「それでは定刻になりましたので、開会とさせていただきます」
予定の時間ぴったりに、ミウラの声がマイクに乗って会議室に響き渡った。
聴講者の座席は八割がた埋まっている。受付の仕事を終えたコイケも最後列の席に座っていた。
最初にゲストの挨拶があって、その後にようやく講演者の教授が演台に立つ。
白髪交じりの壮年の男だった。皺の寄った顔がくたびれた印象を抱かせる。白衣ではなくスーツ姿で、どこかの企業の幹部社員と言われたら信じてしまいそうな風体だ。
「先生、よろしくお願いします」
司会進行のミウラが頭を下げた。
教授は重々しく頷いて、手に持ったマイクのスイッチを入れる。
会議室にしゃがれた声が響いた。
………
……
…
「少子高齢化という言葉があります。
聞いたことがないという方はいないでしょう。人口減少が進行する原因のひとつであり、現代日本の自治体運営において、ほとんどの自治体で核心的な課題となっている問題です。
この言葉をひとまず二つに分けて考えてみましょう。
つまり、少子化と高齢化です。
困難の度合いを無視するのであれば、少子化という現象は解決の可能性があります。
この現象の解決には、出生数の増加という明確なゴールが存在します。このゴールを目指して、出産や子育てを支援する政策を打ち出すのは、すでに国だけでなく自治体レベルでも行われていることです。
その政策が効果を発揮すれば、もしかしたら、少子化には歯止めが掛かるかもしれません。もちろん、非常に難しいことだとは私も思いますが。
では一方で、高齢化についてはどうでしょうか。
私が思うに、高齢化という現象に解決の可能性はありません。
医療技術は日進月歩です。私たち人類が、健康を保ちつつ長生きをするための技術は、これから先も進歩を続けることでしょう。寿命が延びれば、高齢者の比率も増えていく。当然の帰結です。
だからといって、医療技術の開発や人体の研究にストップが掛かるはずもない。あるいは、若い世代のために、一定の年齢に至った高齢者に自死を勧めるといった政策も、倫理的な理由で実施される可能性はほとんどありません。
少子化と違い、高齢化という現象を根本的にストップさせることは、実質不可能です。
生きることは生物の本能であり、人間は古来より健康と長寿を求め続けきたのですから。
少子化対策が成功しようとしまいと、高齢者は増えていきます。避けることはできません。
我々の寿命はどこまで伸びるのでしょうか。
平均寿命にしてみても、百年はいずれ超えると思います。
百三十、百五十となるとどうでしょうね。なにかしらの技術的な革新が必要と思われます。
二百年ともなると夢物語みたいに聞こえてしまいますが、絶対に不可能とも言い切れません。
その時代に至ったとき、人類の精神は今の人類と同じ形を保っているのか。
答えは定かではありません。未だかつて、人類が誰一人として経験していない領域ですから。
そこまで遠い未来を考えるのではないにしても、我々は高齢者が多数を占める社会について考えていかなくてはなりません。
高齢化という『現象』は避けられませんが、高齢化という『問題』に対しては、今の我々にも対策が打てるはずです。
少し話が飛びますが……。
近年、
仰々しい呼び名ですよね。自治体職員の皆さんはもう耳にタコができているかもしれません。
テクノロジーの利用を考えたとき、そこには拡張的な側面と補完的な側面があります。
拡張的な側面……、つまり、人間の持つ能力を拡大するような利用法は、やはり若い世代ほど適応が早い印象があります。情報技術を存分に駆使して、私のような年寄りには思いもよらない成果を見せつけられるのもしょっちゅうのことです。
しかし、テクノロジーは若い世代のためだけのものではありません。
先端技術の補完的な側面、衰えてしまったり不足している能力を補うという機能は、むしろ高齢者に対して大きな恩恵があるものです。
