講演会の会場は大学にほど近い会議室だった。
複合ビルの高層フロアで、定員は100名ほど。真新しい内装の部屋で、並べられた机も鏡のように磨かれている。
地元の公民館の貸し教室とは違った雰囲気だった。洗練されているけれど、ちょっと肩が凝りそうかも。今日は普段よりきっちりした服装だから、余計にそう感じるのかもしれない。
当日の設営にほとんど時間は掛からなかった。聴講者用の長机の位置を少し調整して、受付用の机を会議室の外に設置すればもう準備は完了だった。講演用の資料もすでに受付机に積まれている。あとは受付と同時にそれを配ればいいだけだ。
開演の予定時間までまだ時間はあるが、受付係は待機しておくことになっていた。
コイケと修士課程の女子の二人で、受付テーブルに並んで座っておく。参加者は基本的に事前申請をしているので、その属性によって担当を分けてある。
コイケに預けられた名簿には近隣自治体の職員の名前が並んでいた。役職の欄には主事やら主査やら主任やらが踊っている。ミウラ曰く、実務担当者クラスがほとんどとのこと。そう言われても、正直なところ似たような文字ばかりで序列がどうなってるのかはよくわからなかったけれど。
隣の女子とは前日の打ち合わせのときが初対面だったが、同じ大学に通っているだけあって共通する話題はそれなりにあった。少なくとも気まずい空気が流れない程度に会話のキャッチボールが続いている。
彼女のほうの名簿には、自治体関係者以外の一般参加者の名前が記されていた。こちらは想像以上にバラエティ豊かで、会社員に経営者、それから自営業といった肩書が目立つ。
学生の名前も多かった。隣の席の先輩によると、関連するテーマの講演に参加すると単位の認定に加点するという教官がどこの大学にもそれなりにいるものらしい。単純に勉強熱心な学生だけでなく、そういう要領のいい学生もけっこうな人数が参加しているようだ。
「動機はともあれ、閑古鳥が鳴くよりはよっぽど良いですから」
ミウラはそう言って柔らかく微笑んでいた。
最初の参加者がやって来たのは、開演の40分以上も前のことだった。
………
……
…
「マヤさん、ちょっと仕事を頼まれてくれるかしら?」
B221bの探偵事務所でのアルバイト中に、マヤはランカに声を掛けられた。
整理中の資料をひとまず机に置いて、マヤは所長席の前まで歩み寄った。ランカの装いは仕立ての良いジャケットに黒のロングスカート。いつも通りの淑女然とした微笑みを湛えている。
「仕事って、探偵のお仕事ですか?」
「ええ。会ってきて欲しい依頼人がいるの」
吸血鬼の探偵はそう言っていくつかの書面と写真をマヤに示す。とりあえず一番手前のものを手に取ってみると、依頼人の名前と簡単な経歴が書かれたプロフィールメモだった。片隅にはバストアップの写真が貼られている。
「その人について、マヤさんはなにか知っている?」
「いえ、心当たりはありませんけど」
「あなたの大学に勤めている教授さんよ」
「あ、本当だ。経歴にちゃんと書いてありましたね」
それでもやはり、名前にも写真の顔にも覚えがなかった。いくら同じ大学とはいえ、所属している教授職の全員を知っているわけではないので、当然と言えば当然なのだが。
少なくとも、その教授の講義を取っていないのは確かだ。選択単位の講義を受け持っているのなら、もしかしたらシラバスでちらりと名前を見る機会くらいはあったかもしれない。
「実のところ依頼の内容はもう聞いてあって、私の事務所で引き受けることも決まっているから、マヤさんには契約書と見積書を渡してきてもらうだけなの。そのついでにちょっと確認してきて欲しいものもあるけれど、それもそう手間は掛からないと思うわ」
「そのくらいなら、はい、大丈夫だと思います」
ランカの説明にマヤは素直に頷いた。
内心、ちょっとホッとした。依頼人に会うといっても、交渉やら契約を任されるわけではないようだ。探偵事務所でアルバイトを始めて2ヵ月。その手の業務を任されたことはまだなかった。経験もなしにいきなりぶっつけ本番というのは、あまり自信がないというのが正直なところ。
