水沢トレセン学園に戻ったメイセイオペラの変わりように誰もが目を疑った。本格化を迎え、トレーニングを積んでいても、これまではどこか細いイメージのあったその体には筋肉がつき、見るからに一人前のウマ娘としての肉体に仕上がっていた。
「信じられません……」
並走トレーニングをかってでたミチノクシャーリーは、砂だらけになるのを厭わず、コースに膝をついた。三か月前はまだ彼女といい勝負ができていた筈だった。まさか、こんな僅かの間にここまでの変貌を遂げるなんて。
「随分と鍛えられたもんだね、佐々ちゃん」
「ああ。以前とはパワーが段違いだ」
大怪我の影響もあったのだろう。不安定な走りで溜まっていた腰への疲れが解消されたメイセイオペラの踏み込みは力強く、以前とはまるで別人のようだ。
「つくづくテンコーはあいつに合っていたんだな」
一周全力で走った後だというのに、ダクを踏みながらフォームチェックをしているメイセイオペラは息を切らしてもいない。坂路トレーニングで心肺機能が鍛えられたお陰だろう。
「とりあえずはシアンモアだ。後のことはそれからさ」
淡々と話す佐々原だったが、その顔つきには自信が満ち溢れていた。
五月十日、シアンモア記念。日本のウマ娘草創期を代表し、岩手出身の大先達であるシアンモアの名を冠したレースは、冬休み明けの水沢で最初に行われる重賞レースである。
テンコ―から戻ったメイセイオペラの初のレースは、まさに彼女の復活と成長を証明するものとなった。
先頭で逃げる二番のモンタナラピッドのすぐ後方につけたメイセイオペラは二周目、第二コーナーをから向こう正面を過ぎようとも付かず離れずで道中好位置をキープ。
残り六百メートルを切ったところで仕掛けると、逃げ切りを図ったモンタナラピッドを第四コーナーであっさりと外から躱して、直線で一気に加速。二着以下に六バ身差をつけてゴール。
一人だけモノが違うと言わんばかりの圧巻の勝利に、スタンドのファンは大いに沸き上がった。
「喜んでくれていたぞ。お前のおばあちゃん」
ウイニングライブより戻ったメイセイオペラに声を掛けると、彼女ははにかんだ笑顔を見せた。
「良かったぁ。どこにいるのかなって探していたんです」
「以前のことで懲りているんだとさ。お前、すぐ声を掛けたがるからなあ」
桐花賞の時、それまでの不安が解消されたメイセイオペラは勝利の喜びの余り、スタンドにいる明美や佐々原に呼びかけ、二人は大いに赤面し、顔を隠すのに必死だった。
「とにかく。これで、岩手には敵はいないと証明した訳だ。だとしたら次に目指すのはここだ」
佐々原は手帳をめくると、六月二十四日を指差した。
ごくりとメイセイオペラは唾を呑み込む。
六月二十四日。それは地方最高のレースの一つであり、統一GⅠとして中央の強豪も参戦する帝王賞が大井で開かれる日である。地方で最もレベルの高い南関東のウマ娘も多数出場するこのレースはダートウマ娘にとって目標とするレースの一つであった。
そして、何より。
このレースには彼女が出場するのだ。
「出て来るぞ、あいつが」
「でしょうね」
地方に所属するウマ娘にとって憧れの存在であり、越えなければならない最大の障害とも言えるべき相手。
船橋の帝王、南関東の哲学者。アブクマポーロ。
「一月の川崎記念でけちょんけちょんにされた相手だ。成長した今の自分がどれだけ通用するのか、思い切って確かめてみろ」
佐々原の檄に、メイセイオペラは無言で頷いた。
六月二十三日、前日に調整ルーム入りしたメイセイオペラは談話室で本を読むアブクマポーロの姿を見かけ、思い切って声を掛けた。
「何?」
読んでいた本にしおりを挟むと、アブクマポーロは話しかけてきた相手の方を真っすぐに見返した。
