ソウマがそこを訪れたのは、ヤマノがホテルで目を覚ました日の午後になってからだった。
二階建ての白い建物を回り込み、裏口のインターフォンを鳴らす。
今は昼休みの時間で、午後の診療時間まで30分といったところ。通話機越しに名前と用件を告げると、スタッフ通路から診察室に来るよう指示があった。
裏口のロックが外れる。ここを訪れるのは3度目くらいか。その回数の分だけ、カモから紹介された客にまつわるトラブルを経験したということ。
診療室は眩しくない程度の照明で白く照らされていた。清潔で温かい雰囲気。壁紙は木目調で、薄汚れた都会のコンクリートから隔絶された空間を演出しているようだった。
診察机に白衣の男が腰掛けている。短く刈り上げた黒髪は、医者というよりはスポーツマン風。目鼻立ちがはっきりしていて見るからに快活な印象だが、僅かに下がった目じりが押しの強い風貌をほんのりと柔らかくしている。今日も今日とて表情は鷹揚な笑顔がデフォルト。不安を抱いた患者を安心させるにはうってつけの表情だろう。
「やぁやぁ、待っていたよ、ソウマくん。しばらくぶりだね、元気にしてたかい?」
「お久しぶりです、カモ先生。おかげさまで、そこそこ元気に生きてますよ」
「それはなにより。君の持つ貴重な体質が失われるのは惜しいからね。くれぐれも健康には気を付けてくれたまえよ」
白衣の医師はそう言って愉快そうに喉を震わせた。年齢は確か30代半ばだったか。浅黒く日焼けした肌が彼の見た目を実年齢より若く見せている。
「学生時代は、医者になるか闘牛士になるかで最後まで迷っていた」などとのたまうおかしな男だが、なかなかどうして、この街の裏側に侮れないネットワークを持つ人物でもある。ホテルのボスとも長い付き合いで、互いに持ちつ持たれつの関係にあるのだとか。
「さてさて、時間は有限だ。さっそくだが話を聞かせてくれたまえ。ああ、もちろん用件は言わずともわかる。私の紹介した患者、ヤマノ嬢についてだろう? 実際に会ってみて、どうだった。彼女の症状について、君の所見は? 何か気になることがあったかい?」
「……毎度のことですけど、ずいぶんと楽しそうですね」
「それはそうさ。君も含めて、あのホテルのスタッフから聞ける話は、いつだって私の好奇心を大いに刺激してくれるからね。君たちがボスと呼ぶ彼だが、よくもまぁ特異体質の持ち主をあれだけ集めたものだと、不覚にも感心させられてしまうよ」
大仰に両手を広げながらカモは口を斜めにした。
なかなかにマッドな仕草だ。実際のところ、変人ではあっても狂人ではないはずだが。
「ふむ、しかし、愉しそうにするのは確かに不謹慎だったか? 気に障ったのなら謝るが」
「僕に謝っても仕方ないですよ。自分がおかしな体質なのは十分わかっていますし。お医者さんなら患者さんに誠実に向き合っていれば、ひとまずそれでいいのでは」
「無論、ペイシェントにこんなことは言わないさ。君たちは……、まぁ、患者じゃないからね。ちょっと素が出るのは許してくれると嬉しい」
悪戯っ子のようなシニカルな笑み。
悔しいことに、歳の割にはそれが似合ってしまうのがカモミロという男だ。
「それで、ヤマノ嬢のことだが。ソウマくんがここに来たということは、一晩眠ってハイ解決、というわけではなかったのだね」
「そうなります。そもそも、先生はどうして彼女に僕のことを?」
「ひとつには、私のクリニックで行った治療が有効ではなかったこと。ヤマノ嬢の訴えた症状は主に睡眠中の中途覚醒で、入眠障害は見られないタイプの不眠症だ。ひとまず通常の不眠治療として、睡眠薬の処方と生活習慣のアドバイスを行ったのだが、どうにも効果が薄いようだった」
カモは診療机の引き出しからカルテを出して眺めている。ソウマから内容は見えないが、それがヤマノのカルテなのだろう。眉を八の字にしたカモが、ボールペンの頭でカルテを軽く叩く。
「とはいえこれは珍しいことではない。不眠治療の進捗はひとそれぞれだ。薬を処方して数日もすれば睡眠のリズムが戻る人もいれば、精神面のケアから始めて数か月がかりで体調を戻していく人もいる。二、三回の通院で治療の効果が見られなくても、それだけでソウマくんたちのホテルを紹介したりはしないのだが……」
「気になったのは、彼女の夢のこと、ですか?」
「そう、それだ。眠るたびに同じような夢を見るというのは珍しくない。同じような、ではなく、まったく同じ夢を見るというのも、まぁなくはないだろう。しかし、夢を見る前からその夢の内容を一から十まで知っていた、となるとどうだろう。面談してみた感じ、
カルテから顔を上げたカモが、ソウマの表情を覗き込んだ。
