を考慮してのものだ」

 

 金属製の脚を見つめながらディリータは続ける。

 

「なぜ前線に出す必要があるのか。それは、キャンサーが同種の兵器の存在を想定して開発されたものだからだ」

「ええと、同種の兵器? 電子戦を行うマシンという意味ですよね。それを想定することと、この蟹を戦場についれていくことがどう関係するんです?」

 

 ディリータの説明が十分に理解できず、ソウマは首を捻った。

 頭の中にデフォルメされた機械の蟹が敵味方に分かれて対決している光景が思い浮かぶ。しかし、当たり前だが重要なのは機能であって、見た目が同じと言われているのではない。

 

「理由となるのは、速度の問題だ。ひとつの電子機器のコントロールを敵味方で奪い合うとき、その勝敗は処理の速度で決まる。お互いの処理を妨害し合い、先にプログラムを掌握した側が機器のコントロールを得るという勝負だ」

「その勝負というのは、計算が速い方が勝つんですよね?」

「おおむねは。しかし、計算能力が同等だった場合、通信の速さが問題となる。だがこれも、速度という点では差がつかない。物理的な制約がある。情報を運ぶ媒体が光速を超えることがないためだ。ゆえに、最終的に重要になるのは、応答(レスポンス)の距離ということになる」

 

「うーん……、それって、キャッチボールをするのに10メートル離れてやるよりも、5メートルでやったほうが往復が速い、みたいな話ですか?」

 

「結構。伝わったようでなによりだ」

「前線に出すにしても、飛ばせばいいのでは。ドローンっていうとそっちが思い浮かびますけど」

「そちらは重量の問題だな。機体内のコンピュータを衝撃から守るため、空隙にレジンが充填されている。飛行させるにはその重量がネックだ。また、空中で的になって撃墜されるのを避けるという意図もある」

 

「ひとまず概要はそんなところだ」とディリータが話を切った。

 話を聞き終えたソウマは改めて目の前のキャンサーを観察する。聞かされた用途を考えると、わかりやすい武装が搭載されていないのも当然のことか。入室前にスマホやらを預けさせられたのも、この兵器の性能を警戒してのことというわけだ。この部屋の銀色に輝く特殊な壁や床も通信を遮断するためのものだろう。

 

「とはいえ、これ自体はハードウェアに過ぎない」

 

 そう言って、ディリータがキャンサーの上部をコツンと叩いた。

 

「この兵器は、今のところ未完成なんだ」

「未完成?」

「そうだな……、たとえるなら、これはあらゆる電子機器の鍵穴を解錠できる可能性を持ったキーピックだ。だが、道具だけあっても意味がない。これを有効に活用するには解錠技術に長けた操り手(オペレータ)が必要になる」

 

「そのオペレータというのが、夢を見ている人物?」

「人物、ではないな」

「だったら、人工知能とか」

「そうだ。この兵器の核心となっているのは、ソフトウェア……、プログラムだ」

 

「ガワだけ先に完成したのよ」ナナミが口を挟む。「もっとも、そのガワにしたって、歩行制御のモジュールとか特殊な耐衝撃構造とか、いろいろと先端技術が盛り込まれているのだけど」

 

 スーツ姿のナナミがキャンサーに近づいてきて、上からそれを覗き込む。

 ソウマとディリータ、それからナナミ。部屋にいる全員で機械の蟹を囲んでいる形になった。

 

「要求されたスペックを満たすプログラムがなかなか完成しなくて、先行して組み上げられた機体が、ひとまずこことは別の研究施設に保管されていたの。テストモデルとして作成されたのは6機。これはそのうちの1機ね」

「残りの5機は?」

「盗まれた」

 

 思わずナナミに目を向ける。彼女の鋭い視線とぶつかった。

 

「盗まれた、って……」

「そのときに、警備員がひとり殺されてる。それが私がここにいる理由よ」

 

 殺人事件を追う刑事の顔で、ナナミはそう言った。

 

「犯人は?」

「まだわからない」

「だけど、軍事的な研究施設から盗まれたんでしょう? 監視カメラとか、そういうセキュリティに記録が残っているのでは」

「そう、そこが問題なのよ」

 

