東北ダービーを制し、岩手にメイセイありとの評判が徐々に高まっていた。
あれはどうだこれはどうかという周囲の喧騒をよそに、かねてからの目標を達成したばかりである佐々原とメイセイオペラは着々とその歩みを進めていた。
七月二十七日、岩手の不来方城から名付けられ、岩手のダービーと言われる伝統の重賞不来方賞に出走したメイセイオペラは、二位に何と八バ身差をつけ圧勝。その余勢を駆って出た八月のクラシック級との混合オープンレースでも、三番手の好位置につけ、直線で刺すという東北ダービーで身に付けた走りを活かし、遂にその連勝は九に達することとなった。
次走をどこにするか。一週間悩んだ佐々原だったが、ここで大きな決断を下す。
「次はユニコーンステークスに出るぞ」
「え……」
目を見開き、メイセイオペラは佐々原の方を見返した。
GⅢユニコーンステークス。十月初旬に東京レース場で行われるそれは、紛れもなく中央のダートレースで、地方・中央とその区別なく腕に覚えのあるダート巧者が集まるダートの檜舞台の一つだった。特にダートレースの少ない中央トレセンのウマ娘はここを目標にする者も多く、出場するウマ娘のレベルが高い一因ともなっている。
「本気だ。今のお前のレベルならいい戦いができると判断した」
東北ダービーの勝利後も黙々とトレーニングに精を出し、メイセイオペラは着実にその力をつけてきている。念願だった中央への挑戦を口にしてもいい筈だ。
佐々原としては十分いけるとの判断だったが、微妙に自己評価の低いメイセイオペラはそうは思わなかった。
「早くないですか? いや、早いと思います!」
わたわたと手を左右に振ったり、バツ印を作ったりと抗議をする。
「何もいきなり勝てと言っている訳じゃない」
こつんとメイセイオペラの額を佐々原は叩いた。
「中央の連中のレベル、南関東の連中のレベルにどこまでお前がついていけるかを知りたい」
東北ダービーの勝利でそこそこ名が売れはしたが、中央や南関東には同じレベルの者がごろごろいる。彼女達を相手にどこまで戦えるのか。実際に走ってみるしかない。それはこの岩手では叶わないことだ。
「ようは現状把握って奴だな。じたばたしてないで諦めろ」
「そう言われても~」
一年前に比べ格段に強くなっているのにも関わらず、相も変わらず自分に自信が持てないメイセイオペラに佐々原は大きなため息をついた。
室内にキーボードを叩く音が響いた。
ユニコーンステークス挑戦を掲げてからすでに一週間が経過している。普段よりきつめのトレーニングを文句も言わずにこなすメイセイオペラに触発され、佐々原も連日トレーナー室で夜遅くまで残業する日々が続いていた。
既に時刻は深夜十二時を回り、同僚たちはとっくに帰宅している。居残りを決めた佐々原は眠い目をこすりながら、ユニコーンステークスへ向けてのトレーニングメニューを作成し、ライバルとして出走予定のウマ娘達の情報に目を通した。
「やはりこいつが本命だな」
出走ウマ娘の一覧に載る、栗色の髪の大柄なウマ娘に佐々原は二重丸をつけた。
タイキシャトル。海外出身のウマ娘である彼女は、その恵まれた体格を活かした力強い走りで芝・ダートを問わず好走を続け、デビュー以来勝ち星を積み上げてきている。何よりトレーナーがあの皇帝シンボリルドルフのトレーナーとして名高い岡である。
「そして、こいつか」
続いて佐々原が丸をつけたのは同じく中央で活躍する海外出身のウマ娘、リンカーンスクエアである。彼女もまた芝とダートを行ったり来たりしていたが、タイキシャトルほどの戦績ではない。だが、NHK マイルを走った実力に違いはなく、型にはまった時の勝負強さには定評があった。
「しかし、これはすごいな……」
自ら参戦を口にしたとは言え、出走予定表を見て、佐々原は目を疑った。
海外出身の二人を中心に東西のダート巧者が並ぶ中、地方ウマ娘は南関東から参戦する二人を除くと後はメイセイオペラしかいない。
これが中央の高さかと実感せざるを得ない壁を見せつけられたようだ。
「だが、あいつだったら勝てるさ」
そう誰もいない空間に佐々原が独り言ちした時だった。
ソファに置いておいた携帯が派手に振動し、床に落ちた。
時刻は午前三時。こんな夜中に一体何の用だと佐々原が携帯を耳に当てると、電話口からは酷く焦った声が聞こえてきた。
「佐々原トレーナーでよろしいですか⁉ 今どちらにいますか。大変です!」
名乗らず一気呵成にそうまくし立てる相手の声が普段の様子と一致せず、佐々原は何が起きたのかと身を固くした。