好奇心を滾らせた医師の瞳が爛々と輝いている。
「そうなってくると、やはり、私があれこれと余計な手出しをする前に、君のような専門家に診てもらうのがいいだろう、と考えたわけだ」
「専門家? 先生は僕をなんだと思ってるんですか」
「
カモはしれっとそう言ったが、言われた側のソウマは思わず顔をしかめてしまった。
「オカルト。うーん、オカルトかぁ。正直、専門家と呼ばれるほどの知識は持っていないんですけど。体質に由来する感覚とか直感がほとんどで、やってることも言語化とか体系化されてるわけじゃないですし……」
「それでも、私では得られない知見を君は持っているだろう。その感覚とやらを通して、ヤマノ嬢はどう見えたんだい? ほらほら、もったいぶっていないで教えてくれたまえよ」
ずずいと椅子から身を乗り出してくるカモの勢いに気圧される。
彼の情熱はどこから来るのだろう。ソウマは少し不思議に思う。ソウマにとって、誰かを眠らせることは自分が眠ることとイコールで、特別なことをしているという実感は薄い。食事などと同じ、生理的な欲求の解消手段のひとつという認識だ。眠らせた相手の夢に触れてしまうのも、その過程で発生する副作用に過ぎない。
ソウマに流れる血の源流、家系図の数代前に入り込んだ夢魔という種族であれば、むしろ他人の夢に触れることこそが他人を眠らせるという行為の先にある本来の目的だったはず。
けれどソウマは、言うなれば人間の体を土台にして、そこに夢魔の持つ欲求を搭載した生物だ。夢がどうこうよりも、眠らせることと眠ることこそが生きるために必要なエレメントとなっている。
主目的と副作用がご先祖様から逆転しているのだ。
だからというわけではないが、ソウマは自身が見た他人の夢のことを深刻に捉えることがあまりない。そもそも、人間の見る夢は非常に不安定で、本人の体調や周囲の環境、その日の気分やら布団に入る時間やらでも簡単に形を変えてしまうものだ。明確に特定の意味を訴えている夢もあれば、意味も脈絡も放り捨てたテーマパークみたいな夢もある。それらすべてを吟味して分析しようものなら、時間がいくらあっても足りなくなってしまう。
それに、夢はどこまでいっても夢であって、現実ではない。
たとえば、ひどい悪夢に悩まされている人物が客としてソウマの元を訪れたとしよう。
実のところその夜限りであれば、ソウマはその人物の夢に干渉して、悪夢の内容をソフトランディングさせることができる。他人を眠らせるのに加えて、夢の操作も含めて彼の体質の一部なのだ。仮にも"夢"魔の血を引いているのだから、当たり前と言えば当たり前。
しかし、そういった操作ができるのは、ソウマがその人物と一緒に眠っているときだけ。客としてやって来た一夜をやり過ごしても、次の夜にまた悪夢を見ないことまでは保証できない。
そもそも、ひどい夢を続けざまに何日も見るのであれば、現実の世界になにかしらの原因があるということも少なくない。そうであればいくら夢の世界に介入しようとも、結局は対症療法にしかならないのも当然の帰結。
夢魔の体質を継いでいても、夢の世界だけでなにもかもを解決できるはずがない。
ソウマは常にそう思っている。
ただ……、
その前提があるにしても、ヤマノの抱えていた夢はイレギュラーなものだった。
「結論から言いますけど、先生の見立ての通りです。彼女の夢は普通の夢じゃない」
診察室の丸椅子に座りながら、ソウマはヤマノの夢を思い出す。
「ヤマノさんと一緒に眠ったとき、僕は彼女の夢に手を加えようとしました。夢の内容を柔らかくして、彼女が安眠できるイメージにしようとしたんです。ですが、実際に彼女の夢に触れたとき、それが不可能だとわかりました。彼女の夢の手触りが、ソリッドで、とても硬かったからです」
「その、硬いというのは?」
「つまり、一連の夢の流れがパッケージになっていて、改変を受け付けないということです。そうですね、普通の夢が砂浜に靴で描かれた絵だとすれば……、彼女の夢は金属製の彫刻です。硬くて、頑丈で、立体的な奥行きがある」
昨日の夜、彼女の夢に触れたソウマが感じたのは、重厚な壁が目の前にあるようなイメージ。
掌で押してみると、ただずっしりとそこにあるという、無機質な存在感だけが返ってくる。
どんな細工を弄しても決して動かすことができないと一発で理解させられる、かなり明確な触感だった。
その一方で、触れた瞬間に夢から弾かれるような防衛反応は見られなかった。
そのことから彼女の夢を改変できないのは、なんらかの方法でプロテクトされているからではなく、ただ単純に構造として強固なつくりになっているためということがわかる。
