「
人質になっているマヤにこちらの情報を伝えられないか――。
ソウマのその提案に対して、しばしの黙考の後、ナナミ刑事はそう宣言した。
………
……
…
気の長い夏の太陽が西の空にしがみついている。
時刻は5時を回ったが、眩いばかりの西日が会議室を灼いていた。人質事件の現場には疲弊した空気が蔓延していた。監禁されてから2時間と少し。拳銃を持つ殺人犯と8機のドローンによる監視、そしていまだに漂う血の匂いが、人質となった者たちの精神をじりじりと削っていた。
唯一の救いはクーラーが今も正常に稼働していることか。おかげで気温面での不快感は少ない。密室で蒸し焼きにされる心配だけはなさそうだ。窓から射し込むぎらついた陽射しもまるで別世界のようだった。
人質たちは講演用に並べられたテーブルの列に沿って、各々のミーティングチェアに腰掛けている。そこかしこからぼそぼそと小さな話し声が聞こえていた。
犯人の男もその程度の会話を咎めるつもりはないらしい。最前列のホワイトボードの前で機嫌良さそうに手元の拳銃を弄んでいる。ときたま怯え切った教授に話しかけては、意地の悪い薄ら笑いを浮かべている様子が見えた。
「いつまでこうしてんだろな……」
弱気な口調でけーちゃんが呟いた。夕暮れが彼女の顔に影を落としている。マヤのブラウスを掴んでいた指はさすがにもう放していたが、お互いの肩がぶつかるくらいの距離まで密着しているのは変わらなかった。
「わからないけど、犯人の態度に余裕があるみたいだから、外との交渉は進んでるんだと思う。あんまり急いでるっていう風でもないし、もしかしたらもう交渉もまとまっていて、なにかを待ってるところなのかも」
「……金目当てって言ってたし、銀行から現金を運んでる途中とか?」
「かもしれないね」
もし交渉がまとまってすでに犯人の要求が通ったのであれば、いずれは人質も解放されるはず。そういう意味では楽観的な推測だろう。……犯人に本当に人質を解放する気があるのなら、という但し書きがつくけれど。
ふと、足元で小さな音がした。乾いた紙の擦れる音だ。
机の下に視線を向けると、かかとの辺りに丸められた白い紙が転がっていた。目線を戻して正面を見る。犯人の意識はこちらに向いていない。それを確認してから、腕を伸ばして足元の紙を拾い上げた。
それと同時に、壁際の通気口の向こうへと微かな気配が遠ざかっていくのに気づく。人ではない。小動物のようだ。たぶん、ネズミかなにかだと思う。
「なんだ、それ?」
当然、隣に座るけーちゃんもマヤが紙を拾うのを見ていた。怪訝そうな表情でマヤの手元を覗き込んでくる。
くしゃくしゃに丸められたコピー用紙を破かないように慎重に開いた。サイズはA4。片面に黒のインクで文章が印刷されている。冒頭にはナナミ刑事の名前が記されていた。
警察からのメッセージだ。まず間違いなく、マヤに宛てられたものだろう。いったいどうやって、と考えて、さきほどの小動物の気配を思い出す。
あのネズミがここまで運んできたのだろうか。普通に考えればそんなことは不可能だ。訓練や調教でどうにかできるものとも思えない。けれど、動物を操るような能力を持った種族が警察に協力しているというのであれば話は別である。人外の存在を前提とするなら、
「ちょい……」
けーちゃんが焦ったように小声で言って、マヤの袖を引っ張る。広げた紙をテーブルの下に隠して、二人は顔を寄せ合った。鼻がぶつかりそうなほど近くで、けーちゃんが困惑の表情を浮かべている。
「どういうこっちゃ?」
「えっと、実は警察に知り合いがいて……」
マヤがこの場にいることは雇い主であるランカが把握していることなのだから、彼女経由で警察に情報が伝わったのだろう。名前が書かれているということは、ナナミ刑事も捜査に加わっているということになる。
ここからではわからなかったけれど、やはり現場の外は外で事件解決のために犯人とのやり取りを進めているらしい。警察がただ手をこまねいているわけではないとわかって、ちょっとホッとする。
「マジ? 変なとこにツテがあるんだな……。いや、とにかくそれを読んじまおうぜ」
