「なあリンク」
モイは隣に座るリンクに声をかけた。二人は、リンクの家の前で剣術の稽古をしたあと、火照った体を冷やすため泉まで足を伸ばし、両足を水に浸して涼んでいたところであった。日が傾き始めたとはいえまだ夏の盛りだったから、二人が座る木陰を通り過ぎる風が肌に心地よかった。
「夕暮れってよぉ、どことなく寂しくならねぇか?」
リンクはちょっと驚いてモイのほうを見た。
「それはな、あの世とこの世がこの時だけ、交わるからなんだとさ」
四十手前にして幾多の修羅場を潜り抜け風雪に晒された風貌をしたこの男の口から「寂しい」などという言葉を聞いて怪訝に思ったリンクだったが、黙って耳を傾けているとモイは続けた。
「で、未だこの世に未練を持つ幽界の者達がしばらくそこここをうろつくってわけだ。だからそいつらの思いがこっちにも移ってきて、そうさせるんだって話だとさ」
リンクは相槌を打つと宙を見つめた。幽界。幼いころ年寄りたちに聞かせてもらった昔話では聞いたことがある。この世とは別にある世界。それはこの世と隣り合わせるように存在してはいるが、決してこちらからは見ることはできない。そして多くの人たちの魂がそこにはあり、稀に何かの切っ掛けで彼我を隔てる境界に綻びが生じると、こちらの人間が向こうに迷い込んだり、逆に向こうの住人の魂がこちらの世界にやってくることがあると。
若い頃各地を放浪していたモイは、その手の話をよく知っていた。旅の途中悪鬼たちや、それよりもっと手ごわい魔物と戦ったこともあったらしいし、理屈では説明のしようがないような魔訶不思議な体験談もリンクにしてくれたことがある。
「モイ、あの世ってどんなところなんだろうね」
リンクは呟いた。
「おいおい待てよ、まさかその年でもうこの世が嫌になっちまったてぇんじゃねえだろうな?」
モイは眉を上げると豪快に笑い、リンクの肩を荒々しく小突いた。
「いや違うよ。そうじゃなくってさ」リンクも笑いながら打ち消した。
「もし本当にそういう世界があるんだったら、そこで暮らしてる人たちは毎日何を感じたり、何を考えてるのかなって」
リンクがそう呟くと、モイは腕組みをして「さあなぁ」と首を傾げた。
「俺にもそこまでのことはわからねえ。でもこれだけは言えるな」
リンクが黙って聞いているとモイは立ち上がりながら続けた。
「神が作られたこの世界は途方もなく広い。俺たちに見えているのはそのほんの一部分だけだ。それだけじゃねえ」
モイはサンダルを履き終えて顔を上げると腰に手をあてて遠くのほうに目をやった。
「あれだ。こいつぁ気障な言い方かも知れねぇが、神は目に見える世界だけじゃなく目に見えない世界もまた作られたってことさ」
「目に見えない世界、かぁ」
リンクが呟いてまた物思いに耽っていると、モイが身支度をするよう促した。
「さ、もうじき日が暮れちまう。門を閉めに行くぞ」
そう言われた若者が足を拭ってサンダルを履いていると、モイは突然思い出したようにリンクに向き直った。
「そうだった、お前に一つ頼みがあるんだ」
用意のできたリンクは泉のほとりで休ませていたエポナのほうに向かいかけたが、そう声をかけられ足を止めた。
「俺は明後日村長の使いでハイラル王家に献上品を届けにいくんだが、お前俺の代わりに行ってみないか?」
ハイラル王家?突然のことにリンクは目を丸くした。
「お前はまだ行ったことないだろ?ハイラル王の城はそりゃ立派なもんさ。それに城下町だってこの村とは比べもんにならねえくらいでかいんだ」
ハイラル王やその居城のことは幼いころおとぎ話で聞いたことがあった。絵本を見た記憶では、真っ白で美しい城壁に紋章を掲げた勇壮な旗印が立ち並んでいた。ここから城下町へ行くには幾昼夜も馬を走らせなければならないことは知っていたが、リンクはまだ見ぬその光景を想像するだけでみるみる期待で胸が膨らむのがわかった。
「その目で一度見て来るといい。そしてこの村の外の広い世界もな」
そう聞いた若者の顔が喜びに輝き始めたのを見てとると、モイは満足そうにパチンと手を叩いた。
「よし、じゃあ話は決まりだな。村に戻ったら俺のほうから村長には話しておくよ」
二人はエポナを連れて一旦門から北に抜けると、フィローネの森の入り口あたりで薪を集めてから戻り、門を固く閉めた。トアルの泉の脇の小道を村の方面に向かって歩き始めたときには空はすっかり茜色に染まっていた。