「ミチノクシャーリーか? 今トレーナー室にいる。どうした、何があった」
努めて冷静を装って話を聞き出そうとしていた佐々原だったが、続くミチノクシャーリーの、
「メイセイオペラが」
の一言を聞いただけで、すぐにトレーナー室を飛び出し寮へと急いだ。
「もしもし。おいっ、聞こえるか! くそっ!」
走りながら、携帯で事情を聴こうとするも、電波の状態が悪く途切れ途切れで何を言っているのかよく分からない。
とにかくメイセイオペラに何かあったのは確かだ。
自分は亡き彼女の祖父である義正と約束したではないか。しっかりと面倒を見、中央相手に闘えるこの岩手のスターにすると。
まだその道の半ば、いや、走り始めたばかりではないか。
こんな理不尽があって言い訳がない。
運命の女神に呪詛を吐きながら、寮に辿り着いた佐々原が見たのは、血塗れになって倒れているメイセイオペラの姿だった。
「下の階の者が苦情を言いに来まして。メイセイオペラの部屋から大きな物音がしたかと思うと何かが倒れる音がしたと。てっきり何かイライラすることがあり、物にでも当たったのかと注意をしに行ったのですが……」
「右目の上、瞼の辺りを強く打っています。ことによると、骨を折っているかもしれません」
ミチノクシャーリーが呼んだのであろう救急隊員の話を聞きながら、佐々原は目の前で応急処置を受けるメイセイオペラに目を走らせた。
右目の上が酷く腫れ、鼻からはどす黒い血が流れていた。一体何が起きたのか。誰かにやられたとでも言うのか。混乱する周囲にメイセイオペラはたどたどしい言葉遣いながらも状況を説明する。
二段式ベッドの下に寝ているメイセイオペラは時々その柵の間に顔を挟んで寝てしまうことがあった。これまではそうした時でも軽く後頭部を打つだけだったが、今日は運悪く仰向けに寝てしまったのだという、その結果、深夜物音に驚いたメイセイオペラは勢いよく飛び起き、柵にしたたかに右目をぶつけてしまった。
「だぁら、わだしがわるくて……」
「もういい、しゃべるな!」
痛みに耐えながらも自分が悪かったと謝るメイセイオペラを毛布でくるみ、佐々原は担架に載せた。平凡な顔立ちなどと揶揄することはあったが、祖父母から愛された可愛らしい顔立ちが酷く歪み、震えていた。佐々原はしきりに手を握りながら、その肩に手をやると、救急車に一緒に乗り込んだ。
急ぎ駆け付けた明美を励まし、佐々原は共に医師の説明を受けた。
「右眼窩底骨折、ですか……」
ショックで呆然とする明美に代わって佐々原はメイセイオペラの今後について尋ねる。
「視力は戻るんですか? 日常生活に支障がありはしませんか?」
「こればかりは分かりません。二週間ほど様子を見て、症状が改善しないようなら手術ということになります。手術なしの場合回復期間はおよそ一か月から半年といったところでしょう」
レースはできるようになるのか。
喉まで出かかった言葉を佐々原は必死に呑み込んだ。
気になって気になって仕方がないが、今それを口にするのは人として終わっている。
「何でこんなことばかり……」
沈痛な面持ちで明美が呟いた。
彼女からすれば、昨年夫を亡くし、今また大切な孫娘が大怪我を負ったとあってはつい愚痴の一つも言いたくなるだろう。
「とにかく視力に影響がないことを祈りましょう」
佐々原は言いながら、初の中央挑戦の夢が潰えたことを理解した。
大怪我を負ったメイセイオペラには数日にわたって入念に瞳孔反射や視力確認がなされた。眼過底骨折の場合、物が二重に見えたり、視力が極端に低下したりとその後遺症が懸念される。その上、十日経っても鼻血が止まらず、佐々原を不安にさせた。当の本人がショックを受ける周りを気遣ってか、
「私血の気が多いからかな」
などと冗談を飛ばすのが返って痛々しく、見舞いに来ていた明美や彼女の両親は表情を曇らせた。
「やっぱりここでしたか」
佐々原はやってきた柴田の顔を見るなり帰り支度を始めた。
「そんな露骨に嫌がらなくってもいいでしょう? 佐々原さんの愚痴でも聞こうかなって来たんですから」
柴田は手に持った缶コーヒーを掲げてみせる。
「いらねえよ。俺はブラック派だ」
橋の欄干に置いた缶を指差し、佐々原は煙草に火をつけた。
「最近止めていたみたいなのに。いいんですか」
「うるせえ。吸いたくなる時があるんだ。そういう時は我慢しないようにしている」
佐々原の隣に陣取ると、柴田は同じように煙草を咥える。