「うん。講演の資料があるから、混ぜちゃえば目立たないと思う」
囁くような小声を交わしながら、マヤはメッセージを自分の資料の一番上に置いた。角を揃えた一式の資料を、けーちゃんとの間に置いて二人で覗き込む。
教室の最前列にいる犯人からはかなり距離があるし、部屋の両端のドローンからは二人の頭が遮蔽になるはずだ。秘密のメッセージをテーブルの上に広げるのはドキドキしたけれど、テーブルの下でもぞもぞし続けるよりかは悪目立ちしないだろう。
しばらく無言の時間が続いた。マヤもけーちゃんもメッセージを読むのに集中している。周囲から聞こえてくる不安に濡れたざわめきもどこか遠くに感じる。
「夢……?」
マヤはぽつりと呟いた。
メッセージにはその単語が何度か登場している。そこに並ぶように、ソウマの名前も。
これはひょっとして都合の良い妄想なのでは、とほんの少し考えてしまう。監禁状態に精神が参ってしまって、気になる相手からの手紙を受け取ったという幻覚を見ているだけなのでは、と。隣で熱心にメッセージを読み込んでいるけーちゃんがいなかったら、もっと深刻に疑っていたかもしれない。
紙に書かれていたのは警察の捜査情報だった。ここからではまったく把握できなかった現場の外の状況が書かれている。どうやらビル全体の電子機器が犯人に掌握されているようだ。会議室の電子ロックだけではなく、エレベータや階段の防火シャッターも塞がれていて、警察もまだこのフロアには到達できていないのだという。
その制御を行っているのが、イヴと呼ばれる人工知能であるとも書かれていた。正確にはその人工知能の持つ機能だけが使われているということらしいが。
SF映画かな……。ちょっと理解が追い付かない。
何年か前にアニメリメイクされた特撮作品を思いだす。そこまで熱心に見てたわけではないけれど、怪獣を電脳世界に生み出すキャラクターが登場したことは印象に残っていた。
電子情報の世界を侵略して現実に影響を及ぼすという点で、今の状況はその作品に似ているのかもしれない。そう連想したせいで、マヤの中にあるイヴという存在のイメージはすっかり怪獣じみたものになっていた。もちろん、擬人化されたコンピュータ・ワクチンが万事解決してくれるわけではないとはわかっているけれど。
「必要なのは、秘密のコード、か……」
紙に記された情報のすべてを理解できたわけではなかった。コンピュータやプログラムの仕組みについては素人だし、夢の世界の抽象的なイメージもぼんやりとしか伝わってきていない。
けれど、ビルの電子機器を制圧しているイヴを犯人から寝返らせる方法があるかもしれない、という点はなんとか理解することができた。そのためになんらかの
ビルの電子機器の制御を取り戻すことができれば、形成は一気に逆転する。警察もすぐに現場に到達することだろう。当然、マヤの取れるアクションだって増える。室内のドローンが無力化すれば、脅威となるのは犯人だけだ。タイミング次第では単独での無力化も不可能ではない。
「……だけど、なんで私?」
解せないのはそこだ。眉をひそめたマヤのほっそりとした指が紙面の文字をなぞる。
コードの手掛かりを探している最中、マヤの名前のアイコンに鍵のマークが浮かんだというくだり。これはいったいどういうことなのだろう。
心当たりはまったく無かった。ミウラという人物を知ったのはランカに依頼の話を聞いてからだし、イヴという人工知能の名を聞いたのもたった今のことだ。
だというのに、なぜ自分の名前に反応があったのか。イヴが眠りに就いたのが数年前のことだというなら、そのころマヤはまだ高校生か中学生だ。秘密の人工知能の開発に関わる機会なんてあるはずがない。というか、マヤは未だかつてアメリカに行ったこともないのだから、人工知能の開発者と偶然顔を合わせていたということさえあり得ない。
それでも、夢の中の情報がソウマの勘違いではないのだとしたら……。
例の鍵のマークがマヤの名前に現れたことに、いったいどんな理由があるというのだろう。
