上空に現れた黒い渦巻きの中心から押し出されるように、真っ黒な塊が現れ、落下してきた。一体。二体。そして三体目。
その大きな黒い塊は無様に地面に落ちると、やにわにムクリと起き上がった。
あの黒い背の高い悪鬼。影の使者たちだ。
彼らは左右を見回すと、奇妙な面をつけた顔をピタリとリンクのほうに向けた。
リンクを狙っているのは明らかだった。彼らは地響きをたててリンクの方に殺到してきた。
リンクは咄嗟にエポナに走り寄って跨がった。方向を敵の方に向け、その脇腹にかかとを当てて加速の合図をする。
剣を抜いて先頭の悪鬼に真っ直ぐ突進した。悪鬼が手を振り上げた瞬間には間合に入っていた。横斬りを繰り出しその脇腹に傷を負わせた。
前方にさらに二体が見える。リンクは剣を左腕の後ろにまで引き回転斬りの構えをとった。二体の間を通った瞬間裂帛の気合いとともに放つ。
右側の悪鬼の、振り上げようとしていた上腕の内側が切断され鮮血が吹き出る。だが、左側の鬼に対しては顔に被った奇妙な面の右側に少しの切り傷ができただけだった。
リンクは剣を納め、エポナを加速し続け荒れ地を横切った。オルディン大橋の巨大な門が目の前に迫ってきた。
「おいバカ!逃げるなら逆方向だろ!」
ミドナが叫んだ。
オルディン大橋の門の向こうの光景がリンクの目に入る。
だがそのときリンクは驚きのあまり息を呑んだ。覚えずエポナの手綱を引き停止させる。
橋が途中から数十メートルの長さに渡ってすっぽりと消えている。まるで鋭利な刃物で切られたかのようだった。
背後からあの悪鬼たちが追いかけてきていた。リンクはエポナを降りて弓を背中から下ろし矢をつがえた。先頭の鬼に向け放つ。
矢は過たずその左胸に当たった。だが鬼は一瞬苦痛の呻きを上げたがそのままこちらにむかってくる。巨大すぎて矢では倒せない。
「エポナ、下がってろ」
リンクは愛馬に言うと弓を手放して盾を下ろし、剣を抜いた。
「まったくおまえはそこつ者だな」
ミドナが呆れたように溜め息をついた。
「言っとくが私の結界は影の領域内でしか使えないぞ。自分の力だけでどうにかしろ」
「わかってる」
リンクは答えた。最初の鬼との距離はもう十メートルもない。囲まれる前に動く。リンクはそう決め、相手に向かって走り寄った。
悪鬼が右手を振り上げる。リンクは立ち止まるとしっかりと盾を構え脚を踏ん張った。
物凄い衝撃が来た。身体ごと数十センチ後ろに押される。だが次の攻撃が来る前にリンクは弾かれたように突進し相手の脇腹に突きを放った。剣を思いきりこじってから抜く。激痛に吼えた悪鬼は、腹から臓物を吹き出しながらも、今度は左手でリンクを捕まえようとしてきた。リンクは再び剣を突き出す。悪鬼の巨大な手の真ん中に剣が深々と刺さる。真っ黒な異形の手が鍔の手前まで来た。リンクはそのまま強引に相手の指の骨の間を引き切った。次いで強烈な盾アタックを頭部に食らわせ、回転斬りで首に深手を負わせた。悪鬼はのけ反ると大量の黒い血を吹き出させながら力が抜けたように立ち尽くした。
だが左右から後続が迫ってきていた。同時にリンクを叩き伏せようと手を上げる。リンクは咄嗟に、もはや崩れ落ちそうになっていた最初の鬼の脚の間を走り抜けた。
悪鬼どもの巨大な手が絶命したばかりの仲間の遺骸にぶち当たる。その遺骸がドウと音を立てて倒れた瞬間、リンクは相手二匹がこちらの位置をとらえ直す前に仕掛けた。
気合いを発し強烈なジャンプ斬りを右側の鬼に叩きつける。相手の鎖骨から胸にかけ深い切り傷が走る。だが敵の身体が大き過ぎる。そいつは少しの悲鳴を上げたあとすぐリンクに手を伸ばしてきた。左から来た手を盾アタックで跳ね返すと、リンクは回転斬りで敵の胸から上腕の内側にかけてをバッサリと切り払った。
