「それで? 指名された
「もちろんある。ありすぎて、数を絞り切れない程度には長生きしているからな」
「そういう煙に巻くような話し方は結構。こんな事件を引き起こす
迂遠な物言いのディリータにナナミ刑事がぴしゃりと言った。
彼女に睨まれながらも、ディリータは表情一つ変えずに「ふむ」と髭を撫ぜるだけ。平常運転もいいところだ。犯人の奇妙な要求を耳にしても、特に困惑する様子すら見て取れない。
ソウマからすれば、犯人の要求はかなり意外なものだった。
意外というか、もっと言ってしまえば、意図がわからない。ナナミが釈然としない表情を浮かべていたのも頷ける要求だった。
「名前を挙げるにしても、もう少し情報を精査したい。要求された『対話』の具体的な条件は?」
「あなたが現場のビルに出向いて、1Fのエントランスに姿を現すこと。施設のカメラ映像でそれを確認できたら、一部の通信帯域の制限を解除するそうよ」
「つまり、対話といっても通信越しのことで、犯人と直接会って話すわけではないと」
「これから要求がエスカレートしていくのでもなければ、そうなるでしょうね」
「直接の対面を求めないというのであれば、おそらく、熱狂的なファンというわけではないな」
「……あなたにファンなんているの?」
「いてもおかしくないだろう? 今のところ、私は把握していないが」
ナナミのこめかみのあたりがピクリと動いた。表情こそ崩れていないが、今にも青筋が浮かんできそうだった。カッとしそうになるのをグッと堪えた様子。見上げたプロ精神である。
「実際のところ、この要求って通りそうなんですか?」ソウマは根本的な疑問を口にする。
「現場も上も揉めてるわね。80人近い人質の命を握っておいて、要求されたのが『特定の人物と話したい』ってだけだなんて、明らかにリターンが見合っていないわ。その『特定の人物』にしても政治家みたいな要人ってわけでもないし……。要求の意図がどこにあるのか、誰も掴めていないから、安易にゴーサインも出せない状況よ」
「犯人が逮捕された仲間に呼びかけてる、ってわけではありませんよね?」
「そもそも逮捕はされていない」ディリータが呟いた。「仲間というのも、宛てがないな」
「要求が簡単すぎて、なにか落とし穴があるんじゃないかと慎重になっている人も多いわ。特に、この男が人間ではないと知っている上層部の人たちの間では。要求に従ったら最後、変な化学反応が起きて不可逆の被害が起きるんじゃないか、って」
「それで、現在進行形でどうするべきか揉めていると」
「前提として、要求を吞む呑まないに関わらず、まずは人質の救出を最優先で目指しているっていう事情もある。要求を呑むにしても、最初は時間稼ぎと引き延ばしに終始することになるでしょうね」
それはつまり、救出や交渉が上手くいかなければ、ディリータを矢面に立たせることもあり得るということか。まぁ、東京のド真ん中でドンパチを始めるよりかは理性的な判断なのかもしれない。とはいえ、従ったところで人質が解放されなければ、そのまま要求がエスカレートしていくという可能性もある。警察やら政府のお偉いさんやら、決定権を握らされている人にとっては胃の痛い話だろう。
「というか、容疑者というなら、例のミラーという人が一番怪しいのでは? キャンサーが目撃されていて、それを制御するイヴが現場の電子機器を制圧しているみたいですし」
「安直ではあるが、シンプルで明快な推測だ」ディリータが頷く。「刑事さん、犯人の写真は撮れていないのかな?」
その問いに「ちょっと待ちなさい」とナナミがテーブルのノートPCを立ち上げる。
ファンの唸る低い音。彼女はしばらくキーボードをタップしてから、明るくなったモニタをソウマたちに向けた。
「元が望遠だからちょっと荒いけど、拡大補正してあるから容貌はそれなりに把握できるでしょ。ホワイトボードの近くに立っている、銃を持った男よ」
「外国人ですね。服装は軍人系っぽい感じ。体格もいいし、日本だと目立ちそうな風貌だな」
映し出されたデジタル画像にソウマは目を凝らす。金髪の男が拳銃の銃口を天井に向けている。カーキ色のいかつい服装で、顔立ちも身体も屈強な雰囲気だった。
