サークルシンドローム   作:穏健派

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03 目が眩むような斜陽の中で

 

 

 作戦失敗から一週間。

 

 

 ニトはよろよろと足を動かして軍病院の廊下を歩いていた。

 窓から射し込む斜陽と身体に染みついた疲労感に眉をしかめながら、黙々とリノリウムの床を踏んでいく。

 

 帰還から今に至るまで続いている休養の中で、ニトの身体はかなり鈍っていた。

 この一週間、一歩たりとも隊舎の自室から出ずに眠り続けていたのだから無理もない。

 

 カーテンを閉め切り、饐えた臭いが立ち込める薄暗い部屋でただベッドに寝そべっていた。

 

 時間という概念もなく、朝か夜かも分からない時間帯に目覚めては天井を眺め、仲間たちの顔を思い出す──。

 

 何も成さず、何も変わらない虚しい日々。

 

 討伐作戦の最中で神経をすり減らしたニトは、魂も身体も腐り切った生きる死体と化していた。

 今朝食堂で食べた朝食のメニューも、この病院に来るまでに歩いた道のりもよく覚えていない。

 

 空っぽの頭がズキズキと痛む。ツンと刺す薬品の臭いが頭蓋骨の中に充満しているかのような気分だった。

 

 重い足を持ち上げて階段を昇り、目的の病室がある四階に上がった時──。

 

「いだいいだいいだいいだいいだいぃぃぃぃ!!」

 

 大気を切り裂くような悲鳴がフロアに轟いた。

 

 幾度も叫んだことで喉が壊れているのか、声は掠れ切っている。

 裂けた喉から湧き上がる声は、地獄に響くラッパの音色を連想させた。

 

「…… ッ」

 

 一瞬歩みを止めかけた足を無理矢理動かして、前に進む。

 一歩一歩進むにつれて、徐々に悲鳴が大きくなり、それに混じって幾つもの怒声が聞こえてきた。

 

「右腕部のほぐれ、鎖骨部分まで到達しています! 両足は既に下腹部までほぐれ始めています!」

「クソ、ダメだったか……! 新開発の特効薬602号の効果が出てないのか…… !?」

「治験は失敗だ! クソッ……! おい、早くクスリ持ってこい!」

「は、はい!」

 

 分厚い二重扉を開け、弾かれるように飛び出した看護師がニトの傍を駆け抜けた。

 ガラス窓から病室を覗き込むと、防護服に身を包んだ医師数名が暴れ狂う患者を必死に抑え付けていた。

 ほぐれきって繊維状に分解された手首や足首をベッドに押し付け、激しく暴れる患者の動きを無理矢理止めている。

 

「がぁぁぁぁぁっ!! がぁっ、がぁぁぁぁぁっ!!」

 

 その患者はほぐれ病の感染者だった。

 

 ほぐれて繊維状に変形した両手両足をバタバタと振り回し、背中をグンとのけ反らせて野獣のような悲鳴を上げている。

 亀裂が入った目は限界まで剥かれ、口の端から黄ばんだ涎が滂沱と垂れ落ちていた。

 全身の筋繊維が断裂し、生きたまま身体を内側から引き裂かれる。その激痛と苦悶は想像を絶するものだろう。

 

 ギリリ、ギリリと音が鳴る。

 

 それは無意識のうちに噛み締めた奥歯が擦れる音だった。

 

「……クソッ」

 

 悍ましい光景にニトは思わず目を逸らし──その視線の先に立っていた少女の存在に気付いた。

 アユリアだ。

 ガラス窓に指先で触れた彼女は、真剣な面持ちで病室の様子を見つめている。

 

「……アユリア?」

 

 彼女はこちらを向くと、口を横一文字に伸ばしたまま会釈した。

 

「……どうしてこんな場所に?」

 

 そう尋ねると、彼女は病室内を眺めながら言った。

 

「感染者の様子を見にきたんです」

「感染者の?」

「はい。こうやって実際に苦しんでいる人の姿を目の当たりにして、少しでも使命を成し遂げる決意を強めたいなと思って。街に立ち寄ったら、いつもこうやってその街の病院に来ているんです」

