見上げるほどの巨躯を持つ悪鬼が迫ってきた瞬間、リンクの心に恐れは全く浮かんでこなかった。ただ形容し難いほど激しい怒りがその体内にある荒々しい野獣の力に火をつけた。イリアと過ごしたこの泉で勝手なことはさせない。
悪鬼が手を振り上げて叩きつけようとしてきた瞬間リンクは跳んだ。相手の胸元に飛びつくと肩口から鎖骨のあたりに激しく噛み付いた。牙が食い込み血が噴き出る。悪鬼は唸り声をあげリンクを払いのけた。辛うじて着地したリンクに再び悪鬼が攻撃してきた。巨大な手を横に払う。回避しそこねたリンクは五メートルほども吹き飛ばされ泉の外の地面に転がった。体中に痛みが走る。だが彼はすぐに立ち上がった。
顔を上げると、リンクの視界には、こちらに歩いてくる悪鬼の向こう、泉の外に半透明の壁のようなものがあるのが見えた。さっき落ちて来た柱のようなものに囲まれている範囲からは外に出られないようになっているようだ。魔法だろうか?
だがリンクには逃げる気はさらさらなかった。ますます牙を剥き、悪鬼に向かって突進する。三たびの攻撃をかわすと、相手の足の間をくぐり抜け、方向を変えてふくらはぎに噛み付く。肉を引きちぎらんばかりに体を左右に振ると、相手は狼狽したのか慌てて片手を伸ばしつかもうとしてきた。だがその動きを読んでいたリンクは既に相手から口を放し、巧みに死角に回り込んだ。
一瞬リンクの姿を見失った悪鬼があっけにとられ左右を見回す。リンクはその背中に飛び乗ると、首を横に捻って相手の後ろ首に思い切り噛み付いた。悪鬼は背こそ高かったが、首は腕と同様に人間並みに細い。たちまち狼の牙が肉を貫き、骨にまで達した。悪鬼が苦悶の声を上げる。両手をどうにかして後ろに回し、リンクをつかんで引きはがそうとした。だがリンクは相手の首を噛み砕こうとますます渾身の力を込める。悪鬼がリンクの体に爪を立てる。だが、その爪がリンクの分厚い毛皮を貫く前に狼の牙がとうとう悪鬼の頸椎を破壊した。
悪鬼は動きを止めると、ゆっくりと膝から崩れ落ち地面に倒れ伏した。リンクは敵の体の上から降りると荒い息を鎮めた。周囲を見回すと、さっきまで泉を囲んでいた半透明の壁が消えていくのがわかった。黒い悪鬼の体も、まるで腐敗するようにみるみるうちに崩れていったかと思うと、その破片が上空にあったあの渦巻に吸い込まれていく。
一体どういう仕組みになっているのかはリンクにもいまだにわからなかったが、ほかに敵はいないようだ。リンクは改めてさっき聞こえた声がどうなったかを調べようと泉の中央に再び近づいた。
すると、泉の縁がまばゆい光を放ち始めた。そして中央の水面が沸き立つように波立ちそこから丸い光の塊のようなものがゆっくりと浮き上がってきた。その光の塊は、やがて十メートルほどの高さに留まると次第に広がっていき、いつの間にか巨大な動物のような姿になった。
それは山羊のような姿をした、しかし半透明な光でできた存在だった。リンクにはそれが危険なものではないことは本能的にわかったが、それでもただの山羊のようなものではなく、それよりはるかに大きな、そして深い知性をもった存在であると感じられた。
その山羊のような光の塊は、頭を下げるとリンクに顔を向けた。すると先刻よりはるかにはっきりとその語る言葉が聞こえて来た。
「勇ましき若者よ」
やはり悪鬼が出現する前に聞こえてきたあの声は空耳ではなかったのだ。だがこの動物とも人ともつかぬ存在はいったい何なのだろう?リンクは相手をじっと見上げながら耳を傾けた。
「私は神の命によりこの地を守る光の精霊ラトアーヌ」
光の精霊?リンクの心には以前イリアが話していたことが蘇ってきた。この泉には精霊がいるからここの水には不思議な力が宿っていると。そうすると、年寄りたちの言い伝えはやはり正しかったのだ。
「そなたが今戦った黒き魔物は光の力を奪おうと狙う影の者たちのひとりです。ハイラルの他の精霊たちはあの者たちによって光を奪われました。それで彼らが守る地は黄昏の黒雲に覆われた影の領域になってしまったのです」
精霊が語るのを聞き、リンクは自分がいままで見て来た事件の重大さに驚いた。ハイラル城が陥落し王国が「影の王国を支配する者」の手に落ちたところまでは知っていたが、まさか精霊たちまでが巻き込まれていたとは思ってもみなかった。
「今、影の領域に三つの精霊たちが囚われています。この世界の光を取り戻すにはその領域に赴き精霊たちを蘇らせるしかありません。そして.......」
リンクが耳を傾けていると、続いたのは全く思いもよらぬ精霊の言葉だった。
「それができるのはあなただけです」
リンクは一瞬頭が混乱した。自分は今、あの邪悪な妖精と契約するかわりに、その力を借りて、誘拐されたイリアとコリンを取り戻そうとしているのだ。ハイラルを襲った一連の事件のあまりの影響の大きさもまた自分の想像の埒外だったのに、光の精霊たちを蘇らせるため自分に何かできるなどとは到底思われなかった。
「狼に変えられたあなたの姿を元に戻すことは私にはできません」
精霊は続けた。
「しかしあなたが姿を変えられたフィローネの森に赴きその精霊を蘇らせることができたなら、光の力によりあなたは人の姿に戻るでしょう」
そこまで語ってしまうと、精霊の形が次第にぼやけはじめた。そしてもう一度泉の縁がまばゆい光を放ったかと思うと、精霊は周囲の光に溶け込み、やがて姿を消した。
一体今自分が見たものは果たして現実だったのか?リンクはしばらく立ち尽くしていた。光の中から現れたあの精霊の姿と同時に、それが語ったこともまたどこか現実離れしているように思われた。フィローネで光の精霊を蘇らせる?自分にそんな大きなことができるのだろうか?
