サークルシンドローム   作:穏健派

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第一章 金色の勇者
01 敗走の果てに


 

 

 冷たく、湿った空気が充満している。 昨晩まで降り注いでいた雨は朽ち果てた石畳を濡らし、てらてらと輝かせていた。

 廃墟の朽ちた石壁と横たわる曇天に包まれた灰色の世界で、燦然とした光はよく映えた。

 

 その宝石のような煌めきを、ニトは何の躊躇いもなく踏み潰した。

 

「はぁ…… はぁ……!」

 

 呼吸を荒げ、途中何度も倒れそうになりながらも、必死に足を前に出して駆けていく。

 失った軍帽や投げ捨てたグレネードランチャーの行方も一切頭にない。 ただ廃墟が立ち並ぶ旧市街を走る、走る、走る。

 

 背後から聞こえる鳴き声、唾液を啜る水音、荒い呼吸音、太い四肢が大地を蹴る足音。

 大気を震わせる轟音の数々、それこそが自分に駆け寄る死神の足音なのだ。

 

 コーナーを詰めて、トップスピードを維持したまま角を曲がる。

 駆け込んだのは、朽ちた家屋に挟まれた細長い裏路地。

 

 

 

 その先は──行き止まりだった。

 

 

 

「……なっ」

 

 一瞬視界が真っ白に染まり、全身の力が抜けて足がもつれる。

 その勢いのまま身体がつんのめり、声を出す間もなくニトは地面に倒れ込んだ。

 

「〜〜〜〜〜!」

 

 声にならない悲鳴が喉の奥から漏れる。

 

 慌てて両手を地面に着き、上体を持ち上げようとしたその時、一際大きな足音が轟いた。

 その瞬間、ニトの視界をどこまでも黒い影が覆い尽くす。

 

 心臓が早鐘を打つ。

 長い距離を走ったというのに、身体は凍りつくほど冷え切っている。 奥歯がカチカチと鳴り、汗に塗れた全身が震えていた。

 首筋を生暖かく、湿った風が撫でる。 肺から咽頭にかけた呼吸器が恐怖で痙攣し、呼吸すらままならない。

 

 ──終わった。

 

 酸欠でボヤけた思考が紡ぎ出したのは、絶望という言葉だった。

 

 辛うじて一息吐くと、錆びついたブリキ人形のようにぎこちない動きで振り返る。

 

 

 

「ぅぁ」

 

 そこには怪物がいた。

 

 

 

 巨大な肉体のシルエットから、それが猪だということは辛うじて判る。

 だが、原型を保っているのはそれだけだ。

 

 顔のほとんどはギョロリと蠢く眼球に覆われており、数多の黒い瞳が眼前の獲物をじっと凝視している。 扁平な鼻からはドス黒い鼻水が垂れており、口元をテラテラと輝かせている。

 何よりも目を引いたのは、人間の髭のように伸びた、顔の下半分を覆い隠す無数の触手だった。

 ウネウネと動く触手は筋繊維が剥き出しになり、ゼリー状に凝固した脂肪分がこびり付いている。

 触手の先端には、鋭い刃のように変形した歯が生えている。 恐らく口や顎が変形して触手になったらしいが、今や見る影もない。

 

「ば、バケモノ……」

 

 十数年前から徐々に拡がり始めた、ありとあらゆる生物に感染する“ 肉体が繊維状にほぐれる病” 。

 

 致死率99%という人類史上最凶と謳われる毒性を帯びた奇病だ。

 だが、その致命的な病魔から生き延び、ほぐれた肉体が再結合することで身体の部位が触手に似た器官に変形する。

 

 

 病を克服するに至り、新たな力を得た生物──ちょうどこの猪のような存在を人々は『超越者』と呼んだ。

 

 

 頬までバックリと裂けた口から吐息が漏れ出し、その強烈な生臭さに一瞬意識が飛びかける。

 

「ぅ、ぅぅぅ……!」

 

 だが、身を衝くような恐怖がそれを許しはしなかった。

 今から俺はコイツに喰われるんだという恐怖が。

 

 

 思考が暗色に塗り潰される中でフラッシュバックしたのは、仲間が超越者に無惨に食い荒らされる光景だった。

 

 

 上官から言い渡された、旧市街の北西部に出現した猪型の超越者の討伐任務。

 他の都市との物流を行う補給ルートを塞ぐような形に縄張りを作っているため、早急な駆除が必要になっていたのだ。

 

 指令を受けたニト達は明け方、故郷である城塞都市ナゼルから三十人編成の小隊を組んで出発した。

 慢性的な燃料不足が続く中、移動は貴重な軍用バス。荷台に揺られておよそ一時間かけ、作戦地点に到着したのだった。

 

 緊張はするが、体調やメンタルは良好。 銃火器をはじめとした装備も万全。

 日頃の訓練の中で培い、その身に染みついた連携行動を、実戦で忠実に再現すればいい。

 ただそれだけで全てが作戦通りに進み、円滑に終わる。そのはずだった。

 

 確かに討伐作戦は全て計画通りに進行していた。

 標的の超越者が、予想を遥かに超えるほど強力であると判明するまでは。

 

