山手線から私鉄に乗り換えて三駅。沿線の住宅街にヤマノの住むマンションはあった。
のっぺりとした外観の没個性な建物だ。ソウマはこの手の建物に個性を見い出すことができない。コンクリート造の五階建てで、ベランダの仕切りの数を見るに部屋数はひとつの階に五部屋くらいだろうか。
正面玄関はオートロック。ヤマノがパネルを操作して自動扉を解錠する。その先には掃除の行き届いたエントランスが広がっていた。奥まったところに小部屋があり、ガラス窓の向こうに制服姿の男が座っているのが見える。レスラーみたいに盛り上がった筋肉を黒い制服に窮屈そうに詰め込んでいる。入ってきたソウマたちに気づくと男は小さく頭を下げた。
「守衛さんだよね。常駐してるの?」
「うん。曜日によって交代するけど、いつも誰かしらはいるよ」
「へえ……。セキュリティは結構厳重なんだ」
この規模のマンションで常駐の守衛というのは珍しいのではないか。エントランスの奥の階段を上りながらソウマは考える。ヤマノの話を聞くに学生向けの物件らしいから、セキュリティの高さを売りにしているのかもしれないが。
「こっち。部屋は三階だよ」
さておき、ヤマノの部屋である。彼女が鍵を開けて扉を開けると、小さな玄関を占領して未開封の段ボール箱がひとつ。この時点でソウマは彼女の部屋の状態をある程度察してしまった。
細い廊下の先の居住スペースにも段ボールが二つ。当然のように未開封。目立つ家具は窓際のベッドと据え置きらしき冷蔵庫だけ。備え付けのキッチンスペースは汚れひとつなくまだ一度も使用されていない様子。入居初日と言われたら信じてしまいそうな有様だ。
「その辺に適当に座ってね」
「適当に、って言われても……」
「あ、そっか。クッションもまだ出してないっけ。じゃあそこの段ボールでも椅子にして」
そう言ってヤマノはベッドに腰掛けた。ソウマは軽く肩を竦めて段ボールに腰を下ろす。
色気もへったくれもない部屋だが、だからといって彼女がズボラというわけではないだろう。夢見の悪さやら睡眠不足やらで部屋の片づけにまで手が回らなかったに違いない。ソウマはそう納得することにする。武士の情けである。
「んー……、ソウマさん、なんだか慣れてない?」
「何に慣れてるって?」
「女の子の部屋」
ヤマノが平坦な口調で言う。
しかし、瞳の奥の好奇心は隠しきれていない。
「緊張したりしないの?」
「別に……。女性の部屋に入るのは初めてでもないし」
「それって、恋人さんの部屋とか?」
「いや、多いのはバイトの関係。たまにだけど出張の依頼が入ることもあるから。仕事以外だと、あとは友達の女の子に呼ばれたりとかだね」
「恋人さんは?」
「そもそもいないけど」
「……意外。五、六人はいるかと思ってた」
ヤマノがわざとらしく目を丸くした。
ソウマは思わず額を抑える。いったいどうしてそんなイメージになってしまっているんだ。
「だって、ほら、ソウマさんは夢魔なんだから」
「いや、うん、そうだけど。
「でも、女の人と一緒に寝るのが仕事でしょ? 流れでイチャイチャしたりとか、そのまま夜の恋人とか言ってキープしちゃったりとか、しない?」
「しないよ。というか、お客さんは女性だけじゃないし。結構多いよ? ストレス抱えて眠れない会社員のおじさんとか」
「……両刀だぁ」
「それ、どういう意味で言ってる? いや、やっぱり答えなくていいや」
ソウマがうんざりと首を振ると、ヤマノは表情を動かさずにコテンと首を傾げた。
ため息が零れる。本気なのか、からかわれているのか。いや、おそらく前者だろう。ヤマノは前世の勇者を単純と評していたが、なんのことはない、彼女自身の言動も基本は直球なのだ。火の玉ストレートと言ってもいい。
「そういうヤマノさんは、自分の部屋に男を連れ込んで平気なの?」
「え、だって、ソウマさんとはそういう関係じゃないし。緊張する必要って、ある?」
「……まぁ、君がそれで納得してるなら、それでいいけど」