澄んだ青い瞳にじっと見つめられ、メイセイオペラは思わず言葉に詰まる。ようやく出てきたのは、何を読んでいるんですかという月並みな質問だった。
「アリストテレスの刑而上学。読んでみる?」
「アリストテレスって、あの古代ギリシアの哲学者ですか」
「そう」
アブクマポーロはそう言いながら手にした本の背表紙をメイセイオペラに見せた。
「昔からちょっとしたことでも考えこむ癖があったから、『南関東の哲学者』って呼ばれていてね。哲学って面白いのかなと色々読み始めたらハマった」
くすりと微笑むアブクマポーロにメイセイオペラの緊張がほぐれる。思っていたよりもとっつきにくいウマ娘ではないようだ。
「でも、哲学って難しそうじゃないですか」
「そうでもない。私生活でも使える名言を残してくれたりしている。例えば、私の好きなのは」
いつの間に出したのか、手にしたギリシア哲学者名言集から、アブクマポーロはしおり紐が挟まれたページを開き、指差した。
『深い闇の中にいるときにこそ、光を見つけることに集中しなければならない』
まるで少し前までの自分のことを言われているようだ。
メイセイオペラは思わずそう感じた。
大怪我をした後に復帰して大敗。川崎では今の自分の実力を嫌というほど思い知らされた。それでも、見つけた光を目指してここまでやってきたのだ。
「川崎の時とは随分と見違えた。テンコーの気候は穏やかだから、体を作り直すにはちょうどいい環境」
うんうんと嬉しそうにするアブクマポーロの言い様に引っかかるものを感じ、メイセイオペラは思わずその疑問を口にする。
「あの、テンコーに行かれたことがあるんですか?」
こくりとアブクマポーロは頷いた。
「トレーナーが変わったばかりの頃に。股関節の具合が悪くてね。八か月ぐらい休んで、その内半年は行っていた。テンコーは自然が豊かだし、落ち着く」
「は、はい……」
あまりのショックにアブクマポーロの話が入って来ない。テンコ―でのトレーニングを終え、一段成長したと自信をもって乗り込んできたというのに、目指す相手は既にその地点は通過済みだと言うのだ。
「明日の帝王賞、楽しみにしている」
アブクマポーロはそう告げると、席を立った。
残されたメイセイオペラは深いため息をつくと、後を追うように自室に戻った。
六月二十四日。午後八時。しとしとと雨が降る大井レース場を真昼のように煌々とライトが照らす中、詰めかけた大観衆にメイセイオペラはきゅっと身が引き締まる思いがした。
出場ウマ娘は十三人。その内中央URAからの出場四名。一番人気のアブクマポーロ以外は上位を独占し、南関東栃木から出場のダイノべドーソと、メイセイオペラが六番人気、七番人気と続く。
「相変わらずすごい……」
圧倒的なまでの中央との差。それでも観客の支持はアブクマポーロにあった。彼女が現れるや、他のウマ娘そっちのけで観客の視線はそちらに向く。
「昨年の東海ウインターの借りは返すからな」
意気込むエヌジェイタイムにアブクマポーロは顎に手を当て無言で頷いた。
心ここにあらずといったようなその様子に、突っかかっていたエヌジェイタイムは気勢をそがれる。
「大丈夫かよ、お前。また考えすぎてスタートをしくじるなよ」
南関東の哲学者と呼ばれるアブクマポーロの唯一といっていい弱点がゲートだった。本人はそんなことはないと言うのだが、色々なことを考え過ぎ、スタートが出遅れることがあり、昨年の大井記念ではそれが観客の度肝を抜く圧巻の逆転劇につながった。
ぶつぶつと何やら小声で呟いているアブクマポーロに何を言っても駄目だと悟ったのか、エヌジェイタイムはメイセイオペラの方を向いた。
「水沢のメイセイオペラ。地元じゃ強いみたいだが、この帝王賞に出て来る連中はそんな奴ばかりだ」
「何が言いたいんです」
「中央を舐めてもらっちゃ困るってことだよ」