「……そうか。凄いな」

「いえいえ」

 

 世界を救うという崇高な使命が孕む、幾億もの数の人間の命。

 その重さを実感するためには、救うべき人々の命に触れることが最も単純で効果的だ。

 

 戦地に赴く軍人が愛する家族のために戦うように、巡礼者は愛し、庇護すべき人を知る。

 それにより、使命を果たす旅路に向けて自らの背中を押すのだ。

 

 ひょっとしたらアユリアの強さの真髄は卓越した戦闘技術や単純な腕力ではなく、使命を完遂するという確固たる決意にあるのかもしれない。

 

「ニトくんはどうしてここへ?」

「…………お見舞いだよ。とは言っても、こうやってガラス越しに眺めることしかできないけど」

 

 ニトは病室と廊下を隔てる、分厚いドアを一瞥して言った。

 

「お知り合いですか?」

「ああ。今医者に抑え付けられているあの感染者……アイツは俺の同僚だ」

 

 元だけどな、と付け足して、ニトはベッドの上で悶え苦しむかつての同僚、キズミを見た。

 

 胸が締め付けられるような感覚に、身体が本能的に目を背けようとする。

 だが、ニトは決して目を逸らさなかった。 変わり果てた仲間の姿を、唇を噛み締めて凝視する。

 

「……キズミぃ…… 」

 

 縋るようにその名を呼ぶ。

 その衰弱しきった姿に、かつて優秀な狙撃手として将来を期待されていた頃の面影はない。

 

 無数にほどけた両手では照準を絞るどころか、二度と狙撃銃を持つことすら叶わないだろう。

 美しかったブロンドの髪も脂ぎっており、しなやかな筋肉も闘病生活の中で削ぎ落とされている。

 

 今の彼はまさに動く死体だった。

 

「ぎぎぎぎぎぎ、ぎぎ、ぎぢぃぎぢぃぎぢぃ!!」

 

 ふと、ピキピキと音を立てて、キズミの端正な顔に亀裂が入る。

 奥歯が砕けて血が溢れ出すほど、キズミは強く歯を食いしばって激痛に悶えた。

 

「ぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ……!!」

 

  それが終わりの合図だった。彼の命の終わりを告げる合図。

 

 するとその時、注射器を携えた看護師が病室へ転がり込んできた。

 慌てつつも冷静な動作でキズミの首筋に何かの薬を注射すると、ようやくキズミの発作は落ち着いた。

 

 醜く歪んだ表情を貼り付けたまま。

 

「…………あぁ…… 」

 

──やっぱりダメだったのか。

 

 臨床実験として、新開発の特効薬が投与されるという話を医師から聞かされる前から薄々勘付いていた。

 

 キズミはもう助からないと。

 

 この瞬間を迎える覚悟は以前から決めていた。

 だかそれでも、ニトの胸はどうしようもない喪失感に埋め尽くされていた。

 

 結局最後までアイツの手を握ることはできなかった。

 今まで散々引っ張ってきてもらったのに、その恩義を返すことは最期まで叶わなかった。

 同じ釜の飯を食べ、共に死線を潜ってきた戦友が死んだ。

 

 だが不思議と涙は出なかった。

 誰かの死を悼むために涙を流す涙腺は枯れていた。

 

 この世界では死というものが道端の小石のように、至る所に転がっている。

 

 ナゼルの街並みは一見栄えているが、一度分厚い城壁を出れば、そこは数多の超越者や漂流者が闊歩する地獄。手練れの軍人でも簡単に命を落とす危険地帯だ。

 だが壁の内側も等しく地獄だ。常に人口過多、食糧不足、物資不足に悩まされ、住民は常に隣人から突然金や家財道具を奪われる不安を胸に生きている。

 だから人を襲って、あるいは返り討ちに遭って死ぬ。

 

 ニトもこの世に生を受けた瞬間から、死と対面しながら生きてきた。

 