リンクの家の前まで来るとそこにはモイの妻のウーリと息子のコリンが迎えに来ていた。二人目の子を身籠っているウーリは大きなお腹に手をやりながら片手を振ってリンクに挨拶する。モイが息子の頭を撫でてやると、コリンは父の手を握りながらリンクのほうに向かって「明日遊ぼうね」と叫んだ。
モイは息子の手を引いて家に向かいながら安堵していた。すべては村長と打ち合わせたとおりに行った。この計画はボウの発案ではあったが、村人たちの手前ではあくまでモイが気まぐれでリンクにこの仕事を押し付けたような形にしなければならなかった。ボウがリンクの立身のために彼を抜擢したような印象を与えてしまっては、村長がその養子をひいき目に見て自らの権限を濫用したかのようにとられてしまうかも知れないからだ。
これでリンクがしっかりと任務をこなしてくれたら万事は上々だ。村長の立場はよく理解できるとはいえ、モイはこういった気遣いや工作は元来得意ではなかったのだが、リンクが何一つ疑うことなく二つ返事で頼みを聞いてくれたので満足した。
リンクのほうはと言えば、突然舞い込んだこの話にすっかり興奮してしまった。生まれて初めてこの地方から出るのだ。リンクは村外といえばフィローネの森くらいしか行ったことはない。広大なハイラル平原や巨大な橋のかかったハイリア湖を想像すると胸が高鳴った。旅の途中魔物に出会うかも知れないが、幼いころからモイに剣術を叩き込まれてきていたリンクはほとんど心配してはいなかった。
リンクが考え事に夢中になりながら晩飯の支度をしていると、戸口のほうから声がする。
「おおおい、リンク!いるか?」
リンクが二階の窓から顔を覗かせると、山羊飼いのファドが荒い息を弾ませながら外に立っていた。
「悪いんだが山羊追いを手伝ってくれないか?あいつら最近俺の言うこと聞きゃしないんだよ」
すぐ行く、と返事をしてリンクは梯子伝いに一階に滑り降りて外に飛び出した。だが見るとエポナがいない。
しかしリンクは驚かなかった。リンクが一人暮らしを始めてからも、イリアはエポナの様子を見に必ず一日一回は訪ねてきていたのだ。そしてエポナの世話の行き届いていないところを何かしら見つけると、自分で勝手にブラッシングしたり餌をやったり、時にはエポナの全身を洗ってやったり、気の済むまで世話をしてしまってから帰っていくのだ。
「あれ?エポナは?」
ファドも怪訝な顔をして左右を見渡す。
「またイリアだね」
戸口から下に降りたリンクはファドに向かって苦笑いした。
「済まないな。日が暮れる前にエポナを連れてきて山羊を追ってくれると助かるよ」
リンクは頷くと、泉のほうに向かって駆けだした。リンクの足なら泉まではすぐだったが、到着したころには太陽はトアルを囲む岩山にさしかかり始めていた。木立の間から差し込む濃い赤紫色の夕日が水面を照らしている中、案の定イリアとエポナはそこにいた。イリアはエポナを洗い終わったらしく泉の中央に立たせてその全身を点検しているところだった。
イリアはリンクに気づくと微笑みかけた。イリアが日に日に美しくなってきているのが、きょうだい同然に育ったリンクにもはっきりと感じられた。
「エポナ洗っておいてあげたわよ」
リンクは礼を言いながらエポナに近づいた。見ると、すっかり洗い流されたエポナの背中は毛並みが艶々と光っている。この夏の熱気で暑がっていたのか、足を水に浸したエポナは気持ちよさそうに首を振りながらリンクの腕に鼻面を擦り付けてきた。
「女の子なんだからちゃんと綺麗にしてあげないとダメよ?」
片方の眉を上げ腰に手を当てたイリアに軽く睨まれて、リンクはバツの悪い顔をして頭を掻いた。リンクはリンクなりにエポナの世話をしてきたつもりだが、こういう細かな気遣いではイリアには敵わない。しかしイリアの世話のおかげでエポナも幸せそうにしているのでリンクも嬉しかった。
「これからファドの手伝いに行かなきゃならないんだ。山羊が言うことを聞かないっていうから」
「またなの?ここんとこしょっちゅうじゃない。ファドったら山羊に舐められてるんじゃないの?」
二人は会話しながら、イリアが外して岸辺に置いておいた鞍をエポナの背中につけ、轡をその鼻面に固定した。そうしてリンクが支度を整えていると、イリアが泉のほとりに生えている野草を何本か摘んで持ってきた。