ポンと肩を叩き、去っていくエヌジェイタイム。その後ろ姿を見ながら、メイセイオペラは静かに闘志を燃やす。
昨年の水沢のマーキュリーカップ。あのシャマードシンボリやエレガントハーバーはエヌジェイタイム等中央勢に圧倒され、五着以下に沈んだ。
(先輩たちの借りは私が返す)
握った拳に力が入る。
中央を舐めるなと言うのなら。
貴方達にだって地方を侮るなと言いたい。
アブクマポーロだけが地方ウマ娘じゃない。
『上空からはしとしと雨が落ちています、大井レース場。熱気と興奮の中に包まれておりますが、その中に一本ぴんと張りつめた糸のような緊張感が漂っています、第二十一回帝王賞。十三人のウマ娘達はどういったレースを見せてくれるのでしょうか。ダートウマ娘の頂上決戦です』
ゲートに続々と入るウマ娘達に会場の盛り上がりは最高潮に達する。
『解説の井川さん。アブクマポーロ一択とのお話でしたが、いかがでしょう』
『そうですね。彼女が負ける場面を想像できません。年が明けての重賞四連勝。そのうちの一つがGⅠの川崎記念ですからね。最近のレースでの強さは凄いの一言に尽きます』
『今日出走するセーヨーマリンに年末の東京大賞典で敗れた訳ですが、それをすぐに年明け川崎で返しました。さらに地元船橋で行われたかしわ記念では後続のウマ娘を六バ身も離し、圧巻のレコードタイムでの勝利。人気、実力共にダートの頂点と言っても過言ではありません。そんなアブクマポーロの牙城を突き崩せるか。二番人気、エヌジェイタイム。昨年東海ウインターの借りを返すと戦前のコメントがありました。三番人気は先ほどもありました、昨年東京大賞典でアブクマに土をつけたセーヨーマリン。四番人気はこちらもURA所属ソヴァジブレストル。前走前々走京都、中山では好走を見せました。五番人気リネアデバトラは昨年の帝王賞を三位と健闘。年明け苦戦が続いていますが、ここで巻き返しを図ることができるか。六番人気ダイノべドーソは栃木からの遠征。七番人気こちらも岩手からの遠征組メイセイオペラです』
夜空にファンファーレが鳴り響く中、メイセイオペラはじっとコースの状態を確認する。思った通りコースは湿っているが、ぬかるんでいるというほどではない。芝と違い、ダートコースの場合、不良馬場は適度に砂が締まり、走りやすくなる。きっといつもより、皆のペースは速くなるだろう。
『さあ、各ウマ娘準備が整いました。満を持して今年の帝王賞が今始まります!』
ゲートが開くや、メイセイオペラはいきなり先頭に立った。スタンドからはどよめきの声が上がる。
『先頭をとったのは四番のメイセイオペラ。岩手のメイセイオペラが先行します。リネアデバトラは好位につけました。その外に八番アブクマポーロ。セーヨ―マリンも前に行った! 大歓声です。十三人のウマ娘それぞれに声援が飛びます、今年の帝王賞!』
第一コーナーを先頭で回るメイセイオペラに外からついてくるのは、山形は上山トレセン出身のクレッセントだ。本来は追い込みが得意な彼女も今日のコース状態では後半の追い込みは厳しいと判断したのだろう。三番手はリネアデバトラ。アブクマポーロに何としても勝たねばという意識が強いのだろう。四番手につけたセーヨーマリンはこれもじっと様子を見ていたが、アブクマポーロの出方を探るようにするすると先に動く。
『向こう正面、中団につけましたアブクマポーロ。その横、ぴったりとマークをしています、雪辱に燃えるエヌジェイタイム!』
同じだ、川崎記念と。
直感でメイセイオペラはアブクマポーロの動きを判断する。あの時も、好位につけたかと思えば、先行する他のウマ娘に釣られることなく、じっと自分のペースを守り切っていた。まるで、一瞬の仕掛け所を探っているかのようだ。
「行けるところまで行くしかない!」