撃たれていた人物と同じく、こちらもソウマの知らない男だった。一度写真から目を離して、隣のディリータの様子を窺う。額に皺を寄せて画面を見つめていた彼は、やがてゆっくりと首を横に振った。
「違うな。ミラーではない。しかし……」と、ディリータが珍しく語尾を濁す。
「ほかに心当たりが?」ナナミが食いついた。
「断言はできないが、当時の彼のチームにこんな男がいたようにも思える。正直なところ、あまり印象には残っていないが……」
曰く、当時のディリータの研究交流はチームリーダーであるミラーとの意見交換が主で、他のメンバーとはほとんど会話を交わすこともなかったらしい。ともすれば怪しい人物と思われて避けられていたのかもしれない、ともディリータは述懐した。実際、怪しい男なのは今でもそうなのだから、まぁ当時もその通りだったのだろう。
「なるほどね。ストレートにではないけれど、やっぱりそこに繋がるのか」
「それより刑事さん、プレヴュになっている写真が気になるのだが。切り替えてくれないか?」
得心したように頷くナナミ。しかしディリータは画面下部でサムネイルになっている画像を指差して彼女を急かす。犯人の身元よりもその写真のほうが重要だと言わんばかりの態度だった。
一瞬、ナナミが眉をしかめる。犯人の男についてもっと情報がないか、しっかり思い出して欲しいというのが正直なところなのだろう。けれどひとまずは、彼の指示通りにすることにしたようだ。
彼女の操作で写真が次のものに切り替わる。
なにが映っているのかを認識した瞬間、ソウマは思わず息を呑んだ。仰向けに倒れたスーツ姿の男の拡大写真だった。写真は胸から上の上半身にフォーカスされている。焦点を失った瞳が虚空を見つめていた。白いワイシャツの胸元が赤く染まっている。床には赤黒い血だまり。そのぬるついた質感に生理的な悪寒を感じてしまう。
「この人が、撃たれたっていう……」
「ええ。講演者の教授の補佐をしている大学の職員だそうよ」
分厚い黒縁眼鏡が斜めに傾いていた。白髪交じりの黒髪が半ば血だまりに沈んで濡れている。顔は蝋のように白い。死相である。唇の端から零れた血の筋が生々しい。
「こちらだ」とディリータが呟いた。
「こっち、って、なにが?」すぐさまナナミが尋ねる。
「ミラーだ。十中八九間違いないだろう。この殺された男が、イヴを開発した中心人物だ」
………
……
…
警察がG大学に照会を行ったところ、被害者の正確な身元はすぐに判明した。
名前はミウラ・カイ。職業は助教で、現在は講演者の教授の研究室に所属しているとのこと。
確かにスタンフォードに在籍していた記録があるが、その当時関わっていた研究は人工知能の社会的活用についてのものと記載されていた。イヴの開発に関わっていたという記述は存在しない。おそらくは表に出ないようカムフラージュされているということだろう。
「ミラーじゃなくてミウラじゃねえかよ」
名状しがたい形相でナナミが毒づいた。
それに対してディリータは、悪びれもせずほんの少し首を傾けただけ。
「いや、ミラーと名乗っていたのは間違いない」
「聞き違いでは? 日本人の名前の発音に慣れなかったとか」とソウマは考えを述べてみる。
「まさか。しかし、私はともかく、彼のチームメンバーにそういう者がいたとしてもおかしくはない。そのためのニックネームかなにかだったのかもしれないな」
ともあれ正確な氏名がわかれば、これまでよりも効率的な捜査ができるはず。すでにナナミを通して地下技研の外部の警察にも情報は共有されている。あわよくば人質事件の犯人の素性が芋づる式に判明することも期待できるだろう。
「それにしても、ちょっとおかしな話ですよね。犯人も被害者も元は同じ研究チームに所属していただなんて」
「おかしいってことはないんじゃないの? 同じ職場にいたからこそ根深い確執があったとか、そんなのはよくあることよ」
「うん、だけど、なにか引っ掛かるというか……」
ソウマはソファに深く腰を沈めて思考を巡らせていた。ナナミが持ち込んだ紙の資料をパラパラと捲りながら紙面の文字を追っているが、頭では無秩序な推測の展開が続いている。