文字の読み書きが難しくなってしまった方が、タッチパネルや音声認識で書類を作成したり。あるいは、足が不自由になった方が、メッセージアプリを利用して自治体の運営するデマンドバスを予約したりと、高齢者の助けとなるシステムも数多く実際に運用されているのはご存じのとおりです。
残念なことに、お年を召した方の中には、こういった新しい技術を受け入れることに否定的な感情を持ってしまう方も多いのは事実です。なかなか声の大きな方もいらっしゃいますから、実務の現場では対応に苦慮することも少なくないでしょう。
ですが、やはりテクノロジーは万人に対して開かれるものであるべきです。
平均寿命が右肩上がりとなる社会では、その意識の醸成がひとつのマイルストーンになるでしょう。未来の自分たちも含めて、あらゆる世代の人たちが技術の恩恵を受け取れるよう、企業や自治体の現場で働く方々には、辛抱強く技術利用の普及に努めていただければと思います。
さて、前置きが長くなりましたが……。
情報技術の活用に関しては、すでに多くの企業や自治体で独自の導入が図られています。
ここ数年は実用的な生成AIの登場もあり、専用のチャットボットを作成するといった人工知能の利用も見られるようになりました。
これらの技術活用による業務の効率化については、様々な角度から検証が進められているところではありますが、同時に、導入によるトラブルや訴訟事例も少なからず発生しています。
特に人工知能の活用については、その判断の責任を誰が負うのか、そもそも人工知能の意見にどういった法的な効果があるのかなど、今までにない法解釈の必要が論じられています。
これは、今後の高齢社会において、人間の判断を人工知能がサポートするような未来を想像した場合、人工知能の立ち位置が法的にどういったものになるのかを占う問題とも言えるでしょう。
本日の講演では、そういった先端技術の導入によって発生した実務的な諸問題について、すでに確定した判例や、現在進行中の訴訟の雑感などを通して、私なりの法的解釈をお伝えできればと思います。
では、最初の事例についてですが――、」
………
……
…
「……それでは、他に質問はありますでしょうか……」
教授の講演はつつがなく終了した。
今は演台に残った教授が聴講者からの質疑にひとつひとつ答えている。
最後列の席で資料を片付けながらコイケは大きく伸びをする。意外にも(といったら失礼かもだけど)面白い講演だった。話のテーマが新しい感じだったからかもしれない。実際にあった事例の解説がメインで、話の流れもシンプルで分かりやすかった。
コイケの地元の村でも少子化と高齢化が進んでいるのは知っている。大学を卒業した後、自分が地元に戻るのかはわからないが、
会場の空気は弛緩していた。すでに席を立って帰ろうとしている人もいる。
コイケの席のすぐ斜め後ろが出入り口のドアだった。大学生らしき私服の一団が小声でおしゃべりしながらコイケの横を通り過ぎた。帰りにどこか寄ろっか、みたいな会話が漏れ聞こえてくる。
残念ながらコイケはすぐに帰るわけにはいかない。会場の片づけもバイトのお仕事である。
聴講者からの質問もそろそろ尽きそうだ。司会進行のミウラ助教が締めに入ろうとしていた。
閉会の挨拶が終わったら、まずはミウラのところに行って指示を仰がないと。
「あれ、開かないよ?」
そのとき、背後から声が聞こえた。
振り向くと、さきほどすれ違った数名の大学生が会議室のドアの手前で立ち止まっている。先頭に立つ女性がドアノブに手を掛けて怪訝そうに首を傾げていた。
「どうかしましたか?」
「えっと、なんか、鍵が……」
立ち上がったコイケが声を掛けると、困惑気味にそう返してくる。
場所を譲ってもらいドアノブを捻ってみると、確かに回転せずに途中で引っ掛かってしまう。
なにかの不具合だろうか。
少なくともコイケたち運営側のスタッフが鍵を掛けたという事実はない。
いや、そもそも会議室の内側の誰かが鍵を掛けたのなら、すぐ近くに座っていたコイケが気づけたはず。となると、鍵は外から掛けられたということになるのかも。
ドアの機構は電子ロックだ。一応、部屋の内側には開閉用のツマミがあるのだが、これも何かに引っ掛かっているようで動かすことができなかった。