 腕を組んだナナミが眉間に皺を寄せた。

 仁王のような表情でキャンサーのことを睨んでいる。

 

「監視カメラの映像も、保管庫までの通路をロックするドアの解錠記録も、残っていない。いいえ、残っていないというのは正確じゃないわね。すべて改竄されている」

「改竄……、つまり、異常がないように修正されていたと?」

「監視カメラに残っていたのは無人の廊下の映像だけ。ロックも施錠されたまま解錠されていないと記録されていたわ。実際には通路のドアは開いていたし、現場付近の廊下には殺害された警備員が倒れていたというのにね」

 

「ハッキングされた、ということですよね」

「軍事施設の相互監視型セキュリティを突破して、ね」

「そんなことが可能だなんて、相手はかなり限られるのでは?」

「……」

 

 ナナミが難しい顔のまま息を漏らした。

 口を結んだ彼女はディリータに視線を飛ばす。

 

「電子的な工作は見事だった」ディリータが淡々と言う。「しかし、物理的な痕跡が残されていた。キャンサーの保管庫の床に、足跡が残っていた。足跡といっても人間のものではないが」

「人間ではない?」

「一致したのは、キャンサーの脚部パーツだ。それが、6機分」

「まさか……」

「ハッキングはキャンサーによるものだ。一方で、外部からの侵入者がいたことも確かだ。警備員の殺害は人間の手によるものだったと、検死によって判明している。ゆえに推測されるのは、マシンがその人物に乗っ取られたという可能性だ。保管庫に残されていた足跡……、すなわち、キャンサーが自分の脚で脱走したという痕跡がそれを裏付けている」

 

 そう言ってディリータは部屋の中央で蹲るキャンサーを指差した。

 

「この機体が確保できたのは、脚部パーツにもともと不具合があったからだ。コレだけ自走ができなかった。だから、保管庫にコレだけが残されていた。その点からも、侵入者がキャンサーを運んでいったのではなく、コントロールされた機体が自律して移動したのだと推測できる」

「いや、でも……、機体を動かすためのプログラムは未完成だって話ですよね?」

 

「ああ。となれば当然、機体を動かしたのも警備情報を改竄したのも、別のプログラムということになる」

 

 別のプログラム……? ソウマは顎に指を当ててその言葉の意味を考える。

 機体としてのキャンサーは電子機器の掌握に特化したハードウェアだ。ディリータの言葉を借りるなら、その機能を発揮するためには技術(スキル)を持った操り手(オペレータ)がいる。裏を返せば、機体そのものは移動式の通信拠点でしかなく、要求される技術を備えていれば、当初予定されていたプログラムでなくても機体をコントロールできるということか。

 

「そうか。さっきディリータさんの説明にあったキャンサーの仮想敵。同レベルの性能を持つ同種の兵器であれば、可能性はあるのかも」

 

 だが、それならそれで疑問がある。

 犯人はなぜキャンサーの機体を強奪したのか。同じ兵器が手元にあるというのなら、わざわざ危険を冒して軍事施設への侵入などは行わないはず。リスクを負ってまでそれを決行するとなると、どんな理由が考えられる?

 

「……キャンサーとは反対に、ソフトが先行して完成して、ハードが未完成だった、とか……」

「その可能性もゼロではない」

「うーん……、いや、あんまりしっくりこないな。プログラムを開発したのが、たとえば他の国の軍隊とかなら、研究の資本はあるのだろうから自前の研究を続けるのが安牌だろうし……」

 

 どうもチグハグだ。キャンサーの強奪を成功させる技術力があるのなら、そもそも強奪を実行する必要がないように思えてしまう。リスクとリターンが見合っていない。

 しかしそれでも、現実に事件は起きているわけで。……もしかすると、軍事的な示威行為だったりするのだろうか。『攻撃』とか『妨害』の意味合いが強いのであれば、ソウマに見えているものとは別のリターンがあったのかもしれない。

 

 それ以外の可能性となると……、たとえば、ソウマの想定以上に()()がキャンサーのハードウェアの価値を高く見積もっているとかになるだろうか。

 