だが、イリアとコリンを攫った悪鬼どもが立ち去ったのはまちがいなくあの黒雲の中だ。彼らを探しに行くにはいずれにせよ影の領域に入らなければならない。リンクは先刻黒い悪鬼から受けた打撃のせいで体中が痛かったが、骨はどこも折れていないようだ。それよりも、身中にみなぎった野獣の力のおかげで、もう一度あの悪鬼が現れても十分戦う気力があると感じられた。
リンクは足を踏み出した。とにかく、まずはフィローネの森に向かおう。泉から出ると、フィローネに向かう橋を渡り、岩壁に挟まれた小道に入った。不思議なことに、暗い夜道であるにもかかわらず、前方のフィローネの上空に立ち込めた黒雲からはまるで夕焼けのようなオレンジ色の光が漏れていた。黒雲に近づいてみると、周囲は真っ暗なのに岩の壁が切れるところは雲との境目がオレンジ色の光に縁どられているのがわかった。黒雲の内部は夜でも奇妙な光が存在しているようだ。
「見てみな、フィローネの森はすっかり影の領域の中さ」
いつのまにか傍らに浮遊していたミドナが囁いた。命がけで悪鬼と戦っていたときには姿も見せなかったのに、今まで何をやっていたのかと思ったがリンクは黙っていた。
「もう戻って来れないかも知れないけどそれでも行くんだな?」
リンクは頷いた。すると妖精は浮遊して黒い壁をするりと抜けて向こう側に行ってしまった。そのまましばらく時間が過ぎ、リンクが訝しく思い始めたとき、突然目の前の黒い壁が波打ち、そこから巨大な手が突き出てきた。いや、あの妖精のオレンジ色の髪の毛が魔力で手の形をとっているのだ。その「手」はリンクの体を鷲掴みにすると、以前あの悪鬼がやったように、彼を壁の向こう側に無理やり引きずり込んだ。
壁の向こう側に抜けるのほんの一瞬だった。振り返ると、あの黒い壁がまだ水面のように波打っている。妖精が頭から伸びた巨大な「手」を放しリンクを地面に降ろした。
そこは間違いなくフィローネの入り口で左右の岩の壁がちょうど切れる場所だった。改めて周囲を見回すと、目の前は確かに森の入口の草原ではあったが、その様子は大きく変わっていた。夜だというのに星空は見えず、その代わり夕暮れのようなオレンジ色の光が空を照らしている。また、あたり一帯には霧とも何ともつかないような重苦しいものが空気に満ちていた。
するとリンクはその背中にまたあの妖精がどっかりと腰を掛けるのを感じた。背負っていた剣と盾はいつの間にか彼女の両手に握られている。
「よし、これで武器も乗り物も揃った」
妖精が独り言を言う。彼女は右手に持った剣を試すように左右に振り回した。剣の刃が耳をかすめたリンクはたまらずに首を下げた。
「ううん....だけどなぁ。こんなんでやつらが倒せるのかねぇ...」
彼女はせっかくリンクが手に入れた剣と盾が急に気に入らなくなったのか、やがて両方とも放り出してしまった。剣が地面に落ち、盾はリンクの顔に被さってきた。
「悪いけどやっぱいらないや。お前が使いな」
リンクが首を振って盾を落とすと、ミドナはそう言って指を鳴らした。たちまち剣も盾も、彼女の手に吸い込まれるようにして消えてしまった。
「ま、約束は約束だからな。信用してお前の人探しも手伝ってやる。だがな、その代わり...」
彼女がリンクの耳に口を近づけてくるのがわかった。また猛烈に嫌な予感がした。
「お前にはある物を探してもらう。今詳しくは言えないけどな。まあ簡単なことだよ」
妖精はそこまで言うと身を起こし、前方を指し示した。
「それより聞こえないか?光を奪われた精霊の嘆きの声が」
芝居がかった語調だったが、確かに言う通りだった。リンクがさきほどラトアーヌの泉で悪鬼と対決する前に聞いたのと似た声が遠くからかすかに聞こえてくる。
「いったいどこにいるのかねぇ?早く探さないとお前たちの世界もまずいことになるんじゃない?」
そう言われたリンクは顔を前方に向けた。目の前の開けた草地は、周囲を囲む岩壁の狭まったところにある正面の小道を経由して、もう一つの広場につながっていて、さらにその先には泉がある。リンクは走り始めた。もし精霊ラトアーヌがあの泉に宿っていたのなら、フィローネの精霊も同じように泉にいるかも知れない。広い草地を横切っていくと、かすかだった声が次第に大きくなってくる。間違いない。リンクは速度を上げると、泉に通じる小道目指してひた走った。
やがてリンクが草地を渡り切ったとき、突如としてドシンドシンと衝撃音が聞こえてきた。二つ目の広場のぐるりを、先刻ラトアーヌの泉で見たあの奇妙な文様がついた石の柱が囲んでいる。上空でまたあの低い不気味な風のような音が聞こえてきて、空に出現した渦から黒い塊が落下してきた。しかも今回はひとつ、ふたつ、そして三つ。
あの背の高い黒い悪鬼が三体、リンクを囲むようにして落ちてきたのだ。地響きを立ててぶざまに着地したに彼らは、両手をついてむくりと起き上がった。獲物を探すように左右を見回したが、すぐにリンクに気づき、奇妙な面を被った顔を向けてきた。