「何だ、お前。吸うようになったのか」
「ええ、最近。吸いたくなる時があるもんでね」
自分の発言をあてこする後輩に、佐々原は無言で肘打ちを食らわせた。
「でもよかったですね、メイセイオペラ。後遺症もないみたいで」
「まあな」
「なんか、あんまり嬉しそうじゃないですね」
病院での精密検査の結果異常なしとなったメイセイオペラは、その後ウマ娘としての驚くべき回復力を見せ、半月ほどで退院ができることとなった。本来喜ぶべきことだが、佐々原の胸中は複雑だった。
「あいつの、メイセイオペラの今後を考えたらどうしようかと思ってさ。今の時点で後遺症が見られなくても、目の怪我だ。いつ出て来るとも限らない。そんな奴にレースを走らせるのは酷だ」
既に祖母の明美とも話をしている。確かにウマ娘にとってレースに出て活躍するのは一番の花形の仕事と言える。だが、別な道を歩んだからといってそれは自然なことだ。事実、レースの世界に入らず別な仕事に就き、活躍する者もいる。ようは本人の気の持ちよう次第だ。
「それ、彼女に確認したんですか?」
「聞くまでもない。いくらウマ娘として能力が超人的と言ったって、あいつの心の中はその辺の女子高生と変わらない。決断させるのは酷だ」
「それはただの過保護ですよ!」
柴田が声を荒げた。
「その辺の高校生だって、自分の人生は自分で決められます。大切なのは彼女がどうしたいかじゃないですか。それを支えるのがトレーナーでしょう?」
「知った風な口を叩くな」
トレーナー歴が五年にも満たない柴田には分かるまい。これまでも同じような決断を下さざるを得なかった自分の気持ちなど。夢に挫折し、項垂れるウマ娘達。彼女達の可能性を引き出してやれなかったと悔やむトレーナー。大舞台で観客の賞賛を一身に浴びるウマ娘の影で、どれだけ多くのウマ娘が涙を呑んできたことか。
「見舞いの時間だ。先に行く」
引き留めようとする柴田を佐々原は足早に振り切った。
速足で歩きながら舌打ちを繰り返す佐々原を皆が避けて通っていた。
何に対して苛立っているのか分からない。
立て続けにトラブルに見舞われるメイセイオペラの不運。
柴田のこちらの気持ちを見透かしたかのような発言。
ユニコーンステークスに出られなかった無念。
様々な要因が頭を掠めては消える。
面会時間ぎりぎりに来た佐々原に対し、病院の受付係は顔を顰めたが、その表情から何かを察し、お早めにとだけ告げて名札を手渡した。
人気のない病棟の中を歩きながら、佐々原は何と声を掛けようかそればかりを考えていた。これまで頑張って来た彼女からすればレースから離れることは考えられないだろう。だが、レースを続けて取り返しのつかないことになったらどうするのか。孫娘をよろしくと頼まれた彼女の祖父にも顔向けができない。
「俺らしくもないな……」
ようやく辿り着いた病室の前で逡巡する佐々原を見て、通りがかった看護師が怪訝な顔をする。
「あ、いや。別に俺は怪しいもんじゃ」
必至に否定する佐々原に、看護師は吹き出した。
「知っています。佐々原さんでしょう? オペちゃんのトレーナーの。オペちゃん、検査が終わって今リハビリ室にいますよ。こちらです」
ぎしぎしと中から激しい音が聞こえていた。
リハビリ室と言われた時にイメージするものとは真逆の騒々しさだ。
一体何事かと思うよりも早く、案内してくれた看護師が中にすっ飛んで行った。
「ちょっと、オペちゃん! じっとしていないと駄目だって言われたでしょう!」
「で、でも。これぐらいしないと筋力が……」
「貴方のトレーナーさんが来てくれたの! さ、汗を拭いて部屋に戻りましょう!」
「佐々原さんが?」
リハビリ室から出て来たメイセイオペラは病院着の上にジャージを羽織り、その手にはバーベルが握られていた。
「何やってんだ、お前」
「何って、トレーニングですよ、トレーニング。ここの所寝てばかりで筋力が落ちちゃって……」
「ここはリハビリ室で、トレーニングする所じゃありません! 何度言ったら分かるの!」
(何度も言われているのかよ……)
目の前で看護師とバーベルの奪い合いをするメイセイオペラの姿に、なぜか佐々原は目頭が熱くなった。担当トレーナーの自分が今後のことを考えて引退させようと考えているというのに、当の本人はレースに復帰しようと努力を続けている。
「お前、復帰したいのか」
「当然ですよ」
間髪入れずの返答に、佐々原は目を細めた。
「佐々原さんが言ってくれたんじゃないですか。地方にいたままでもウマ娘は夢を見られるって。私はそれが本当なのか確かめたいんです」
