サークルシンドローム   作:穏健派

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きっと世界は終わるから

 

 

 

 昼前、釣りを終えた男が家に帰ってくるとバルコニーに最愛の妻の姿があった。

 

「ただいま」

「おかえりなさい」

 

 安楽椅子に腰掛けて本を読んでいた妻が顔を上げる。

 背中まで伸びた艶やな金髪がさらさらと揺れ、黄金のように輝いていた。

 

 春も佳境を過ぎ、春先のように気温が不安定な日も減ってきた。

 今日も朗らかで過ごしやすい気候だが、時折思い出したかのように冷たい風が吹いていた。

 

「本を読んでたのか?」

「うん。この世界の色んな神話がまとめられた本だよ。最近読み始めたんだ」

「そうか」

 

 男は釣り竿を壁に立て、釣り道具を扉傍の木箱に納めながら笑った。

 

「あんなに真剣に読んでたんだ、きっと面白い本なんだろ? 読み終わったら俺にも貸してくれよ」

「いいよ……ってあれ、その魚は?」

 

 そう言って妻が指差したのは、男が肩に背負った魚かごからチラリと覗く魚の頭だった。

 

「これか? さっき川で釣ってきたんだ。そろそろ昼時だし、今日はこれを焼いて昼ごはんにしようって思って」

 

 男は魚かごを肩から下ろすと、口に引っ掛けられた縄を引いて魚を取り出した。

 

 全長六〇センチほどの大柄な川魚──その額にはそびえ立つような赤い一本角が生えている。

 一対のヒレは鋭く尖っており、背中を覆う皮膚は金属光沢に似た鈍色の輝きを帯びている。

 異形。

 その禍々しい容貌を喩えるなら、その一言に尽きるだろう。

 

「わ、大きいね」

「だろ?」

 

 だが、そんな異形な魚の姿を目の当たりにしても、彼女は身の大きさに驚くばかりで珍妙な外見には一切触れなかった。

 まるでそれが当たり前で、ごくありふれた日常の光景のように。

 

「塩はまだ残ってたよな? 脂も乗ってるし塩焼きにしよう」

「いいね」

「悪いけど、先に火を起こしておいてくれないか? 俺は中で臓物を取り出しとくからさ」

「うん、いいよ」

 

 魚の臓物は塩漬けにすると味の良い保存食になる。骨や軟骨は乾燥させて砕けばちょっとした肥料になる。

 物資が少ない今日、あるものは全て使わなければならない。

 魚をカゴに戻して持ち上げたその時、不意に男はこちらを見つめる妻の視線に気付いた。

 

「ねぇ、あなた」

「なんだ?」

「愛してる」

「…… 俺も愛してるよ」

 

 少しだけ膝を曲げて、優しく触れ合うようなキスを交わすと、妻は恥ずかしそうにはにかんだ。

 

「いきなりどうしたんだよ、そんなこと言って?」

「うーん…… 言いたくなったから?」

「なんだよそれ」

「別にいいでしょ。それに、あなたも言われて嬉しいでしょ?」

「まあ、そりゃそうだけどさ…… 」

 

 二人の愛を隔てるような不埒なものは何もない。

 彼らは世界から隔絶された森に建つ丸太小屋で、穏やかに愛し合う日々を過ごしていた。

 

 朝目覚めると愛する人の寝顔が見えて、寝る時は体温を感じながら眠りに就く。

 そんな充実した日々を送る幸せを毎日噛み締めていた。

 

 妻は男の背中に腕を回し、その肩に顎を乗せる。

 

「ずーっと一緒にいようね…… 約束だよ」

「ああ、約束するよ…… 」

 

 先程まで妻が読んでいた『世界の神話大全』の表紙をチラリと一瞥し、男は天を仰いだ。

 

 鮮血のように赤い空、ドス黒い雲、きらめく星々。

 天高く昇る太陽には皆既日食のように暗い影が覆い被さっており、暗く濁ったような掠れた光が溢れ出ている。

 青々と茂る木々は乳白色の霧を纏い、地面に横たわっていた。 その向こうには山頂が大きく削れた山並みが見える。

 この世のものとは思えないほど幻想的で禍々しい情景。

 かつて先人が地獄の光景として夢想した景色が今、彼の眼前に広がっている。

 

──ああ、もう全部手遅れなんだな。

 

 深く愛し合う二人をよそに、世界はとうの昔に破滅していた。

 

 

 

 

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