「あ~あ、囲まれた。舐められたもんだよ」
妖精は慌てるふうでもなく呟いた。
「こんな雑魚いちいち相手してらんないや。お前ひとりでなんとかなるだろ?じゃ、任せたよ」
そう言うと、ミドナはふわりと浮上し、広場の端、泉に至る出口の近くにまで飛んで行ってしまった。
三体の巨大悪鬼に囲まれたリンクは、少しもその闘志に陰りはなかったが、しかしこの数をどうやって倒せばいい?と頭を忙しく働かせた。一体の悪鬼が足音を響かせ迫ると、片手を上げて叩きつけようとする。素早く飛びのいて躱すと、リンクは悪鬼どもの包囲網から抜けるべく前に飛び出した。もう一体が巨大な手を広げて払おうとしてくるのを、頭を下げてギリギリで躱す。
包囲網から脱出したリンクは、彼らを仲間から引き離す作戦に出た。まず広場をラトアーヌ方面に駆け戻る。一体が追いすがってくるのが肩越しに見えた。リンクは突然走る方向を変え、相手のふところに飛び込んだ。片方の膝の上に飛び乗り、脇腹に噛み付く。素早く頭を振って肉片を嚙みちぎると、反撃を受ける前に飛び降りて相手から離れた。
小さな傷とはいえ急所に打撃を受けた悪鬼は怒りの唸り声を上げた。片手を高く上げてリンクを上から打ち据えようとする。その動きを寸前で見切ったリンクは横に体を躱すと、一瞬つんのめった相手に飛びつき喉笛に噛み付いた。身体を回転させ思い切り肉を噛みちぎる。さしものの悪鬼も酷い苦痛を感じたのか、声を上げよろめいた。
既に他の二体もこちらに迫ってきていた。リンクはダッシュして飛び上がると右側の片方の肩口に噛み付いた。そいつの手に捕まる前にできる限り深く牙を突き立て、相手が振り払おうと手を伸ばしてきた瞬間に空中で体を一回転させる。一瞬だが狼の頭部と後ろ脚に手を弾かれた形になり、悪鬼はリンクを捕え損ねた。地面に着地したリンクを隣の奴が狙う。鉤爪を立てるようにして打ち下ろされた手を数センチの差で躱したリンクは、再び広場を泉の方面に移動してから敵に向き直った。
さっきの二体はリンクの位置をとらえ、こちらに向かってきていた。しかし、想定外の手ごわさを思い知ってか、さきほどとは打って変わって慎重な足取りで進んでくる。その後ろにいるのは最初に深手を与えた一体だ。そいつは、首からぼとぼとと流れ落ちる血を右手で抑えていた。こいつはあと一撃だろう。リンクはそう見当をつけ、今度は敵の前を左右に動いて惑わす作戦に出た。
まず左に走って敵の注意を引き、それから急激に方向転換して右に移動する。肩に手傷を負ったほうの奴が怒りの声を上げながらリンクを追尾してきた。巨大な手を払おうと相手が放った攻撃を跳躍して躱すと、今度は一番奥にいる深手を負った奴に走り寄った。傷を抑えるため塞がっているほうの手を使わせるためわざと右足の足首に噛み付く。そこで足を踏ん張って思い切り頭を引くと、そいつはたまらず傷から手を放して両手でリンクを捕まえようとしてきた。リンクは狙いすましたようにそいつの顔に飛びついて相手の仮面を下から前足で突き上げた。顎があがった瞬間首に噛み付いて再び噛みちぎる。二度の致命傷に耐え切れず、その悪鬼はどうと地響きをたてて倒れた。
残り二体が左右から迫ってくる。だが既に一匹減ったのだ。リンクは冷静だった。すばやく後じさりすると、広場を囲っている半透明の壁に沿って距離を取りながら移動する。だが、敵も少しは知能があるのか、二体がぴったりと寄り添うようにしてリンクににじり寄ってくる。引き離され各個撃破されるのを警戒しているらしい。
リンクは左側の無傷の個体に走り寄った。その攻撃の射程圏内に入ると、とたんに動きを止める。相手が攻撃態勢に入るのを見計らって、転がるように横飛びし、その顔に向かって跳びついた。
相手は反射的にリンクを捕まえようと手を上げた。だがこれはリンクの狙った攪乱だった。リンクはその手をすり抜けると相手の股間に噛み付いて頭を振り回した。狙い通り、悪鬼といえども恐ろしい苦痛を感じたらしく鋭い叫び声を上げた。もう一体は、仲間の身体がかえって遮蔽物となってしまい、リンクを攻めあぐねている。リンクは傷を負わせた個体の足元に降りて動き回った。怒りに燃えたような唸りを上げてそいつは手を振り回したがリンクは巧みにその後ろ側に回る。思い切り跳躍するとその背中に飛び乗り、後ろ首に噛み付く。リンクは振り落とそうと暴れる悪鬼にしがみつきながらも、もう一体がどう出るのかを視界の隅で確かめ、ギリギリまで待つと、いきなりそこから飛び降りた。もう一体は狼リンクを相棒の背中からはたき落そうと手を振り上げたが、振り下ろした瞬間にはもう相手はいなかったのに気づかなかった。悪鬼の巨大な手がもう一匹の悪鬼の横っ面を直撃する。それを喰らったほうがよろめいた瞬間、リンクはその片足に突進し、走り抜けながら頭でそれを思い切り持ち上げた。股間を噛まれたほうの悪鬼はどうと地面に倒れる。その瞬間リンクはそいつに跳びつき、横から首筋に噛み付くと思い切り体を回転させた。大きな血管が切れる音がする。首から真っ黒な血が激しく噴き出し、その悪鬼の体が震えたかと思うと力を失ったような両腕が地面にバタリと落ちた。これであと一体だ。
