川崎記念でアブクマポーロの前に四着と敗れ、今の自分には何かが不足していると感じたメイセイオペラは佐々原の勧めに応じ、テンコートレーニングセンターでの特訓を決意した。
テンコートレーニングセンターは全国でも有数の規模を誇る民間のトレーニング施設で、福島県郡山市の東、標高五百メートルの阿武隈山麓にあった。夏は涼しく、冬はあまり雪が降らない気候は一年を通してトレーニングを行うのに最適な環境で、ウッドチップや坂路といった中央並みの設備を取り入れていることでも有名だった。
佐々原と共にテンコーを訪れたメイセイオペラはまずその規模に圧倒されて喜んでいたが、それが民間の施設だと知ると、不満を露わにした。
「佐々原さん。無理ですよ、いきなり……」
てっきり水沢と提携している施設だとばかり思っていたのに、それが民間の施設だなんて。クロイワクラブに所属していたからこそ、分かる。この規模の民間の施設を利用するとなれば、月に三十万はかかる。これまで出場してきたレースで得たお金で充分払える額だが、入って来たお金を全て定期で預けているメイセイオペラにとっては難しい相談だった。銀行に手続きに行かねばならぬし、そもそも実印は実家に預けてある。
「どうして前もって言ってくれないんですか!」
そうすれば全て用意して来られたというのに。これではまた、水沢に戻らねばならないではないか。
憤懣やるかたない様子のメイセイオペラに、佐々原は鞄から封筒を取り出して見せた。
「言うなって言われていたんだよ。お前は絶対自分で出そうとするから。それは将来のためにとっておいて欲しいってさ」
「え⁉ 一体誰が……」
思いもかけない一言に、メイセイオペラは目をぱちくりさせる。
自分のためにぽんと三十万を出してくれるなんて。海外出張中の両親だろうか。
「お前のおばあちゃんだよ」
佐々原はにんまりと微笑むと、明美から預かって来た封筒をメイセイオペラに手渡した。
「この前電話をしてな。お前をテンコーでトレーニングさせたいと話したら、使って欲しいと手渡された」
「おばあちゃん……」
封筒を大事そうに抱えるメイセイオペラに、佐々原は明美との会話を思い出した。
川崎記念の前から大幅な特訓の改善が必要だと感じていた佐々原は、距離的に近く、最新の設備が整ったテンコ―トレーニングセンターに目を付けていたが、一つ大きな問題があった。
テンコ―は民間の施設であり、ローカルシリーズを戦う地方ウマ娘にも門戸は開かれている。だが、中央のウマ娘でなければおいそれと使えぬほどその利用料は高い。
もちろん、それに見合っただけのレベルアップは図れるが、ローカルシリーズを戦うだけであれば、正直利用の必要性を感じないと言う地方トレーナーが多かった。
佐々原もそうした内の一人だったが、相手がアブクマポーロなら話は別だ。あの規格外の怪物を前にして、ローカルシリーズで間に合うような練習だけではまるで歯が立たない。
「だが、先立つものがな……」
どれぐらいの期間テンコーでトレーニングするかは分からないが、その費用は少なくとも百万はくだらない筈だ。中央のエリートトレーナーならポンとポケットマネーで出せそうなものだが、地方トレーナーである自分ではそうそう気軽に出せる額ではない。
悩む佐々原に救いの手を差し伸べたのが、メイセイオペラの祖母である明美である。
川崎記念より遡ること一週間前。桐花賞以来となる明美の急な訪問を受けた佐々原はそこで意外な申し出を受けることとなった。
「あいつをもっと強くしたい?」
明美は力強く頷いた。
「ええ。桐花賞の時の走りは本調子に見えませんでした」
「もちろんです。あいつの才能はあんなもんじゃない。今はまだ怪我の影響もあるでしょう。ですが、年明けからは川崎記念を皮切りに中央・地方の強豪達と戦い、経験を積んでいくつもりです」
「川崎記念……。確か、あのアブクマポーロさんも出ると聞きましたが」
「ええ、よくご存じで」
きっとメイセイオペラがしゃべったのだろう。祖父亡き後、メイセイオペラは前にも増して祖母である明美に連絡をとることが多くなった。