第三コーナーを前にして、依然先頭をキープしていたメイセイオペラの外側から迫って来たのは地元大井所属のクレナイスズカだ。地元のファンの声援に応えようと必死に食らいつくが、テンコ―でのトレーニングで別人のようになったメイセイオペラに追いつくことはできない。
ずるずると後退するクレナイスズカと入れ替わるように中央のダート巧者達はカーブで仕掛けてくる。
『第四コーナー、エヌジェイタイムは外に抜け出した。注目のアブクマポーロは内を通っている。前を塞がれている。果たしてここから抜け出してこられるのか!』
先頭を行くメイセイオペラ、次いでセーヨーマリン、その内側にリネアデバトラの三者に閉じ込められ、さらに外にはエヌジェイタイムが控えている。アブクマポーロが抜け出す隙は無い筈だ。
(ここが勝負所だ)
そう判断したメイセイオペラは最後の直線で序盤のスローペースで溜めた足を爆発させる。
『メイセイオペラ粘っている。メイセイオペラ粘っている。リネアデバトラが外から並びかけてくる。セーヨーマリンは一歩後退だ。メイセイオペラか。リネアデバトラか!』
「うああああ!」
必死に競り合うメイセイオペラとリネアデバトラ。前を行く二人は、その最中、内側から猛烈な地響きが轟くのを聴いた。
「そんな、まさか!」
勝負の最中よそ見は禁物だ。ましてや最終の直線。一瞬でも目を切れば、ライバルに引き離される。
だが、分かってはいても確認せずにはおられない。
そこは閉じていた筈だ。中央勢が巧みにマークし、蓋をして出てこられないように。
それなのに、今。
なぜ、そこを駆けて来る!
『内を突いてリネアデバトラ。リネアデバトラが上がってくる。さらにその最内! 最内を突いてアブクマポーロが上がって来る! そこを入って来るか、アブクマポーロ! そこを入って来るか、アブクマポーロ!』
「嘘だろ、おい!」
外に展開し、雪辱を期したエヌジェイタイムが信じられないと言った声を上げる。
メイセイオペラも自分の目が信じられなかった。一歩間違えば柵に激突するほどの隙間だった筈だ。行けるとふんでいても、そこを行くことを選択するには相当の勇気がいる。
最内、インコースを突いて来るアブクマポーロの鬼気迫る姿に、メイセイオペラは怯んだ。昨夜のあのおっとりした姿からはまるで想像がつかない。
「速い!」
雨の重バ場でスピード勝負になると読んだ他のウマ娘とは違い、今まで通りにペースを守って足を溜めていたのか。
(来る!)
そう思った瞬間、後ろにいた筈のアブクマポーロの姿が自分の右前にあることに気づき、メイセイオペラは目を見開いた。
(ワープでもしたの?)
そう言いたくもなるほどの末脚だ。青白く揺れる炎のようなオーラを放ちながら、加速していったアブクマポーロは、またも競り合う間すら与えてくれず、走り去っていった。
『さあ、抜け出た! アブクマポーロだ! アブクマポーロが抜け出した! 二番手争いはリネアバトラに軍配か! アブクマポーロです! アブクマポーロです! アブクマポーロ、拍手喝采に迎えられ、今ゴールイン‼』
何のためにテンコ―で特訓をしたのか。あの時の自分とは違うんだとばかりにその背中を必死になって追うメイセイオペラだったが、残り二百五十メートルの直線で豪脚を炸裂させたアブクマポーロには届かない。さらに、アブクマポーロに気をとられた隙をリネアデバトラに突かれ、結果三着。一着のアブクマポーロとは二と四分の一バ身差。川崎記念よりその差は縮んだといえど、内容的には完敗だった。
「ちくしょう! また負けちまった!」
大声で叫ぶエヌジェイタイムは、メイセイオペラの姿を見つけると右手を差し出した。
「やるじゃねえか、水沢の。まさか負けるとは思わなかったぜ」
「ありがとうございます」
勝負服の袖で汗を拭い、メイセイオペラはその手を握り返す。
戦前のイメージとは違い、裏表のないさっぱりとしたウマ娘のようだ。