だが次の瞬間信じられないようなことが起こった。
生き残った最後の一体が恐ろしい咆哮を上げた。その声は凄まじいほどの音量で、リンクは一瞬体が麻痺して動かなくなったような気がした。その咆哮が止むと、リンクは気を取り直して顔を上げたが、倒したはずの悪鬼二体がまたむくりと起き上がったのを見て驚愕した。あれほどの深手を負わせたのに、蘇ったのだ。
倒したはずの悪鬼どもは何事もなかったかのようにこちらに向き直る。そして咆哮をあげた一匹も加え、三体がまたじりじりとこちらに向かってきていた。リンクは心の中に焦りが広がってくるのが分かった。倒してもまた蘇るなら一体どうやって戦えばいい?彼が覚えずして後じさりすると、ミドナの声が聞こえた。
「おい、何チンタラやってるんだ」
リンクは彼女がどっかと背中に腰を掛けてきたのを感じた。
「奴ら一体だけ残して倒すとあの吠え声で蘇っちまうんだ。手伝ってやるから私が言う通りに動け。わかったな?」
こんな妖精でも助け舟は欲しい。リンクは頷くと、改めて敵に向き直った。三体が横に広がってリンクを取り囲もうと迫ってきていた。
「今から私が結界を張る。あいつら全員が結界の中に入るよう動け。そうしたら私が合図するから攻撃するんだ」
結界?一体何だそれは?考える間もなく、ミドナを中心に濃い暗闇のような空間が広がっていき、直径二十メートルほどになった。
だがあの悪鬼どもを三体全てこの中に入れるのは一筋縄ではいかないとすぐ分かった。攻撃を受けず奴らの包囲網のただ中に入らなければならない。
リンクは、しかし小細工を弄するのはやめることにした。悪鬼どもの攻撃範囲は確実に近づいている。リンクがゆっくりと前進すると、悪鬼どもは隊列を広げ取り囲んできた。だがまだ全員は結界に入っていない。相手も散々痛い目に遭わされたからか、慎重にこちらの動きを見定めていたが、やがて一匹がずいと身を乗り出し接近してくると、他の二匹も追随するようにして攻撃体勢をとった。一匹が手をを振り上げる。
まだだ。まだだ。
もしこいつら三匹の攻撃を同時に喰らったらいくら狼リンクといえどもひとたまりもない。全身の骨がバラバラに砕けてしまうだろう。だがリンクはこらえた。残り二匹も手を振り上げた瞬間、全員がミドナの結界に入ったのがわかった。一瞬だが雷に似た赤い光が悪鬼どもをを包むのが見えた。
「今だ!」
ミドナが叫んだ瞬間リンクは跳んだ。まるでハイラル城の中で経験したときのように、身体が勝手に相手に向かって真っ直ぐ飛んでいく。目の前の悪鬼の首筋に自分の牙がかかる。と、ほとんど剣で切断されたかのように悪鬼の首に大きな傷ができた。血が噴き出すのを待つまでもなく、リンクの身体は次の一匹に向かって空中を鳥のように飛んでいた。そいつは身体を縛られたかのように動きを止めている。いや、時間そのものが止まったのだろうか?二匹目の首もまた一瞬で深く抉られた。リンクが三匹目に飛びつきそいつの急所を咬みちぎった途端、魔法が解けたかのように結界が消え失せ、三匹の悪鬼どもはそろって地に倒れた。
リンクは呆気にとられると同時に背筋に寒気を感じた。あれほどの巨躯と膂力を誇る悪鬼どもが一瞬で倒れたのだ。今ミドナが使ったのはいったいどういう魔法なのか?悪鬼たちの死体はみるみるうちに崩壊し、やがて上空の渦巻に吸い込まれていった。
「ほれ、精霊はあそこだ」
ミドナは何事もなかったような顔で前方を顎で示した。リンクが目をやると、広場の出口から泉が見えた。
以前、泉の入り口にかかっていた柵は、魔物どもが出入りしたせいなのか、倒されてバラバラになっている。その残骸を横に通り過ぎてリンクが泉のほうに近づいていくと、泉の真上に白い光の塊がある。広場から出ると、その光の塊がよく見えた。ハイラル城で会った人の魂よりかなり大きい。そして、その光の塊から発せられる苦悶の声がリンクにははっきりと聞こえた。
「あ‥青い目の狼よ‥‥」
リンクが近づくと、白い光の塊の言葉が聞こえた。
「気をつけて‥‥この森は呑まれたのだ‥‥人は魂となり魔物が徘徊する‥‥影の領域に」
その声はラトアーヌの泉で出会った精霊と同様に深く低い声だった。だが、その味わっている苦痛は遥かに酷いらしく、その声は震え、言葉は途切れ途切れだった。
「探して‥欲しい‥‥奪われた我が光を‥‥そして‥この‥器に」
精霊はそこまで言うと言葉を切った。リンクは次第に理解してきた。精霊を蘇らす、というのはこれだったのだ。だが、奪われた光を取り戻す方法とは一体なんなのだろう?