 軍人だった父はほぐれ病に感染して地獄の苦痛に悶えながら死に、母は結核を患って死んだ。

 家計を支えるために身体を売っていた姉と兄も、結局は性病に罹って命を落とした。

 ニトにとって、延いてはこの世界に生きる全人類にとって最も親しい隣人は死なのだろう。常に顔を合わせ続けているのだから。

 

 だが、誰かの死を目の当たりにした時に感じる、この重くのしかかるような感覚には未だに慣れなかった。

 

 医師の一人が肩で息をしながらキズミの顔に布を掛けたのを見届けたところで、アユリアがニトの顔を覗き込んできた。

 

「……大丈夫ですか?」

「……いや。辛い。うん、とても、辛い」

 

 ニトは噛み締めるように何度も「辛い」と繰り返した。

 

 行き詰まってどうにもならない状況に直面した時、自分の感情を反芻するように何度も何度も口に出してしまう。

 それがニトの子供の頃からの癖だった。

 取り乱す訳でもなく、行動する訳でもなく、ただ自らの感情を羅列する。

 

 前進も後退も生み出さない、無意味な習性。

 だが、今はそれが功を奏した。

 

 胸の奥に凝り固まっていた感情を消化したからか、幾分か心に余裕が出来た。

 少しだけ回復した気力に突き動かされ、ニトは語り出した。

 

「今のはキズミっていうヤツだったんだけど、凄くいいヤツだったんだ。厳しい訓練で挫けそうな時も俺に声を掛けてくれて、心配してくれてさ。しかも狙撃の腕前も一流だったから、上からの評価も高かったし俺たち同期からの信頼も厚かったんだ」

 

 でも──。

 

「四ヶ月前──旧市街に棲み着いた超越者の殲滅作戦でアイツはヘマを打って、討伐対象だった超越者に噛まれてほぐれ病に感染した」

 

 噛まれた腕を抑えながら、苦しそうに喘ぐ仲間の姿が脳裏を掠めた。

 今でも瞼の裏に焼き付いている、この世の全てに絶望した表情。

 

 ぞくりと背筋に悪寒が走り、身体が震えた。

 

「そこからは酷い有様だった。帰還と同時に除隊させられて、この隔離病棟に収容されて、その翌日には発作が始まった」

 

 語り続けるニトの声は微かに震えていた。

 

「まず両手足の爪が割れた。まだ痛みは無かったみたいだったけど、その一週間後の発作で、全部の指が先端から割れ始めると酷く苦しみ始めた。 発症から一ヶ月後には手首、足首までが完全にほぐれきった。手の平はモップみたいになって、中の肉も見えてるのに少しも血が出なかったんだ。 裂けて繊維状になった部分に沿うように血管が移動したからな」

 

 ニトは瞼を閉じ、薄闇の奥底からふつふつと湧き上がる光景を眺めていた。

 

「そこから二ヶ月目には肘、膝まで解れて、三ヶ月目には肩と太腿、そして頭までほぐれ始めた」

「── 『ヒガンバナ』」

「ああ、そうだ。ほぐれが頭部にも現れる末期症状。こうなったらもう助からない。頭が完全にほぐれて、脳も頭蓋骨も繊維状に分離される。そして今、四ヶ月目、症状の進行具合から今度の発作で脳がほぐれ切って頭の花が『咲く』って推測された。それで今日、実際に発作が起きて──キズミは死んだ」

 

 アユリアの息を飲む音が、沈黙の中に寒々しく響いた。

 

「本当は部隊のみんなで来る予定だったんだ。感染者の葬式は執り行われないから、せめて仲間の最期の瞬間だけは見届けてやろうって。でも、俺以外この前の作戦で全滅したから……俺しか来れなかったんだよ」

 

 アユリアの顔がさっと青褪めた。それを見たニトは疲れ切って乾いた笑みを漏らした。

 

「そうだよ。みんな死んだ……俺を残して……」

 

 壁際の長椅子に腰を落とし、ニトは力なく項垂れた。

 どこか遠くで悲鳴が聞こえてくる。病院内のどこかで感染者の発作が始まったのだろう。

 

「……ああ、なんで俺が生き残ったんだ……なんで俺だけ助かった……」

 