「ミラー……? それから、ミウラ・カイだって?」
唐突に突き付けられた謎にマヤが頭を捻っていると、不意に隣でけーちゃんが呟いた。
マヤと同じく、彼女も盛大に額に皺を寄せながら、くしゃくしゃの紙に印刷されたメッセージを目で追っている。
「……けーちゃんはその人と知り合いなんだよね」
「知り合い、って言っても、会ったのは2回か3回だけだけど」
「なにか気づいたことがあるの?」
「いや、名前はカイって読むんだな、って……。漢字は知ってたけど、本人の声で聞いたのは名字だけだったから」
けーちゃんは困ったように金色に染めた髪の毛先を弄んだ。彼女は前方で倒れ伏すミウラに目を向けると、顔を蒼くしてすぐ目を逸らした。見てしまったのは無意識のことだったのだろう。知り合いの死体をもう一度目の当たりにしてしまい、平静ではいられない様子だった。手のひらで口元を押さえて、苦しそうに息を喘がせている。
「けーちゃん」マヤは彼女の背中を撫でる。「大丈夫。ゆっくり息をして」
「ああ、ごめん……」けーちゃんが弱々しく頭を振った。「……でも、これって……」
けーちゃんが何事か言いかけたが、その言葉が形になる前に、別のところで声が上がった。
マヤたちの席から少し離れた斜め前の席で、「あ、あの……」という気弱な声とともに、私服の女子大生がおずおずと手を挙げている。目鼻立ちのはっきりとした茶髪の女性で、夏らしい涼しげな服装をしている。
「なにか?」と拳銃を握った犯人が短く問う。その目には明らかに警戒の色が浮かんでいた。
茶髪の女子大生は、不安げに視線をさまよわせ、ぱくぱくと何度か口を開け閉めしてから、なんとか声を絞り出した。
「その……、お手洗いに、行かせてください」
会議室が静まり返った。一拍置いて、微かなざわめきがそこかしこから聞こえてくる。
茶髪の女性は顔を赤くして、きつく唇を結んでいた。なにかを堪えているようなその様子を無表情に見つめながら、犯人は自身の耳元を指先でタップしている。ちょうど髪に隠れた通信デバイスらしき装置の辺りだ。
「実のところ」犯人がゆっくりと言う。「外部との交渉は予測よりも30分ほど遅れてる。交渉の方向としてはおおむねこちらの望む形になっているのだが、どうも進捗には遅れが出ているようでね」
じっとりと蛇のように湿った視線が人質たちを見回した。
「警察がなにか小細工を弄しているのか、それとも要求の内容を巡って内輪揉めでもしているのか、あるいは単に私の想定よりも日本の官憲が無能だったのか……。原因は定かではないが、ともかく彼らの対応が遅れれば遅れるほど、君たちの解放も遅くなる。そこはご理解いただきたい」
犯人の男が肩を竦める。「困ったものだ」と言わんばかりの仕草だった。
「さて、そういう状況ではあるのだが、外の連中に急ぐよう伝えた方がいいかな?」
「え、あ、はい……っ」
犯人にそう尋ねられて、手を挙げていた茶髪の女性は慌てた様子で頷いた。
金髪の大男は鷹揚に頷いて、手に持った拳銃の銃身をゆっくりと水平にした。奈落のような銃口が茶髪の女子大生に向かう。彼女の表情が固まり、朱の差していた頬が恐怖で青褪めた。
「では、彼らが急ぎたくなるよう切っ掛けを作るとしよう」
「うそ……」
犯人の口元が三日月のように吊り上がる。人差し指がすでに引き金に掛かっている。
椅子の倒れる音。茶髪の女子大生が反射的に立ち上がり、腰を後ろのテーブルにぶつけて、泣き笑いのような歪な表情で立ちすくむ。彼女の周囲に座っていた人質たちが、椅子の上で身体をのけぞらせたり、中腰になって後ずさりしたり、あるいはテーブルの下に潜り込もうとしたりと、一斉に自分の身を守ろうと動き出した。
彼女を中心に騒然とした気配が広がっていく。犯人の拳銃はその様子を愉しむかのように微かに銃口を揺らしている。天井付近に浮遊するドローンたちも照準を調整するように機体を動かしているのが目に入った。
「待って」
迷っている時間はなかった。