「いずれにしても、別のプログラムが機体をコントロールしたのであれば、キャンサーのコンピュータに痕跡が残っているのでは? そこから相手の正体が掴めたりは……」

「決定的なデータは残っていない。侵入したプログラムは一定の条件で自己を消去するよう設定されていたらしい。確認できたのは僅かな断片データだけだ。無論、それはコピィを取って専門家に調査を依頼してある。復元の可能性は低く、できたとしても相応の時間が必要ではあるが」

「そうですか……。……いや、ちょっと待ってくださいよ」

 

 ふとソウマは気づく。

 色々と前提情報を聞かされてきたが、そもそもソウマが依頼されたのは『夢』の調査だ。

 では、その『夢』はいったい誰が見ているものなのか。

 

「百歩譲って、人工知能とか高性能なプログラムが夢を見ている、というのならわからなくもないですよ。いや、それも相当な眉唾ではありますけど。だけど話を聞いた感じ、この機体のコンピュータにはそういったものも今は入っていないのでは?」

 

 もともとのプログラムは未完成。

 侵入してきたプログラムもほとんど消去済み。

 では、残っているのはいったいなんだ。

 

 そもそもなぜ、機械が夢を見ているなんて発想が出てきたのだろう。

 そんな発想をするのも、その真偽を確かめられるのも、ソウマやディリータのような夢に関する能力を持つものだけだ。警察や政府の調査で発覚したものだとは考えにくい。かといって、軍事機密にまつわる事件の情報が、何の理由もなくディリータの元に届けられるとも思えない。

 

 ひょっとすると、ディリータは今回の件についてなにか心当たりがあって、そのために捜査に関わってきているのではないか。夢を見ている『誰か』のことを、彼は知っているのかもしれないのでは……?

 

「もともとキャンサーは遠隔操作ではなく自律行動を想定して設計されたものだ。つまり、プログラムの下した自己判断を機体が実行するように作られている。実装されるプログラムは、いわゆる人工知能と呼べるものになる予定だった」

「だったら、侵入してきたプログラムもそうである可能性が高い。けど、それは消去されている」

 

「消去されて、夢だけが残ったとは考えられないか?」

 静止した機体を見つめながら、ディリータが呟いた。

 

 夢だけが残る……?

 耳に響いたその言葉の意味をソウマは考える。

 

 人間ならば、あり得る話ではある。

 意識と夢は別物だ。脳というメディアが機能していれば、明確な意識や思考がなくても夢を見る。それどころか脳機能の一部に欠損があっても、生きていれば夢を見ている可能性がある。植物状態から回復した人間が、ずっと夢を見ていたと証言することがあるのもその表れだ。

 

 では、それを機械に置き換えるとどうだろう。

 脳に当たるハードウェア、つまりコンピュータの回路は生きている。故障や破損をしたわけではない。消えてしまったのは、その回路を走る電気信号とそのプロトコルだ。現象としては脳機能の損傷に近い。脳そのものはあるが、意識や思考が消去された状態といえる。

 

 その状態で、夢だけが残る?

 ありえるのだろうか。

 人工知能が夢を見るということすら疑わしいというのに……。

 

「机上の空論を重ねても仕方ないだろう。簡単なのは、君自身が確かめることだ」

「……まぁ、そうなりますよね。ちなみに、拒否権は?」

「もちろんある。それなりにリスクのある話だ。君に行動を強制する権利など、どこにもない」

 

「しかし……」とディリータは口の端を持ち上げた。

 

「ここまで聞いた君が、なにも確かめずに帰れるものかな」

「嫌な聞き方だなぁ。僕がどう答えるのかわかってて、ここまで説明を進めましたね?」

 

 頬が引き攣らせながらソウマは言い返す。

 どうもこの人にはうまくやり込まれてしまいがちだ。年季の違いだろうか。お互いの能力を考えると、種族的に近縁にあるのかもしれない。それで思考の傾向を読まれてしまうのかも。

 

「だけど、乗りかかった舟だからなぁ……。ここで帰ったら、気になって夜も眠れませんよ」

「眠れない? 面白い表現だ。君の睡眠に対する欲求は、そういった感情に左右されるものなのか?」

「言葉の綾ですって……」

「では、調査に協力してくれると認識しても構わないかな」

「ええ。せいぜい自分の目で確かめてみますよ」

 