 手の平で顔を覆うと、暗闇の中に戦友たちの顔が浮かんだ。

 オットー、ヴェルン、ボルロ、マーゲティ……触手に切り刻まれ、超越者に咀嚼されながら命を落とした仲間たちの横顔が、その寂しげな表情が見える。

 

 故郷に帰り着き、自らの生還を実感した瞬間から、彼らの顔が脳裏にこびりついて離れない。

無事に帰還を果たし、一瞬でも自らの生存に喜んだニトを呪うかのように。

 

「……俺の隊には色んなヤツがいた。先日結婚式を挙げたばかりのヤツ、子供が三人いるヤツ、隊に入ってきたばかりのヤツ……みんな、みんな死んだ……殺された……俺の、俺の目の前で……!」

 

 なんでアイツらが死んで、俺が生きているんだ。

 そんな自責に塗れた疑問が頭の中でグルグルと駆け回る。

 

「みんなを差し置いて生きる理由なんて……俺には……」

 

 唇を噛み締め、重い頭を抱える。

 超越者を倒すという使命を捨てて、戦場から逃げたニトだけがあの惨劇から奇跡的に生還した。

 勇敢に立ち向かった仲間たちが死に、臆病者のニトが生き延びてしまった。

 

 俺は逃げた。だから今も生きている。

 アイツらは逃げなかった。果敢に戦ったから死んだ。

 

 仲間を捨てて逃げたという事実が、まるで死神の鎌のようにニトの首筋に触れている。

 少しでも刃を引けば、細い首など花の茎のように簡単に切り落とされてしまうほどに。

 

「もう……駄目だ」

 

 失意の中、乾いた唇の隙間からスルリとその言葉が垂れ落ちた。

 

 

 

「………… もう死にた──」

「ダメ!」

 

 

 

 言いかけた言葉が突然遮られる。

 

「……え……?」

 

 思わず顔を上げると、アユリアが今にも泣き出しそうな顔でニトの前に立っていた。

 

「そんなこと言わないで……お願い……」

 

 彼女は項垂れるニトの前に跪くと、その冷え切った手を優しく握った。

 幾度もパイルハンマーを振るってマメができた手の平は、お世辞にも柔らかいとは言えない。

 だが、皮膚の硬い感触の向こう側には、確かな温みと柔らかさが隠れているような気がした。

 

「ニトくんは自分に生きる価値なんて無いって思ってるかもしれないけど……私はニトくんに生きてほしいです」

「…………なんで」

「……私にとってニトくんが大事な人だからです。何よりも大切で……守ってあげたい人だから」

 

 アユリアは目尻を指先で拭うと、凛とした表情で言い放った。

 返事もできず呆然としていると、更に彼女は続ける。

 

「自分に生きる価値が無いというのなら、私がその価値を与えましょう。進むべき道が無いというのなら、私がその道を指し示しましょう」

 

 そして息を吸い、強く嘆願する。

 

 

 

「だからお願い。生きてください」

 

 

 

 生きてください。

 

 アユリアの言葉が乾いた心に染み渡る。

 胸の奥がジンと熱を帯び、身体の末端まで甘く痺れていくような感覚だった。

 

「なんで……俺なんかに、そんな……」

 

 疑問の言葉は次々と溢れ出る嗚咽にかき消される。

 嗚咽は慟哭に変わり、ニトは長椅子から滑り落ちた。

 リノリウムの床に両手を着き、ただただ滂沱と涙を流す。

 

 凍りついた心を溶かすほど温かい雫が、頬を伝って顎から垂れ落ちていく。

 一つ一つ流れていく雫の軌跡が、その感触がとても鮮明に感じられた。

 

──泣くのなんて、いつぶりかな。

 

 行動とは裏腹に、やけに落ち着いた思考が機械的に記憶を辿る。

 

 思い出した。泣いたのは八年前、姉が亡くなった時以来だった。

 枯れ果てたと思い込んでいた涙腺が、決壊したダムのように溜め込んでいた涙を放出する。

 まるで今までの苦悩を一気に洗い落とすようだった。

 

 

 

 ……ふと、潤んだ視界に一筋の光が見えた。

 