視界の隅にもう一匹の影が映る。リンクは咄嗟に横に転がった。悪鬼が手を払う。その巨大な手がリンクの頭上すぐをかすめた。
胸と腕に傷を負わせたほうの悪鬼もまだ生きていた。立ち上がったリンクに向かって再び手を振り上げる。盾を上げて攻撃に備えた。再び凄い衝撃が来た。
だがゴロンの拳の重さを経験したリンクにとってはもはや驚くほどではない。もう一匹もこちらに向かって手を振り上げてくる。リンクはバックホップした。相手の手がさっきまでいた地面に叩きつけられ、地響きがする。リンクはその腕の上に駆け登ってジャンプ斬りを叩きつけた。敵の首筋の横がバックリと割れ、鮮血が吹き出た。リンクは着地すると同時に渾身の突きを放った。剣が柄まで悪鬼の腹に食い込む。相手の身体を蹴って剣をその身体から抜く。
肩越しに振り返ると手負いの悪鬼が背後から捕まえにこようとしていた。リンクは後ろに転がった。わざと相手の間合に入る。そして地面に転がったまま剣を上に突き出す。リンクを上から押さえようと屈んだ悪鬼の下腹にモロに切っ先が突き刺さる。リンクは立ち上がりざま、激しい苦痛と怒りの咆哮を上げて悶え狂う悪鬼の両脚の間を通り抜けた。
首と腹に深手を追ったもう一匹が、まだリンクを捕らえようとして、仲間の左側からこちらに回り込んでくる。
リンクは近くにいる悪鬼が立ち直る前に、逆回転斬りを放った。悪鬼のふくらはぎがバックリ切断される。その悪鬼が膝を屈めた瞬間、リンクは前に進み出てもう一匹の攻撃を誘った。そいつが手を振り上げる。後ろの悪鬼も苦悶から立ち直り、手を上げた。
待つ。二匹を同時に倒さねばならない。リンクは盾も構えずその瞬間を待った。
二匹の悪鬼が前後から同時に手を振り下ろす。リンクは横に飛んだ。鳥の足を思わせるような悪鬼の爪が頭の数センチ先をかすめる。
リンクは振り向きざま右側の悪鬼に再びジャンプ斬りを叩きつけた。後ろ首に深手を負った相手の上体が下がる。
視界の隅で両方の敵の位置をとらえてその距離を計る。次の瞬間、リンクは二匹の敵の間で渾身の回転斬りを放った。
上体が下がった二匹の悪鬼の喉笛と頸動脈を剣の切っ先が切り裂いた。二匹ともが自分の首を手で押さえた。まだ怒りの吼え声を上げていたが、やがて両方とも力尽きたのか膝をついて地面に座り込み、しばらくすると動かなくなった。
絶命した三体の影の使者たちの遺骸が崩壊し、その破片が上空に浮かぶ渦巻きに吸い込まれていく。
「まったくお前には毎回毎回ヒヤヒヤさせられっぱなしだな」
ミドナが言った。リンクはいまだに荒い息をついている。考えてみれば人間の姿で影の使者たちと戦ったのは初めてだった。冒険を始めたころのリンクでは到底倒すことはできなかっただろう。息がようやく収まってくると、リンクは血払いして剣を鞘に納め、地面に座って水をごくごくと飲んだ。
「こいつらどうして僕らがここを通ることを知ったんだろう?」
リンクは額の汗を拭きながら言った。
「まあある意味当然だ。フィローネとオルディンの影の領域が晴れたら次はラネールだ。ルートは限られる」
ミドナが空中に半透明の姿を現した。
「あとはいつ通るかのタイミングだけだ。あいつのことだから各地にスパイを放っていても不思議はない。あるいはあの岩が取り去られたらわかるよう魔法の仕掛けがついていたのかもな」
ミドナはそう言うと上空の黒い渦巻きを見上げた。
「まあいずれにせよご苦労なことだな。我々としてはこうして出現したポータルを利用させてもらうだけだ」
「あそこを通って移動できるのかい?」
リンクは上空の黒い渦を見上げた。
「ああ。だがその前に橋の部品を見つけてこないとならない。それは面倒だから今のところは後回しだ。先に行くぞ」