おかしい。
なにかの拍子に鍵が掛かってしまっただけ、というわけではなさそうだ。
手動の解錠もできないとなると、やっぱりドアになにかの故障かトラブルがあったみたい。
「ちょっと確認してきます」
とはいえ、それほど深刻に考えることもないだろう。施設の管理部門に連絡して解錠の手続きを取ってもらえばいいだけだ。室内には内線電話があるし、携帯で連絡を入れてもいい。
聴講者にはちょっと待機してもらう必要があるかもだから、まずはミウラに話を通さないと。
コイケは並べられたテーブルの合間を通って、正面の演台のほうへと近づいていく。
ちょうどミウラが閉会の挨拶を終えたところだった。「それでは、お気をつけてお帰りください」とおなじみの決まり文句がマイクを通して聞こえてくる。
席を立つ人が増えてきた。けれど、出口に向かう人の流れは滞留している。ドアは後方に2つあるのだが、コイケがさっき確かめたのとは別のドアも開けることができていない様子だった。
意識せずに早足になっていた。なんとなく嫌な感じがする。
マイクスタンドの近くに立っているミウラも異変に気付いたようだった。眉を傾けて会議室の後方に目を凝らしている。なにか指示を出すべきか迷っている様子だった。
前から2列目のテーブルに到達したところで、コイケよりも先にミウラに近づく人がいた。
後ろ姿しか見えないが、筋肉質な金髪の男だった。背が高くがっしりとした体格で、服装はミリタリィ系。大股でミウラとの距離を詰めていく。
ミウラが男に気付いた。視線が合ったようで、金髪の男が軽く手を挙げる。
「どうして、君が?」
マイクがミウラの声を拾った。彼は驚きの表情で目を見開いている。
金髪の男が挙げていた手を下ろし、そのまま真っ直ぐミウラに突き付けた。
その手になにか黒いものが握られている。
L字型の金属の道具。
引き金に男の太い人差し指。
乾いた破裂音がした。
一瞬遅れて、焦げたような煙のにおい。
見えない腕に突き飛ばされたようにミウラがのけぞった。
踏みとどまることもなく背中から床に崩れ落ちる。
頭が床にぶつかる嫌な音。
コイケの足が止まる。
背後からは変わらず聴講者たちのざわめき。
会議室の手前寄り、今の出来事を目撃した人たちにだけ、麻痺したような静寂。
ミウラの身体から真っ赤な液体が広がっていく。
血だ。
ひゅっと息を呑む音が聞こえた。
もしかしたらコイケ自身が発したものだったかもしれない。
仰向けに倒れたミウラに金髪の男が接近する。
男はミウラを一瞥して、床に転がったマイクを拾い上げた。
男が振り返る。
顔が見えた。
壮年と呼ぶに少し若い。
30代か40代の前半くらい。
日本人ではなかった。西洋人の容貌だ。
額に厚みがあって、軍人映画のタフガイみたいな印象。
唇が歪んだ悦びで吊り上がっている。
咳払い。
その音をマイクが拡大する。
出口の方向に注目していた聴講者たちが、その音に引き付けられて振り向いた。
「皆さん、どうかお静かに。落ち着いて、私の話を聞いてください」
滑らかな発声だった。しかし、ネイティブではない。
男が右手を持ち上げる。その手には黒い金属の塊……、ミウラを撃った拳銃が握られていた。
銃口を天井に向けながら、金髪の男が宣言する。
「この場は、私が占拠しました。皆さんには、人質になっていただきます」
………
……
…
この場にいるのが自分ひとりだったら、迷うことなくあの男――、調査対象の助教を銃撃した危険人物の排除を開始していただろう。けれど、周囲には50人を超える一般人が困惑したまま立ちすくんでいる。その現実がマヤの行動にブレーキを掛けた。
機を逸してしまった感は否めない。
マヤの目的は依頼人の教授との接触だったが、出口に向かって渋滞する人の群れに気を取られていたのも事実だ。ドアの辺りで何が起こっているのか、それを確認しようと後方を振り返ったのと、前方の演台から銃声が響いたのは、ほとんど同じタイミングだった。