「……仮に、犯人をエックスとしましょう。エックスがミウラさんになんらかの事情で殺意を抱いていたとしても、こんな大袈裟な事件を引き起こす必要はありませんよね。殺すだけなら、彼がひとりでいるタイミングを狙えばいい。ましてや、軍事施設に忍び込んでキャンサーを盗んでくるのなんて、リスクばっかりで無駄もいいところでは?」
「そうね……、それはその通りだと思うわ。ということは、人質事件を起こしたのにはなにか別の動機があったということかしら」
「動機というか、要求ははっきりしています。
人質事件の現場となって総合ビルの電子機器の制御はいまだ奪われたままだ。ビル内部の監視カメラやエレベータは動かすことができず、人質の持つ携帯電話との通信も回復していない。警察の専門チームが必死にコントロールを取り戻そうとしているのにも関わらず、だ。
この状況がイヴの存在を示唆している。
つまり、イヴは犯人であるエックスに味方しているということ。
開発チームのリーダーであるミウラにではなく、彼を殺した張本人に彼女は与している。
「たとえば……エックスはイヴを利用しているけれど、その機能を完全に把握しているのではないとか。彼の知らない人工知能の仕様をディリータさんが知っていて、その欠けている情報を得ようと対話を求めている、みたいな可能性は?」
「私が秘密の情報を抱えているのかと問われれば、答えはノーだ」
ソウマの思い付きに対して、ディリータは即座に首を振った。
「確かにミラーとの間に技術的な意見交換はあったが、そこまで踏み込んだ情報については聞いてもいない。……もっとも、エックスがなにか勘違いをしているという可能性は否めないが」
「そもそもこんな事件を起こしてまで聞き出したい仕様って、どんなものがあると思います?」
「シンプルに考えるなら、
「そのコードをミウラさんがエックスに教えていない可能性があると」
「自分が殺されるかもと予感していたのであれば、教えたい相手ではないだろうな」
なるほど、とソウマは頷いた。
どうだろう、エックスの動機としては割としっくりくる仮説な気がする。つまり、エックスは自分の持つイヴという兵器をより完璧に扱うために、わざわざ人質事件を起こしたという推測だ。
彼がリスクを負ってまでキャンサーを手に入れたのも、やはりイヴの
キャンサーは軍事機密の関わる兵器だから、いくらディリータが日本政府の保護下にあるといっても、普通に考えて彼にまで情報が伝わってくるわけがない。本来であれば、ディリータが事件に関わってくるのは、人質事件が発生してエックスの対話の要求が警察に届けられてからになるはずだ。
もしそうなっていれば、エックスとキャンサー、そしてイヴとの関連性が判明することはなかったのではないだろうか。警察もディリータも、訳も分からずエックスの要求に応じる羽目になっていた可能性は決して低くないと思う。
その混乱をエックスが狙っていたのだとすれば、今はそのあてが外れた格好だ。
散らばる点を繋ぐ薄っすらとしたラインが見えている今の状況は彼にとって想定外だろう。
もっとも、エックスはそのことにまだ気づいていないのだろうが……。
「だけどわからないのは、イヴがエックスの味方をしているってところですよ。開発のリーダーがミウラさんなら、普通はそっちの味方になるものじゃないですか?」
ソウマはそこが引っ掛かっている。
ディリータに人格を感じさせ、眠っている間に夢さえ見るような人工知能が、いったいどういう経緯でエックスによる
「ミウラとイヴの間になにか意見の対立があったとか?」とナナミが頭を捻りながら言う。
「ふむ。私が彼らについて知っているのは、数年前の交流の期間のことだけだが……」
髭を撫ぜる指を止めて、ディリータが目を閉じた。
ほんの数秒の沈黙が研究室に落ちる。クーラーの効いた季節感のない部屋で、彼はいつの光景を思い出しているのだろうか。
「いや、仲違いをするような間柄には思えなかったな。彼らは製作者と被製作物ではあったが、お互いの思考と選択をリスペクトしているように見えた」
ゆっくりと瞼を持ち上げ、懐かしむような口調でディリータは言う。