やっぱりちょっとズレてる子だ。ソウマは思わずお手上げのジェスチャ。
この子の価値観はなんなのだろう。少し考えて、やっぱり前世の影響じゃないかと思い至る。ふわふわしているようで、あれは実のところ強者の思考なのではないか。
つまり、思ったことをそのまま口にするとか、自分の部屋に異性を入れるとか、そういったことに付いて回るリスクを彼女は脅威として認識していない。自分なら自力でそれを
もっとも、ソウマが知らないだけで、彼女くらいの年齢の女性はだいたいこんな感じなのかもしれないけれど。四つも下の異性ともなれば、同じ大学生の括りの中でももはや別カテゴリだ。
「それで、ヤマノさん? 部屋に上げてもらったからには僕も調査を手伝うわけだけど。今朝話をした
「……うーん……、多分だけど、ソウマさんのお尻の下だと思う」
「ああ……、そんな気はしてた」
苦笑いしながらソウマは段ボールの椅子から立ち上がった。床に置かれたおおよそ三十センチ四方の段ボール。茶色の直方体はガムテープでしっかりと梱包されている。その横に屈みこんでガムテープの終端を探しつつ、ソウマはヤマノに開封の確認を取る。
「これ、僕が開けちゃっていいの?」
「うん。でも、変なことはしないでね」
「変なことって?」
「窃盗とか、器物損壊とか」
「変なことを通り越して犯罪だよね、それは」
………
……
…
目当ての書類は二時間ほどで見つかった。ソウマとヤマノの二人掛かりでもこれだけ時間が掛かったのは、書類が段ボールの底で眠っていたからだ。探し物は普段使いする書類ではなかったので仕方ないといえば仕方ない。
書類を発掘した時点で時刻はすでに正午の直前だった。冷蔵庫の中身は当然からっぽなので、二人はマンションの近場で外食することに。書類は見つかったとはいえ、やるべきことはまだ残っている。某有名チェーン店のファミレスで簡単に食事を済ませると、二人はすぐさま彼女の部屋に戻ってきた。
午後の時間を使って呪いの解呪を試みる。これは二時間ほどで完了した。
使用したのはメールと電話とネット端末。いくつかの場所に連絡を入れて、複数の手続きをこなせば、ひとまず作業は終了。呪いの媒体となる件の書類さえ手元にあれば、解呪自体はそう難しいことではない。
作業が無事に終わったところでソウマがそう伝えたのだが、あまりにあっさりと解決したものだから、ヤマノはむしろ釈然としない表情だったくらいだ。
「これで呪いは解けました、って言われても……、正直、実感ないなぁ」
「影響を受けていたのは眠っている間だけだから。起きているうちは何も感じないのもおかしくないよ」
懸念があるとすれば、ヤマノに実感はなくとも、彼女に呪いをかけた犯人には解呪の感覚が伝わっているかもしれないということ。
本当に夢を見なくなったかを確かめるためにも、ソウマは夜になるまでヤマノと一緒にいるつもりだが、ともすれば犯人のほうがなにかアクションを起こす可能性もある。
「じゃあ、本当に呪いが解けたかわかるのは、夜までお預け?」
「君がお昼寝しないならね」
「……そう言われても……。昨夜はちゃんと眠れたから、今からいきなりは眠れなさそう」
「だと思った。というか、ばっちり今から余裕で眠れますって言われたら、逆に僕のほうが自信を失くしてたかも」
というわけでお昼寝計画はキャンセル。ソウマが彼女を無理やり眠らせるという手段もあるにはあるのだが、実のところ彼も真昼間から他人を眠らせるのは好きじゃなかったりする。相手だけでなく自分も眠ってしまうので、一日に何度も夢魔の能力を使っているとあっという間に睡眠過多になってしまうのだ。
眠りすぎで発生する症状は、主として頭痛に疲労、筋肉痛。普通の人間となんら変わりはない。夢魔の血を引いているのに眠りすぎでダメージを受けるだなんてとんだお笑い種である。
「ま、それならそれで仕方ない。さて、他にやっておくべきこととなると……」
「部屋の片づけと、それから荷解き。ソウマさんも手伝ってくれるよね?」