すると、リンクの目の前に何かの物体が現れた。まるで草の蔓のようなものに、ガラス細工でできた白い実が一ダースほども付いた葡萄の房のような器だ。白い実の中は空洞のようだ。
その器はリンクの前の地面に落ちた。リンクがそれを咥え上げようとすると、ミドナが後ろから手を出して拾い上げた。
「こいつは私が持っておこうか。お前も口が使えなきゃ戦えないだろ」
リンクは、自分が次にやるべきことが次第に飲み込めてきたが、まだわからないことがあった。奪われた光をどうやって取り戻すかだ。
「影の蟲に取り憑かれたわが光の雫を‥‥この器で‥‥かの蟲たちの姿は見えないが‥‥そなたなら‥‥」
すると、リンクの心のなかに映像が浮かび上がった。精霊の力によるものだろうか、以前通ったことで把握したこの先のフィローネの地形が頭に浮かび、その所々青白く光る点がある。そこに光の雫があるものと思われた。
リンクはようやく全てを理解した。精霊の力の源である光の雫は影の世界の者たちに奪われてしまっている。だか、精霊たちは、ラトアーヌもフィローネも、リンクならそれを探しだし取り戻せると信じているのだ。狼の姿になって以来、人間のときには見えなかった物を見、感じることのできなかったものを感じるようになったが、果たして自分にそんなことが出来るのか、リンクには半信半疑だった。
「さ、やることはわかったろ。だったら休憩してないでとっとと取りかかろうぜ」
ミドナが促す。リンクは先ほどの激闘でまだ肩で息をしていたが、動けないほどの疲労ではない。彼はまず、泉の左手にある洞窟に向けて足を踏み出した。
洞窟に入ると早速リンクは異変に気づいた。以前にはなかったデクババが生えている。しかも、道沿いに並んで三本もだ。
リンクは噛みつかれないようこの危険植物から距離を置きながら進んだ。見ると、形は以前見たものと全く同じだが色が真っ黒で、紅色の毒々しい模様が花弁についている。
だが、突然視界の隅で何かが小さな雷のようなものを発しながら素早く動いた。デクババの間を縫うようにして移動している。かと思うと次の瞬間には消えていた。リンクが当惑して左右を見回すと妖精が言った。
「バカ、ぼっとしてないで感覚を使え。まだここいらにいるはずだ」
自分には人間に見えないものを感じとる力があることをリンクは思い出した。じっと集中し、ほんの少しの音や臭いまでも逃さないよう、あの小さな雷が消えたあたりを見つめる。リンクには次第に、何かが動いているのが見えてきた。大きさは手のひら二つ分くらいだろうか。精霊が「蟲」と言っていたのだからそれほど巨大なものではないらしい。さらに集中したリンクには次第にその姿が見えるようになった。やはり虫だ。すると突然彼は自分の家の壁に取り付いていたあの奇妙な虫を思い起こした。鎧のような背中をし、毒々しい色を持ったあの不気味な虫。
もはや間違いはなかった。あの虫がデクババの根元にいる。狼リンクが近づいてきていることを感じ取ったようで、素早く移動し始めている。リンクは唸り声を上げて追尾し、跳びついた。だが相手の動きはすばしこい。リンクが跳びついても左右に素早く逃げられてしまう。するとリンクの存在を感知したデクババが茎を伸ばし花弁を開いて噛み付こうとしてきた。リンクは反射的に体を空中で一回転させた。デクババは攻撃を弾き飛ばされる形になり一瞬怯む。だがその間に虫は逃げてしまっていた。
「ったく何のんびりやってんだよ。結界出してやるから早く片付けろ」
そう言うとミドナが結界を発生させた。彼女を中心として黒い濃い暗闇のような空間が広がる。リンクがあたりを見回すと標的は洞窟の壁際に避難している。今度は慎重にじりじりと接近する作戦にした。やがて虫がその中に捕えられると、小さな赤い雷のようなものが一瞬その身体を覆った。リンクにはもうそれが合図だとわかった。飛び出した瞬間虫が凍り付いたように動きを止めた。リンクの顎が虫を噛み砕く。嫌な音がした。
リンクには致命傷を負った虫が足を震わせ、そして動かなくなったのが見えた。すると、いきなり虫の身体が小さな爆発音を立てて弾けた。そこから青白い光--以前見た人間の魂よりも濃く強い輝きを持つ光の塊だ--がゆっくりと浮上してくる。
「よっと」
リンクの背に乗ったミドナは、精霊の器を持った手を素早く伸ばしてその光の塊を掬い上げた。精霊から授けられた器の、空洞になった実の部分の一つが、いまその青白い光で満たされたのがわかった。
「ほら、さっさと次行くぞ」
そう声を掛けられ、リンクは他にも近くに虫がいないかを探しながら洞窟を進んでいった。感覚を集中すると、三本目のデクババが植わった個所のあたりに、虫の気配が感じられる。二度目だけあって、それほど接近しなくても虫の居所がはっきりとわかった。リンクは顔をミドナのほうに向けた。
「よしよし、お利口なワンちゃんだ。こういうときは素直が一番だからな」
リンクの意図を察したミドナは上機嫌で言うと、再び結界を発生させた。業腹だったがリンクは目の前の仕事に集中することにした。虫はまだその身に迫った危険に気づいていない。リンクはゆっくりと接近した。結界がいっぱいに広がり、虫を包む。結界がデクババに差し掛かる前にリンクは飛び出した。虫の身体が砕ける。デクババが反応し花弁をもたげたが、リンクは素早く後ろに飛びのいた。虫の身体から出てきた光の雫が中空に浮上すると、それはふわふわと漂い始める。リンクは空中に浮かぶ雫に狙いを定めると跳びついた。ミドナは慣れた手つきでそれを器に掬い上げる。
「さて、次だな。あの小屋のあたりの虫を片付けようか」
ミドナが言う。洞窟の出口から、先日油売りの青年に会った小屋が遠くに見える。リンクが走り寄ると、小屋の前には人影はなかった。消えた焚火の跡があり、その上に鍋がかけっぱなしになっている。
