九月に入ると、めっきりと涼しさが増した。
風にたなびく稲穂の中で、汗だくになりながらメイセイオペラは悲鳴を上げていた。
「こぉら、オペ! もうちょっと働かんと飯はやれんよ!」
そう大声で呼びかけているのは、メイセイオペラの元同級生であるモーニングピコだ。実家の手伝いをすると言っていた彼女は、その力を買われ、今やこの辺り一帯の農家のお助けウマ娘として活躍していた。
「話が違うじゃない! ご飯をご馳走するって言っていたでしょうが!」
夏の間もトレーニングにレースにと忙しかったメイセイオペラは九月に入り遅い夏休みをとった。そんな時にかかってきた友人からの食事の誘いに、特にすることも無かった彼女は一も二もなく飛びついた。
指定された駅までトラックでやってきたモーニングピコに若干の違和感を抱きつつ、連れてこられたのは彼女の実家で、作業着を渡されるとすぐさま稲刈りを命じられたのである。
「ご馳走するとは言ったが、ただで、とは誰も言っとらんよ!」
かっかっかと大笑いするモーニングピコの態度に増々メイセイオペラは腹を立てる。
「何よ、その詭弁!」
ぶつくさと不満を口にしながら手を動かしていると、横合いから声を掛けられた。
「文句ばりへるんでね!」
「へ⁉」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには自分と同じように作業着姿のアンジェラザントが腰に手を当てて仁王立ちしていた。
「アンジェもピコに騙されたの?」
「人聞きの悪い。あんたが他人の話をちゃんと聞いていないからだろ!」
「大切なお米を作る作業だ。感謝してやるもんだ」
「そりゃ分かっているけどさあ」
「働がざる者食うべがらずだ。それとも」
ちらりと、アンジェラザントはメイセイオペラの方を向くとニヤリと笑った。
「今をとぎめぐあんだもこったごどは苦手なんだが?」
「何ですって!」
アンジェラザントからの挑発に、負けてなるかとメイセイオペラも気合を入れ直して鎌を握り直す。ウマ娘二人分の労力はすごい。瞬く間に刈り取られた稲が山のように積み上げられていった。
「いや~。助かったわ。斎藤さんちのトラクターが壊れちまってさ。うちのを貸しているんだわ。村田のおばあちゃんの分手伝っていたら、うちのとこまで手が回らなくてさ~」
夜。風呂上がりの二人の前に置かれたのはたくさんの握り飯とおかずの山。
「自分の所を最初にすればよかったじゃない」
「あちこち手伝いに行っているからさ。どうしても後回しになっちまうのさ。都会に出る人ばかりでここらでも大分年寄りが増えて来ていてね。お互い助け合いなんだよ」
「そうなんだね……」
頬張りかけた握り飯をメイセイオペラは座卓の上に置いた。
人もウマ娘も皆中央を目指している。きっとその流れは変えようがないのだろう。
「中央の連中は強がった」
しみじみと言うアンジェラザントに、メイセイオペラはどこかしら寂しさを感じた。
「よぐもあの化げ物みだいなアブクマポーロのやづど戦えだもんだ」
大井を主戦場にして走っているアンジェラザントは南関東のウマ娘達のレベルの高さを痛いほど分かっている。その中でもトップに位置し、中央の強豪達を蹴散らすアブクマポーロとメイセイオペラが戦っているなど信じられないことだった。
「まあ、でも納得だ。その身体、随分と鍛えだな」
「うん。負けたくないから」
はっきりと言いきったメイセイオペラに、二人は思わず顔を見合わせる。自分達が知っているメイセイオペラはこんなにも自分の希望をはっきりという子だっただろうか。
「そんじゃ、南部杯の日には何としても応援に行かないとね」
「ん」
「あ、アンジェも来てくれるんだ……」
「あんだ。何か問題があるが?」
「どうしてそうケンカ腰になるかね。少しは和解したんだろ?」
「何を馬鹿な。こいづには貸しがあるんだ。携帯用コンロのボンベ、借りパクされてよ」
「なっ⁉ あれは返さなくていいって、アンジェが言ったからじゃない!」
「普通はそれでも返すのが当たり前だべ?」