「不安はないのかよ」
佐々原の目にメイセイオペラの右目に巻かれた包帯が痛々しく映る。奇跡的に回復しているとはいえ、ここまでの怪我を負ったウマ娘がレースに復帰するなど聞いたことがない。
「ないと言えば嘘になりますけど」
あははと自らの右目をそっと触りながら、メイセイオペラは迷いなく答えた。
「それでもやってみたいんです」
どうしてそこまでやりたがるのか。
目の怪我は一生だ。無理をすれば一生後遺症が残るというのに。
「後悔するかもしれないぞ」
何とか翻意させなければという思いに駆られる佐々原に対し、きっぱりと彼女は言い切った。
「やらないで後悔するよりも、やって後悔する方がいいじゃないですか」
確かにそうかもしれない。失敗は成長の糧と人は言う。だが、しなくてもいい失敗はする必要がない筈だ。若者が無謀にも失敗しそうになるのなら、それを引き留めるのが人生の先輩たる大人の責任だろう。
そう思い、メイセイオペラに苦言を呈そうとした佐々原は、即座に思い返す。
(決めるのは俺じゃないんだ)
失敗しない人生を歩むのと、失敗しながらも人生を歩むのと。どちらが本人のためになったかは他人が決めることではなく、彼女自身が残りの生涯で考えることだ。
亡き彼女の祖父義正が言っていたではないか。
『人生の上での重要な選択は他人任せにするべきではない』と。
ゆえに、この決断は、彼女、メイセイオペラ自身が考え抜いて決めることだ。
彼女がそう決断をしたと言うのならば、担当トレーナーとして自分がすることは一つしかない。
にっこりと微笑むメイセイオペラの顔は、佐々原にとってこれまで見た中で一番輝いて見えた。
「何カッコつけてんだ、お前」
くるりと後ろを向きながら、佐々原はいつも通りに返した。
「バーベル持ちながら言う台詞じゃないぞ」
「~!」
顔を真っ赤にしながら、メイセイオペラはバーベルを振り回す。
「ちょっと、オペちゃん! 落ち着いて!」
看護師が慌てて制止する声が静かな病棟に響いた。
怪我をしてから半月が経ち、退院したメイセイオペラは驚異的な回復を見せた。
医師のアドバイスを受けながら、一週間ほど軽く汗を流す程度のトレーニングに徹した後、様子を見ながら徐々にトレーニングを重くしていこうという話になった。
「どうだ、走ってみて。異常はないか」
コースに出て、軽く一周体を慣らした後での全力疾走。久しぶりの本格的なトレーニングだが、メイセイオペラの息は切れていない。
「以前と変わりありません」
確かに傍目で見ていても、怪我する前とそれほど違いが無いように思える。
この様子ならイケるかもしれない。
そう判断した佐々原は練習終わりに、メイセイオペラにダービーグランプリへの出走を目指すと告げた。
ダービーグランプリ。十一月の初めに行われる岩手最大のレースの一つ。中央・地方のクラシック級の精鋭たちが集う統一GⅠであり、クラシック級のダート日本一を決める舞台だ。
「レースまで一か月もない。だが、ダービーグランプリは出る価値がある」
怪我によるアクシデントで惜しくもユニコーンステークスの出走は叶わなかった。メイセイオペラの現在地を確かめるためにもダービーグランプリでの腕試しは是が非でも行いたい。
「問題は怪我の回復の程度だが……」
現在メイセイオペラの右目には包帯は巻かれていないものの、その目は半分塞がっている。これが脚の怪我ならばこれまでの経験である程度判断できるが、前代未聞の事態であり本番までにどこまで腫れがひくのか皆目見当がつかなかった。
「佐々ちゃん、無理だよ。いくらあの子がやりたいからって」
ダービーグランプリ挑戦を表明した翌日、佐々原は朝一番に高橋から説教を受けた。
「まだ高校生ぐらいのあの子に冷静な判断ができる訳ないじゃないか! 少しは担当トレーナーとして考えたらどうなんだい」
どこかで聞いた台詞に、視界の隅で柴田が笑い転げているのが見えた。
「オペのご家族とも相談した上での決定だ。一生に一回の貴重な機会。やりたいようにやらせてくれってさ」
メイセイオペラが怪我をした際は引退させるかどうかと悩んだ家族だったが、彼女の意志が固いとみるや、とことん応援していこうという気になったらしい。電話口でくれぐれも孫をよろしくと明美に頼まれ、恐縮した佐々原だった。
「だからって、あんた。無理だよ、あの目じゃ」
高橋の言わんとすることは分かる。メイセイオペラの右目は腫れあがった瞼で隠れ、半分見えない状態だ。万全とは程遠い。