リンクは弓を拾い上げるとエポナに跨がった。荒れ地を横切らせると、リンクは一旦下馬してエポナの手綱を引き、破壊したばかりの岩の残骸の上を乗り越えさせた。
ラネール地方への小道に入ると再度馬に跨がり、早足で走り始めた。
両側に迫る崖が高く、まだ日は上っているのに道にはほとんど直射日光が射さない。それどころか、周囲に生物の気配というものが感じられなかった。それまでの旅では、どこにいても何かしら鳥や虫の鳴き声が聞こえたりしたものだ。それなのに、小道に入ってから、風の音さえ耳にしなくなった。
馬を進めていくと、リンクはまるで自分が死の世界に下っていっているかのような錯覚を覚えた。道端には僅かな雑草さえ滅多に生えていない。
リンクは嫌な予感を覚えた。この先エポナを休憩させる場所が見つからないと困る。リンクはエポナを止まらせ、自分の水筒から水を飲ませると、ほんの少しの草むらに差し掛かるたびに停止して彼女に草を食ませることにした。
夕暮れ時が近づく。馬を進めていくと、やっと風景に変化が表れ始めた。とはいっても、左右の岩の崖の高さが多少高低しているだけだ。
エポナを消耗させないよう、リンクは並足に切り替えた。この先にある影の領域には彼女を連れてはいけない。そしてオルディン大橋が切断されてしまった以上、リンクが影の領域を晴らしてエポナを迎えに行くまで、彼女が飢え渇いてしまわないようにしなければ。
すると行程は遅々として進まなかった。どこまでも続く小道は、やがて右に緩くカーブしていく。崖に挟まれた小道では、日が沈み始めるとみるみるうちに周囲から光が無くなっていった。
あたりがすっかり暗くなると、リンクは馬を止めて天幕を張った。薪を集められるほどの植生もないので、リンクはそのまま天幕の中で夜を明かすことにした。
パンの残りを食べて侘しい夕食を終えると、ブーメランを取り出してゲイルに話しかけた。リンクとの久し振りの会話をゲイルも心待ちにしてくれていたようだった。
「リンク、君はこの数日間で大きく成長したと私は思いますよ」
「そうかなあ」
「そうです。君はゴロンたちのために力を尽くしました。まさにそれが切っ掛けだと思います」
「切っ掛け?」
リンクは尋ねた。
「勇者はいつの時代もハイラル王国を救う英雄だと考えられてきました。しかし、その冒険はいつも、身近にいる人を助けたいという思いから始まってきたのです」
「僕みたいに幼馴染みや近所の子供たちを助けたい、そういうことが冒険の始まりだったってこと?」
「さよう。そしてその旅路の途中で新たに関わるようになった人たちの窮状を救いたいという心が起こされ、勇者は行動してきました。勇者とはそのような存在なのですよ」
「ゲイル、もしかして僕を慰めてくれてるのかい?」
リンクはそう言うと笑って肩をすくめた。
「何しろ僕は以前君から勇者の話を聞かされたときすっかり意気を落としちゃったからね。魔物に身を落としたとはいえ神を倒すなんてことは僕には絶対に無理だって」
「リンク。君に知っておいてほしいことがひとつあります。ハイラルを創りたもうた神は、世界を救うたったひとりの傑出した英雄を求めておられるわけではないのですよ」
「それ、どういう意味だい?」
「世界を救うのはたった一人の力強く偉大な人物の行動ではありません。この世に生きる多くのありふれた人たちが、小さな善を行うとき、そして身近な人たちを救いたいと自らの力を尽くすとき、それが世界を善に向けて動かすのですよ」
リンクはじっと耳を傾け、ゲイルの言葉を理解しようと考えを巡らした。
「ですからリンク、神に選ばれた勇者ですら、そのような無数の人たちの助力なしでは到底その冒険を成し遂げられなかったでしょう。そのことをよく覚えていてほしいのです」
「じゃあゲイル、勇者がいる意味って一体何なの?」