即座に音の発生源へと振り返り、硝煙を立ち昇らせる拳銃と、仰向けに倒れるミウラ・カイを視界に収める。そして、反射的に飛び出しそうになった身体を、マヤはすんでのところで押さえつけた。
うなじの辺りにちりつくような感覚があった。
銃を撃った男とは別に、黒い影がテーブルの死角から姿を見せる。
一抱えもある扁平な物体が音もなく浮上する。四枚羽のプロペラが高速で回転していた。
ドローンだ。それも1機ではない。会議室の両サイドから等間隔で浮かび上がってくる。テーブル2列につきおおよそ1組。天井近くまで浮かび上がって待機する機影は、合計で8機にもなる。
機体の下部に銃のようなものを備えたものが半分。残りの半分は粘土のような四角い物体を括りつけている。マヤの直感は、わかりやすい脅威である銃よりもむしろ、その四角い物体に警鐘を鳴らしていた。
似たようなものを映画で見たことがあった。
本物は見たことがないから、絶対にそうだとは言えないけれど……。
「まさか、爆弾……?」
無意識に小さく呟いていた。頭の中の血液がすっと足元に落ちたみたいだった。
息を長く吐いて、気持ちを落ち着けながら、ゆっくりと周囲の様子を観察する。
無秩序なざわめき。椅子の足が床をこする音。浮足立った人々の気配。
パニックには至っていない。まだなにが起きたのかわかっていない人も多いようだ。銃撃が起きたのは会議室の最前列でのことだから、倒れた助教の姿が目に入っていない人もいるに違いない。
自分ひとりが生き残るだけなら、どうにかできる自信がある。
でも、他の人の安全も確保しながらこの場を切り抜けるとなると、途端に難しくなってしまう。
散会しているドローンが厄介だった。マヤひとりですべての機体を同時に撃ち落とすことはできない。ひとつの機体を叩いた瞬間、他の機体が爆弾を起動させたらそれでアウト。拳銃を握った金髪の男を狙うにしても同じことだ。
「……落ち着いて、落ち着いて」
呪文のように繰り返して、臨戦態勢に入っていた身体から力を抜いた。
迂闊な真似はできない。だけど、ここは東京。大都会のド真ん中だ。
吹雪の山奥でもなければ絶海の孤島でもない。事件を察知すればすぐに警察が飛んでくる。銃を持った犯人を想定した特殊部隊だっているだろう。今すぐ焦って暴れだすよりは、彼らの動きを待った方が結果として被害は少なくなると思う。
そもそもマヤの記憶の勇者ちゃんは、基本ひとり旅のワンマンアーミィだ。
誰かを守りながら戦うだなんて、実のところあまり経験がなかった。
策もなく暴れ回るしか選択肢がないのなら、その道のプロに方針を立ててもらったほうがよっぽどいいはずだ。
ただしそれも、相手が先に撃って来なければ、という前提でのことだけれど……。
警察が対抗策を練って動き出す前に被害が出てしまうとなれば話は別だ。
そのときはマヤが身体を張ってなんとかするしかない。
いずれにせよ、今はまだ下手に動くべきではないと思う。
それに、どうせやるのなら、警察の動きに乗じて敵の不意を打ってやろう。
それなら勇者ちゃんと私の得意分野。
「この場は、私が占拠しました。皆さんには、人質になっていただきます」
銃口を天井に向けた金髪の男が、マイクを通してそう喋っている。
人々のざわめきが大きくなった。この場にいるほとんどの人が異常事態だと気づいたようだ。
相変わらず会議室の出口は封鎖されているようで、ドアの付近では散発的に高い声が上がっている。団子になった人の群れがぎゅうぎゅうに押し合っていた。
「どうか、お静かに。落ち着いてください。席に戻って、座ってください。なにもしなければ、私もなにもしません。無意味に危害を与えるつもりもありません。よろしいですね? さぁ、席に戻れ。座っていてください」
その言葉で数人が席に戻ったようだった。けれど、まだ半数以上の人が戸惑いながらその場に立ちすくんでいる。
男の野太い声は、その口調に反して威圧的な響きがあった。優越感を滲ませた傲慢な感情が見え隠れしている。自分が周囲に対して圧倒的に優位な立場にあると確信している声だった。