「東海ウインターで負けてから、あの野郎への雪辱の機会を狙ってたってのによ。まさか、あそこで外に出ず、インを突くなんて普通思わねえだろ!」
エヌジェイタイムの言葉に内心その通りだとメイセイオペラは同意する。
同じように前を行くウマ娘達に進路を塞がれた場合、自分なら外に抜け出すことだろう。事実、それまでしつこいぐらいにアブクマポーロと競っていたエヌジェイタイムは四コーナー手前で進路を外に変えた。
「速さ勝負と踏んでいたのだけれど、まさか徹底して差しに、そしてインに拘るとは思っていなかったわ」
クレッセントが悔しそうに唇を噛んでいた。
大井レース場は地方レース場最長と言われる三百八十六メートルの直線が特徴だ。当然、普段であれば差し・追い込みのウマ娘が有利だが、雨で不良バ場だったことが、各ウマ娘の判断を狂わせた。速めのレース展開となれば、最後の直線でも先行するウマ娘に粘られるかもしれないと、本来は追い込み脚質であるクレッセントも最初に動いたのだ。
だが、そうした周囲の雰囲気に呑まれず、冷静に仕掛け所を探っていたのがアブクマポーロだった。今日の展開を読み、普段通りのペースを守った彼女は、前をブロックするウマ娘達を物ともせずに一瞬の隙を突いてインコースを強襲、その豪脚で抜き去っていった。
「ったく、なんて野郎だ」
悪態をつくエヌジェイタイムを前にしてもアブクマポーロはその表情を変えようともしない。まるで、勝つことが当たり前のようだ。
「強くなっている。驚いた」
我がことのように目を細め、微笑むアブクマポーロにメイセイオペラは唇を震わせる。
「どうして……」
「?」
「どうして、そう褒めるんです? 勝ったのは貴方なのに」
「同じ地方所属で戦っているウマ娘だし、後輩のように思っているから」
率直なアブクマポーロの言葉がメイセイオペラの心を抉った。
ライバルなどと言うのがおこがましいのは分かっている。
でも、自分を気に掛ける素振りから少しは意識してもらえているのかと思っていた。
それが、ただの後輩を思っての言葉だったとは思いもしなかった。
「私なんか眼中にもないってことですか……」
惨めだなと思いつつも、暗い気持ちがメイセイオペラの中で頭をもたげた。
憧れていた相手との勝負に向けて全力でトレーニングに励んできたつもりだった。あっという間に躱されはしたが、以前と比べていい勝負ができたと思っていたのは自惚れだったのだろうか。
「そんなことはない。貴方のことは気にしている」
アブクマポーロはふるふると首を振った。
「私自身が他のウマ娘が私をどう思っているのかあまり気にしないだけ。私は私。それ以上でもそれ以下でもないから」
「へっ。言い様は丁寧だが、ようは唯我独尊。てめえの好きなようにやりたいってことだろ」
「それは拡大解釈。微妙に私の意図を履き違えている」
二人の話を聞きながら、メイセイオペラは胸の中にもやもやが広がっていくのを感じた。
どうしてなのだろう。憧れのアブクマポーロと戦い、褒めてもらえたというのに。
なぜ、こうもやり切れない思いが浮かんでくるのだろう。
「ああ、そうか」
そこで、メイセイオペラは先ほどのアブクマポーロの言葉を思い出した。気にはしてもらえている。だが、それはあくまでも後輩としてのそれであり、自分を脅かすライバルとしてではない。そして、それはエヌジェイタイムを筆頭とした中央のダート巧者達も同じこと。
自らと肩を並べる存在はいないと、彼女は言っているのだ。
ぐっと涙を拭きながら、メイセイオペラはアブクマポーロを睨んだ。
「私、貴方に勝ちたいです」
「私に?」
「ええ。川崎、大井と二連敗している私がこんなこと言うなんておこがましいですけど。それでも勝ちたいって思います」