「本人がそれでもやると言っているんだ。トレーナーだったら支えるしかないだろ」
ぶーっと、柴田が呑んでいたお茶を前の席の高橋に吹きかけた。
「わっ! ちょ、ちょっと。柴っちゃん。何やってんのよ!」
「す、すいません。すいません」
激昂する高橋に襟首を掴まれる柴田を脇目に、佐々原はそっとトレーナー室を出て行った。
『朝方にかけて五度以下の気温が続き、冬の訪れを感じさせます、盛岡レース場。その後ぐんぐんと気温は上がりましたが、まだ肌寒さは感じます。しかし、スタンドに詰めかけたファンの皆さんにとってはその寒さも気にならないことでしょう。十月のユニコーンステークスに出走を表明しながらも右目を骨折。一時は引退も囁かれました、メイセイオペラ。中央・地方の強豪を迎えての堂々の二番人気です』
控室を出たメイセイオペラはそっとその右目に触れた。腫れは大分引いたがそれでも未だに触ると痛い。だが、レースに出る以上そんなことは言っていられない。
「どうして出るのです」
顔を上げると、そこにいたのはミチノクシャーリーだ。彼女もまた、このレースに岩手代表として出場していた。
「中央と地方の選りすぐりのウマ娘が出て来る檜舞台。出場したい気持ちは分かります。でもだからこそ、辞退すべきだったのでは?」
「どうしても腕試しをしたくて……」
ダービーグランプリは元々岩手のウマ娘の強化を目的として創設された。メイセイオペラの考え方は間違っていない。だが、それはダービーグランプリの歴史を知るミチノクシャーリーにとっては看過できないものだった。
「貴方も知っている筈です。ダービーグランプリを勝つために我々がどれだけ苦労したか」
岩手のウマ娘をレベルアップさせるために中央・地方の強豪を呼び込むために設けられた目玉レース、ダービーグランプリ。開催にあたっては、当初NAUの中にはたくさんの予算を掛けながら、地元のウマ娘が勝てなかったらどうするのかという声も聞かれ、事実それは現実となった。
初開催から三年連続一着は全て南関東大井のウマ娘に奪われ、地元勢は惨敗。
そんな中、第四回にしてその流れを初めて止めたのが、岩手の誇る看板娘として、グレートホープと共に岩手のウマ娘界を盛り上げたスイフトセイダイである。
「彼女がいなければ、私達の屈辱の歴史は続いていたかもしれません」
岩手の英雄と呼ばれ、南関東の白百合と呼ばれた川崎のロジータとも東京大賞典で激闘を繰り広げたスイフトセイダイ。
ダービーグランプリとはそんな彼女が出場し、岩手の誇りを守り抜いた伝統のレースなのだ。
体調が万全でない者は、勝負の舞台に上がるべきではない。真剣勝負をする者にとってそれは迷惑以外の何物でもない。
メイセイオペラはぐっと唇を噛み締めた。ミチノクシャーリーの言うことは間違いではない。
「シャー先輩……」
どうしても辞退を口にしないメイセイオペラに痺れを切らしたのだろう。
「あれほどの大怪我だったというのにどうして……」
それだけ言うと、ミチノクシャーリーは一人ゲートへと歩いて行った。
一番人気のエムギガント、三番人気のミョウオーは共にタイキシャトルが一着をとったユニコーンステークスにも出走していた強豪だ。今の自分の立ち位置を確認するにはこれほどの相手はいない。
大歓声の中、ゲートが開き、レースがスタートした。五番手につけたメイセイオペラは向こう正面では四番手に上がり、大観衆を沸かした。
だが、残り四百メートルを切り、直線に入って集団に呑まれると途端に足がぴたりと止まった。半分塞がった右目では距離感が掴めず、勝負所を判断することが難しい。もがけどもがけど、前を行くウマ娘を捉えることができない。
視界の片隅では中央のエムギガントが素晴らしい末脚を見せ、直線で伸びていた。遅れてゴール板を通過するや、大きなため息がスタンドより漏れる。結果は十着。デビュー以来初めての二桁順位であり、一位のエムギガントには十二バ身差とかつてないほどの大差をつけられる惨敗だった。
「オペラ、大丈夫だ。お前ならイケる!」
口々に叫ぶファンの声援は、やがて一体となって彼女を元気づけようとする大オペラコールへと変わった。復帰が危ぶまれる中での出走。苦しみ、もがきながらも前に進もうとするメイセイオペラの気持ちが皆痛い程分かっていた。
控室では、ミチノクシャーリーと高橋が暗い顔をしていた。岩手のエースである彼女も、中央のエムギガントと南関東の強豪ミョウオーには勝てなかった。その心中は推して知るべしだろう。