「うぐっ!」
「ああ~、分かるわ。オペの野郎はなんか妙な所で常識がないからなあ」
「ほれみろ」
「いや、ちょっとちょっと!」
笑い合う二人に対し、必死の弁明をメイセイオペラは試みる。
運命の南部杯まで、既に後一か月を過ぎていた。
夕闇の迫るレース場を眺めながら、佐々原は一人もの思いにふけっていた。
盛岡で行われるマイルチャンピオンシップ南部杯。岩手のウマ娘達を鍛えるべく創設された筈のこのレースは、近年中央勢の独壇場であり、地元ウマ娘達はその後塵を拝していた。岩手の魔王と謳われ、無敵を誇ったあのトウケイニセイですらも。
「ようやく来たな。ここまで」
打倒中央。その思いには嘘はない。だが本当は、マイルチャンピオンシップ南部杯での勝利こそ自らが望んでいたものかもしれない。あの時彼女が掴めなかったものを、代わりに掴んでくれる存在を探していたのではないか。
メイセイオペラの調子は悪くない。
帝王賞に敗れて以来、南部杯を目標に、地元のマーキュリーカップ、みちのく大賞典といずれも勝利している。まるで別なウマ娘だというのがもっぱらの評判だ。
彼女には声を掛けた。いい思い出のない場所だ。恐らくは来ないだろう。だが、叶うならば見て欲しかった。彼女の思いを受け継いだ者が中央の強豪を相手に堂々と戦う姿を。
恐らくメイセイオペラは調整室で、明日の決戦に向けてイメージを練っていることだろう。こうなっては自分にできることはない。
南部杯に照準を合わせて、地元開催のレースに出場を絞り、やれることはやった。
後は任せるだけだ。己の担当のウマ娘に。
メイセイオペラが談話室に入ると、いつも通り読書を嗜んでいたのであろうアブクマポーロに、見覚えのあるウマ娘が突っかかっていた。
「相変わらず表情のねえ野郎だ。だがよ、今回は負けないからな!」
「ん。分かった」
「余裕をかましやがって。中央がやられっぱなしだと思うなよ!」
そう吠えて出て行ったのは帝王賞で戦ったエヌジェイタイムだ。
「ソーリー。随分と彼女は興奮しているようだ、気にしないでくれ」
立ち上がった黒髪のウマ娘の顔にメイセイオペラは見覚えがあった。
「タイキシャーロックさん……」
昨年度の南部杯を制した中央のタイキシャーロック。ダート巧者である彼女も競争の激しい中央の世界の荒波に揉まれ、後輩であるリネアデバトラの台頭も伴ってその勝ち星は減りつつあった。そんな彼女にとって屈辱的だったのが、かしわ記念でのアブクマポーロに七バ身差をつけられての敗北である。ダート巧者として鳴らしていた彼女のプライドをアブクマポーロはまさに粉砕するかのような走りを見せ、居合わせた観客の度肝を抜いた。
「だが、私も気持ちは同じだ。アブクマポーロ。君に土をつけたい。そのためにここに来た」
「貴方は昨年の南部杯でレコード勝ちをしている。私より有利」
「かしわ記念で大差をつけた相手にそれを言うか? 明日が精々楽しみだ」
タイキシャーロックは怒りに顔を歪ませると、颯爽と黒髪をなびかせて談話室を後にした。
「彼女の方が走り慣れているのに」
「どういうことですか?」
「私はここが初めてだから。緊張もする」
「アブクマポーロさんが?」
絶対王者からの意外な一言にメイセイオペラは思わず反応する。
「トレーナーに東北に行くぞと言われて、てっきりテンコーにでも行くのかと思っていた」
「いや、そんなことある訳ないですよね!」
思わずツッコんでしまったメイセイオペラにアブクマポーロは困ったような笑みを浮かべた。
本当にそう思っていたの? でも、まさか。
これも彼女なりの心理戦術なのかもしれない。
ならば、自分は自分を貫くだけだ。
「貴方がどうであれ、私は一生懸命走るだけです」
川崎記念、帝王賞と敗れた。この盛岡でも敗れる訳にはいかない。
家族も友達も、そして多くの岩手のファンを失望させる訳にはいかない。
「失礼します」
メイセイオペラは一礼し談話室を出ると、すぐに床についた。
ここでは、この盛岡では相手が誰であろうと負けられない。滾る気持ちを抑え、今は一刻も早く眠りにつきたかった。