 それは蹂躙だった。 まず最初にバスが爆破され、逃げ遅れた数名が吹き飛んだ。

 その後隊列を整え、勇敢に立ち向かった仲間たちも目の前で突き刺され、踏み潰され、喰われていった。

 バスの座席で緊張を和らげるために軽口を叩き合い、笑い合った顔が次々と超越者の口の中へと消えていく。

 そんな彼らと同じ末路を、ニトもまた辿ろうとしていた。

 

 

 超越者の引き裂けた口からボタボタと涎が垂れ落ちる。鋭い牙の隙間に誰かのドックタグが引っ掛かっているのが見えた。

 結局は同じだ。

 懸命に立ち向かっても、恐怖に駆られて戦場から逃げ出しても、何をどうあがいても。 死の運命からは逃れられないのだ。

 そこに救いはない。

 

——もうダメだ。

 

 瞼を固く閉じ、震える歯の根を嚙み締める。

 

 

 

 だが──。

 

 

 

「……ッ!?」

 

 そこに、一陣の風が吹き荒れた。

 

 それは視界の端、崩れ落ちた廃墟の二階から突き抜けるように飛び出した。

 褪せた鈍色が混じった青い風。

 それが巨大な金槌を携え、紺色の服を着た少女だと気付いたと同時。

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 彼女は渾身の力を込めて、得物を超越者のこめかみに叩き込んだ。

 

 超越者の巨躯がグラリと揺れる。ニトたちの集中砲火を受けても身動ぎ一つしなかった、あの身体が。

 カチリと何かが切り替わる音がして、少女は金槌を引き抜いた。ヌチャリと粘度の高い血液が一条の糸を引く。

 

 頭蓋骨が叩き潰され、深く陥没した打撃痕の中心には小さな鉄杭が突き刺さっていた。

 

 ──まさか!

 

 ニトは少女の持つ武器の正体を悟り、目を見開いた。

 

 今から起こることを瞬時に理解し、咄嗟に身を翻して地に伏せる。

 

「爆ぜろ」

 

 少女が呪文のように呟いた瞬間、ドンッと凄まじい轟音と共に鉄杭が炸裂した。

 焼けるような爆風と共に頭蓋骨が粉砕され、焼け焦げた脳漿が四方八方に飛び散った。

 

『Pigaaaaaaaaaaaaa!!!!』

 

 超越者の濁った絶叫が路地裏に木霊する。

 

 ……大気を喰らい尽くすような熱波と衝撃が止んだ後、ニトはゆっくりと顔を上げた。

 

「……こ、これは……わ

 

 超越者の肉体は既に原型を留めていなかった。

 顔の左半分が消失し、焼け付いた断面から脳漿と鮮血が溢れ出している。

 

  爆発する鉄杭を標的に打ち込み、直接爆破するという蛮行──そんな芸当を可能にする武器など、この世に一つしか存在しない。

 

「パイルハンマー……!」

 

 思わず驚嘆の声が出た。

 

 成人男性ですら満足に持つことも難しい、重厚で巨大な金槌。 その鎚頭には火薬が詰められた鉄杭を射出する、特殊な機構が搭載されている。

 長い柄を振り下ろし、痛烈な一撃をお見舞いすると同時に鉄杭が撃ち込まれ、標的を爆砕するのだ。

 

 しかし頑強な鋼で造られた鎚頭と射出機構は非常に重く、持ち上げることすら難しい。

 そのデメリットの大きさから、実戦での使用は不可能だとされていた。

 

 だからこそ、ニトはその無骨な破壊兵器に視線を奪われていたのだ。

 

「ふぅ……」

 

 少女は満足げに溜め息を吐くと、パイルハンマーを背中に納めた。

 よく見ると、彼女が右肩から斜めに掛けたベルトには長い柄を留めるための金具が付いていた。

 

「……凄い」

 

 地面に尻を着いたまま、ニトは感嘆した。

 三十の兵士が一斉に立ち向かっても倒せなかった怪物を、たった一人で、たった一撃で粉砕してしまった少女。 そんな彼女の勇姿に感動を覚えたのだ。

 

 長い沈黙の後、ゆっくりと少女が振り向いた。 その途端、ニトは息を飲んだ。金色に輝く太陽のような髪の向こうに見える顔があまりにも美しかったからだ。

 

 長い睫毛に覆われた緑眼にニトの姿が映り──。

 

 

——そして動かなくなった。

 

「……?」

 

 少女はその場に佇んだまま、ピクリともしない。

 白磁の頬は艶やかな桜色に染まり、小さな口はパクパクと動いている。深い森の奥底を思わせる色を湛えた瞳が静かに揺れていた。

  言葉もなく、ただそこに立っているだけで彫像のような調和の取れた美を感じる 。だがやはり不気味だ。

 

「な、なぁ………」

 

 沈黙と緊張に耐え切れず、ニトは恐る恐る少女に声を掛けた。

 

 

 その次の瞬間、視界が華やかな黄金色に覆われた。

 

 

「……え?」

 

 ふわりと漂う甘い香り。 顔に掛かる金糸のような髪。 胸元に押し付けられる柔らかい感触。

  全身が包み込まれるような熱。 耳元で響く嗚咽。

 一瞬の空白を置いて、真っ白になった頭が辛うじて状況を理解する。

 

 ニトは少女に抱き締められていた。

 

 

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