自らに強い眼差しを向けるメイセイオペラを前にしても、アブクマポーロは動じなかった。
「それが、貴方の夢?」
「ええ。夢の一つです」
「アリストテレス曰く、『希望とは目覚めている人間が見る夢である』。私が誰かの希望になれたのだとしたらこれほど嬉しいことはない」
メイセイオペラから強い感情をぶつけられても、アブクマポーロは変わらず微笑みを浮かべたままだった。
一体、なんなのだろう、この人は。
その余りの精神力の強さとちっぽけな自分を比較し、メイセイオペラは居ても立っても居られなかった。
「失礼します!」
それだけ言うと、乱暴に一礼し、足早にその場を去った。
「ウイニングライブの用意はどうした」
控室に戻ったきり、タオルで表情を隠したまま動かないメイセイオペラに、佐々原は堪らず声を掛けた。三位に入った今回は前回とは違い、バックダンサーとして後ろで踊らなければならない。負けたウマ娘にとってはこれ以上ない屈辱だろう。
「後十分だけください」
返って来る声が固い。悔しくてならないのだろう。川崎記念の時とは訳が違う。アブクマポーロにどこまで迫れるかの勝負を挑み、またも簡単に跳ね返されたのだ。
「アブクマ相手に十分戦えていたじゃないか。相手は現ダートの王者だぞ。二バ身とちょっと。上出来だ」
川崎記念の時の八バ身差からすれば、相当差は縮まってきている。だが、実際にレースを走った身からすれば決してそうは思えなかった。
前回とは異なる戦法をとったにも関わらず、中団に控えて直線で一気にまくるというアブクマポーロのいつもの戦法の前になす術もなかった。
「好位につけても、先頭に立っても、結局最後には直線でまくられる。一体どうしたらいいんですか……」
今日のバ場状態から最適だと判断した作戦。デビュー戦以来の逃げ切りは上手くいったかのように思われた。
だが、それはアブクマポーロの手の平の上だった。南関東は自らの庭だとばかりに知り尽くしている彼女にとって、今日のレース展開は読めていたのだろう。
その証拠が今日皆の度肝を抜いたぎりぎりのインコース攻めだ。コース幅の広い大井のレース場の特性を十分に生かし、最終の直線で必ず穴が開くと踏んで勝負を懸けたに違いない。
「強いです、あの人。本当に強い……」
川崎記念で戦った時は無我夢中で、己の努力の無さを恥じた。
ならばとテンコ―で体を作り、特訓に励み、岩手には敵がないと言われるようになった。
「それでもまだ足りない……」
かつて笠松の怪物と謳われたオグリキャップ。
彼女と戦ったライバル達もこうした思いを抱いていたのだろうか。
相手が規格外の怪物ということは分かっている。すぐに叶う相手ではないこともだ。
だが、彼女に後輩としてではなく、少しでもライバルとして意識して欲しかった。
「アブクマに勝つチャンスはあるぞ」
「え?」
メイセイオペラは驚いて顔を上げた。
「奴は交流重賞に出まくっている。担当の石川さんにははぐらかされたが、恐らく次に出るのは十月だ」
「十月って、佐々原さん……」
十月にあるダートのGⅠと言えば、一つしかない。
かつて、あのトウケイニセイがライブリマウントの前に敗れ、ホクトベガが砂の女王としての実力を見せつけた、盛岡で行われるマイルチャンピオンシップ南部杯。
「地元ならばこちらに一日の長がある。南関ばかり走っているアブクマポーロに一泡吹かせてやれる筈だ」
「佐々原さん!」
メイセイオペラは佐々原の両手を掴んだ。確かに佐々原の言う通りだ。地の利がこちらにあれば、哲学者アブクマポーロの読みにも微妙な狂いが生じることだろう。
「とにかく、一刻も早く水沢に戻ってトレーニングだ。いいな」
「分かりました。でも、せめてお土産は買わせてください」
先ほどまであれだけ凹んでいたのに気持ちの切り替えが早いメイセイオペラに、佐々原は以前とは違う頼もしさを感じた。