できる限りの落ち着いた語気で、その場の全員に届くようはっきりとした声を出しながら、マヤは椅子から立ち上がった。周囲の注意が自分に向くように、自身の気配を大きく見せるよう意識する。勇者ちゃんが戦場で己を囮にして立ち回ったときのイメージだ。
すぐ隣でけーちゃんが信じられないとばかりに目を見開いていた。金髪の犯人は目を細めて油断なくマヤを見据えている。ほとんどの人質たちは困惑の目で彼女を見つめている。唯一、発端となった茶髪の女子大生だけが縋るような視線をマヤに向けてきていた。
「……私は、山埜摩耶」
ゆっくりと確かめるように、自分の名を口にした。結局、それ以外の解答を思いつけなかった。
正直、解答の仕方がこれで正しいのかということさえわからない。だけど、他にどうすればイヴに『名を告げる』ことができるというのだろう。
一瞬、犯人が呆気にとられた表情を浮かべた。けれど、それだけだ。会議室の電子ロックが外れた気配はないし、ドローンは変わらず銃口を人質に向けている。階段の防火シャッターが上がって、部屋の外から警察の部隊の足音が聞こえてくるということもなかった。
イヴは目覚めていない。眠ったままだ。
マヤは表情には出さず、しかし、心の中で臍を噛んだ。
「それで?」犯人がマヤに視線を固定したまま顎をしゃくって続きを促す。
突然立ち上がって名乗りを挙げたマヤの考えを量りかねている様子だったが、その行動をイヴのコードとは結びつけていないように見えた。ひょっとするとソウマが見つけたヒントのことを犯人は把握していないのかもしれない。
だけど、もしそうだとしても、こちらが答えに辿り着けなければ、それは有利でもなんでもない。
犯人に見据えられたマヤは、頭の中で必死に考えを巡らせながら、犯人を刺激しないように可能な限り平静な声を出す。
「その人を撃つつもりなら、私が代わりになる」
毅然と言い放ったその言葉に、犯人の大男が口笛を吹いた。実にアメリカンな反応だ。
男の無遠慮な視線がマヤの身体を舐め回す。拳銃の銃口はもはやマヤに向かっている。引き金に指を掛けた犯人の顔を睨みながら、マヤはこれから自身がどう動くべきかを考えていた。
撃たれる前にあの男をぶん殴る。駄目だ。ドローンの包囲がある。たとえ一瞬で犯人を気絶させたとしても安全ではない。非常時に爆弾を起爆するようセットでもされていたら、むしろ危険ですらある。
だったら、撃たせてから弾丸を回避するのは? いや、それもよろしくない。意図せずとも挑発じみた行為になってしまう。犯人が激高して銃を乱射するような事態になったら最悪だ。
今すぐ後ろを向いて、会議室のドアを蹴破ってしまうのはどうだろう。少なくとも監禁状態には抜け道が生まれる。会議室の後方のテーブルに掛けている人質なら素早く脱出することもできるはず。だけど、そうやって無事に脱出できるのは果たして何人になるのか。会議室の前方、犯人に比較的近い位置に座っている人質たちは特に危険に晒されてしまうだろう。狭い出口がひとつだけとなると、群衆事故のリスクも高い。
「その勇気には敬意を表する。日本には本当にサムライがいるのだな」
犯人の男が芝居じみた口調で言う。彼の視線は露骨にマヤのことを見下したものだった。
ひどく癇に障る。今すぐにでもぶっ飛ばしてやりたい。そう考えつつも、頭の冷静な部分がマヤの暴走を戒めていた。
大男の表情から目をそらさず、静かに息を吐く。
決めた。先制攻撃はなしだ。男に引き金を引かせて、撃たれる箇所を調整しよう。
致命傷を避けて、出血も可能な限り少なくなるよう、
時間は味方だ。
ナナミ刑事たち警察だけでなく、ソウマも事態の解決に動いている。自分と勇者ちゃんを救ってくれたときのように、彼ならきっと解決策を見つけ出してくれると、マヤはそう信じていた。
痛いのは、我慢するしかない。
勇者ちゃんは痛みに耐性があったが、それは後天的なものだ。何度も傷を負って、苦痛に耐える方法を身に着けたというだけ。
前世で受けた傷の痛みをマヤは覚えている。だから、きっと耐えられる。そう覚悟を決めた。
今世の身体で銃に撃たれた経験はないから、怖くないと言ったら嘘になるけれど。