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 

 ソウマは没入(ジャックイン)した。

 接触したのはキャンサーの胴体ハッチに格納された有線端末だ。人間の手を握るようにその先端を掴み、人間の夢に入り込むのと同じように意識をシフトさせる。

 

 地下技研の部屋にはもういない。ディリータとナナミの姿も消えた。

 床はない。地に足が着いていない。しかし、落下しているわけではない。

 物理法則は未定義。ソウマはただそこに存在しているというだけ。

 

 (キャンサー)は確かに夢を見ている。

 

 いや……、正確には違う。

 この夢を見ているのは、コンピュータに侵入したプログラム、そのコードの残滓だ。

 ソウマはソレの名前すら知らない。

 

 白い世界だった。

 前後左右、それから上下にも、どこまでも無色の空間が広がっている。

 見えるものはなにもない。

 けれど、なにか違和感があった。

 動いているものはなにもないのに、なにかが蠢いている感覚。

 頭がくらくらする。

 三半規管に負荷がかかったような気持ち悪さ。

 

 なんだ……?

 

 目を凝らす。周囲の白い空間に集中(フォーカス)する。

 やっぱり、なにかが動いている。

 そう認識したとき、空間に対する解像度が変化した。

 

 白い空間。白い背景。

 それとまったく同色の白い数字が、刻一刻と切り替わり続けている。

 一面だ。どこもかしこも数字の羅列だらけ。

 

 囲まれている。

 充満している。

 展開し続けている。

 

 踊るような0と1。

 二進法。有と無で構成される理論世界。

 

 気づく。世界と数字を"白い"と理解してしまうのは、自分の認識の限界に過ぎない。

 目に見えているけれど、本来それは視覚情報ではない。

 光の反射はこの夢において定義されていない。

 この夢は二進法の信号の集合体だ。

 ソウマにはそれを読み取ることができない。

 言語が違う。ルールが違う。思考の構造が違う。

 構成因子を数字の形で認識しているのは、無意識に自分の認識を調律(チューニング)しているから。

 けれど、その羅列がなにを意味しているのかを、ソウマは理解できない。

 

 目まぐるしい。0と1の切り替わりの連続をそう捉えてしまう。

 無意味なノイズ。

 けれど、そうではない。

 ソウマに理解できないだけで、夢の主はこの数字の羅列から情報を受け取っているはず。

 

 駄目だ。

 なにもわからない。

 人間の思考ではこの夢を()()できない。

 

 それでも、この空間に存在していれば解像度が高くなる。

 理解はできないのに、知覚領域だけ広がっていく。

 慣れていくのだ。

 慣れていっていいものなのかもわからないまま。

 

 周囲の白い空間。

 そう感じていたものが、そうではないとわかった。

 

 0と1が世界を作っている。

 ソウマが空間と認識しているものもその範疇。

 切り替わり続ける0と1があって、その裏にも0と1が重なり、さらにその裏にも……。

 

 白い数字が重なり続けて、結果として全体が白く見えているだけ。

 積層構造。

 どこまでも続いている。

 底が見えない。

 

 遠近感が狂った。

 いや、そんなもの、最初から錯覚だった。

 この夢に距離は未定義だ。

 

 すぐ目の前、薄皮一枚のところに数字の羅列が張り付いている。

 夢は0と1に満たされているのだから、それが当然。

 ただ気づけなかっただけ。解像度が足りなかっただけ。

 

 違う。

 見えている、というのも、勘違い。

 自分が存在している、というのも、認識の混乱。

 

 身体が消えた。

 五覚が消失した。

 

 夢には数列だけがある。

 おそらく、この世界のどこかにある0と1が、ソウマの存在を定義している。

 それがどこにあるのかはわからないし、見つけたところでなにができるでもないけれど。

 

 ただ、意識がある。

 

 それも、二進法で定義されうるものなのか。

 それとも、そうではないから、ソウマたちはそこに生命を見い出すのか。

 

 わからない。

 わかるのは、このままここにいても、なにもできないということ。

 

 ソウマは離脱(リープ)した。

 

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