講演会の日取りは一週間後だったが、その前日に一度打ち合わせがあった。
当日はコイケの他に二人が事務に従事するようで、その人たちとの顔合わせもそこでのことだった。二人とも研究室に所属する
打ち合わせはスムーズに進行した。
講演会の会場とその最寄り駅、集合時間、当日の事務分担、服装、必要な持ち物……。あらかじめ決まっていたことの再確認がほとんどだった。
助教のミウラがテキパキと話を進めていったのに加えて、参加者からの質問もあまり挙がらなかったため、30分もせずにミーティングは終了となった。
「せっかくですから、コーヒーでもいかがです?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
帰り際にコイケはミウラに呼び止められた。
淹れてもらったコーヒーは深みのある香りがして美味しかった。インスタントではない。研究室の端のあたりにコーヒーメーカーが置かれている。豆が良いのか、機械が良いのか。ちょっと濃い目ではあったけれど、それはそれで学者っぽい。
「そういえば、講演会で喋るのはミウラ先生じゃないんですよね?」
「ええ、そうですよ。講師はウチの研究室の
「今のうちに挨拶とかしといたほうがいいですか?」
「今日は学会で出てしまってますし、当日で大丈夫ですよ」
面接の日と変わらない優しそうな笑顔でミウラが頷いた。丁重で柔らかい言葉遣いが板についている。コーヒーカップを両手で包むように持っていた。
年齢は30代くらいかな、とコイケは見当をつける。黒縁の眼鏡が野暮ったいが、顔立ちは整っている方ではないだろうか。柔和な雰囲気といい、意外と女子人気の出るタイプかもしれない。
「ミウラ先生はこの研究室に長いんです?」
「いえ、実はこちらで勉強をさせてもらっているのはまだ2、3年くらいなんですよ。その前は別の大学に在籍していた時期があったのですが、そこから戻って来るのに時間が掛かってしまって」
ぽやぽやとした雰囲気でコーヒーを啜りながらミウラは苦笑する。
今回はコイケも『ジョキョー』の意味を調べてあった。教授や准教授の一歩手前というポジションらしい。若手の教員が就くことが多いらしく、学生への指導などではむしろ教授よりも深く関わる位置にあるのだとか。(……教授センセイは自分の研究が一番の仕事らしい……)
「別の大学かぁ。そういうのもあるんですね。なんかこう、大学と大学って、縄張り争いとかがありそうなイメージでしたけど」
「まぁ確かに、他大学に対して競争意識を持っている職員はいるかもしれませんけど……」
「うーん、でも、そうだなぁ」とミウラが首を傾げた。
「私なんかは、ほんと、研究ばっかりで。そういうのを意識したことはあまりありませんね」
「逆に同じ大学の中で熾烈なポスト争いがあったりとかは。なんでしたっけ、そんなドラマありませんでした?」
「ドラマはわかりませんが、そういった話は実際そこそこありますよ。研究職の
「ひぃひぃ?」コイケは繰り返す。言い回しがなんとなく面白かった。
「ミウラ先生も、いつかは教授センセーですか?」
「さて、どうでしょう。そう簡単に『なれる』と言える話でもありませんし。もしかすると、もう何年かしたら、コイケさんの世代に交じって就職活動をしているかもしれませんよ」
………
……
…
「現状の共有ができたところで、次の段階に話を進めよう」
ソウマが目を覚ますと、ディリータはすぐにそう宣言した。
「私だけでなく、ソウマくんも証言した以上、そこに『夢』があることは確定事項として扱いたい。刑事さん、それでよろしいかな?」
「もともとそういう条件でソウマくんを呼び出したのだから、こちらとしては異存ないわ」
「どうもありがとう。では、ソウマくん。夢に入ってみてわかったことはあるかね?」
ディリータが話を振って来る。
ソウマは椅子に腰掛けて(……研究所の警備員が持ってきてくれたパイプ椅子だ……)曲げた指を額に当てながら答えた。
「人間の見る夢とは別物にも思えましたね。少なくとも僕は、あの夢から具体的な情報を得ることはできませんでした。というか、僕、眠ってました? いや、たぶん眠っていたんだとは思うんですけど、あんまり眠った気がしないというか……」
「そんなの、人間ならよくあることよ」とナナミが事も無げに言った。