「あの子はアブクマポーロさんと走るのを本当に楽しみにしているみたいなんです」
「川崎でその希望は叶います。ですが、勝つにはまだ早い。何たって、向こうはダートの日本一ですから」
「早いのではなく、足りないのではないでしょうか」
「どういうことです?」
「あの子に勧められて、私もアブクマポーロさんのレースを観たから分かるんです。彼女に勝つためには並大抵の努力じゃ足りないと」
「仰る通りです」
素人である明美の慧眼に佐々原は驚いた。
「間もなく冬になる。コースが使えなくなる以上、この水沢でできることは限られています」
「でしたらこちらに行くのはいかがでしょう」
そう言って、明美が取り出しのはテンコートレーニングセンターのパンフレット。図らずも自らと同じ考えを抱いていると知り、佐々原はさらに驚いた。
「これはまた。どちらでお知りになったんですか?」
「亡き主人が集めていたんです。あの子が強くなるためにはこういう立派な所でトレーニングする必要があるだろうって。ふふ。本当に孫馬鹿なんだから」
明美は微笑むと、鞄の中から封筒を取り出し、テーブルの上に載せた。
「これを使って、あの子をテンコーへ行かせてください。足りないならいくら使っても構いません」
「いや、これは……。大変助かりますが、よろしいのですか」
テンコ―に行けば、確かに大幅なレベルアップは望める。だが、相性というものはどんなものにも存在する。テンコ―でのトレーニングが合わず、返ってスランプに陥る可能性もゼロではない。せっかくの好意も、ただただ大金を失うという結果になるやもしれぬ。
「構いません。夫もそれを望んでいました」
明美の目には強い意志の光が宿っていた。
「分かりました」
佐々原は神妙な面持ちで封筒を押し戴いた。今は亡き義正が存命ならばきっと同じことをしたのではないだろうか。どこまでも孫に優しく、その成長を楽しみにしていた。
託された思いを無下にはできない。
テンコー入りへと伝手を頼って尽力した佐々原は、川崎記念の次の日の入学を取り付けることに成功し、メイセイオペラを連れてきたのだった。
「ようこそ、テンコーへ」
テンコートレーニングセンターへ入るなり、中年の男が声を掛けてきた。
「どうも、水沢の佐々原です」
「お話は伺っています。そちらが……」
ちらりと自分を見る男の視線に恐縮しながら、
「ど、どうもこんにちは。メイセイオペラです!」
メイセイオペラは勢いよく頭を下げた。
「ああ、こんにちは。場長の小山です。元気がいいね」
ははっと気さくに笑った小山だったが、すぐにすっと目を細めると今度はまるで舐め回すかのようにメイセイオペラの全身をじろじろと見つめた。
「あの、何か……」
さすがに気恥ずかしくなり、不満を零したメイセイオペラだったが、小山の口から出たのは意外な一言だった。
「うん。やはり、これは腰が悪いね」
「腰?」
「こちらに歩いてきてみて」
言われた通りにその場を歩いたメイセイオペラ。その様子を小山は携帯で撮ると、二人を事務所に案内した。
出された薫り高いほうじ茶にメイセイオペラは思わずほっとする。いきなりトレーニングを始める気満々でいたのだが、まさか会議室に通されることになるとは思わなかった。
「観させていただいた川崎記念の映像、そして先ほどの歩き様から、大分腰に疲労が溜まっているようです」
小山がまず二人に見せたのは、先程撮ったメイセイオペラが歩く写真だ。
「よくご覧ください。全体的に背中が丸まっているでしょう」
「言われてみれば……」
「こちらの川崎記念の映像でもそれは確認できました。腰が悪いため、それを必然的に庇う姿勢になってしまったんでしょう」
レースの映像を止め、小山は解説を始めた。
「そしてその原因も分かります。腰が落ちている走り方だからです。こちらに来て、片足を交互に上げてみて」
右、左とまるで行進するかのように脚をめいっぱい上げるメイセイオペラに佐々原は何かあるのかと目を凝らしたが、普段と変わらぬ様子に見えるだけだった。