声にも立ち居振る舞いにも、不安の色はどこにもない。自分が失敗する可能性など微塵も考えていないようだった。その自信はいったいどこから来るものなのだろうか。
金髪の犯人の動向を注視しながら、マヤはテーブルの下でスマホを操作する。
110をプッシュした。しかし、通話が繋がらない。ちらりと画面を覗くと、電波が届いていないと表示されていた。何度か繰り返してみたが、結果は同じ。
こんな都会の中心で、圏外だなんてありえない。
となると、電波障害か。偶発的なトラブルだとしたら、いくらなんでも間が悪すぎる。
ただの障害というより、妨害されている可能性のほうが高そうだ。
「今、通話を試みたヤツが、4人いた。しかし、繋がらなかった。通信は封鎖しています。電話の故障ではありません。理解しなさい」
傲慢な笑みを浮かべた犯人の言葉に、マヤは小さく表情を動かした。ご丁寧に解説どうも。
ハッタリでなければ、あの男は発信源を識別できるレベルでこの場の電波を掌握しているということか。厄介だな、と思う。警察が事態に気付くのが、思ったよりも遅くなるかも。
「まだ席に戻らないヤツ。そのままずっと突っ立っているつもりか? ……教授、あなたからも言ってやってもらえませんか。彼らは、目障りだが、弾を無駄にはしたくない」
犯人の男が天中に向けていた銃口をすぐ近くの教授に向けた。
びくりと身体を震わせた教授は、のけぞるように上体を逸らしながら、よろよろと後ずさりで演台に歩み寄り、セットされたマイクを震える指でどうにか掴んだ。彼の怯えた視線はずっと犯人に固定されている。ぶつり、とマイクのスイッチが入る音が響いた。
「あ……、ええ、皆さん……、その、席に戻りましょう。ゆっくり、刺激しないように……」
おずおずと手探りの言葉が拡声され、会議室の端まで浸透していった。
一応、彼がこの場の責任者である。その言葉には一定の価値が残っていたようで、波に浚われる砂のように、ドア付近に固まっていた人の群れが少しずつテーブルの席に流れていった。
「よろしい。そのまま大人しく座っていればいいだけです。そうすれば誰も血を見ることはない。……私の足元の男を除いて」
金髪の男がくつくつと喉を鳴らして笑う。教授がこわばった顔で後ずさりした。
男の耳に掛かった髪が揺れて、その奥に金属製の輝きが見えた。耳に装着するタイプの通信デバイスだった。あれで誰かと通信しているのだろうか。つまり、単独犯ではなく、どこかに協力者がいるということ?
「皆さん、安心してください。私は金銭を目的として、この犯罪を実行しています。要求はシンプルであり、すでに外部へと伝達してあります。交渉相手に正常な判断力があれば、こちらの要求を呑むのが正解とわかるはずです」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべながら、金髪のタフガイがアーミィブーツで床をタップする。不安を煽るドラム音が低い位置を伝播していった。
「政治的な要求はありません。無理難題を吹っ掛けることもありません。愉しむためだけに皆さんを傷つけることなどもってのほか。是非とも警察が血迷った行動をとらないよう、共に祈っていただきたい」
「ですが」と男は声を低くする。底冷えするその響きが、彼がこの場に囚われた人たちの命など毛ほども気にしていないのだと如実に語っていた。
「皆さんが騒ぎを起こしたり、あるいは私の要求が呑まれなかったとなれば、お互いにとって不幸な結末が訪れることでしょう。……わかるよな? 余計な手間は取らせるなという話だ」
男が足元に倒れていたミウラを足蹴にした。脱力した助教の身体が、泥のように粘ついた動きで転がって仰向けになる。
前列のテーブルから悲鳴があがった。
マヤの席からも彼の顔が見えた。
焦点の合わない眼球。蝋のように白い肌。唇の端から流れる黒ずんだ血。
手遅れだ。
そう判断するしかない。
彼はもう、死んでいる。
「見せしめの羊は一匹でなくとも構わない。そうだろう?」
金髪の男の哄笑が、マイクの音響で歪に響き渡った。