精霊から教えられたところによれば虫はこの小屋の中にもいるはずだ。リンクが侵入口を探していると、小屋の左手に木でできた大きな荷役用の台があった。さらに、そこに面した小屋の壁には窓がついている。
「ここから入れそうだな」
ミドナが言った。リンクは荷役用の台の上に駆け上った。ミドナが空中に浮き上がり小屋の窓まで飛んでいく。リンクはミドナ目掛けて跳び、窓枠に着地した。
小屋の中は、人間が住んでいるとは思えないほど乱雑だった。隅にしつらえた台所に置いてある食器や鍋が辛うじて人の居住を示してはいたが、木材や樽などがそこら中に散らばっており、住居というよりほとんど物置のような有様だ。リンクが床に飛び降りると、部屋の片隅に置いてある大きな箱の上に白い光が浮かんでいるのが見えた。人の魂だ。
リンクが感覚を集中すると、あの油売りの男の姿が浮かび上がってきた。恐怖に震え、両手を壁に突っ張ってなんとか体を支えている。
「あ..ありえねえ..何なんだよあのでかい虫は...」
男が呟くのが聞こえた。すると、周囲に乱暴に積まれた荷物の下から虫が二匹走り出てきた。こちらに接近してくる。攻撃しようとしてリンクが反射的に顔を向けると、虫の身体から小さな雷のようなものが迸った。その途端、顔に激痛と痺れを感じてリンクは思わずのけぞり倒れた。虫とはいえども、彼らなりの攻撃手段を持っているらしい。だがリンクは唸り声を上げて立ち上がると、壁際にいた一匹にいきなり襲い掛かった。虫の身体が砕ける。方向を変え、土間にいたもう一匹に狙いを定める。相手が動きを止めた瞬間に跳躍した。もう一匹もたちまち致命傷を喰らってひっくり返った。死んだ二匹の虫から光の雫が浮かび上がる。ミドナがそれを掬い上げている間、部屋の隅にいた油売りの男は不思議そうに言った。
「あれ?いきなり死んだぞ?いったいどうなってんだろ...」
リンクは入ってきた窓から外に出ると、小屋の周りをもう一度捜索した。確かもう一匹いるはずだ。果たしてそいつは出入り口の扉のある面の右手の壁に取り付いていた。リンクが近づいてもそいつは壁の高い場所にくっついたままで降りてこない。そこで壁に体当たりして衝撃を与えると、虫は羽を広げて飛び始めた。そいつが頭上を飛んでいる間、例の小さな雷がその身を覆っているのに気づいたリンクはうかつに近づかないよう少し距離を置いた。
虫は長距離は飛べないらしくすぐ地面に降りてきた。その瞬間リンクは飛び掛かって噛み砕いた。たちまち粉砕された虫から光の雫が浮かび上がる。ミドナはその雫を掬い取ると言った。
「次は森の奥だな。このあたりはもういいはずだ」
リンクは小屋を後にした。今度はリンクが以前タロを探しに入ったあの狭い洞窟だ。その入り口に到達すると、その門は閉ざされて施錠されていた。だがリンクは迷わず、感覚を研ぎ澄まして周辺の地面を探った。門の脇の柵の下に脆くなっている箇所を見つけると、素早く前足で土を掘り返し穴を掘る。元々よくならされていない自然なままの地面だったので、穴はすぐに大きくなり、リンクはそこに頭を突っ込むとするりと柵をくぐり抜けた。
「ずいぶん慣れたもんじゃないか、さすがは怪盗犬だな、ええ?」
嫌味とも賞賛ともつかないミドナの言葉を無視すると、リンクはすぐ感覚を集中させた。ここには複数の虫たちがいるはずだ。リンクの目にはほどなく洞窟の入り口あたりで歩き回る三匹の虫の姿が見えた。狭い空間の中ではそうそう逃げ回ることはできないはずだ。そう考えたリンクが虫たちを刺激しないようしばらくじっとしていた。虫どもは時折小さな雷を発しながら歩いていたが、やがて三匹ともが静止した瞬間を見極めるとリンクは一気呵成に襲い掛かった。三匹ともがぐしゃっと音を立て息絶えると、雫が三つ空中に浮かび上がる。
ミドナが雫を一つ回収している間、リンクは浮遊するほかの雫に顔を近づけ臭いをかいでみた。臭いはなかったが、雫が顔に触れたとたん身体に不思議な力が湧いてくるのがわかった。同時に、黒い悪鬼と最初に戦ったとき喰らった打撃から来る身体の痛みが引いていった。この雫そのものに何らかの力が宿っているのだ。
リンクは洞窟の奥に向かって走り始めた。不思議なことに入り口から入る光が届かなくなっても、感覚を研ぎ澄ませば壁を反射する音や周囲に生えた植物の臭いで自分の周囲の様子がはっきりとわかった。前進していくと、以前燭台に火を点けた箇所に差し掛かった。驚いたことに、まだ燭台から弱弱しい火が上がっている。もしかすると油の壺が木でできた土台の内部に入っているのかも知れない。だがその瞬間リンクは異常を察知した。洞窟の床で、以前ハイラル城の下水で見た蛸のような生き物がのたくっているのだ。リンクはその気持ち悪さにぎょっとした。だが遠回りに通過しようにもこの狭い洞窟の中では無理だ。リンクの存在を感知したのかその生き物がこちらに向かってきた瞬間、彼は機先を制して飛び掛かった。相手に噛み付くと前足で押さえつけ、その体を二つに引き裂く。リンクはすぐに慌てて首を振ってそいつの血液と肉片を吐き出した。二度とこんな「珍味」は味わいたくない。
洞窟の内部には以前と同じ場所にデクババが植わっていた。天井からは吸血蝙蝠の羽音がする。リンクが見上げると、蝙蝠は蝙蝠に違いなかったが、その色はやはり真っ黒で、紅色の奇怪な文様がある。リンクは一羽が狙いをつけてきているのを感じ取ると、ダッシュして先を急いだ。
洞窟を抜けると、かつて最初にボコブリンと戦った盆地を見渡す場所に出た。洞窟の出口周辺に虫の気配を感じたリンクが再び感覚を研ぎ澄ませて捜索すると、二匹の虫が左手の岩壁に取り付いているのが見えた。リンクは走り寄って壁に体当たりした。振動で二匹ともが羽を広げ飛び始めた。リンクはそいつが降りるのを待とうとしたが、虫たちは頑張って空中に留まっている。待ちきれなくなったリンクは思い切って跳躍し襲い掛かった。その瞬間、二匹ともが小さな雷を発し、それがリンクの鼻面に触れた。リンクはまたも痺れと激痛でのけぞり、着地に失敗して地面に転がった。