「次はどうするんだい、佐々ちゃんとこは」
「大井だ。スーパーダートダービーに出る」
「何考えてんのさ!」
高橋の顔が怒りに染まっていた。
スーパーダートダービー。大井で行われるGⅡレースであり、地方・中央の交流重賞レースの一つである。距離的な近さから南関東の強豪がこぞって参戦をするこのレースは、クラシック級に在籍するダートウマ娘にとって、ダート三冠の一つと言われている。
「怪我の状態だってあるのに、この上遠征? 正気じゃないよ!」
「もう決めたことだ。こいつも賛成している」
「素直なオペちゃんがあんたの言う事に逆らえる訳ないだろう!」
去ろうとする佐々原の肩を思い切り高橋は掴んだ。
ダービーグランプリもスーパーダートダービーも確かに一生のうちで一度しか出ることはできない。だが、そもそもその舞台に立てるウマ娘自体選ばれた存在なのだ。そう考えて、今は体を休める時期にあてようと言う考えにどうして至らないのか。
「あれだけ惨めに負けて分からないのかい。万全な状態でなきゃ物笑いの種になるだけじゃないか!」
中央と地方の間で差があるように地方のウマ娘同士でも格差は存在する。南関東に比べて東北のウマ娘は総じてレベルが低いというのが世間の評価だ。
「メイセイオペラ。正直な気持ちを聞かせてください」
それまで黙っていたミチノクシャーリーが口を開いた。
「レース前にも言った筈です。万全な状態でないなら戦いの場に出るべきではない。今日のように大負けをし恥をかくこともある。いや、今のままならその可能性は高いでしょう。それでも貴方はスーパーダートダービーを目指しますか?」
「高橋さんもシャー先輩もありがとうございます。お二人の仰る通りだと思います」
「なら……」
「でも、出られる可能性があるのなら出てみたい。中央や南関東のウマ娘さん達と戦いたいんです」
「その結果惨敗し、叩かれることになってもですか?」
「ええ。当然覚悟の上です」
「そうですか」
眼鏡の奥でミチノクシャーリーの瞳が揺らめいた。
「では、我々がこれ以上言うべきことはありません。行きましょう、トレーナー」
「ちょ、ちょっと。シャーちゃん」
「覚悟をもって信じる道を進もうとする者にこれ以上の議論は不要でしょう」
それだけ言うと、ミチノクシャーリーは一礼し、高橋を引っ張って控室を後にした。
「いいんだな」
「いいって言ったじゃないですか」
呆れ顔で返すメイセイオペラに、佐々原は成長を感じる。入学当初とはまるで別人のようだ。最も素直さはあの時の方が上だが。
「とりあえず、お疲れ様会でご飯でも行きましょうよ。お腹ぺこぺこで」
「構わんが、一万で何とかしろよ」
「ええっ。それだと随分と選択肢が侘しくなるんですけど……」
「知るか。ご飯に行くと言ったってお前がばくばく食うのを俺はただ見続けるだけじゃねえか」
「必須カロリーの違いですよ。他人を大食いみたいに言わないでください!」
ぶつぶつと呟きながら、後をついて来るメイセイオペラに佐々原は内心胸を撫で下ろした。色々と不安のあった復帰レースだっただろう。だが、それを敢えて口に出さず、前を向こうとしている彼女に脱帽するしかない。
何とか戦える状態にしてスーパーダートダービーを迎えたい。
しかし、佐々原の願いが叶うことは無かった。
『三コーナーを回って、メイセイオペラ二番手につけています。雨の大井レース場。四コーナー、まだ頑張っている、岩手のメイセイオペラ。復帰後の初勝利なるか。しかし、ここで後続がぐんぐんと迫ってくるぞ!』
ダービーグランプリから二週間が空けた十一月二十日、大井。
雨で砂が締まり、スピード勝負になると踏んで果敢に先頭集団に食らいついたメイセイオペラだったが、最後の直線でまたも足が止まる。スパートをかけてくる他のウマ娘に抗うことができず、どんどんと引き離され、終わってみればダービーグランプリと同じく十着。さらに一着に入った中央のグンシコウメイには十バ身も差をつけられた。前走に引き続いての圧倒的大敗に、メイセイオペラの噂を信じて彼女を応援していた南関東のファンからも大きなため息が漏れた。
佐々原の胸中は複雑だった。
あのアクシデントが無ければ、二つのレース共にいい勝負ができていただろう。だが、過ぎたことをいつまでも言っても仕方がない。また走れるようになっただけでも儲けものなのだ。何度かレースを走り、勘を取り戻していくしかない。走らなければ、走ること自体に苦手意識が生まれてしまう。そうなってはレースをするウマ娘としては致命的だ。