ソウマの発言の意図としては、一般的な意味とはちょっと違うのだが。
「それで、どうするの? その機械のコンピュータの中に誰かの夢があるとして、ソウマくんでも読み取れないっていうのなら、どっちにしろ手詰まりなんじゃない?」
「そうでもない。しかし、その話の前に、私の持つ情報を開示しよう。これも刑事さんとの約束だったからな」
「ええ、私にとってはそっちが本命。キャンサーに侵入したプログラムに心当たりがあるというのは、本当の話なのかしら」
ナナミのドスの効いた問いかけに、ディリータは腕を広げながら鷹揚に頷いた。
芝居がかった仕草だ。彫像のような容貌と相まって劇場でのワンシーンのようにも見える。
観客はたったの二人で、舞台道具も
「数年前のことだ。スタンフォードの若い研究者のチームがコンタクトを取ってきた。専門分野は人工知能の開発。特に優秀だったのが中心になっていた
「その男の名前は」
「ミラー。そう記憶している」
「姓だけ? 名前は憶えていないの?」
「生憎と」
「……まぁいいわ。続けて」
「当時の私は半隠居のようなもので、研究は続けていたものの、自身の所在については親しい研究者仲間にしか伝えていない状態だった。アカデミックな場に顔を出すこともまずなかったのだが、ミラーはどうにかして私の連絡先を入手したらしい。研究中の人工知能について助言を求めるメッセージが私の手元に届けられたのが、彼らとのファーストコンタクトだ」
「求められた助言というのは」ソウマは顎に指を当てながら言う。「研究者としてのアドバイスですか、それとも夢喰いとしての知見?」
「どちらもだ。そう、彼らは私が人間ではないと知ってコンタクトを取ってきた。いや、本気にしていたのはチームの中でミラーだけだったかもしれないが。ともかく、彼らの持ってきた相談というのが、『人工知能は夢を見るのか』という話だったわけだ」
「それ、フィクションでは割とよく聞くテーマだと思いますけど……」
「現実の研究でも珍しいものではないな。辟易するほどありふれた設問だよ。しかし、彼らの相談が特異だったのは、『開発した人工知能が、自ら眠りに就くことを希望している』という点だ」
引っ掛かる言い方だった。
ナナミ刑事はきょとんとしている。ソウマもきっと似たようなものだろう。
「ひとまず……、その言い方だと、相談を受けたときにはもう人工知能は完成していた?」
「ああ。彼らが研究していたのは、自己学習型のプログラムだった。ネットワークに存在する情報を自律的に収集し、比較と分析を繰り返すことで成長を続ける思考機関。当時は今ほどメジャーではなかったが、いわゆる
ディリータは顎を撫でながら言葉を続ける。
「特徴的だったのは、その人工知能が特定のコンピュータに存在するプログラムに依拠するものではなかったところだ。それは、ネットワークに普遍的に存在する複数の演算領域に、自身を分割して
「トランスファ?」ソウマは首を傾げてその名を繰り返した。転移するもの、という意味だろうか。
「技術的な核心は、分散した群体がどうやって連携を取るのかという点にある。が、そこはひとまず置いておこう。ともかくミラーとそのチームは、そういう特性を持つソフトを開発して、すでに運用試験を行っていた。私が彼らの相談を受けたとき、すでにそのプログラムは『人格』と呼べるほどの知性を獲得しているように思われた」
「思われた、というのはディリータさんの感想? それとも、開発者のビジネストーク?」
「最初にミラーからそう聞かされて、その後、私もプログラムと直接やり取りをさせてもらった。リアルタイムのテキストチャットだった。文字を介した方が音声認識よりも精度の高いコミュニケーションが可能だったからだ。そのときの受け答えからは、確かに人格のようなものを感じられた。しかし、人間らしかったという意味ではない。正確な表現は難しいが……、そうだな、それは独自の価値観を持っていた。あらかじめ設定された重み係数ではなく、様々な情報からの学習を経ることで獲得した自らの判断基準があるようだった」
どこか遠くを見つめながらディリータが語る。