「ねえ、これいつもリンクが吹いている草じゃない?」
見ると、それは確かに馬笛と呼ばれる野草だった。春から夏にかけて成長し、蹄鉄型の花弁を吹くと笛のような音がするのだ。リンクはそのうちのひとつをとると、花弁の両端に穴を開けて息を吹き込んだ。ただ息を吹き入れるだけでは一本調子な音しか出ないのだが、リンクは息の強さを器用に微調整してちょっとしたメロディのようなものを吹くことができるのだ。イリアはリンクが吹く草笛の音を聞くと手を叩いて喜んだ。トアル村には楽師もいなければ、楽器を持っている者さえほとんどいない。だからこんな素朴な草笛一つでも音楽会のように喜ばれる。エポナにも音楽を鑑賞する知能があるのかどうかはわからなかったが、彼女もまた動きを止めてリンクの笛の音にじっと耳を傾けていた。
「日が暮れる前に行かないと」
ひとしきり笛を吹いてしまうと、リンクはエポナにまたがって言った。
「もう綺麗になったからいいけど、この子に無理だけはさせないでね?」
イリアはエポナの首筋を撫でながら念を押すように言った。
「約束よ?」
「ああ、約束するよ」
そう答えると、イリアは安心したように微笑んで馬上のリンクに向かって軽く手を振った。
「じゃあリンク..また明日、ね?」
イリアとこんな風にゆっくりと会話したのは随分久しぶりのような気がした。一人暮らしを始めて以来リンクは使いの用事や野良仕事が増えて忙しくなり、イリアはイリアで臨月の近いウーリの手伝いやら何やらで飛び回ることが多くなったからだ。以前のようにイリアともっと一緒にいられたら...一瞬心の中に浮かんできたそんな思いをリンクはすぐに自分で打ち消した。リンクは、自分が捨て子であることは随分前から認識していた。それはつまり、村に置いて貰えるだけでも有難いと思わなければならない身なのだ。ましてや村長の娘など、自分とはあまりにも身分が違い過ぎる。
また明日、と挨拶を返すと、リンクはエポナを泉の脇の小道に入らせた。しばらく並足で進んで泉から距離をとるとリンクは「さあ、走るぞ」エポナに声をかけて手綱を鳴らした。彼女も慣れたもので、嘶きをあげながら即座に速足になる。
軽快に飛ばしてあっという間に中央集落まで着くと、リンクはエポナを並足にした。雑貨屋の前を通りかかると、女主人のセーラが店を閉めているところだった。リンクの姿を認めると気さくに声をかけてくる。
「おやリンク、ファドの手伝いで牧場を閉めにいくのかえ?」
セーラは背が高く堂々たる体格で、女商店主としての風格を十分に備えていた。細身で小柄なハンジョーとは対照的だ。世間話をしていると店の中から夫のハンジョーと娘のベスも出てきた。
「あたしももう店を閉めるとこでね。最近ほら、なんでも森のほうの猿がこっちに出てきて悪さをするっていうじゃないか。品物盗まれたら大変だからね。うちの人はあんまり頼りにならないしねぇ」
「ねえパパぁ、猿くらい捕まえられないの?」
ベスはそう言うと父の手を握ってブンブン振り回したが、ハンジョーは力なく笑って肩をすくめるばかりだった。
一家に手を振って別れ、村の中央を流れる川にかかる水車小屋に至る橋を右手に見ながら進んでいくと、釣り用の木製の足場の上でモイが剣術の型を練習していた。若いリンクが身体の成長に伴ってめきめきと腕を上げているので、自分が追い越されてしまわないよう最近は一人でもよく稽古をしているらしい。重い鉄製の剣を木の枝のように軽々と片手で持ち、裂帛の気合とともに縦斬り、横斬り、回転斬りと次々に技を繰り出している。ウーリとコリンは少し離れた岩の上で立って見ていたが、コリンはいかにも退屈そうな顔をしていた。
「おおいリンク、さっき一つ言い忘れてた」
モイはリンクを見ると練習の手を止めて声をかけてきた。
「倅が今釣り竿を作ってるんだ。お前と遊びたいからってな」
それを聞いたリンクがコリンのほうを見ると、幼い少年は顔を赤くしてそっぽを向き、母親の影に隠れてしまった。
「今日にも完成するだろうから、明日見に来てやってくれねえか」
リンクが手を上げて応え、馬を進めるとやがてボウの家が見えてきた。ボウは、いつもそうしているように、太い腕を組んで戸口に立ち村を見守っていた。
「おおリンクか、ご苦労さん」
リンクが川にかかったもう一つの小さな橋を渡り家の前まで乗り付けると、彼はよく響く声で呼びかけてきた。