十月十日。
マイルチャンピオンシップ南部杯当日。その日はどんよりとした雲が広がり、九時ごろから雨が降り始めていた。
「今日は重バ場になるぞ。だとしたら好都合だ」
どういうことかと疑問の眼差しを向けるメイセイオペラに、佐々原は答えた。
「中央から来る連中もアブクマポーロも、雨上がりの盛岡を走ったことがない筈だ」
「それは……」
芝もダートも天候によるコース状態の変化はレースへの影響が大きい。だが、雨でタイムが伸びない芝のレースと違い、ダートは砂が適度に締まり、逆にタイムが良バ場の時よりも上がる。
「となると、やってみたいことがあります」
思いも寄らぬメイセイオペラからの提案に、佐々原は驚きで目を丸くする。
「だが、それは大井では通用しなかっただろう」
「大井とこの盛岡ではコースが違います」
帝王賞での敗北が余程悔しかったのだろう。故郷で行われるGⅠで、最強の名を欲しいままにしているあのアブクマポーロに一矢報いたいと彼女なりに考えてきたに違いない。
「分かった。好きに走ってみろ」
これまでレース展開を細かく指示することもあった佐々原だったが、この日はメイセイオペラに全てを任せることに決めた。
「俺から言えるのは一つ。ここ三年、この岩手の誇りである南部杯は、全て中央の連中にかっさらわれてきた。地元トレーナーとしてこれほど悔しいことはない」
ライブリマウント、ホクトベガ、タイキシャーロック。中央の砂の巧者達は皆、盛岡レース場の高低差をものともせずにその力を見せつけ、岩手のウマ娘達はその後塵を拝するばかりだった。
「だから、頼む」
佐々原はメイセイオペラの両肩を掴んだ。
「この岩手のウマ娘だってやれるんだってことをお前が示してやってくれ」
「佐々原さん……」
これまで聞いたことのないような佐々原の絞り出すような声に、メイセイオペラは己を掴む佐々原の両手をそっと包み込むように握った。
「任せてください」
そう気丈に言いながらも、汗ばんだその手が震えていることに佐々原は気づく。
相手はあのアブクマポーロ。そして、彼女を目当てに参戦をしてきた中央の強敵達だ。
そんな者達を相手に、緊張するなと言う方が無理だろう。
自らの思いを口走ってしまったのは失敗だったかと悔やんだ佐々原だったが、メイセイオペラは何を思ったか自らの両頬を張ると、大きな声で叫んだ。
「がんばっていきまーーっしょい!」
「……なんだ、そりゃ?」
怪訝な顔をする佐々原に、メイセイオペラは今日公開の映画の名前を答えた。
四国のボート部を舞台にしたその映画の予告編で流れていた掛け声が気に入り、思わず取り入れたのだという。
「いや、お前。そこは地元愛を見せてけっぱるべーーだろ」
佐々原の指摘に、それもそうかと頷いたメイセイオペラはポンと手を打つと、片手を挙げて再び叫んだ。
「けっぱっていきまーーっしょーい!」
「……」
ノリについていけない佐々原の脇腹をメイセイオペラは小突いた。
「佐々原さん! そこはしょい、です。しょい! では、もう一度……。けっぱっていきまーーっしょい!」
「……」
「どうして言わないんですか! ノリが悪いんですが!」
「知るか! もうすぐ出番なんだ。いつまでもふざけているんじゃねえ」
「ふざけてないんだけどなあ」
「いいから早くしろ」
「はいはい、分かりましたよ」
「メイセイオペラさん、準備よろしいですか?」
「あ、はい。ほら」
「よし、行きます」
そう言いながら控室を後にするメイセイオペラ。そんな彼女を見送りながら、佐々原は鳥肌が立つのを感じていた。一見普段通りに見える彼女。だが、その目にはこれまでとは段違いの気迫が込められていた。
「オペ~、けっぱれよ~!」
「アブクマ! 頼んだぞ!」
「タイキシャーロック! 昨年同様、今年も頼んだ!」
スタンドからの応援を背に受け、次々にゲート入りするウマ娘達の中で、なぜか出遅れたのはアブクマポーロ。急に立ち止まったかと思うと、左右を確認し何事かを呟いている。
(本当に初めてのコースで緊張しているの?)