「だから結局、僕は彼女に夢を見せない方向にシフトしました。彼女の意識が夢に呑み込まれないように、僕が間に入って彼女を夢の座標から遠ざける方法です。彼女が疲れていたのもよかったんでしょうね。意識の誘導は簡単に嵌まりました。ヤマノさんからすれば、眠っている間の記憶は空白で、気づいたら朝になって目が覚めていた、って感じでしょう」
「そして、防波堤になった君がヤマノ嬢の代わりに彼女の夢を体験したというわけだ」
「そう……。いや、違うな。体験じゃない。あれは観測だった」
「それは何が違うんだい? 他人の夢を見るということは、他人の夢を体験するということとイコールではない?」
「普通の夢であればその認識でも間違いじゃありませんよ。そもそも、見ることも体験することも、人間の夢においては地続きの感覚です。先生にも経験があるんじゃないですか? ひと続きの夢を見ている最中であっても、夢の内容に没入して物語を体感したかと思えば、唐突に主観から離れてその状況を俯瞰したりと、ごく自然な流れで視点が切り替わる感覚です」
ソウマの説明を聞いて、「ふむ?」とカモは指を顎に当てた。言いたいことはわからないでもないがあまりピンとは来ない、という様子。
いや、夢魔でもなんでもない普通の人間からすれば、夢の記憶をはっきりと覚えていることのほうが珍しいのだから、彼のような反応も当然なのかもしれない。
「話を戻します。ヤマノさんは、彼女の言う通り、記憶を夢に見ています。正確な表現は難しいのですけれど……、記憶をもとに彼女の心が夢を構成しているのではなくて、記憶そのものが夢になって彼女を引き摺り込んでいる、という印象です」
それはまるで、記憶そのものに独立した意思が宿っているかのようだった。
ひどく感覚的な話だが、ソウマにはそう思えて仕方がないのだ。
「僕は彼女の夢に触れることで、その記憶が構築する光景を観測しました。けれど、体験はできません。多分、それができるのはヤマノさんだけ。そして、体験できてしまうからこそ、現実の彼女にまで影響が及んでしまっている。それが彼女の現状に対する僕の見解です」
「では、その記憶というのは、誰の記憶になるんだい?」
「先生も彼女から聞いているのでしょう。……あの夢は、『勇者』の記憶です」
深く息を吸ってから、ため息を吐くようにソウマは言った。
自分の言葉に眩暈がしそうだった。頭が重くなったような気がして、思わず眼鏡の上からこめかみを揉み解してしまう。
ソウマの垣間見たヤマノの夢。
それは、勇者と魔王の物語。剣と魔法の冒険譚。
いっそ清々しいほどにテンプレートなファンタジィ世界。
夢とは思えないほどに現実感を帯びたそれが、ヤマノを悩ませている夢の正体なのだが……。
「そいつはすごい。自分の中にある他人の記憶。それって、いわゆる前世の記憶ってやつになるのかな。なるほどなるほど。しかもだ、勇者として生きた別の世界の記憶ともなると、前世・輪廻転生・異世界の実在あたりをセットで証明できちゃう? お得な三点セットだね」
「あっさり言ってくれますね……。驚いたりしないわけですか?」
「ほら、私みたいな一般人はね、夢魔やらなにやらが人に紛れて生活していると知ってからこっち、ちょっとばかしのファンタジィには驚かないように訓練されてるのさ」
「というか、
それに対するソウマの答えは「諸説あり」だ。傍証らしきものはそれなりにあるのだが、明確に実証されたわけではないので、混血者のコミュニティでも結構意見の分かれるところである。
「まぁその辺のことはひとまず置いておこう。ソウマくんと私にとって問題なのは、ヤマノ嬢自身のことだ。彼女の症状は、これからどうなると思う?」
「昨晩はきちんと睡眠をとれたので、体調的には多少回復したはずです。ただ、根本的な解決には至っていない。おそらくですけれど、今夜にもまた同じ夢を見てしまうのではと考えています」
「眠れない夜がまたやって来るね。不眠による心身へのダメージの他に考えられる影響は?」
「記憶の解像度が高すぎます。夢を見るたびに、彼女は自分自身の人生として、勇者の人生を追体験しています。記憶として客観視できていたものが、自身の体験として彼女の中で混ざりつつあります。だから、その先にあるのは、おそらく……」
深く息を吸う。
現実で押し倒された記憶が蘇り、夢で胸を刺された幻痛が疼いた。
脳裏に浮かんだ二つの像の境界が曖昧になり、シャッフルされる。
「『勇者の記憶を持つヤマノさん』から『ヤマノさんの記憶を持つ勇者』へと、精神そのものが入れ替わってしまうのではないか、と……」
ソウマの、夢魔の直感が、そう告げていた。