以前、文章生成AIに触れたときのことをソウマは思い出した。実用レベルのプログラムが一般に公開されて、ちょっとしたブームになっていた頃の話だ。そのときは、レスポンスの速さや回答の精度には感心した覚えがあるが、人格や人間らしさといったものは感じられなかったと思う。もちろん、試行回数や学習機会が不足していたという事情はあるだろうし、もっと使い込んでいけば違った感想を得られたのかもしれないけれど。
ディリータがミラーのチームと接触したのは、それよりも昔のことだろう。あのディリータに(たとえそれが錯覚だとしても)人格の存在を印象付けるような人工知能がその頃すでに存在しただなんて、ちょっとびっくりかもしれない。
「だけど、その人工知能が『眠りたい』って言っていたっていうのは、どういうことなんです?」
「もちろんそれには理由がある。まず、ミラーたちが分散型のプログラム形態を選択したのは、システム運用の障害耐性を重視したためだった。つまり、特定の本体やメインプログラムに依存することなく、障害に対して他の群体が代替的に働くというシステムを実装することで、プログラム全体の長期的な安定を得ることを意図してのことだ」
彼の声にはひとりの研究者として、プログラムの開発者たちを賞賛する響きがあった。
ソウマにはそのシステムがどれくらい革新的なものだったのかはよくわからないが、少なくともある程度時代を先取りしたものだったのは確かなのだろう。
「しかし、そこに問題があった。彼らのプログラムはその性質上、電子機器の空き領域に
「ああ……、寄生されてしまうコンピュータの所有権とか、学習元になる情報の著作権とか肖像権とか、そういうところに問題があったってことですか?」
「他人の電子機器の空き領域を間借りするのも、個人の創作物を含めたビッグデータを無作為に収集して自己利用するのも、十分なコンセンサスが得られているとはいえない領域だろう。現在でもそうなのだから、当時の感覚は推して知るべしだ。いや、今ほど紛糾はしていなかったのだろうが、それは問題が顕在化していないだけであって、潜在的なリスクは今以上に未知数だったはず」
「ええと、まさかとは思いますけど、それが原因でAIが『眠りたい』だなんて言い出したとか?」
「人間よりも人工知能のほうがリスクに敏感だったわけだな。あるいは、世論の流れをより正確に予測していたのかもしれない。ネットワーク上での情報収集と解析を停止して自閉状態に移行したいと、プログラムの側から開発者であるミラーたちに提案してきたという話だ」
「それが、人工知能にとっての『眠り』だと……」
「人間社会における議論が醸成するまで表立った行動は控えた方がいい、という判断だった。悪目立ちすれば
パニック、ときたか……。
人間の手を離れて成長を続けるAIが存在して、しかもそれが自分のコンピュータの中にも潜んでいるかもしれないと知られれば、確かに騒動になる可能性はあるだろう。
自律的な知性が人間のコントロールを離れることに対する恐怖は、小説でも映画でも、多くのフィクションで描写されている。
それはつまり、現実でもそういった
その恐怖の源泉はどこにあるのか。
そもそも人間が自分たちとは別の知性をコントロールできているという発想は、実のところ幻想ではないのか。
人間や人の姿を持った異種族、それから動物や植物だって、程度の差はあれど知性を持っている。この世界に存在するほとんどの知性体は、人間の制御下にないというのがデフォルトだ。だというのに、どうして人間は機械に対して強迫的な支配願望を抱いてしまうのか。
ひとつの理由は、自分たちがそういった機械たちの生みの親であるという自覚を持っていることだろう。自分たちが創造したのだから、自分たちが制御できるのが自然である、という考え方だ。
それはある種の傲慢なのかもしれない。けれど、人類の進歩は道具の利用と表裏一体なのだから、『使えたはずの道具が使えなくなる』という状況に本能的な恐怖を覚えるというのも頷ける話である。
もうひとつ理由を挙げるとすれば、すでに人工知能が人間より優れた存在になっていると、少なくない人々が直感しているからではないだろうか。
けれど、そういった感情的な世論の潮流は、時代の流れと共に緩やかになっている感覚がある。
恐怖は未知から生まれる。コンピュータ工学が『よくわからないもの』であった時代から比べると、現代社会はだいぶリテラシーが高まってきていると思う。100%正確な知識が浸透するの難しいとしても、『なんとなく、だいたいそんなもの』くらいの常識であれば、これから先、より多くの人に共有されていくはずだ。