頭の中で昨夜のアブクマポーロの言葉が反芻し、メイセイオペラは頭を振った。
今は他人のことを気にしている場合ではない。このコースで自分がどう勝つかだ。
そっと額のカチューシャに手を添える。きっと亡き祖父もどこかで見ていてくれるだろう。恥ずかしい戦いはできない。
『朝から生憎の雨模様となりました盛岡地方でしたが、今はどうやらその雨は上がっているようです。満員の観客が詰めかけましたOROパーク。統一GⅠマイルチャンピオンシップ南部杯、URAからの参戦五人、地元勢が五人、他地区からの参戦が二人。都合十二人のウマ娘によって争われます、この秋一番のハイライトであるダート戦千六百メートルです。一番人気は地元勢を押し退け、現在六連勝中のこのウマ娘、船橋のアブクマポーロ。二番人気、昨年の南部杯では強烈なレコード勝ちを収めましたURAのタイキシャーロック。三番人気、この二人に一歩譲ったとはいえ、地元の意地を見せられるか、地元岩手はメイセイオペラ。四番人気、リネアデバトラ、五番人気アカマスロング、セーヨーマリンにエヌジェイタイムと中央のダート巧者達は打倒アブクマ、そしてこの南部杯を制することができるのか。地元岩手のウマ娘達の健闘も期待しましょう』
ファンファーレが終わるや、スタンドからは拍手大歓声が巻き起こった。
ごくりと唾を呑み込み、メイセイオペラは、自分とアブクマポーロの立ち位置を確認する。
三番と内側に入ったメイセイオペラに対し、アブクマポーロは大外の十二番。そして、雨で締まったコースでの勝負。
大井の二番煎じではない。脳裏にあったのは、そう。あの日の彼女の走り。
『横一線、スタートしました。きれいな飛び出しです。先行争いですが、誰が先手をとるんでしょうか。一体どのウマ娘がハナをきり、ペースを握るんでしょうか。あっと、ここで内から出てきました。三番のメイセイオペラ!』
スタートダッシュを決めたメイセイオペラは最内インコースへと移動し、そのまま先頭をキープする。これまでのメイセイオペラと言えば、好位につけて直線で突き放す戦いが多く、スタンドからはどよめきの声が上がった。
「おいおい、本当に大丈夫なのかよ。あのアブクマポーロ相手に逃げを打つなんて」
「そりゃこの間の帝王賞で駄目だった作戦じゃねえか! いきなりがっかりさせんなよ、佐々原!」
だが、それとは対照的だったのが、このコースを走り込んできた地元のウマ娘達だ。
「このOROパークの直線は約九百メートル。逃げ先行有利と言われるダートのレース場でもこのOROパークはその高低差もあり、差しを得意とするウマ娘も活躍してきました」
突然説明口調になったミチノクシャーリーに、高橋は怪訝な顔をする。
「どうしたの、急に」
「ですがこの近年、同じ南部杯を逃げて勝ったウマ娘を私達は知っています」
忘れもしない。この岩手で魔王と言われたあのトウケイニセイを破ったライブリマウント。その彼女を一蹴し、盛岡へとやってきたあのウマ娘。
「砂の女王、ホクトベガ……」
「そう、同じです。あの日の砂の女王と……」
横合いから競りかけて来るアカマスロングに怯まず、メイセイオペラは先頭をひた走る。
「やはり逃げるか……」
事前に作戦を聴いていた佐々原は腕組みをする。確かに南部杯は千六百メートル。中距離を得意としているアブクマポーロの適正距離よりは短い。相手のペースに合わせてこれまでと同じように好位から仕掛ける正攻法で挑んでも、あの強烈な差し脚の前に屈するだけだろう。
だとしたら。
「思い切っていきます」
敗れたとはいえ東京大賞典での敗北は良い経験になった。あの時も同じく雨の不良バ場で逃げた結果、これまでより差は縮まった。