リンクは尋ねた。ゲイルは少し考えたあと口を開いた。
「リンク、これは私の推測ですからそう思って聞いてください」
「うん、言ってみてくれ」
「勇者の伝説は精霊の間だけでなく、人の間でも長きに渡って語り継がれています。そこには目的があると思います。それは、それによって聞く人が慰めを得たり、その心の勇気を燃やされたりして、やがては善に駆り立てられるように、ということなのだと私は考えています」
「語り継がれるために?」
「そうです。実際には、多くの人たちが勇者の冒険を支えています。それはどの勇者でも変わりません。しかし勇者はそのような人たちの全ての行為と思いを代表して存在しているのです。そしてまたその勇者の成し遂げたことが伝説となり、語り継がれて多くの人を善に向かわせる。それが勇者の存在する目的なのではないでしょうか?」
リンクは地面に座った自分の膝を両腕で抱えながらゲイルが今言ったことについて考えをまとめようとした。だが、もう少しで分かるような気がしていたが、その悟りのようなものは頭の中で像を結びそうなのにもかかわらず、まだ手をすり抜ける砂のようにつかみ所がなかった。
「勇者は歴史上繰り返し現れてきました。しかしそこにはあるパターンがあるのです。勇者は明らかに神のような人物ではありません。むしろ逆です。皆普通の人間です。しかし、神の不思議なお計らいによって、その生まれた場所から呼び出され、多くの出会いを通じて勇者として成長していくのです。そして彼は成長を遂げたあとでもたった一人で働きを成し遂げることは決してありません。むしろ、成長すればするほど多くの人たちの思いを胸に、その助けを背にして戦うのです。それが勇者です」
自分はボウに育てられたあと、モイに鍛えられた。そして、今はあの骸骨剣士から新たな技を授けてもらっている。ならば自分もやはり勇者の道を歩んでいるのだろうか?
だが、ゲイルの言葉を消化しようと全力で頭を巡らせているうちに、リンクはいつしか眠くなってきてしまった。
「リンク、まだまだ旅路は長いですから、答えをすぐに得ようとする必要はありませんよ。今は休みましょう」
ゲイルにお休みを言ってブーメランを仕舞うと、リンクは天幕の入り口を閉じた。気温が急に下がってきた。焚き火も焚いていないから、今夜は冷え込みそうだ。
風がないだけましだったが、天幕の中でさえ快適とはほど遠い。しかし、それでも今日の旅路と戦闘の疲れからか、横になってしばらくするとリンクはうとうとし始めた。
途切れ途切れの眠りのあと、リンクは胸騒ぎがして目が覚めた。身支度して天幕を出る。エポナに歩み寄って、首を撫でながら様子を見た。
落ち着きがない。何かに怯えているようだ。リンクは手早く天幕を畳んで荷物をまとめた。何かの危険が近づいているのだろうか。
リンクはカンテラを取り出して火をつけた。両側を壁に挟まれ、月明かりですら差し込まない小道の様子がカンテラのぼうっとした灯りに照らされる。
不毛な風景は寝る前と変わらない。リンクはふと思い立って地面に伏せ、路面に耳をつけてみた。
ほんのかすかだが、遠くから誰かが歩いてくるような振動音が聞こえる。
「おいリンク、カンテラを消せ」
ミドナが囁いた。
「驚いたなミドナ。起きてたのか?」
「私は元来夜型だ。というかお前みたいに早く寝られる奴が信じられない。それより灯りを消せ。あと音も立てない方がいい」
リンクはカンテラを消した。エポナの手綱を引いて近くに引き寄せると、息を潜めて耳を澄ませた。
これまで来た道は、橋が落とされたのだから敵がやってくる可能性はないはずだ。リンクは前方の道に神経を集中した。
しばらくじっと待っていると、小道の先はるか向こう側から、悪鬼が喋る耳障りな声と、足音が聞こえてきた。