「おいおい、どうした?虫に噛まれてイタイイタイしてる場合か?」
ミドナがあざ笑う。リンクは首を振って気を取り直した。今は妖精の嫌味に腹を立てている場合ではない。リンクは顔を彼女に向けて視線を送った。
「よし、お前もだいぶ人間が...じゃなかった、犬が出来てきたようだな」
ミドナの追い打ちに腹が立つのをこらえ、リンクは彼女が結界を発している間慎重に空中にいる二匹の虫どもに近づいた。二匹ともが結界の中に入るとリンクは飛び出した。空中の一匹が砕け散る。だが案に相違して、二つ目の攻撃は外れてしまった。ミドナの魔法といえども、あまりに小さい相手には効かないこともあるようだ。
だがリンクは着地し態勢を立て直すと、距離を見極めながら身をかがめ、再び跳躍した。空中にいたもう一匹を見事捕えて噛み砕く。二つの雫が浮上してあたりを漂い始めた。
ミドナが雫を掬ったあと、リンクは改めて盆地のほうに向きなおった。だが何か様子がおかしいことに気づいた。盆地一杯に紫色の奇妙な霧のようなものが満ちている。その毒々しい色からして、入ったらいかにも害がありそうに思われた。リンクはそろそろと斜面を降りてその霧に近づくと、少し掻き混ぜるように前足を伸ばした。その途端、霧が少し肺に入ったらしい、リンクは激しくむせ、一瞬気が遠くなった。
「やめたほうがいいな、こんなの見るからに通れなさそうだ」
妖精もリンクと同じ意見のようだ。だが虫たちはこの先にもいるはずだ。リンクはようやく落ち着くと、霧に満たされた盆地を渡れる場所はないかと探した。洞窟出口周辺から続く左の岩壁からはなだらかな斜面が盆地に下っている。その斜面をたどればある程度の距離は先に進むことができたが、それも百メートルほど行くと途中で切れてしまっている。その切れた部分には平な岩が見張り台のような形で張り出していた。
「おい、ここから渡ってみるぞ」
ミドナが前方を指さした。リンクがその岩の先端に立つと、彼女はふわりと浮き上がり、霧の中から突き出ている枯れ木の残骸の上に止まった。リンクが追随して跳躍する。これを繰り返し、盆地の西側の岩壁に付随した斜面に着地することができた。
その周辺には虫の気配はない。だが、リンクの感覚では、そこから見渡すことのできる盆地の中央付近にある巨大な岩舞台の上に複数の虫がいるのがわかった。リンクは自分がいる斜面の一番奥にある、細長い岩が通路状に張り出している箇所に進むと、そこから岩舞台を眺めてみた。距離は四・五十メートル以上離れている。その途中には、真ん中をばっさりと横に切断されたような巨木が二本ほど立っている。その上を飛び移れば岩舞台に行けそうだ。
「どうした、助けてほしいなら素直に言ったらどうだ?」
ミドナが言う。自分の跳躍力で巨木の上を渡れる自信はなかったのでリンクは素直にミドナのほうを見た。再び浮遊して巨木の上に立った妖精に向かってリンクが跳躍する。たった二飛びで岩舞台の上に立つことができた。
リンクは今自分が立っている場所をよく見てみると、そこは岩ではなく巨大な切り株であることに気づいた。どうやらこの森には呆れるほどの太さの巨木が生えていたらしい。虫の気配もそこここにある。リンクが感覚を研ぎ澄ませると、三匹の虫が周辺を這いまわっているのがわかった。結界を張っても相手が虫の場合取りこぼすことがあると経験で知ったので一匹づつ狩ることにした。まず、相手を騒がせないよう、足音をひそめて直近の一匹に近づく。十分接近したところで襲い掛かり噛み砕いた。すると残りの二匹が小さな雷を発しながら走り回り始めた。リンクは落ち着いて相手の動きを見極め、動きが止まったところで一匹づつ仕留めた。
ミドナが三つの雫を回収し終わると、リンクは岩舞台の反対の端から向こうを観察してみた。この舞台ほどではないが巨大な切り株が複数、ごろごろと霧の中から顔を突き出している。だが先に進む洞窟の門まですんなりとは行けそうにない。
「どうした、ワンちゃん?困ってるのか?」
ミドナが見透かしたかのような調子でからかってきた。
「しょうがないな、このミドナ様が助けてやろう」
リンクが答える前に彼女は浮遊して手近の切り株の上に立った。リンクが後を追って跳ぶ。二人は、切り株を伝い、さらに奥にある巨木の枝の上から、見上げるような高さの木の頂上にまで飛びあがった。さらに、枝から枝を伝って盆地の北東部に向かって進む。枝の上にはところどころにデクババが生えていたが、こんな足場の悪い場所では戦えない。彼らはこれを無視してさらに北東に向かって高い枝の間を飛び移っていった。北東の洞窟の入り口の門が見えてきた。門が大きく開いているのが枝の上にいるリンクにも見える。ふと視線をずらすと、虫が一匹門の前の開けた場所を這いずり回っているのが見えた。
「見つけたな。よし行くぞ」
ミドナの後を追ってリンクは跳躍し、門の前に降り立った。だが虫は途端に地面に穴を掘り、潜ってしまった。これでは捕まえることができない。
「ほれ、何のために前足がついてるんだ。掘って追い出せばいいだろ」
そう言われたリンクは虫が潜った跡に感覚を集中した。土の中ならそれほど速く遠くには行けないはずだ。地面に顔を近づけると、かすかに土をかき分ける音が聞こえる。リンクはその音の源の位置を突き止めると近づいて前足で掘り返した。たちまち虫が小さな雷を発しながら飛び出してきた。だがリンクはもう迂闊にやられるようなヘマはしなかった。虫がひとしきり暴れまわっている間は距離を置き、動きが止んだ瞬間に襲い掛かる。ようやく虫は大人しくなり、その身体から雫が浮かび上がってきた。