「……うん、まぁ、いいけどさ。書類を探すのに散らかしちゃったのは確かだし」
部屋の主の鶴の一声で方針は決定。
二人はそれから一時間ほどかけて部屋の整理に勤しんだ。特筆すべきことはない。目を惹いたのはデフォルメされた怪獣がプリントされたマグカップくらいか。
女性にしては小物が少ないかなとも感じたけれど、それはソウマの主観でしかない。比較できるサンプルが少ないので、そうと断言するのは危ない感じ。
三時を少し回った辺りで、部屋の呼び鈴が鳴った。
ベッドに寝転んでファッション誌を読んでいたヤマノが立ち上がろうとするのを、割れ物の食器を運んでいたソウマが手で制した。お口にチャックをしながらアイコンタクト。部屋の入り口を指差して、「僕が出るよ」とジェスチャする。
ヤマノが玄関から見えない位置に引っ込むのを確認してから、ソウマは玄関のロックを解除した。カチリと小気味の良い音。ノブを捻り、ゆっくりと扉を押し開ける。
部屋のすぐ前に大柄な男が立っていた。長身でソウマよりも背が高い。こちらを見下ろしている。かっちりとした黒い制服を着た筋骨隆々の大男だ。頭には紺色の制帽。
見覚えのある顔だった。額の厚い男前な顔。マンションの守衛だ。朝と昼の出入りで計三回、マンションのエントランスで姿を見ている。詰所の前を通るたびに向こうもこちらに軽く頭を下げていたと思う。近くで見てもやっぱりレスラーみたいだ。
「どうも、ごめんください。こちら、ヤマノ様の部屋でしたよね」
「ええ、そうですよ」
「ヤマノ様はご在宅でしょうか」
「いえ、出掛けていますが」
眉をひそめた守衛がソウマの顔を見つめてくる。その視線がだんだんと下がっていき、玄関の土間へと落ちていった。しかし、置かれている靴はソウマのものだけ。ヤマノの靴はあらかじめ靴箱の中に隠してある。守衛の男が怪訝そうに目を細めた。
「あなたはヤマノ様とどういうご関係で? 彼女は今、どこに?」
「ただの友達ですよ。ヤマノさんならコンビニに行ってるだけだから、十分かそこらで帰ってくるんじゃないかな。何か急ぎの用事があるなら、僕から伝えておきますよ」
「……いえ、ご本人に直接伝えますので、ここで待たせていただきます」
「ここで? そんな必要あります?」
両手を広げて大袈裟に首を傾げてみせる。煽るような口調に守衛の男がソウマを鋭く睨む。
数秒の睨み合い。視線の間で火花が散る錯覚。ずいぶんと職務熱心な守衛だな、とソウマの口の端が吊り上がる。
「この付近で不審者の目撃情報がありました。住民の皆様には十分ご注意いただきますよう、こうしてお願いに回っているところです」
「不審者。なるほど。でも、それだけなら彼女と直接会うことにこだわることもないのでは。さっきも言った通り、伝言くらいなら僕から伝えますよ」
「…………その不審者が、ヤマノ様を探していたという情報もありまして。失礼を承知でお尋ねしますが、あなた、本当にヤマノ様のご友人ですか?」
守衛の男が開いたドアの縁に指を掛ける。ウインナみたいに太い指だ。扉を閉められないように固定するつもりらしい。元より相手を追い出すつもりのないソウマは、困ったようにドアノブから手を離して守衛に微笑みかける。それが胡散臭い笑顔だったのだろうか、守衛の表情はますます険しくなってしまう。
「確かに、友達を名乗っていいのかって改めて聞かれると、結構怪しいラインかもしれませんね。だけど、まったくの嘘ってわけじゃない。
守衛の目を下から覗き込む。詰問に近い口調に大男が一瞬ひるんだ。
「なにを……」
「僕と彼女が二人でマンションを出入りする様子を、エントランスに詰めていた守衛さんなら見ていたはず。目線が合ったし、挨拶もしましたよね。もう忘れちゃいました?」
「……かもしれません。出入りする人間の顔をすべて覚えているわけではありませんので」
「そうですか? 今日は土曜で人の出入りは多くないようですし、朝と昼とで都合三回も姿を見ているんですよ。そんな綺麗さっぱりと忘れちゃうってこともなさそうですけど」