「さらに、今日の枠番号、私は三番、アブクマポーロさんは十二番です」
インを奪い、最短コースで走り、反対にアブクマポーロに外側を回らせられれば、さしものアブクマポーロの豪脚とてその切れ味が鈍る筈だ。
「よし、行ってみろ」
南部杯でアブクマポーロに勝つには先行し逃げ切るしかない。普段通りのレース展開では勝てないと踏んだメイセイオペラと佐々原が選んだのはスピード勝負だった。
『先頭メイセイオペラ、二番手につけましたアカマスロング、外につけましたのは岩手のゲッポウルクス、さらに四番手には昨年の南部杯覇者であるタイキシャーロックは一バ身差。インコースじわじわと詰めて来るのは、リネアデバトラ。アブクマポーロは中団よりもちょっと後ろといったところです!』
川崎記念、東京大賞典とアブクマポーロの強烈なインコース強襲の豪脚の前に屈した中央勢は内内と寄り、アブクマポーロに外を回らせようとする。一方、メイセイオペラはそうした動きを物ともせずに、最内を先頭で駆ける。
「うわああああ!」
あの日の光景が脳裏に蘇る。スタンドにはトウケイニセイとライブリマウントの対決以来の人の波。鵜の目鷹の目でやってきた地方岩手のファンに有無を言わせずその実力を見せつけた砂の女王。この盛岡の地で光り輝いた、一等星。
目の前にぼんやりと映るのはあの日のホクトベガの姿。影をも踏ませぬ力強さで、皆を圧倒したその走り。
彼女ができたのならば、自分にできない筈がない。
(地方も中央も関係ない。同じウマ娘なんだ!)
三コーナーから四コーナーに入っても先頭でペースを握るメイセイオペラに中央勢が焦れる。
「逃がさない」
インコースを上がって来るリネアデバトラに、
「SHIT! 冗談じゃない!」
こちらも昨年度の覇者としての意地を剥き出しにして、タイキシャーロックが追い込みをかける。一方、二番手につけていたアカマスロングはそれについていくことができない。
「まだだ! まだ油断するな!」
スタンドから佐々原は枯れんばかりの大声で叫んだ。
ここまでの展開は似ている。この間の東京大賞典の時のようだ。四コーナーを抜けて直線に入るまでメイセイオペラは先頭だった。それが結果的に三位に終わったのは鬼のような末脚を見せたアブクマポーロの気迫にメイセイオペラが怯んだからだ。
『アブクマポーロどうした、アブクマポーロはどうした! アブクマポーロは五番目だ!』
いつもはあっという間に迫って来る足音がメイセイオペラには今日はやけに遠くに聞こえた。中央勢の外を回らせる作戦の前に直線に入るのが遅れたのだろうか。
いや。油断は禁物だ。既に自分は二度味わっている。
普段通りに走っていた所に、あの規格外の末脚を。
絶対にギアを上げて来るはずだ。上げてこない筈がない。
追いつかれないように、とにかく少しでも前に出る。
ここが踏ん張りどころだ。
早鐘のようになる心臓に鞭打ちながら、メイセイオペラは耐える。直線残り二百メートル。逃げ先行の脚が鈍る地点。だが、逆を言えば、それは強烈な差し脚をもつウマ娘にも同じことが言える筈だ。
(テンコーの坂路トレーニングで鍛えた足腰とスタミナを今こそ見せる時!)
ここでは。
この岩手では。
もう誰にも負けたくない!
瞬間、スタンドにいた佐々原は確かに見た。
星に導かれるようにコースに煌めいた一筋の白い流星を。
「やああああああ!」
ピッチを上げるメイセイオペラに、
「そうはさせない!」
外からやって来るタイキシャーロックは並びかけようとするが、その差は縮まらない。
(動け動け動け動け動け動け!)