 

 

 それは燦然と金色に煌めいて揺れていた、薄闇が迫り来る中、夕暮れに染まった濃紺の空に昇る明星のように。

 

 ゆっくりと顔を上げると、一気に晴れ渡った視界にアユリアの顔が飛び込んできた。 ニトは思わず息を飲んだ。

 

 窓から差し込む陽光を背に、聖母のように穏やかで柔和な微笑を湛えた彼女が、どうしようもなく美しく思えたのだ。

 鬱屈とした感情も、絶望も、何もかもが眩ゆい光の中に溶けていく。

 

 涙はいつの間にか止まっていた。

 

 ニトはゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐな視線をアユリアに向けた。

 

「──なあ。もしもの話をしてもいいか?」

「どうぞ」

「もしも世界を救ったら、こんな地獄みたいな状況も、多少はマシになるのか?」

「はい。間違いなく」

 

 確固たる決意を秘めたような言葉。 ニトは自嘲にも似た笑みを浮かべ、恥じ入るように俯いた。

 

「……アユリアは強いよな。世界を救う使命だなんて大層なモノを背負って、それを実行しようと逃げずに努力できて。俺なんか、超越者一匹倒せっていう指令もロクに完遂できなかったのに……。神になる? そんな使命、普通の人間が背負ったら簡単に潰れるだろう」

「…… 」

「俺だったらそんな使命、言い渡された瞬間に放り出すだろうよ。顔も知らない人間のために簡単に命を捧げられるかってさ。それでも投げ出さないなんて、アユリアはやっぱりすごいよ」

 

 溜め息混じりに紡ぐ賞賛の言葉。

 アユリアと自らを比較すればするほど、ニトは自らの軍人としての、そして人間としての弱さを痛感する。

 

 劣等感という名の猛毒が、まるでイバラの鎖が心を締め付けるように喰い込んでいく。

 

「だってさ、神になるだなんて自己犠牲の最終進化系みたいなもんだぞ? 誰かを救うためにその身を捧げる。こんな崇高なことをしようとするだなんて、まさしく英ゆ──」

「やめて!」

 

 ニトがそう言いかけたところで、突然アユリアが声を上げた。

 

「……え?」

 

 ニトが視線を上げると、驚愕に染まった彼女の顔が視界に飛び込んできた。

 

「あっ、えっと、その……」

 

 咄嗟に声が出たらしく、自分でも驚いているのか、彼女は口を抑えて視線を宙に泳がせる。

 目をあちこちに動かして思案を巡らせ、そして観念したように視線を床に落とすと静かに告げた。

 

「……私は英雄なんかじゃありません。私だって逃げ出したいんです。怖くて、本当は嫌なんです、使命だなんて……」

 

 それは意外な告白だった。

 少々理解しかねる所はあるが、使命を完遂するべく努力する、気高く慈悲深い人物。

 短い期間だが、ニトはアユリアと接する中で彼女にそんな印象を抱いていた。 だからこそニトは戸惑った。

 

 一体どういうことだ、と尋ねようとした瞬間、アユリアの声が跳ねた。

 

「でもっ! ……実際にあんな風に苦しんでいる人がいる。この世界には、誰かに救われる日を待ち望んでいる人が大勢いる。だから私は一日も早く使命を果たして世界を救い、人々を苦しみから解放しなければならない。そうしないといけない運命なんです」

「……運命?」

「はい。私はこの使命を投げ出さず、最後までやり遂げるという運命にあるんです。それから逃げることは絶対にできない」

「それは……どうしても……?」

「……はい」

 

 アユリアは小さく頷いた。

 

「一度投げ出された使命は、いつか誰かが代わりに成し遂げなければなりません。そうやって使命は──“ なすべきこと” というのは人から人へ脈々と、まるで円を描くように継承されていきます。もし皆が力尽き、最後まで使命が果たされなかったら……また元に戻ってくる」

 

 ニトは言葉を失った。

 後頭部を金槌で殴られたような、そんな衝撃が全身を突き抜けたような気がした。

 

 永遠に纏わりつくもの。それがアユリアの言う運命の正体なのだろう。

 