「そう言われても、忘れたものは忘れたとしか――」
「あるいは」
男の言い訳をソウマが遮る。
「あなたが、あの時の守衛さんとは別の誰かだったり、とか」
「……なんの冗談です? そちらは私の顔を覚えているのでしょう?」
「ええ、だから、
守衛の顔がこわばる。この分だと不審者云々の話も作り話か。
そもそも、エントランスにずっと詰めていたのなら、ヤマノがコンビニに出ていったという話の時点でソウマの嘘に気づくはず。この時点で少し怪しい。
もし席を外していたタイミングがあったとして、その話を信じるとしても、それならエントランスで待っていれば帰って来たヤマノと会うことができる。いや、ヤマノを探している不審者が本当にいるのなら、こんなところでぐだぐだとソウマを問い詰めていないで、最寄りのコンビニまで彼女を探しに行く方が賢明だ。いずれにしても守衛としては違和感がある。
「あなたが、彼女を呪っていた"犯人"ですか?」
「………………」
守衛の男は答えない。黙ってソウマを睨んでいる。
男の目的はヤマノと直接会うことだろう。呪いが解呪されたのを感じ取って、慌ててマンションにやって来たというところか。守衛に成りすましているのは、そういう能力なのか、それとも変装なのか。体型までコピーしているのだから、前者の可能性が高そうだ。となると、ただの人間ではない。怪物か、あるいはその混血か……。
「お前が」
「うん?」
「お前が、邪魔をしてたのか……!」
守衛の男が丸太みたいな腕を伸ばしてくる。「あ」と思ったときには襟首を掴まれていた。強引に身体を持ち上げられ、玄関の壁に押し付けられる。ストッパを失った扉が無味乾燥な音を立てて閉まる。廊下から流れていたうららかな陽気はシャットアウト。背中の冷たい壁にめり込まんばかりの力強さで圧し込められる。
大きく見開いた守衛の目には興奮と怒りの色。掴まれた首元が息苦しい。熊にボディプレスされたみたいに鎖骨の辺りが圧迫されている。
「どうやってアレに気づいた。くそっ、どうして俺の邪魔をするんだ!」
「逆に、聞きますけど、何が、目的で……」
「決まってるだろう! "彼女"のためだ!」
守衛の表情が歪む。狂信の笑顔。
彼女とは誰のことか。ヤマノのこと? いや、おそらくは、彼女の中の勇者のことだ。
だが、そうだとしたら、この男はどうやって勇者の存在を知ったのか。
「なぁおい、わかるだろ? あんな美しい魂があんな小娘に閉じ込められてるんだ。助けたくなるよな、助けなくちゃいけないよな? なぁなぁ! そうだよなぁ!」
「ぐっ……」
「あの生き方! あの信念! あの強さ! 痺れるよなぁ、憧れるよなぁ! あの人が現実に生きてくれるって想像するだけでもゾクゾクするよなぁ!」
守衛の感情が赴くままに頭をシェイクされる。後頭部が何度も壁に打ち付けられる。ストロークが短いのが救いか。それでも痛いものは痛いし気分も悪くなってくる。眩暈と吐き気が身体の内側から這い上がってくる。
どうする。眠らせるか。身体は触れているのだからやろうと思えばできる。
懸念は二点。眠らせただけでこの男が止まるのかということと、この男の夢の世界に入ることが本当に安全なのかということ。とはいえ、このまま紅葉おろしにされるよりかはよっぽどマシか。実力行使に出た以上、相手もなぁなぁで済ますつもりはないだろう。どうにかして拘束から抜け出さなくては。
「あの人があの小娘から身体を奪ったらさぁ! 俺は、俺はやっとあの人の――」
「そういう話、私のことを無視してされると、不愉快かも」
フローリングを踏む足音。部屋の死角から現れる人影。守衛の動きがぴたりと止まる。
ヤマノが壁の向こうから姿を見せた。「ドン引き」と表情で言っていた。彼女に隠れていてもらったのは、やって来た犯人と鉢合わせて話がややこしくなるのを防ぐためだったのだが、それもまぁ今さらか。ひどく興奮しているこの男からこれ以上なにかを聞き出すこともできなそうだし、今彼女が出てくることに大きな問題はない。