せめて隣でサポートしてくれる人がいれば話は違ったのだけど……。
と、そこまで考えて、マヤは躊躇いがちにランカに尋ねた。
「えっと、その仕事をやるのって、私ひとりでですか?」
「そうね。探偵業務というより雑用みたいなお願いで申し訳ないけれど」
「ソウマさんは一緒に来てくれたりとかは……」
口にしてしまってから、すぐに後悔。
ランカがマヤひとりに対して話を振ってきたのは、アルバイトとしてランクアップさせる意図があってのことではないのか。簡単な業務とはいえ、『ひとりでおつかい』を任せられるくらいには信頼できるようになったのだと、そう伝えてられているのでは。
だとしたら、そこですぐに先輩の名前を出してしまったのは、間違いなくマイナスだ。
それに加えて、もうひとつ別の後悔。
いきなり名前を出したりして、彼のことを変に意識しているんじゃないかと職場の上司に思われちゃったりでもしたら、それってかなり恥ずかしいかも……。
「残念だけど、ソウマくんはしばらく別件で不在ね」
「え、そうなんですか?」
「戻ってくるのがいつになるのかもわからないのよねぇ。困ったものだわ」
ランカは頬に手を当てて小さくため息を吐く。その仕草さえ貴族的で優雅な印象だった。
彼がしばらくいないだなんて、そんな話、マヤは聞いていなかった。
胸にちくりと棘が刺さった気分。わざわざ言っておくほどの仲ではないということ? もう何度も一緒の部屋で寝ている仲なのに……。
だけど、夢魔にとってそのくらいの関係は特別なものではないのかも。たぶん、回数だけでいえばもっと一緒に夜を共にしているお客さんもいるはず。そう考えると、マヤに対する彼の認識は、ただのアルバイト仲間というところで止まっているのかもしれない。
ただの知り合いとか友達じゃなくて、もっと親密な関係に進みつつあると思っていたのは、もしかすると自分の勇み足だったのかも……?
むくりと鎌首をもたげた疑念にマヤは「むぅ」と眉を傾けた。
あまり経験したことのない感情だった。なんだろう、ソウマが悪いというわけではないとわかっているのに、ちょっぴりムッとしてしまっている。
いや、でも、待って欲しい。
確かに彼は夢魔で、純粋な人間とは感覚が違うのかもしれないけれど……。
夢の中で
「マヤさんは百面相ね」
「あ、すいません。お話の途中で」
「いいのいいの、構わないわ。原因はソウマくんの連絡不備なのだから」
ハッとしたマヤが現実に焦点を合わせると、目の前でランカが満面の笑みを浮かべていた。
ニコニコと微笑ましいものを見ている表情だ。さすがにこれは気恥ずかしい。
「それで、えっと、その教授から引き受けた依頼というのは?」とマヤは話を逸らす。
「頼まれたのは職場での身辺調査ね」
「職場って、私も通っている大学のことですよね。誰のことを調べるんですか?」
「ご自身の研究室に勤めている助手さん……、ああ、今は助教と呼ぶのだったかしら」
ランカの説明によると、その助教という人物は30代の男性で、アメリカの大学で学位を取得した優秀な学者なのだという。予算とポストの関係で助教の地位にいるが、条件が整えばすぐにでも准教授に任ぜられるだろうと見込まれているのだとか。
名前はミウラ・カイ。
写真では黒縁眼鏡に黒髪の柔和そうな男だった。
「勤務態度は良好。自身の研究だけでなく学生への指導にも熱心。礼儀を弁えていて人間関係のトラブルも見受けられない、と……」
「それだけ聞くと、わざわざ探偵を雇って調査をしなくちゃいけない人とは思えませんけど。それとは別に、この人になにか問題があるんですか?」
「実際つい最近まで、教授先生も彼のことを問題視するようなことはなにもなかったそうよ。けれどここ最近、彼がアメリカにいた頃のことで変な噂を伝え聞いたみたいなの」
「噂?」
「そう。実は表沙汰に出来ない軍事機密に関わる研究をしてたとか、参加していた研究チームが彼のミスで瓦解したとか、もっとひどいのになると、研究成果を盗んで逃げたとか……」
「本当に、そういうことがあったんですか?」