小山はさらに、メイセイオペラに片足をあげたままの姿勢でいるように指示すると、
「今から上げた方の脚を思い切り押すので耐えてみてね」
そう言って、いきなりぐっと太腿を押した。
「わわっ!」
驚きながらも、それに耐えていたメイセイオペラだったが、小山はうんうんと頷くと、反対側の軸足を指差した。
「見てください。軸足の膝。曲がっているでしょう?」
「え⁉ そ、そうですかね……」
「ああ。確かに曲がっているな」
佐々原は小山の眼力に驚嘆した。これまで何百と走るのを見て来た自分も気づかなかった隠れたメイセイオペラのフォームの欠点を、この僅かな時間で見抜いてしまうとは。膝が曲がり、腰が落ちたフォームでは力が上手く伝わらず、スピードにのることができない。その上、不自然な態勢は体に負荷を与える。
「毎日見ていて気が付かなかったとは……。汗顔の至りです」
「毎日見ているからこそですよ。私達はこれで年間何百というウマ娘さん達を見ていますから」
謙遜しながらも、確かな自信を覗かせる小山に、佐々原はこの人なら大丈夫だと言う確信を抱いた。
「それでは、こいつをよろしくお願いします」
学園に残している他の担当ウマ娘のために水沢に戻る佐々原と分かれ、メイセイオペラのテンコートレーニングセンターでの日々が始まった。
腰が悪いとの指摘を受けたメイセイオペラがまず行ったのは、トレセン係りつけの医者によるササ針を使った腰の治療だった。
オリンピックの百メートル走金メダリストの二倍近くの速さで、その何十倍もの距離を走ることができるウマ娘。彼女達はその身体能力ゆえに、その体に想像を絶する負荷をかけている。毎日のトレーニングを繰り返す中で、疲労は蓄積し、やがて見えないところで溜まり、走りに影響を及ぼす。
テンコ―に入ってすぐの間は簡単な基礎体力の訓練に留めて腰の治療に専念したメイセイオペラは、三週間後小山の指示の下コースを走ってみてこれまでとの違いに驚いた。
「嘘っ。軽い」
足の運びがまるで違う。いくら前に前に踏み込もうと思っていても、踏み込めなかったあの川崎記念の時とはまるで別物だ。この三週間走るのをひたすら禁じられていたと言うのに、こちらの方が本来の走りと言わんばかりだ。
「うん。軸足をまっすぐする意識は育ったようだ」
三週間の間、メイセイオペラが特に意識して取り組んでいたのは正しいフォームを体に覚え込ませることだった。鏡を見ながら片足を上げ、軸足の方の膝が曲がっていないかを確認する。段々と腰の周りの疲れが抜けるに従い、膝を伸ばすことが意識できるようになった。
「よし、それじゃあ第二段階だ」
疲労を抜き、正しいフォームを体に染みこませたメイセイオペラに対し、次に小山が取り組んだのが、体づくりを兼ねた基礎運動と坂路を使ってのトレーニングである。
ゆっくりとフォームを確認しながら走った後に、軽く汗を流す。その後はウッドチップの敷き詰められた七百メートルの坂路コースを走る。上り六百メートルを一分、下り七百メートルで七分。これを一日三回、多い時では四回こなす。心肺機能を高めると共に、股関節を上手く使った走りを体に身に付けさせる
トレーニング後、メイセイオペラはトレセン内にある医務室へと向かった。専門のスタッフに足首を中心にマッサージを行ってもらうためで、三週間の療養中に発覚した足首の炎症の様子を見てもらうのが日課になっていた。
「うん、大丈夫だね。ゆっくり休んだおかげだ」
スタッフの言葉にメイセイオペラは安堵する。いい感じでトレーニングが積めているという実感がある以上、怪我でそれが台無しになるのが嫌だった。そのことが顔に出ていたのか、スタッフにこつんと頭を小突かれる。
「駄目よ、無理しちゃ。ウマ娘だって人間だって体が資本なんだから。無理して怪我しちゃ元も子もないでしょ」
「で、でも。私、それぐらいしないと強くなれなくて……」
「でもじゃない。貴方みたいな素直な子は自分を追い込みすぎるのよ。そのことを自覚しておかなきゃ。ここでトレーニングしているんだから、絶対に強くなれるわ。鏡を見て御覧なさいよ。来たばかりの頃の痩せっぽっちの貴方とは別人でしょ」