翌日から、佐々原とメイセイオペラの特訓が始まった。
わずか半月といえども、習慣化されたことはやらなければ体が怠け、忘れてしまう。この一年で学んだことを体に思い出させるためには、これまでと同じことをひたすら繰り返し、それを続けていくしかない。
上手くすれば、年明けには復調するかもしれない。そう考えていた佐々原の元に、意外な報せが届いたのは年の瀬のクリスマスだった。
桐花賞。その年の最後を締めくくる岩手の名物レース。中央の有マ記念のようにファン投票で出走するウマ娘が決まるドリームレースだ。
「その桐花賞の一位にお前が選ばれたんだとさ」
「私が⁉」
佐々原の言葉を受け止めきれず、メイセイオペラは思い切り叫んだ。
「いや、何かの間違いじゃないですか。だって、あんなにもみっともなく負けたのに」
スーパーダートダービー参戦時のファンの落胆の表情を思い出す。その後活躍していれば納得できなくもないが、同じように大敗したとあってはメイセイオペラが疑いたくなるのも仕方のないことだった。
「俺も同じことを思って確認したんだが、本当だそうだ。本当にお前がファン投票一位なんだと」
「嘘……」
メイセイオペラは思いがけぬ嬉しさに胸がいっぱいになった。
連続十着という大敗があったというのに、岩手のファンは自分のことを見捨てず応援してくれているのだ。
ポロリと頬を伝って涙が流れた。復帰してからの勝てないもどかしさやファンからの罵声等苦しいことばかりだった。自分は自分だと気にせず過ごしてきたが、ファンの温かさに心が軽くなるのを感じた。
「頑張ります。私、頑張ります……」
それだけ言うと、メイセイオペラは差し出されたティッシュで鼻をかんだ。
「何ですか、これ。駅前のパチンコ屋のじゃないですか。本当、デリカシーが無いんだから」
「うるせえ。もらえるだけありがたいと思え」
悪態をつく佐々原の目にも光るものが見え、メイセイオペラは泣きながら微笑んだ。
桐花賞当日。控室から出て来たメイセイオペラは自ら頬を張り気合を入れた。クラシック級とシニア級のウマ娘が出場可能なドリームレースである桐花賞では、クラシック級のウマ娘が勝ったことは二十二度の勝負でたったの三回で、いずれも岩手のウマ娘史に名を残す実力者達だった。
自分はその四人目になれるのか。メイセイオペラの頭の中はそのことよりも、ファン投票一位という形で自らを励ましてくれたファンを失望させたくないという思いが強かった。
『師走の風が吹きます、水沢レース場。向こう正面体勢完了。今スタートしました。横一線です。内からぐんぐんと出ていくのはメイセイオぺラ。三番手につけています。一周目これから三コーナーをカーブしていきます。先頭を行くのはハグロムツノオー。二番手グッドシンボル。一番人気メイセイオペラは依然三番手をキープしています』
走り慣れた水沢のコースが脚に馴染む。行き過ぎず我慢する。幾度となくこのコースで学んだことだ。
インコースをひた走るハグロムツノオー。その勢いは止まらない。メイセイオペラは離されぬように一定のペースを守りながら、外から仕掛け時を探る。
『向こう正面に入り、エレガントハーバーが外からするすると上がって参りました。虎視眈々と前を狙っています。残り六百メートル。ハグロムツノオーがペースを上げました!』
ちらりと後ろを確認したハグロムツノオーが仕掛ける。このまま逃げ切るつもりなのだろう。
「行かせない!」
外側から上がってきたメイセイオペラがそれに食らいつく。
だが。
「それはこっちも同じ気持ちでね!」
さらに外側から上がって来る者がいた。南部杯四着、北上川大賞典で一着となったエレガントハーバーだ。
「若い奴に負けてたまるかっての!」
残り四百メートルを切り、メイセイオペラの後ろにぴたりとつけるように上がって来る。
「そうそう。若いのに負けてはいられない」
四コーナーのカーブ。エレガントハーバーとは反対方向。内側から伸びて来たのが、シャマードシンボリ。あの皇帝シンボリルドルフの従妹にあたる彼女もみちのく大賞典を勝利した猛者だ。皇帝を彷彿とさせるような末脚で追い込んでくる。
「く~~~~!」
ぐんぐんと伸びる三人は、ついに先頭のハグロムツノオーを捉えた。残り僅か。内と外から伸びて来る二人に負けじとメイセイオペラは力を振り絞る。
『シャマードシンボリが追い込んでくる。シャマードシンボリが追い込んくる。外にはエレガントハーバー。外にはエレガントハーバーだ!』