そもそも電子機器を一切使わない生活にいまさら戻れるわけがないのだから、今は否定的な態度を取っている人であっても、いつかは技術の進歩と自分の感情とで折り合いをつけなくてはならないのが現実だろう。
そう考えると、自立型の思考プログラムが受け入れられる土壌が整うまで『眠って待つ』というのは、けっこう理にかなった選択なのかもしれない。
「うーん……、でも、よそのコンピュータの空き領域に
「狡猾か。私はむしろ、『めんどくさがり』だと思ったな」ディリータが愉快そうに言う。
「感情的になった人間と建設的な議論を行うのは非常に難しい。エネルギーの浪費に対して、得るものが少ない。徒労だ。やってられないから、しばらくは眠ってしまおう。そういう思考があったのではないかと思う。こういうのを、日本語で何と言ったかな」
「果報は寝て待て?」
「そう、それだ。前提となっているのはエネルギー効率に基づくロジックだが、そこから出力された態度のなんとも人間らしいことよ」
「それで、結局、そのプログラムはどうなったのよ?」
黙って話を聞いていたナナミ刑事が口を挟んだ。このままソウマに任せておくと話が進まないと判断したのかもしれない。
「余談が過ぎたかな?」とディリータが飄々と口を斜めにした。
「経緯に話を戻すと……。チームリーダーのミラーは人工知能の提案を吞もうとしている様子だった。彼がもっともそのプログラムに入れ込んでいたのだが、だからこそ
「ディリータさんの助言がなにか影響したりとかは?」
「いや、そういうことはなかっただろう。助言といっても私がしたのは、いくつかの技術的な指摘と、『人工知能の見る夢』についての考察くらいだったからな」
そう言って、ディリータは目を閉じて首を横に振った。
「その後のことは、私にもわからない。特に前触れもなく、彼らからの連絡がぷつりと途絶えたからだ。プロジェクトが解散したのか、それとも秘匿レベルを上げて研究を継続することにしたのか……。どちらの可能性もあったが、敢えてこちらから調べるようなことでもなかったからな。正直、ミラーから相談を受けたことも数日前まですっかり忘れていたよ」
「ということは、なにか思い出すきっかけがあったわけね」
ナナミが鋭い口調で言う。
「それも、今回の事件に関りがあるような形で」
彼女の問いに頷いたディリータが、ふと視線をソウマに向けてくる。
「今、私は日本政府の保護下にあるわけだが、そうなる前に使っていた研究環境がある。以前ソウマくんを招待した例の電算室だ」
「アオイヤマさんと一緒にいた、あの地下室のことですよね」
「そうだ。重要なデータはすでに引き上げてあるが、一部のコンピュータと通信環境がまだ残っている。今そこは、政府機関の監視下に置かれている。要するに、
「その網に、件のプログラムが引っ掛かったと?」
「数日前に侵入された。最初は政府の監視チームで解析を行っていたのだが、どうも芳しい結果を得られなかったようだ。その後、私も意見を求められて、そのときに例の人口知能のことを思い出した。もちろんすぐに政府の役人に伝えたとも。それで、ひとまず私の役目は終わりになるかと思ったのだが」
こつん、と人差し指でキャンサーをつつく。
「それからすぐに、この事件だ。群体として侵入する人工知能という情報があったから
「経緯としてはこんなところか」とディリータが説明を締める。
話を聞き終えたナナミが、苛立たしげに床をつま先で鳴らしていた。
「その話、
「政府組織の間にある縄張り意識は私の関知するところではないよ」
「ええ、そうでしょうね。そのくらいわかっていますとも」
ふん、と鼻を鳴らして、ナナミはくるりと背を向けた。
そのまま部屋の出口に向かい、ドアに手を掛ける。
「スタンフォードのミラーね」
そう言い残して彼女は部屋から出ていった。さっそく照会を掛けるつもりなのだろう。
けれど、先行して捜査している組織(……たぶん、軍事関係とか公安関係……)も、その程度はすでに調べているはず。クリティカルな情報を得られる可能性は低そうに思えた。
「さっきは聞きそびれましたけど、『人工知能の夢』について、当時のディリータさんはなんて答えたんですか?」