「……いたのか。聞かれたな。だが、それならそれでいい」
男の指の力が増す。襟が締まり、気道が細くなる。
人質にされた形かも。あまりのんびりはしたくない状況。
「おい、小娘! お前が一番わかってんだろ!」
「言いたいことが曖昧過ぎ。伝えたいことがあるならちゃんと話して」
「彼女のことだ! 勇者様のことだよ!」
「様……かぁ」ぽつりとヤマノが呟いた。
守衛の男が確信に満ちた声で叫ぶ。
「お前と勇者様! どっちが素晴らしい人間なのか、語るまでもないだろ! いつまでその身体にしがみついてんだ! さっさとあの人に明け渡せよ! それともなにか、自分は彼女よりずっと素晴らしい存在ですだなんて寝言を抜かすつもりかッ!」
「声が大きい。うるさい。確かにそこまで自分に自信があるわけじゃないよ。だけど……」
うんざりした表情のヤマノが両手を軽くスナップする。
ほんの一瞬、ソウマと彼女の視線が交差した。相変わらず何を考えているのかわからない緑の瞳。その奥に鈍い光を見た気がする。勇者の爛々とした輝きとは比べ物にならないくすんだ輝き。
その光を曇らせているのが、文明の便利さと平和の退屈さだとしたら。案外、その奥に隠された本質的な輝きは、ヤマノと勇者とでそう変わらないのかもしれない。
「それは、あなたが魔王よりも強かったら、考えることにする」
次の瞬間、彼女の姿が消える。
斜め上で着地音。視線を上に向ける。そのときには既に彼女は天井を蹴っていた。
稲妻のような急降下。着地点は守衛の目の前。
大男の腕がソウマの首を離す。支えを失って落下する身体。それが地面に落ちるより早く、守衛がヤマノに拳を放った。
滑らかな速さ。丸太を装填した杭打機を連想。空気が穿たれる音が響く。
顔を狙ったストレート。ヤマノがそれを首の動きだけで避ける。涼しい表情。そよ風が頬を撫でただけ。気負いもなく前進。男へと細い腕を伸ばす。威圧感で彼女の姿が大きく見える。
間髪入れず、男が逆の腕を振り下ろす。身長差のあるチョッピング。斧のようなその一撃を、ヤマノは面倒そうに払いのけた。それだけで男の身体が泳ぐ。守衛の巨体がつんのめる。信じられないという表情。筋力の差も体重の差も、ヤマノの手の一振りで無に帰した。
落下したソウマが尻もちをつく。腕を離されてから一秒と経ってはいない。まるで時間が引き伸ばされたかのよう。粘性を帯びた時間認識の中で、ヤマノだけが普段通りに振舞っている。
踊るようなステップ。戯れるような跳躍。
彼女の小柄な体躯がふわりと浮かび、美しい軌道で回転する。
持ち上がる右の踵。頂点は男の頭よりも上。振り上げた刃のような艶めかしさ。
断頭台を思わせる冷たい気配。ジャンプの最高点で時が止まったかのような錯覚を覚える。
刃が落ちる。
踵のエッジが空間を抉り取る。
三日月の美しさ。
一点に凝集された力が、守衛の顎を捉えた。
金属が肉を叩いたような音。
同時に、骨が砕ける音。
踵が振り抜かれる。
男の意識が刈り取られる。
僅かに遅れて風圧がソウマまで届いた。
大木のような男の足が、細い枝のように膝から折れる。
横倒しになって、フローリングに男が倒れる。
床材の軋む重い音。
そのあとになって、彼女が着地する軽やかな音。
地面に伏した男は動かない。
彼女がそれを冷たく見下ろしている。
「……あれ?」
ヤマノが困惑の声を漏らした。それに遅れてソウマも気づく。
倒れている男は守衛ではなくなっていた。レスラーのような筋骨隆々の巨漢はそこにいない。
いるのはソウマよりも身長の低そうな小男だった。こざっぱりとした身なりで、服装も守衛の制服からカジュアルな装いに変わっている。
うつ伏せに倒れるその男を、ヤマノが足の先を使ってひっくり返した。
仰向けにされて男の顔が見えるようになる。白髪混じりの髪に薄い髭。顔つきは日本人で、年齢は四十代くらいに見える。特徴のない、記憶に残りにくそうな顔だった。
「この人、誰……?」
ソウマにもわからない。
ヤマノの呟きが冷え切った空気に溶けていった。