「いける!」
シャマードシンボリがぐんぐんと迫ってくる。このままでは抜かれる。そう思った瞬間、メイセイオペラは最後に残った力を爆発させた。
『先頭はメイセイオペラ。先頭はメイセイオペラ。内シャマードシンボリ、外エレガントハーバー、共に伸びるが届かない。メイセイオペラ、一着! メイセイオペラ一着! メイセイオペラ、大怪我を乗り越え、復帰戦初勝利だ!』
ゴール板を駆け抜けたメイセイオペラは、速度を緩め立ち止まると、はあはあと荒い息を整え、胸に手を当ててその鼓動を確かめた。
充実感が体中を突き抜けていた。レースとはこんなにも楽しいものだったろうか。最後の直線、シャマードシンボリとエレガントハーバーの二人に負けまいと必死になって足を前へ前へと動かし続けた。
ほっとしたと同時に涙が出た。最後まで自分を見捨てないでいてくれた人たちにお礼ができてよかったという気持ちと、怪我からようやく復帰できたのだという安堵感から、後から後から涙は溢れ止まらなかった。
「やられちまったね」
二着に入ったエレガントハーバーがぽんとメイセイオペラの肩を叩いた。
「でも楽しかった」
シャマードシンボリは柔らかい笑みを浮かべながら、右手を差し出した。
「ありがとうございます」
握ったその手の厚さと温かさに、メイセイオペラは頭が下がる思いがする。岩手出身のウマ娘としてどれだけの間戦い抜いてきたのだろう。そんな人たちと一緒に走ることができるとは。
「さ、みんなに挨拶しようぜ!」
エレガントハーバーの音頭で出走したウマ娘達が一列に並ぶ。
「あっ。おばあちゃん!」
スタンドの最前列に祖母の姿を見かけたメイセイオペラが思わず呟いた一言は、マイクに入って会場に拡散される。
「え! メイセイオペラのおばあちゃん?」
「どこにいるんだ? お~い、おばあちゃ~ん! おめでとうございます!」
笑い声が起きる中、必死になって下を向く祖母の姿にメイセイオペラはしまったと目を逸らす。
「何やってんだか。いいから、号令をかけな!」
エレガントハーバーはばしばしとメイセイオペラの背中を叩きながら、そう催促した。
「号令?」
「ええ。お客さんに向かってみんなでお礼を言うの。一年の締めくくりだからね」
シャマードシンボリの一言に成程と頷いた、メイセイオペラはマイクを持った。
「皆さん、一年間ありがとうございました。皆さんにとって、この一年はどんな年だったでしょうか。個人的には良い事も悪いこともあった一年でした。怪我もして、復帰してもボロ負け。心が折れそうになった時にこの桐花賞のファン投票が一位と聞き、どれだけ励まされたか分かりません。私たちはまた来年もここに立てるよう、頑張っていきます。どうか、皆さん。応援の方をよろしくお願いいたします。最後になりますが、一年間ご声援どうもありがとうございました」
「あら、あの子ったら随分立派になって……」
孫娘のスピーチに、感動している明美の横で、佐々原は笑いを堪えるのに必死だった。昨日調整ルームに入る前にスピーチの存在を聞かされたメイセイオペラは慌て、わざわざミチノクシャーリーに時間を作ってもらって原稿を考えていた。その時は万が一勝った時のために準備しておかないとと焦るメイセイオペラを笑っていたのだが。
「まさか、本当に勝っちまうとはなあ」
メイセイオペラは万全な状態とは言えなかった。一度落ちた気持ちを立て直し、鈍った体に喝を入れても、調子はなかなか上がらない。佐々原もメイセイオペラも不安な中での桐花賞だった。
自分の想像を超えて成長するメイセイオペラに佐々原は驚かされてばかりだ。
「よし、それじゃ一旦引っ込むか」
頭を下げ、去っていくウマ娘達。スタンドから沸き起こる拍手にメイセイオペラは一瞬立ち止まり、大きな声で叫んだ。
「皆さん、よいお年を!」
メイセイオペラとすれば最後の決め台詞のつもりの一言だったが、返ってきたのは観客の大爆笑だった。
「馬鹿か、お前。この後にまだウイニングライブがあるじゃねえか!」
「あっ!」
エレガントハーバーの指摘にメイセイオペラはさっと顔を青ざめさせる。
「まあ、年越しライブにでもすれば嘘にはならないんでしょうけどねえ」
シャマードシンボリはやれやれと肩を竦めてみせた。
「でも、雪がちらついているしねえ」
夜には氷点下に下がる中で年越しライブなど正気の沙汰ではない。
どうしたものかとメイセイオペラがスタンドに目をやると、明美と佐々原が二人して頭を抱えていた。