 それは最早呪い。

 ドス黒く、どこまでも濁り切った忌々しい呪いだ。

 

「だから私は巡礼の旅を続けているんです。怖くても辛くても、先に進むしか私に道はないんです」

 

 胸の前で華奢な指を合わせて、ぎこちなく笑うアユリア。

 超越者をいとも容易く葬り、勇者のような勇猛さを見せた彼女の姿が、とても寂しげに見えた。

 

「……ごめんなさい、泣き言言っちゃって。貴方には関係ない話でしたよね……」

 

  申し訳なさそうに眉を下げたアユリアが静かに一歩退いた。

 まるで他人から距離を置くように。

 

 自分から孤独な道を選ぶように。

 

 たった歩幅一歩分。精々七〇センチ程度の隙間。

 手を伸ばせば簡単に触れ合えそうな距離が、まるで大河を挟んだ対岸に立っているかのように遠く感じた。

 

「うん、もう大丈夫……大丈夫……」

 

 自分に言い聞かせるかのように何度も「大丈夫」と唱える。

 それはまさに荒れ狂う心を、無理矢理にでも落ち着かせるための行為。

 

 拳を握り締めて自己暗示する姿が、必死にそう思い込もうとしている姿が、何故か胸をざわめかせて── 。

 

「あ……」

 

 その瞬間、ニトは自らに与えられた使命を理解した。

 

 彼女に命を救われた自分が、生きる価値を与えられた自分が今何をすべきか、頭ではなく心で理解した。

 

 だからその行動には微塵の躊躇もなかった。

 

「待ってくれ」

 

 見えない何かに突き動かされるように、ニトは一歩踏み込んだ。 アユリアとの隙間を埋めるように。

 どこか知らない場所へ飛んでいきそうな彼女を引き留めるように。

 

「……へ?」

 

 顔を上げたアユリアの、金糸のような前髪の間から、彼女の瞳が覗いた。

 心を奪われそうなほど深い、綺麗な深緑色の湛えた瞳。

 超越者を倒した時には勇猛の炎が燃えていたはずのそこは、今や動揺の色に染まっている。

 

 きっと突然彼女に抱きつかれた時の自分も、同じような表情をしていたのだろう。

 それを思うとなんだか苦笑が込み上げてきた。

 

——なんだ、こいつもただの女の子じゃねえか。

 

 意図が掴めない奇行。超人的な身体能力。鋼鉄のように固い意志。

 常人には理解の及ばない領域に足を踏み込んだ英雄。

 臆病な自分にとって、彼女はまさに雲の上の存在だと確信していた。

 

 だが、その姿を覆い隠すベールを剥いた向こう側。

 そこにいたのは、自らの双肩にのし掛かる重圧に押し潰されそうな一人の少女だった。

 

 それを理解した瞬間、足枷が外れたようにすっと身体が軽くなった。

 大きく息を吸い込み、ニトは叩きつけるように言い放った。

 

「お前、さっき俺に生きる理由をくれるって言ったよな? あんなこと言ってもらった手前悪いんだけどさ…… 俺、自分で生きる理由を見つけちまったよ」

 

 ニトは自分から手を伸ばし、アユリアの右手をそっと掴んだ。

 そして自分の胸元まで引き寄せて、懇願した。

 

 

「頼む。お前の使命を、どうか手伝わせてくれ」

 

 

  窓から射し込んだ斜陽が顔に掛かって目が眩む中、強く握ったアユリアの手が震えているのが分かった。

 

「……本気で言ってるんですか?」

「もちろん」

「きっと、とても辛い旅路になりますよ?」

「分かってる」

「……私と一緒にいたら、ニトくんは不幸に…… 」

「それでもいい。旅路にどんな困難があっても、俺はアユリアの力になりたい。それが俺の希望──俺が見つけた、俺自身の生きる理由だ」

 

  ニトは凛とした表情で、静かに、だが確かに誓う。

 

 

「アユリア。俺はお前のものだ」

 

 

 白んだ視界の中、小さな影が震えながら頷くのが見えた。

 

 

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