「ファドの手伝いに行くんだってな。あいつは先に牧場に戻ったぞ。お前も日が暮れる前に早く行って仕事を済ませなさい」
ボウのぶっきらぼうな言い方には、しかし、隠しきれない優しさが込められていた。ボウはいつもしかめっ面で感情をあまり表に出さないが、実は情の深い男で、養子であるリンクの行く末をいつも心に留めていることをリンクは知っていた。しかしまた、村長である立場上、彼ばかりをひいきせず時として突き放さなければならないということも。
リンクは一人暮らしを始めてから数か月が過ぎ、当初感じていたえも言われぬ高揚感が薄れてくると、やがてこの家での暮らしや家族で囲む食卓を懐かしく思い出すようになった。その回想はしかし、胸を締め付けられるような一つの諦念が伴っていた。自分はもう二度とこの家に帰ってくることはできない。その資格がないのだ。
こうしてボウの家を出て暮らしてみると、この村に身寄りのない天涯孤独の自分にボウがどれだけ目をかけてくれたのか、自分が自立できるようどれだけ心を砕いてくれたのか、リンクには痛いほどわかるようになった。それだからこそ、リンクは家を出て以来二度とボウを「お父さん」と呼ぶことをしなくなった。「ボウ」か、時には「村長」と呼ぶようにしているのだ。
「わかってるよ、ボウ」
リンクは心のうちの思いとは裏腹に元気よく答えると、エポナに掛け声をかけてボウの家の脇から牧場に通じる坂道を一気に速足で駆け上らせた。
牧場の囲いの中に入ると、太陽はもう半分ほど西の山脈に沈み始めていた。それなのにまだ十頭ほどの山羊がのんびりと草を食んでおり、ファドはその傍らで成す術もなく突っ立っている。
「悪りいなリンク、急に呼び出しちまって」
ファドは申し訳なさそうに言った。
「最近こいつら様子がおかしくてさ、全然言うこと聞きやしないんだ。時間もないし、エポナで追い立ててくれるか?」
確かに山羊たちの様子は近頃どこか奇妙だった。ファドは、特段仕事熱心でも要領の良いほうでもなくどちらかと言えば素朴で、悪く言うとのろまな男だったが、それでも山羊たちを追い立てて小屋に入れるのに以前はこれほど手間取ってはいなかった。
ファドは牧場の持ち主でもその息子でもなく、言ってみればボウの雇い人に過ぎない。牧場はもともとボウの祖父と父が拵えたものなのだ。だから村人たちの間では、ファドはいわば半人前とみなされてしまうきらいがあった。なんとなれば給料を払う立場ではなく給料をもらう立場でありながらリンクに手伝ってもらってばかりではいかにも体面が悪いのだが、それでも背に腹は代えられないので彼はこうして頼み込んでくるのだ。
リンクはしかし、いつでも二つ返事でファドを手伝ってきた。ファドもまた村の中では立場の弱い人間の一人だ。ファドの両親は二人とも体が弱く、彼がまだ少年のときに亡くなった。彼自身も知恵が遅かったのでよく周囲からからかわれていた。体が大きいのだけが取り柄だったファドは、大人になってもボウが見繕ってやった半端仕事を転々とするばかりで、結局三十歳近くでようやく山羊飼いに落ち着いたのだ。リンクは昔雑貨屋の斜向かいにあるファドの家に一度だけ行ったことがある。両親のいないファドが一人で暮らすその家はガランとしていて薄暗かった。ファドは以前寝ている間にランプを倒してしまいボヤ騒ぎを起こしたことがあるので、それ以来家に明りを灯すことを一切やめてしまったのだ。彼は料理もほとんどできず、食事といえば冷たいパンを手でむしって口に押し込むだけで、たまに手に入るチーズを添えられれば彼には大ご馳走であった。見かねたイリアが時々スープを作って持っていってやっていたこともあったが、噂を立てられたり誤解されることを心配したボウによってそれも止められてしまった。
リンクはエポナを山羊の群れの背後に位置させると、左右に弧を描くようにしてその周りをゆっくりと回らせ始めた。時折大声を上げて山羊たちを煽る。それを受けて何頭かの山羊がノロノロと移動し始めたが、それでも残りは涼しい顔をして草を食み続けている。しかしリンクは焦らなかった。叫ぶのをやめ、山羊たちをつつくようにしてエポナをゆっくりと近寄せる。そこでようやく動き始めた個体をまた煽る。それを繰り返していると、やがて群れ全体が小屋に向かって動き始めた。トアルヤギは気性が荒いから、あまり煽り過ぎると怒り出す。昔それで角に引っかけられ落馬させられた経験があるリンクは、今は強引に煽るようなことをせず巧みな押し引きを使って群れを動かすやり方を心得ていた。