雫を回収すると今度は洞窟に向かった。見ると、洞窟の門の脇には看板が立っており、「森の神殿」と書いてある。以前来たときは余裕がなくて気づかなかったのだ。ということは、タロと猿が囚われていた広場のあるあの巨木そのものが神殿だったのだとリンクは気づいた。短い洞窟を抜けその先の広場に到達する。しかしその瞬間リンクは嫌な先客を目にした。あの黒い巨大な悪鬼が広場に三匹も陣取っている。途端に、重いものが落下してくるドシンドシンという音がして、二つある広場の出入り口を魔法の壁が塞ぐのが見えた。悪鬼どもは侵入者に気づくと奇怪な面を被った顔をぐいっと向けてきた。
「またあいつらか。おい、今度は手こずるなよ?」
ミドナがリンクの頭を叩く。リンクは相手の配置を観察した。二匹は広場の出口近くに陣取っており、近くにいる一匹が単独でこちらに向かってきていた。三匹を同時に捕えるのは無理だ。リンクはダッシュして先鋒の悪鬼に接近するとその顔面に跳びつき、空中で体を一回転させた。攻撃が仮面に当たり、一瞬目くらましを喰らったような形になった悪鬼は出鼻をくじかれたようだ。リンクは素早く相手の両脚の間を通って後ろに回り、首を曲げて顔をミドナに向けた。ミドナは結界を発生させる。悪鬼がリンクの位置に気づいたときには、すでにそいつの体は結界にすっぽりと包まれ、小さな赤い雷がその全身を走っていた。リンクが襲い掛かる。悪鬼は喉を深く切り裂かれて絶命し倒れた。
残りの二体が地響きを立てながら迫ってくる。彼らを正確に同時に仕留めなければならない。リンクは時間を稼ぐため一旦方向転換し、岩壁ぞいに逃げ回った。二体ともが同時に追尾してくる。まだ相手方はミドナの結界の恐ろしさを知らないようだった。リンクはいきなり方向転換しそのうち一匹に突進した。太ももの内側に噛み付いて肉を引きちぎる。と思うと素早く飛び降りて相手の後ろに回り込んだ。無傷の一体がこちらの方向を向く。だがリンクは今攻撃した奴の体を盾にしつつミドナに合図を送った。結界が広がると同時に、リンクが盾にしている悪鬼がくるりとこちらに向き直った。だが既にそいつは完全に結界に包まれている。結界を張っている間は走ることができないが、リンクは無傷の一体に向けてじりじり前進した。視界の隅で近くの悪鬼が手を振り上げるのが見えた。その瞬間、無傷のほうの個体の体に赤い雷が走った。リンクが跳ぶ。二体の悪鬼がほぼ同時と思えるほどの間隔で深手を負って倒れた。
悪鬼たちの死体が崩壊し、上空に吸い込まれていった。見上げると、いつの間にか例の渦巻が空に広がっている。
「ごくろうなことだな。わざわざこっちを狩りにきたつもりだったのだろうがかえって好都合だ」
ミドナは呟いた。リンクはふと疑問に感じた。ミドナは明らかに「こちら側」ではなさそうだ。その出で立ちといい、振る舞いといい、怪しげな技といい、どう考えても闇の側の妖精に見えた。それなのに、ゼルダ姫によれば悪鬼たちはミドナをも狙っているという。一体どうしてだろう?
「ほら、もう一息だぞ。早く人間に戻りたいんだろ?」
妖精がリンクの尻を叩く。リンクが顔を上げると、広場の出口はもうすぐだ。そこを抜けて巨木の前の回廊に出た。あの巨木が神殿だということを知ってリンクはやっと理解した。この回廊に続くここまでの道は参道なのだ。かつては、多くの参拝者があの巨木から伸びる太い根を掘り込んで作った坂道の通路を登って巨木を拝みに行ったのだろう。リンクの感覚では、あと何匹かの虫が巨木の根元にいることが感じられた。
リンクは走って回廊を進み、巨木の根の通路を登っていった。登り切ってふもとの広場に着くと、思ったとおり小さな雷を発しながら二匹の虫が歩き回っている。また、放置してある太い丸太の上に白い光が見えた。人だろうか?だがやや様子が違う。リンクが感覚を集中すると、やがて猿の姿がぼうっと浮かんできた。猿もまた油売りの青年と同じように怯え切って震え、左右を神経質に見回していた。
コワイ..コワイヨ....
猿が呟く声が聞こえた。また動物の言葉が聞こえたことにリンクは驚いた。栗鼠に続いて猿だ。もはや空耳とは思われない。自分が動物なら動物の言葉が理解できるのはおかしなことではないとはいえ、リンクにはそれでも信じられない思いがした。
「どうする?結界使うか?それとも自分でやるか?」
ミドナが聞いてきた。リンクは広場を見回した。さほど大きくはないにせよ虫が逃げ回るくらいの空間は十分にある。リンクはもうこだわりを捨てて妖精に頼むことにした。ミドナに合図を送ると、結界が広がっていく。まず左にいた一匹を捕え、リンクが跳躍した。たちまちそいつは身体が砕け散って果てた。さらにもう一匹は危険を感じ取ったのか、やたらと雷を発しながら走り始めた。リンクは雷に触れないよう後ろに飛びのき、慎重に距離をとった。さしものの虫もずっと攻撃態勢ではいられないらしい。そいつの動きが鈍くなったところでリンクはそろそろと近づいた。逃げる場所のない角に差し掛かった瞬間飛び掛かる。攻撃が当たった。虫はひっくり返って断末魔の痙攣を起こした。
精霊に教わったところではこれが最後の虫のはずだ。空中を二つの雫が漂っている。ふと見ると、猿もまた邪悪な者たちが消えたことに気づいたようだ。きょとんとした顔で周囲を見回していた。
ミドナが手を伸ばして器に雫を掬う。器についた実の部分には全て光の雫が満たされたようだ。
その途端、リンクの身体をも光が覆った。雫に触れたときのように不思議な力が身体を満たすのがわかった。光は次第に強さを増して、そのうち自分の中に光があるのか、自分の周囲を光が覆っているのか、それとも森全体が明るくなったのか、リンクには見分けがつかなくなった。
そしてリンクはなぜか気が遠くなった。それは少しも嫌な気分ではなかった。まるでよく晴れた日に牧場で横になり天を見上げている気分だった。
いつしか、リンクは気を失っていた。