片手で拳銃を握っていた大男が、銃把に左手を添えて両手持ちにした。さっきよりも安定した銃身が照準をぴたりとマヤに合わせる。会議室の空気が冷たくなった気がした。小さな悲鳴がそこかしこで漏れる。
へらへらしていた男の表情が冷酷な無表情に変わっていた。小さく口が動くのが見えた。汚らしいスラングが微かに耳に届いた。どうやらマヤの行動は実のところ彼にとって気に食わないものだったらしい。
マヤの思考が加速する。
銃口の角度から銃弾の軌道を予測して、即座に身体の位置をずらせるように、全身の神経を尖らせる。適度に力を抜いた自然体で、襲い来るであろう衝撃と痛みに備えようとする。
「ちょ、ちょっと待った!」
しかし、トリガーが引かれ、銃弾が吐き出されるその寸前。
マヤの隣に座っていたけーちゃんが勢いよく立ち上がった。
………
……
…
どいつもこいつも滅茶苦茶だ。
拳銃を振り回して人を殺したあの金髪の外国人も、澄ました顔で自分を的にしろだなんて言い出すマヤも、それからもちろん、勢い任せで立ち上がった私自身も、揃いも揃ってどうかしてやがる。
すぐ隣のマヤは目を大きく見開いていた。悪いな、驚かせて。でも、私だってさっきはあんたのセリフに驚かされたからな。これでおあいこだろ。
ミウラを殺した犯人は辟易とした表情で私を見下ろしている。視線は冷たく、マヤが名乗り出たときのような感嘆の色は見て取れない。二番煎じは興ざめってか? ハッ、せいぜい馬鹿にしやがれ。
衝動的に椅子を蹴って立ち上がったけれど、こちとら完全にヤケクソってわけじゃない。
マヤの肩に手を置いて、彼女の前に身体を割り込ませながら、犯人の顔をきつく睨んでやる。
――
イヴとかいう人工知能を叩き起こすためのコード。
いきなりンなこと言われてもなんのこっちゃって感じではあったけど……。
私にはその答えに心当たりがあった。
なんでこんな答えを思いつけたんだろうって、自分でも不思議に思う。
きっかけがあるとしたら、たぶん、
自分が特別な人間なんじゃないかって妄想して、辞書を開いてお気に入りの単語にマーカーしたりだとか、そういうありきたりな黒歴史。とっくの昔に忘れたと思ってたその頃の記憶が、どうも頭の隅っこにこびりついていたらしい。
もしかしたら、ミウラ先生も同じ経験をしたのかも……。
研究室で見たあの人の屈託のない笑顔を思い出す。年齢でいえばけっこうなオジサンなのに、子どもみたいにはにかんだのが目に焼き付いている。
あの人の中には、今もまだ子どもの頃の悪戯心が燻っていたに違いない。だから、こんな冗談みたいなヒントとコードを設定したんじゃないか。私にはそう思えてならないんだ。
アメリカでミラーと名乗っていたのも、たぶんその一環だ。
ミウラに近い音っていうだけじゃなく、そのあだ名にも彼なりの特別な意味があったんだ。
人工知能にイヴという名前をつけたのも、まったく同じ理由によるものだと思う。
意味、理由。
いや、もっと正確に言うなら、ミウラ先生の中のルールというべきかも。
そのルールに従えば、コードの正体に手が届く。
イヴとやらが『墓の下』で『死の如く眠り』に就いているというのも道標になる。
コードは、特定の人名じゃない。
その人が何者なのかを示す単語だ。
「もういい。サムライは二人もいらない。私に時間の無駄遣いをさせるな」
金髪の大男が苛立たしげに吐き捨てた。銃口が向いているのは、自分なのかマヤなのか、ぶっちゃけまるでわからない。でも、とにかくミスったらヤバイことだけはわかる。
思いついたコードの正体が間違ってたら? そんな疑問はアドレナリンが消し飛ばした。どの道もう後戻りはできないんだ。だったら虚勢だろうがなんだろうが、胸を張って言ってやるっきゃないだろ。
「あんたさ、私が誰なのか、知ってるか」
「……なに?」
おい、イヴとやら。眠ってんのか? 聞いてんのか?
聞いてるんなら、眠ったままでいいから、私の声を
下っ腹に気合を入れて、私は大きく息を吸い、その名を叫んだ。
「よく聞け。いいか、私は、お前の――――」
Q.誰が彼女を起こすのか?
なお、解答は特定の単語一語とする。