山羊たちは、群れ全体が動き出すと突如として自分たちの門限がとっくに過ぎていることを思い出したようだ。一頭また一頭と小屋に向かっていき、一分もしないうちに全頭が小屋の中に納まった。
「リンク、エポナ、ありがとな」
山羊小屋の柵を閉じるとファドが言った。
「明日は迷惑かけないでしっかりやるからさ、お前は先に家に帰ってゆっくり休めよ」
ファドの言い方は、彼自身の仕事は日が暮れてもまだ残っているということを暗喩していた。彼は読み書きも算数もできないのはもちろん、段取りを立てて作業をすること自体がひどく苦手だった。だから、同じ仕事をさせても他の人間の倍も時間がかかる。リンクはファドが夜明けから仕事を始めても、しばしば家に帰るのは夜遅くになるということを知っていた。しかし、ファドの良いところは、他人が温かい夕食をとっている時間にもまだ汚れ仕事をしていなければならない自分の境遇を決して嘆いたり僻んだりはしないところだった。
「俺はほら、何しろここが悪いだろ?」いつかファドはそう言って自分のこめかみを指さしながらリンクに説明したものだ。「だからさ、お前みたいに次にあれをして、その次にこれをして、とかパッパと考えるってことができないんだよな」
ファドはそれでも自分が仕事を与えてられていることについてボウには深い恩義を感じていたし、いつも手伝ってくれているリンクへの感謝も決して忘れたことはなかった。
「そうだリンク、それか柵越えの練習していくか?」
ファドは思い出したように言った。
「待ってろリンク、今柵を出してくるからな」
そう言い置くとファドは一旦小屋の脇にある物置のほうに引っ込んでいったが、しばらくすると五メートルほどの長さのある木製の大きなフェンスを引き摺り出してきた。
ファドは、以前リンクがたまたま牧場に出してあったフェンスでエボナに柵越えの練習をさせていたのを見て以来、リンクが手伝いに来る度にこうして勧めてくれるのだ。リンクは、手伝ってもらってもお礼に渡すものを何も持っていないファドとってこれが彼の感謝の念を表す唯一の方法であることを知っていた。しかしあまり長い間練習していたらその分ファドが帰宅するのも遅くなってしまう。かといってその厚意を無下にするのも気が咎めるので、リンクはいつも何回かエポナを飛ばせてから帰るのだ。
「好きなだけ練習しろよ。終わったらそのまま村に帰っていいからな」
リンクは礼を言うと、エポナの手綱を鳴らした。彼女はもう、リンクの微妙な仕草だけで次に何をすべきか分かるようになっていた。嘶いてダッシュすると、軽快な足取りでヒラリとフェンスを飛び越える。リンクは二、三回柵越えをすると、ファドに手を振って村の方角に取って返した。もう日はとっぷりと暮れていた。
リンクは家に着くと、作りかけだった夕食を温め直した。一人でテーブルについてスープを掻き込み、パンを齧りながら竈門の炎を眺めていると、イリアがここにいてくれたらどんなにいいだろう、という思いが再びしみじみと湧いてきた。幼かったころはよくイリアと竈門の火を囲んでいつまでも他愛もない話に花を咲かせ、いい加減もう寝なさいとボウから叱られたものだ。
食器を片付けて口をすすぎベッドに潜り込んだリンクは、しかしこう思い直した。ファドのことを考えたら、彼と同じような境遇の自分だって、自らの物を何一つ持たない雇い人になっていてもおかしくはなかったのだ。そう思い至ると、自分が今どれだけ恵まれた境遇なのかが改めて思い起こされた。これ以上の幸福を望むのは欲張りに過ぎる、それこそ神罰が当たるというものだ。
リンクはイリアのことを無理矢理頭から追い出すと、泉でモイから持ちかけられた任務のことを考えるようにした。
村の外にある、まだ見ぬ広い世界に足を踏み入れるのだ。旅には何を持って行こうか。そうだ、城下町には珍しい物が沢山あるだろうから皆に土産を買って帰ろうか。そんな風に頭のなかで計画を立て始めると、リンクの心は再び浮き立ってきたのだった。今日一日の野良仕事と、剣術の稽古と、牧場の手伝いとでさすがのリンクももうクタクタだったが、これから待ち受ける冒険のことを考えるとなかなか寝付くことができなかった。