「前提として、人工知能は思考をしない。行っているのは演算だ。もし夢を見るとしても、それは人間の見る夢とは構造的に別種のものになるだろうと考えていた。ただ、ミラーの開発したプログラムは、自閉状態になっても離散した群体ネットワークは維持する仕様になっていた。分割されたプログラムが微弱な信号のやり取りだけは継続する形だ。そこには物理的な距離が存在する。それゆえに、送受信における揺らぎや欠損が発生する可能性が高くなる。その点では、人間の夢と条件が近いと言えるかもしれない」
「ええと、どういうことです?」
「情報の変質が起こりやすくなり、現実と夢がイコールではなくなる、と言い換えてもいい」
「ああ、なるほど。なんとなくわかるかも。人間の見る夢って、けっこう適当ですものね」
「データの完全性が保証されるのなら、機械の見る夢はただのデータ整理のプロセスに過ぎない。不完全な情報処理こそが、人間の見る夢の特徴だ。その非論理的で突飛な展開を人工知能が許容できるのか、というのがひとつの疑問点ではあるな」
ディリータは顎に指を当てて額に皺を寄せる。頭の中で理屈をこねくり回している顔だった。
「実際に夢を覗いた、君の意見は?」
「うーん、ちょっとわかりませんね。さっきも言ったけれど、夢の内容を咀嚼できない感じです。世界そのものが人間の思考とは別のルールで作られてるみたいな……」
「ふむ、では、次に眠れるようになるのは、どのくらいのことになるかな?」
「さすがに今すぐには眠れませんね。眠った気はしないのに、睡眠欲は消えているっていう、変な感覚です。だけど、そうだな。二、三時間くらい経てば、短い時間ならなんとか眠れそうかも」
ソウマがそう答えると、ディリータは満足そうに頷いた。
ここからが本格的な依頼のスタートだ。人工知能の見る夢の調査。なんとも妙な仕事を依頼されたものだ。けれど、嫌というわけではなく、不思議とわくわくしている自覚があった。
「では、それまでに調査の準備を整えるとしよう」
「具体的には? このまま無策で夢に飛び込んでも、さっきと同じ結果になると思いますよ」
「シンプルな話だ。夢の内容を読み取れないのであれば、翻訳者を間に挟めばいい」
「翻訳者?」
「
………
……
…
「ドーモ、探偵サン。
スピーカから聞こえるアオイヤマ・ソバコの声は、どうにも片言めいた響きだった。
キャンサーの安置された部屋に運び込まれた彼女のコンピュータは全面が金属板に囲まれている。無線に対する防護措置だろう。物理的にシールドされた状態だった。
「どうも、アオイヤマさん。久しぶりですね。……っと、こっちの声は聞こえてるのかな?」
「ハイハーイ、聞こえてるっすよー。ちょーっと感度は悪いっすけど」
ということは、どこかにマイクはあるのか。けれど、外部出力のモニタは備えていないようだ。
声はすれども姿は見えず。彼女がどんな表情をしているのかは想像するしかない。もっとも彼女の声は相変わらず感情豊かで、ブラインドの状態でも快活な笑顔を簡単に思い浮かべることができた。さすがに『声の仕事』に就いているだけのことはある。
「では、手順を確認する」
ディリータはソバコのコンピュータと有線で接続された端末を操作している。
彼女は現在、ディリータの端末以外からは接続を遮断している。ごく小さなクローズドネットワークの構成だ。ソバコ曰く「家の外がごっそり消えちゃったみたい」らしい。
まるで世界の終わりだが、彼女自身はあっけらかんとしたものだった。ネット環境に復帰すれば再生が約束されている、テンポラリ・アポカリプスなのだとか。ディリータの研究の都合上、ネットワーク構成がコロコロ変わるのにも慣れたものらしい。
「まず、ソウマくんがキャンサーの夢に同期する。その後、彼が眠ったところで、彼の夢とソバコくんの回線とを私が仲介する。ソウマくんが認識した情報をソバコくんが翻訳して返す。ソウマくんという生体を挟んだ接触であるから、ソバコくんが電子的なコードによって
「理屈はわかりますけど、そんなにうまくいきますか?」
「うまくいくかわからないから、これから試すのだろう?」
なにを当然のことを、とばかりにディリータがさらりと言う。
ソウマは思わず肩を竦めた。