「噂は噂よ。少なくとも依頼人の教授先生はそれが事実とは確認できなかった。それに、それだけなら結局は過去のこと。関わっていた研究がどうとか、若い頃のミスがどうとか、その程度のことは気にするまでもないって」
「研究を盗んで逃げた、なんて話は明確にデマだとわかりますしね」とランカは微笑む。「それが事実なら、噂になる以前に現実での追及が必ずあるはずですから」
「だったら、どうして身辺調査の依頼を?」
「噂が聞こえてきた頃から、どうも気にかかることが続いているそうなの。研究用のコンピュータに何者かが侵入してきた形跡があったり、見知らぬ人物が研究室のポストを覗いていた、っていう目撃情報があったり……」
そう言うと、ランカは困ったように息を零した。
「噂だけならともかく実際に被害が発生する可能性を考えると、放置することもできないというのが依頼人の言い分ね」
「その現実で起きた出来事に、助教さんが関わっているという確証は……」
「ないわね。ただ、噂の流れ始めたタイミングを鑑みると、まったくの無関係とも思えない。教授先生はそう考えているの」
「それで、助教さんの身辺調査ですか」
「念のために、ね。まぁ今回のことは置いておくとしても、今後彼を教授職に推薦するようなタイミングになったとき、あらかじめ身綺麗なことがわかっていたほうが先生としてもやりやすいという事情があるのでしょうけれど」
ランカが所長席の抽斗から封筒を取り出した。頭を紐綴じした角2の茶封筒だった。
「依頼人は学会の都合で都内を離れていることが多くてね。契約書は作ってあったのだけど渡すタイミングを逃してしまっていたの」
「この封筒を渡せばいいんですね」
「明日、都内で彼の講演会があるわ。調査対象の助教も運営として参加する予定よ。アポイントメントは取ってあるから、その講演会が終わったあとに契約書を渡してあげて。そのついでに、調査対象の風体を確認して、可能であれば何枚か写真を撮っておく。どう、やれそうかしら?」
「はい、大丈夫です」
今度はさっきよりもしっかりと頷いた。
依頼の概要と当日の任務。具体的なことを説明してもらうと、やっぱりヴィジョンが見えてくるものだ。ランカの言う通り、さほど難しい仕事ではない。写真を撮るタイミングは考えないとだけど、調査中の撮影ならすでに経験があった。マヤひとりでも十分にこなせるはず。
「講演会には私の名前で参加申請がいっているはずだから、受付でそう名乗ってくれていいわ」
「わかりました。……この講演会って、どんな内容なんでしょう?」
「依頼人の専門は法学で、行政法や自治体運営の研究者よ。講演では人工知能と先端情報技術が行政の仕事にどう関わってくるのかを話すと聞いているけれど……、マヤさんはそういう話、興味があるかしら」
………
……
…
その翌日、マヤは件の講演会の会場を訪れていた。
指定された場所は大学近くの複合ビルの高層にある会議室。1階や2階の商業施設には買い物に来たことがあったが、この辺りのフロアまで上ってきたのは初めてだ。貸しオフィスに企業のテナントが入っていたりと、ちょっと近寄りがたい印象のあるエリアだった。
駅からビルまでは夏らしい炎天下だったが、ビルの中は冷房が効いていて別世界のように快適だった。どちらかというと寒いのよりも暑いのが苦手なマヤである。灼熱のアスファルトから解放されて思わずホッと息を零してしまう。
「よし。お仕事スタート」
そう呟いてブラウスの襟を正す。聴講者に服装の指定はなかったが、マヤはスーツを着て会場に出向いていた。ほとんど書類の受け渡しだけの仕事とはいえ、探偵事務所の職員として依頼人と会うわけなのだから、それなりにきちっとした装いのほうがいいだろうという判断である。
会場の入り口で受付にランカの名前を告げる。事前に代理が参加すると連絡をしてあったので、特に問題もなく受付を通された。ホチキス止めの紙の資料も渡される。
驚いたのは、受付の係に大学の友人が座っていたこと。マヤとは別の列の聴講者を捌いていたので、こちらには気づいていなかったみたいだけれど。彼女もアルバイトかなにかだろうか。
会議室に入ると意外にも学生らしき参加者がそれなりに多かった。私服姿の人もかなりいる。背広やワイシャツの社会人と半々くらいか。みんな勉強熱心なんだな、とマヤは感心する。