「そんなに痩せてなかったですよ!」
口をへの字に結んで抗議の意を表しながら、メイセイオペラは鏡の中の自分を見た。確かに、ここに来たときとはまるで別人のようだ。最新式のトレーニングマシンを使ってトレーニングに励んだ甲斐もあってか筋肉にも張りがあり、何より少々のトレーニングでは疲れなくなった。ウマ娘のトレーニングに革命をもたらしたとされる坂路トレーニングの賜物だろう。
疲れが溜まり切っていた腰にはササ針だけでなく、マイクロ波治療も行われた。針では届かぬ体の深層部までマイクロ波を届かせ、血行を促進しこりをほぐすとともに、痛みの発生物質の生成を抑え、周辺組織の回復を図るのである。それまでササ針を行った後も僅かに体の奥底に違和感を抱いていたメイセイオペラだったが、この治療の後にはそうした不安に悩まされることは無くなった。
トレーニングとケアの両面を意識して行われたテンコートレーニングセンターでの特訓は三か月弱に及んだ。その間、他の担当ウマ娘にかかりきりとなり、電話での連絡しかとっていなかった佐々原は、再び訪れたテンコ―で出会ったメイセイオペラの変貌ぶりに驚かずにはいられなかった。
「佐々原さーん!」
再会の喜びに手を振るメイセイオペラに対し、佐々原の第一声は、
「どちら様?」
で、むっとなった担当ウマ娘からの強烈な一蹴りを寸での所でそのトレーナーは避けることとなった。
「私ですよ! 私! メ・イ・セ・イ・オ・ぺ・ラ!」
耳元で大きな声で怒鳴るメイセイオペラに、佐々原は耳を抑えながら後ずさる。
「お前なぁ! ただでさえ、声が大きいんだ。少しは自重しろっていつも言っているだろ!」
「佐々原さんが悪いんじゃないですか! 久しぶりなのになんですか、その態度は!」
「仕方がないだろうが。見違えちまったんだから!」
佐々原の襟首を掴まんばかりに詰め寄っていたメイセイオペラはその一言にぴたりと動きを止めた。
「ほ、本当ですか。佐々原さんから見てもそう思います?」
照れながらも、こちらをちらちらと見て来るメイセイオペラに、佐々原はやれやれと呆れ顔を見せた。
どうして、この娘はこう自己評価が低いのだろう。素直なのはいいことなのだから、自分の成長した所をもっと素直に認めてよいのに。
「ああ、本当だ。この俺が一度でも嘘を言ったか?」
「どうでもいいようなくだらない冗談はありますけど、こういった嘘はないです」
「そうだ。自信をもっていい。まさか、ここまで変わるとは思ってもみなかった」
佐々原は姿勢を正すと、小山に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます、小山さん。お世話になりました」
「ははっ。これで不安は無くなりましたか?」
「不安?」
「見抜かれていましたか」
メイセイオペラの問いかけに、佐々原は鼻の頭を掻いた。
「テンコ―みたいな民間の施設は日本中あちこちに大なり小なりあるんだ。中には厳しいやり方でせっかくの素質あるウマ娘が潰されちまうケースもあるのさ」
「一週間に一回、佐々原さんからメイセイオペラの様子を知りたいと電話がかかってきていましたからね。これは信用がないなと」
「面目ない。誠に申し訳ありませんでした」
「いえいえ。当然のことですよ」
佐々原の謝罪を、小山は笑って受け流した。担当のウマ娘を手放しよそへ預けるのだ。手塩にかけてきたトレーナーとしては、初めての相手に大丈夫かなと疑うのは自然なことだ。
「それよりも、次はどのレースに?」
「五月のシアンモアに出ます。生まれ変わったコイツの姿を、まずは地元のファンの瞼に焼き付けますよ」
「本当ですか! それならおばあちゃんにも観に来てもらえますね!」
「当然だ。お金を出してもらったおかげでこれだけ強くなったんだと見せてやれ」
「はいっ!」
力強くメイセイオペラは答えた。
一月の末、まだ肌寒い時期にやってきたテンコ―に滞在して三か月余り。季節は既に芽吹きの春を迎えていた。