「イヴが『眠る』ということについてもそうだ。ミラーは彼女の選択を尊重し、長期間の睡眠によるリスクを可能な限り排するため、私に接触を取ってきた。むしろ反対していたのは、彼のチームメンバーたちだ。全員が全員というわけではないものの、イヴを開発したことによる利益を可能な限り早期に得たいという考えを持っていた者は、決して少なくなかったように思う」
「ひょっとして、その中にエックスもいた?」
「可能性としてはありえるだろう。残念ながら、私も彼らのチームの内情について完全に把握していたわけではないが」
「そもそもあまり興味もなかったからな」と、ディリータが肩を竦める。
ふと、なにかが思考の網に引っ掛かった。
「ええと、ちょっと待ってください。以前ディリータさんは彼らがその後どんな選択をしたかまでは知らないと言っていましたけど、おそらく、イヴは『眠る』ことになったんですよね? だって、キャンサーに残されていた彼女の断片は、実際に『夢』を見ているわけですから。少なくとも、眠って夢を見るためのプログラムは実装されていたはず」
顎に指を当てて、虚空を睨みながらソウマは考えを口に出していく。
頭の中の取り留めのない思考の羅列が、言葉にすることで少しずつ固まっていく。
「だけどその一方で、人質事件において、イヴはキャンサーを使って周囲の電子機器を制御している。彼女は今、眠っているのか、起きているのか……どちらだと思います?」
「そりゃ、起きてるんじゃないの?」ナナミが不思議そうに言った。「だって、眠っていたら仕事ができないじゃない」
「いや……」ディリータが興味深そうに呟いだ。「そうとも限らないのか?」
「そもそも、普通の機械は眠ったりしないんです。
ソウマはイヴの夢に
あのとき、なにかを見落としているような気がしたのだ。
そう感じたのはおそらく、機械は人間とは違い、生理現象として自然に眠ることはできないという、ごく当たり前のことを失念していたからだ。
キャンサーに残されていたイヴの断片は、いったいどうやって眠ったのだ?
「ディリータさん。確か、強奪事件の際、キャンサーの制御系を奪ったイヴは、その後、証拠隠滅のために自己の大部分を
「その通り。以前も言ったかと思うが、その断片データはコピィされて、今も専門家の手で調査が進められている。ただし、今のところ解析完了の目途は立っていないようだが」
「つまり、そういう復元不能なレベルの自己削除が行われたということは間違いない。そんな状態で、再び夢を見るような眠りに就くことが、果たしてできるのかな……」
夢魔としての直感が、その問いに否と答えている。
イヴの見ていた夢は、固く編まれた揺り籠のような印象だった。人間の夢でいえば、長く深い眠りに沈み込んでいる人が見ている夢のイメージだ。眠り始めたばかりの、世界の端々がほころんでいるような感覚はまるで感じられなかった。
その直感を信じるなら、キャンサーに取り残されていたイヴは、目覚めることなく
「……それっていったいどういうこと? 現実問題、保管されたキャンサーは乗っ取られて強奪されたわけだし、人質事件の現場でもあらゆる電子機器の制御を奪われてるのよ。しかも、
額に皺を寄せたナナミが、納得いかないとばかりに言った。
さて、どう説明したものかとソウマは困り顔を作る。この推測は夢魔としての感覚を土台にして生まれたものだ。人工知能のプログラムがどうなっているのかとか、技術的な側面からは言語化することができない。だいたいにおいて、その方面についてソウマは一般レベルの知識しか持っていない。
となると、この場で
「ディリータさん、この考えについて、あなたはどう思います?」
「面白い着眼点だ。要するに、人格と判断を司るモジュールが、機能系とは独立して存在しているという構造だな」
ソウマの問いにディリータは即座に頷いた。
目を細め、その奥に好奇心を覗かせながら髭を撫ぜている。
「可能性としてはあり得る。人格が睡眠状態になったときでも、断片プログラムの群体は微弱なネットワークを構築し続ける必要があるからだ。必然、外部の電子機器の計算領域に潜伏するための機能は常にアクティブなはず。それを踏み台にして制御系への干渉を行うことは、イヴの人格が眠っていても可能と考えることができるだろう」
「それは……、夢遊病みたいなもの?」ナナミが自信なさげな声色で言った。
「