『引き離しにかかった三番のメイセイオペラ! メイセイオペラ先頭! 何と岩手の雄、メイセイオペラが先頭だ! アブクマポーロ、外から猛然と上がって来る! アブクマポーロ上がって来る!』
リネアデバトラ、タイキシャーロックとは異なる足音に、メイセイオペラは彼女が近づいたのを悟るが、その顔に焦りはない。
船橋の帝王、アブクマポーロ。この盛岡でも、直線で彼女はその豪脚の冴えを見せんとしたことだろう。
だが、この盛岡でのレースが初めてという彼女は知らない。彼女の得意とする大井レース場よりこの盛岡の直線が短く、また距離の短いマイル戦では、差し切りには早めの判断が必要で、いつも通りの仕掛けでは遅いのだということを。
追いすがるリネアデバトラとタイキシャーロックに、外から地響きを立てて迫る青白い影。三人の勢いに負けまいとメイセイオペラは必死になって腕を振り、足を動かす。
(あと少し。あと少し。どんなに苦しくても下を向くな。前を向いて走れ!)
猛然とゴール板を駆け抜けたメイセイオペラはそのままの勢いで、第一コーナーを曲がりかけると、ゆっくりとスピードを緩め、大歓声の中、ようやく我に返った。
荒い息を整え、ゆっくりと電光掲示板を見れば、その頂点で点滅しているのは己の番号だ。
『メイセイオペラ一着! 地元岩手のメイセイオぺラが一着! 注目のアブクマポーロは三着に沈みました!』
勝てた。
そう実感した途端、自然と頬を涙がつたった。
「やりやがったあいつ……」
佐々原は握った拳を突き上げた。
相手はあのアブクマポーロに、昨年の覇者タイキシャーロックだ。どう考えても暴走で、一歩間違えばとんでもない大敗を喫していたかもしれない。
「強くなりやがった」
計時された一分三十五秒一は昨年タイキシャーロックが出したタイムを一秒近く縮める文句なしのレコードタイムだ。
砂の女王を彷彿とさせる走りをしながら、その記録を抜くとは、いかに不良バ場で好タイムになりやすいとはいえ、これまでの彼女の成長の賜物だろう。
テンコーでのトレーニングが無ければ、最後の直線で粘ることはできず、川崎と大井の二敗が無ければ、アブクマポーロの仕掛けのタイミングを読むことができなかった筈だ。
「こいつはさすがに褒めなきゃな」
勝って兜の緒を締めよを実践する自分だが、さすがに今日だけはそれは脇に置いておく必要がありそうだ。
あの日、自分達が忘れて来たものをメイセイオペラが取り戻してくれた。
唇を噛み締めながら勝利の余韻に浸り、とにかく気持ちを落ち着けるために飲み物でも買おうと佐々原が席を立つと、懐に入れていた携帯が鳴った。
スタンドから送られる拍手に応えながら、その中に一生懸命に手を振る明美やモーニングピコ達の姿を見つけ、メイセイオペラは手を振り返す。
「計算違い」
敗れたというのにアブクマポーロは淡々としていた。自らが出走したレースの課題を見つけ、それをいかに克服するかということに重きを置くという彼女らしい態度だった。
「七連勝ならなかったなあ」
自分が負けたのもよそにおき、エヌジェイタイムは嬉しそうにアブクマポーロの肩を叩いた。
「勝ったのはあなたじゃない」
アブクマポーロが右手を差し出す。
「おめでとう」
その言葉には心からの祝福が込められていた。地方ウマ娘にとって地元開催がいかに価値のあるものなのか分かっているのだろう。
「あ、ありがとうございます」
慌ててその手を握り返しながら、メイセイオペラは改めて偉大なる好敵手に視線を合わせた。
いつも茫洋として掴みどころのないその青い瞳。だが、今、彼女の目は確実に自分を捉えている。そのことに無常の喜びを感じながら、再戦を約束する。
「うん。今度は負けない」
勝ち越している王者からの発言に、メイセイオペラは気を引き締める。既に次の勝負は始まっているのだ。
アブクマポーロと別れたメイセイオペラは佐々原の姿を求めて視線を漂わせた。