休日に真面目な講演会に出席するというのは、マヤにはない行動パターンだ。怪獣映画の講演会だったら喜び勇んで参加するかもだけど。
会場に教授の姿はなかった。まだ控室で待機しているのだろうか。
なんにせよ講演中に話しかけるわけにはいかないのだから、依頼人に接触するのは講演が終わってからだ。
一方、調査対象の助教はすぐに見つかった。正面の演台の辺りでパラパラと資料を捲っている。講演の段取りを確認しているのだろうか。すぐ近くにマイクスタンドもあるので、司会進行を担当しているのかもしれない。
写真よりも目元が柔らかい印象だった。優しそう、というより、甘そうな雰囲気だ。優秀な研究者という話だったが、切れ者のイメージとはちょっと違う感じである。
会場全体の様子を写すように装って、写真を一枚撮っておく。デジカメのシャッター音に何人かが振り返ったが、特に咎められることはなかった。
カメラをバッグにしまい、テーブルの席に腰を落ち着ける。受付で渡された資料を広げ、筆記用具を準備した。まるで大学の講義みたい、とマヤは口を斜めにする。
講演会の開始時刻まで、あと10分だった。
………
……
…
ソウマは地下技研に一泊した。
イヴの夢の調査は日を分けて行われることになった。大前提として、ソウマが自身も眠れる状態になければ、
そもそも、機械の見る夢に意識を同期させることにどれくらいのリスクがあるのかもわかっていない。焦らず慎重にことを進めるべきだという点はソウマとディリータで意見が一致していた。
技研内で移動できる範囲は制限されていた。配布されたカードキーで通行できるのは、ディリータの研究室と職員食堂くらい。監視をつけられるようなことはなかったが、通信機器の使用は制限されていた。
フェアリィ・クレイドルにはナナミ刑事から連絡が行っている。添い寝屋の予約を停止するようボスに伝言もしてもらった。手元の端末では仕事用のSNSを更新することもできないが、その辺りはホテルのほうで上手くやってくれるはず。
マヤには連絡できなかったな、と頭を掻く。
最初にホテルで呼び出しを受けたときは日帰りの仕事だと思っていたから、特にメッセージを飛ばすこともしなかったのだが、それはまあいいとして……。
さっきボスへの伝言を頼んだ時に、彼女への連絡も一緒に頼むという選択肢もあった。その選択肢が頭の中に浮かんでいて、それでも結局ナナミに頼まなかったのはソウマの判断だ。
今の時点ではプライベートで会うような約束もしていなくて、会うとしたらアルバイトの現場くらいの女の子に、いきなり自分のスケジュールを送り付けるというのは……、なんというか、こう……、ちょっと自意識過剰な気がしてしまったのだ。
けれど、本当はそれも言い訳で、もっと気軽にメッセージを送ってもよかったはず。というか、探偵のバイトで一緒に行動する可能性があるのは事実なのだから、先輩として仕事があっても同行できないことくらいは伝えてあげた方がよかっただろうに。
「うーん、よくないなぁ、こういう中途半端な感じ」
結局のところ、マヤとどういった距離感で接するべきなのか、ソウマ自身が決めかねているのがいけないのだろう。
夢の中で
けれど、ただのアルバイト仲間や遊び感覚のトモダチで満足できないのなら、なにか行動を起こさないといけない。
ランカに煽られたからというわけではないが、そういうことを真剣に考えるべきタイミングなのかも。さてさて、どうしたものか……。
……などとひとりで悩んでいても、生きていればお腹が空くもので。
技研の職員食堂は、ちょっとしたレストランくらいメニューが豊富だった。運営にかなり力が入っているのがわかる。出入りが制限される地下生活で食事が貴重な娯楽だということもあるのだろう。
カードキーがウォレットにもなっていて、食事をするのに十分な金額がチャージされていた。魚介のパスタとサラダを頼んでテーブルに着いた。食事時ではあるが、あまり人は多くない。もともとの利用者が少ないのか、それとも食事のタイミングにルーズな人が多いのか。なんとなくだが、こんな場所に勤めてる研究者には後者のイメージがある。