「状況的に見て、エックスがなにかをしたってことですよね」
「おそらくだが、人工知能の人格部分を迂回して機能系にアクセスするプログラムを組んだといったところだろう。彼もイヴの開発チームの一員だったのだから、プログラムの構造についてはそれなりの知識があるはず。知能の核である人格部分を改変すればプログラム全体が破綻してしまう可能性が高いが、この方法なら低いリスクでイヴの持つ機能を無断借用することができる」
「……頭が眠っている間に、身体だけ使われてる、ということかしら……」とナナミが呟いた。
「時系列を整理しましょう」ソウマは指を一本立てた。「数年前、ディリータさんはミウラさんの開発チームから『人工知能の睡眠』について相談を受けた。その後、彼らとは連絡が取れなくなりますが、おそらくこのタイミングでイヴに眠るための機能が実装され、彼女はやがて眠りに就くことになる」
「彼女が眠り始めた時期については明言できないが、ミラーが帰国して日本の大学に就職したことと無関係ではないだろう」とディリータが補足する。
「そうですね。開発チームもその頃におそらく解散したのだと思います。彼らのチームとその
「リスク回避としては頷ける話ね」ナナミが首肯する。「コンピュータに関する法律はまだ未整備なところも多いもの。将来的に認められる可能性もあれば、いきなり違法行為の判定を食らう可能性だって十分にあり得るわ」
「加えて言うなら」ディリータが口の端を吊り上げた。「人間の感情的な議論……、あるいは議論の名を借りた泥の掛け合いに付き合いたくなかった、というのもあるだろうな」
「ミウラさんとイヴは活動を休止することに肯定的でした。けれど、チーム全体がそうではなかった。たぶんですけれど、エックスは開発されたイヴの機能をもっと積極的に使用したいという考えだったのではないでしょうか。もっと言ってしまえば、『悪用』することすら考えていたのかもしれません。そのために、イヴの人格部分を眠らせたまま、その機能を使用する方法を編み出した」
「その結果が、今回の事件というわけね」
「はい。あくまで推測ですけど……」
「そうね、筋は通ってるかもしれない。それで、もしそうだとして、今のこの状況にどんな影響があるというの?」
ナナミが鋭い視線で問うてきた。事件の動機や背景はもちろん重要だが、彼女が今求めているのは、人質にされた一般市民80余名の救出に役立つ情報なのだ。
そして、彼女がソウマとディリータに好き勝手喋らせているのは、二人がその突破口となるアイディアを思いつかないか期待しているという理由があってのことなのだろう。
髭を撫ぜる手を止めたディリータが、ソウマの顔をじっと見つめる。
その視線を受け止めて、ソウマははっきりと頷いた。
「エックスはディリータさんとの対話を要求しています。では、どうして指名されたのが
息を吸う。自分の考えを見つめ直す。
それでも、結論は変わらなかった。
「ディリータさんが関わったときには、すでにイヴは人格を得るほどの完成度になっていました。彼が関わったのは、彼女が眠りに就くための技術的な助言だけです。だけど、エックスにとっては、そこが最も重要だった」
おそらく。
イヴを構成するプログラムは、人格部分が機能系に対して優位な構造を取っている。
人格を持つ彼女の知性が自律的な判断を行うことで各種の機能を発揮するのが本来の仕様だ。
今、眠ったままの彼女が機能を借用されているのは、イレギュラーな状態に他ならない。
彼女が目覚めれば、すべてがひっくり返る。
エックスが怖れているのは、まさしくその点だろう。
「エックスは、ディリータさんが
………
……
…
「なーんか、蚊帳の外っすよね、私。めっちゃ最前線で働いてるはずなのに」
スピーカから聞こえたソバコの声は、ちょっぴり拗ねたような調子だった。
「アオイヤマさんは」
「ソバコでいいっすよぉ」
「……ソバコさんは、今回の事件についてどう思います? 彼女の夢を
「いやぁ、どうって言われても、って感じっすねぇ。別に私だって、人工知能の気持ちがわかるとかでもないんで」
空冷ファンの音とともにソバコは飄々と言う。
彼女のとぼけた表情が目に浮かぶようだった。