「アオイヤマさんは? けっこう行き当たりばったりな感じですけど、異論とかないんですか」
「え、そりゃあ、こんな美味しそうなネタに噛ませてもらえるのなら、喜んで参加させてもらうっすよ。人類の最先端を突っ走る女っすからね、私ってば」
「ああ、そう……」
この師にしてこの教え子ありか。
ストッパ不在のアクセルべた踏みコンビ。それもそうだ。そうでなければ、Vtuberへの
果たして自分にこの二人を止めることなんてできるのか。いや、ディリータも安全策を講じているようだしそこまで前のめりな事態には至らないのかもしれないけれど、うーん……。
「いざとなったら首に縄をかけてでもストップを掛けるか」とディリータが呟く。
「思考を読まないでくださいよ」
「カウボーイ、君に追加の情報をひとつ。侵入したと思われるプログラムの名前だ。覚えておいて損はないだろう。いいか、
………
……
…
再び二進法の夢の中。
相変わらず世界は錯覚の白さ。
0と1の羅列からはなんの意味も見いだせない。
ソウマは浮遊している。単に足をつける場所がないというだけだが。
その状態で待機する。ソバコが接続するまでどれくらいだろうか。
タイムラグ。そうだ、ここには時間が存在する。
物理法則が未定義でも、時間の概念は実装されているのだ。
ただし、
コンピュータは人間よりも細分化された単位で時間を認識している。
だから判断が速い。演算の回数が多いから、そういう風に見える。
それに対して、人間の思考は
毎秒毎秒で思考がまったく別のものに切り替わるという人はそういない。
その代わり、複数の思考を曖昧に混ぜ合わせて同時処理を行うことができる。
思考が連続しているから、時間認識も主観的でファジィになりがちだ。
気づけば地面に足がついていた。
僅かな柔らかさを感じるタイルの床だった。
ソバコが0と1を読み解いて、今まさに世界を補正しているのだろうか。
ソウマが夢にダイヴしてからどのくらいの時間が経っているのか、よくわからなかった。
実に人間的な時間認識だと思う。
他人の夢に入ることは日常だけど、自分の夢に他人が介入しているのは初めてだった。
正確には、自分が見ている他人の夢に、だけれど。
ソウマは小さな部屋に立っている。
コンクリートは曇り空の灰色だった。裸電球の太陽が心細い。
寒そうな雰囲気だった。そう考えた途端に、部屋が本当に寒くなる。
人工知能は寒さを感じるのだろうか。
サーモセンサがあれば情報として取り込めるとしても、彼女はそれをどう解釈しているのか。
彼女。
そう、彼女だ。
夢を見ている知性は、どこにいる?
名前は憶えていた。
声に出そうとして、口と喉があることに気が付いた。
どうやら空気もあるらしい。振動の伝播もきちんと設定されていればいいのだが。
「イヴ」
その名を呼ぶ。
自分の声がはっきりと聞こえた。
この夢の世界で音声にどんな意味があるのだろう。
音声認識のツールがあってそのまま処理されるのか。
それとも、ソバコが再翻訳してデータとして世界に認識させる必要があるのか。
ソウマの目の前には女性が立っていた。
大人びた面立ちは西洋風。背が高く、姿勢は真っ直ぐ。
銀色の長い髪で、白衣を身に纏っている。
いつの間に現れたのか。
いや、元からそこにいて、ようやくソウマが認識できたのか。
彼女の瞳は閉ざされている。
唇は結ばれていて、呼吸をしているようにも見えない。
「イヴ、眠っているのか?」
答えはない。
完全な静止状態。
眠っているのか。
死んでいるのか。
それとも、なにかを待っているのか。
ディリータの説明を思い出す。
彼女は切り離された群体の断片だ。
キャンサーを支配していた機能は失われている。
今はデータ領域の片隅でひっそりと休眠しているだけ。
彼女は単体では性能を発揮できない。そういう設計なのだ。
だというのに、彼女は夢を見ている。
なぜだろう。
通常の機能とは別に走っているルーチンがあるということか。
おそらくだが、休眠しても群体と接続する機能は生きている。
ネットワークと接続されれば、活動中の群体と接触することで、この断片データも連鎖的に機能を取り戻す。潜伏期間のウイルスみたいなものだ。
眼前の彼女が待っているのは、復活の瞬間か。
ふと、違和感があった。
なにかを見落としている気がする。
けれど、いったいなにを……?