「それで、体調はどうだね」
ソウマの対面にはディリータが座っていた。そもそもソウマの行動範囲がここと彼の研究室しかないのだから、だいたいの行動が被るのも自然な流れである。
「微妙ですね。ちゃんと眠っていたのか、そうでもないのか、自分でもよくわかりません」
「シンプルに眠いというわけではないのかな?」
「眠れていないときのコンディションとはまた違う感じなんですよ。上手く言葉が見つかりませんけど、普段の眠りと比べるとなにか欠けてるものがあるような……」
フォークでパスタを巻きながらそう言うと、「私もおおむね同じ感想だ」と
「ああ、そうか。あなたはあなたで彼女の夢を食べてみたんですね」
「食べたはずなのに、食べていない。私もそう感じたよ」
「なんででしょう。というか、なにが人間の夢と違うのかな」
「仮説ではあるが、やはり彼女の夢には生命力がないのではないかと考えている。我々の精神的な欲求には対応しているが、身体を維持するためのエネルギィを供給することまではできていない。私自身の体調と照らし合わせてみると、そう推測することできる」
「夢の中で食事をしても、現実のお腹は膨れない、みたいな?」
「我々が語る喩えとしてはあまり適当ではないな」
ディリータが彫像のような表情を微かに動かした。
その青い瞳を見つめながら、ソウマは彼が以前語っていたことを思い出す。
少なくない人数の人外が、人類のこれからの変化に注目しているという話だ。
ディリータのように人類の変化を積極的に研究しようとする者もいれば、彼の『古い知人』のように今の人類を保存しようとする者もいる。共通しているのは、どちらも自分たちの生存を考えて行動しているのだろうということだ。
純血であれ混血であれ、人外は人間から生命力を摂取しなければ生きていくことができない。それを前提として彼らは動いている。
では、人間以外の存在が摂取可能な生命力を生み出すようなことはあり得るのだろうか。
そういった疑問は古くからあったのだが、自然界の生物がそうなる可能性は低いと考えられていた。生命力は人間の知性と結びついたものであるというのが主流の考え方だったからだ。よっぽどの突然変異でも起きない限り、野生の動物に人間と同じ精神が生まれることは無いだろう、と……。現代においても、その見方に大きな変化はないはず。
その一方で、人工知能の人間性については、人外の界隈でも統一的な見解は得られていない。
電子的な知性の高い演算性能はすでに広く知られているが、その限界がどこにあるのか、まだ誰もわかっていない状態だ。人間の思考や意思を機械で再現できるものなのか。多くの知識を蓄積した長命種であっても、その問いには答えることはまだできないだろう。
そこにきて、今回の件だ。
イヴと名付けられた人工知能は確かに夢を見ている。それはソウマとディリータが確認したから間違いない。けれど同時に、その夢に生命力が存在しないとも推測されている。
果たしてこれは、人工知能が人間性を得たと言っていい状況なのだろうか。
また、彼女の見る夢と人類の見る夢の間に、いったいどんな差異があるというのか。
人間の思考も人工知能の演算も、電気的な信号には違いない。
物理的な面で違いがあるとすれば、脳による生体的な処理を挟んでいるかどうかだ。
そうだ、確かにアオイヤマ・ソバコの夢は人間の夢なのだ。
彼女は身体を機械に置き換えて、電子ネットワークの世界に生きているが、生体の脳だけは持っている。そこに生命力の源泉があるのかもしれない。
裏を返せば、人工知能が生体のパーツを得れば、そこに生命力が生まれる可能性もあるのか。
もちろん実証はされていない。というか、イヴの夢と人類の夢との間には他にも別のギャップがあるかもしれないのだから、これは本当に机上の空論だ。
けれど、もしそれが実証されたら……。
培養した人間のパーツを組み込んだ人工知能を生命力の供給源として利用する未来というのも、人外の生存のためには実はありえる話なのかもしれない。
それはまるで『逆マトリクス』めいた想像図だった。