「でもまぁ、世論がどうとか法律がどうとかって、確かに色々と面倒に思うことはあるっすよ? 私もけっこうギリな立場ですし。だけど、だからって何年も眠っちゃうのはナシかなぁ」
「それはどうして?」
「だって、今の時代もめっちゃ面白いですから。新しい技術がどんどん生まれて、いろんな人があーだこーだと言い争うのだって、見てるとけっこう楽しいモンですよ」
カートゥーンめいた含み笑いが聞こえてきた。
いったいどこからそんな声を出しているのだろう。と考えてから、彼女は声帯で喋っているわけではないことを思い出す。もしかすると声を使った感情表現に関しては、すでに人類より彼女に一日の長があるのかもしれない。
「でも、あまりにも新しい技術だと、理性的な話し合いが難しいこともあるんじゃないかな。実際、イヴはそういういざこざを嫌って睡眠状態を望んでいた節があるみたいですよ」
「うーん、感情的なぶつかり合いも人間らしいっちゃらしいんですけどね。人工知能的にはあんまり面白くないのかなぁ。でもやっぱ、そういう不毛なレスバもネットの華っすよ!」
「いや、不毛なレスバって……」
ソウマは再びキャンサーの前に立っていた。例の電磁的にシールドされた一室だ。
ソバコの格納されたコンピュータも傍らにある。相変わらず金属板に囲まれて防御を固めた状態だった。ディリータは有線の端末で彼女に最終調整を施している。
「探偵さん的にはどうですか。今回の事件、さっきの仮説でファイナルアンサー?」
「いや、まだ引っ掛かることはあるかな。イヴの群体が今もずっと眠り続けている、っていう点についてはそれなりに自信があるんだけど。ただ、細かいところで違和感が残ってたり」
ソウマの手の中にはキャンサーから伸びた有線ケーブルがある。
冷たく無機質なそれが彼女の夢へと繋がっている。
「たとえば、キャンサーの強奪について。イヴの機能を発揮させるにしても、他のハードウェアを使用する選択肢はあったはず。それから、人質事件にしたって、ディリータさんとコンタクトを取るためにここまで大掛かりな事件を起こす必要があるのかっていうと……」
「でも、動機としては合致してそうなんすよね?」
「そう。大袈裟ではあるけれど、目的に適っていそうではある。つまり、やりたいことはわかるけど、スケールの選択がおかしいというか」
「ふむふむ。不思議っちゃ不思議っすね。うーん、犯人が単純に派手好きだったとか?」
「えっと、否定はできないかな……」
ひとつ、考えていることはあった。
実行犯はエックスだが、その裏に彼に指示を出している者がいる可能性だ。
その人物が持つ動機とエックスが持つ動機。その両方を満たすものが、キャンサーの強奪と人質事件という犯行形態だったのではないだろうか。
やや突飛な発想の気もするが、事件の規模を考えると、エックスの単独犯を想定するよりは可能性が高いように思える。
「まぁでも、そこんとこは今深く考えてもしょうがないっすよね。まずは人質さんを解放するところからっすよ。というか、犯人さえ捕まえちゃえば、その辺の事情も丸わかりっしょ!」
「……そうですね。今は割り切って
ソウマとソバコは再びイヴの夢に飛び込もうとしている。
今度は明確な目的があった。眠っている彼女を起こすためのコードを見つけることだ。
それがわかれば、人質事件のキャンサーをコントロールしているイヴを起こすことができる。
眠っていた人格が目覚めれば、エックスにより操作がキャンセルされるはずだ。
ディリータの知るイヴのエピソードを鑑みると、積極的な犯罪行為は彼女の望むところではないと推測できる。目を覚ました彼女がそのままエックスに協力し続けるとは考えずらい。むしろ事態を収めるために動くものと思われた。
万が一そうでなくとも、彼女が目覚める瞬間には、警察の電子戦チームがプログラムに介入するための隙が生まれるはず。それだけでも試してみる価値があった。
チャンスはこれっきりだ。
ディリータはこの後、現場に移動してエックスの要求に応える準備をしなければならない。
人質の安全を優先するのであれば、その判断も妥当なものだろう。
「
「そんな古典的な。でも、もしそうなら、望まれた夢を見せるのも夢魔の仕事ですよ」
ケーブルを握る。
ソウマは