スタンドのどこかにいるのかと思ったのだが、トイレにでも行っているのか姿が見えない。
あれほど南部杯に拘っていたのというのに、肝心な時に姿が見えないのはどういうことなのか。
「オペ!」
ウイニングライブに出る準備をするため、地下道を通って控室の前に戻ってくると、そこに佐々原はようやく姿を見せた。
「佐々原さん!」
喜びの余り抱き着こうとしたメイセイオペラを、佐々原はまあまあと押し止める。
「よくやったな。まさか、あのアブクマに勝てるとは思わなかった」
地の利がこちらにあり、アブクマポーロが盛岡でのレースが始めてということを差し引いても、この勝利は次につながるものだ。
「後は年末の東京大賞典で星を五分に戻したいものだが。まあ、とりあえずこれを見ろ」
なんだろう。そう思ったメイセイオペラに佐々原は携帯を差し出した。
『おめでとうございます』
短い言葉で書かれていた一通のメール。
その差出人を見て、メイセイオペラは目を見開いた。
トウケイニセイ。
かつて、その強さから魔王と謳われ、マイルチャンピオンシップ南部杯の初代優勝者になると期待されながらも、当時日の出の勢いだった中央のダート王ライブリマウントの前に敗れたウマ娘。
「観に来ないかと誘ってはみたんだが……。まあ、ご覧の通りだ」
遠い目をしながら、佐々原は頬を掻いた。彼自身、来ることを期待してはいなかったのだろう。ただ、気になって仕方がなかったに違いない。かつての教え子が今何をしているか。
「素っ気ないメールを送りやがって。もう少し後輩の勝利を喜べと返信しておくか?」
「いえ、必要ありません」
メイセイオペラはじっと携帯の画面を見ながら、佐々原がスカウトしに来た日のことを思い出していた。
ウマ娘にとって不治の病と呼ばれる屈腱炎にかかりながらも、不屈の闘志で戦い続けたトウケイニセイ。彼女の血と汗と涙が染みついたサポーターを見せられたからこそ、自分は水沢に行こうと決めたのだ。この岩手で闘い続けた彼女のようになりたいと。
「これで十分です……」
目頭が熱くなるのを感じ、メイセイオペラは目を閉じた。
なんともったいない言葉だろう。
メールをくれた彼女こそは、岩手の誇りたるウマ娘なのだ。
中央の二軍と虐げられ、地方の中でも弱いとされてきたこの岩手を、脚に不安を抱えながらもその走りで守り抜いた岩手の英雄なのだ。
その彼女が、今自分に礼を述べている。
「トウケイニセイさんたちがいたからこそ、私は頑張ってこられたんです」
メイセイオペラは携帯を握りしめたまま声を震わせた。
本心からだった。
中央へと戦いの場を求め活躍したユキノビジン。
故郷岩手を中心にその強さで人々を魅了したトウケイニセイ。
いや、遡れば彼女達だけではない。
トウケイフリートは岩手出身として主要重賞を勝ちまくり、岩手のウマ娘は弱いという流れを変え。
スイフトセイダイはダービーグランプリを初めて勝利して岩手の誇りを守り、中央への転籍をせずに岩手の看板娘としてあり続けた。
この岩手で育ち、戦い続けて来た多くのウマ娘達がいたからこそ、自分は今ここにいるのだ。
願わくば、自らも彼女達と同じように故郷のウマ娘にファンに夢を与えたいと。
「泣いている場合じゃないぞ」
こつんと、佐々原はメイセイオペラの額を叩いた。ウイニングライブの時間が迫っている。泣き顔など見せては、せっかく応援に来てくれたファンは興覚めだろう。それに、彼女はそんなことは喜ばない。
「あいつからすりゃまだまだだってことなんだろうさ、このメールは」
自分に厳しかったトウケイニセイは四十三戦して三十九勝。連対を外したのはただの一度しかない。それほどの実績を誇る彼女だ。南部杯の勝ちで驕るなと言いたいのかもしれない。
「だから、見せてやろうじゃないか。これ以上の景色を」
年末の東京大賞典、年始の川崎記念。トウケイニセイが出られなかったレースで勝てば、きっと届く筈だ。北の大地にいる彼女の耳にも。