リンクはそうっと弓を下ろすと、矢をつがえて待ち受けた。光りの差し込まない道では聴覚が頼りだ。足音と話し声が近づいてくる。
やがて道の向こうに動くもののシルエットが浮かび上がった。息を殺しながらじっと目を凝らす。棍棒を下げた影が二つ。ブルブリンだ。歩き方から、あの悪鬼だとはっきりわかった。
リンクは少しづつ弓を引き絞った。足音が近づいてくる。ごく僅かな星明かりでは相手の姿どころか位置でさえ時々見失いそうだ。リンクは耳を澄ませ五感全てを動員するつもりで注意を集中した。
だがエポナが魔物の気配を嫌がったのか、いななきながら足を踏み鳴らした。
悪鬼どもは一旦立ち止まって互いに何事か言葉を交わしていたかと思うと、耳障りな笑い声を立てながらこちらに走ってきた。
リンクは息を殺してギリギリまで待った。距離が五メートルほどになる。すると、道端にいた馬をぶん捕ろうと嬉々として近づいてきていたブルブリンどもはその傍らに弓を構えた若者がいるのを見て一瞬呆気にとられ立ち止まった。
この距離なら闇夜でも外さない。放たれた矢が一匹の顔面のど真ん中を貫く。崩れ落ちる仲間を見たもう一匹が戦うか逃げるかを迷っているうちにリンクは二の矢をついでその胸を射抜いた。二人目もあえなく崩れ落ちた。
道に静寂が戻った。リンクは弓を仕舞うと、エポナを撫でながら声をかけて安心させた。
「気に入らないな。こんな場所で二匹だけでうろうろしてるっていうのが引っ掛かる」
ミドナが姿を現して言った。
「つまり近くにもっと仲間がいるかもってことだね」
「そうだ。強行突破も覚悟した方がいい」
「ミドナ、エポナを橋のところまで連れ戻してもいいか?」
リンクは言った。するとミドナは驚いた顔でリンクに向き直った。
「なんだと?今なんて言った?」
「ここから先もこんな場所が続くんなら、エポナはそのうち飢えてしまうよ。でもあの場所なら多少草も生えていたからまだましだ」
リンクは今まで来た道のほうを指し示すと、言葉を継いで言った。
「それに鬼の群れがこの先にいたとしたら、首尾よく突破できたとしても一旦僕たちが影の領域に入ったらエポナは敵の前に取り残されることになる。そうだろ?」
ミドナは少し黙っていたがやがて言った。
「ダメだな。却下だ」
「どうしてだ?」
リンクは思わず声を上げた。
「ラネールの影の領域はまだまだ先だ。徒歩で行くには備えが足りない。第一今まで来た道も含めて改めて踏破するなんて、それこそお前自身が飢え死にしかねないぞ」
「待ってくれ。だけどエポナはどうなるんだ?」
「残念だが影の領域の前に置いていくしかないな」
「それはできない。いくら君の命令でもそれは従えないよ」
リンクは言った。
「ミドナ、君にはただの乗り物かもしれないがエポナは僕の妹同然だ。ただのモノみたいに乗り捨てるなんてできるはずがない」
「またお前の悪い癖が出たな」
ミドナが首を振ってリンクに人差し指を突き付けた。
「おいリンク。自分が何を選ぶのかよく考えて決めろ。お前はあの女を探しに行く。そのためには影の領域に入らないとならない。そのためには移動手段が必要だ。それはわかるな?」
リンクはわかっていた。だがそれでも頷くことはできなかったが、ミドナは構わずに続けた。
「妹なのか何なのか知らないが馬のためにあの女を諦めるなんていうおかしなことはまさかお前でも言うまい。それなら結論はひとつしかないだろ。違うか?」
「ミドナ、何か別の方法はないのか?例えば‥‥」
「いい加減甘ったれるな!」
ミドナはそう怒鳴ると腕を組んでリンクを睨み付けた。
「おい下僕、私の寛大さにも限度があるのを忘れるなよ。お前の足りない頭でいくら考えても結果は同じだ。影の領域の入り口まではまだ遠い。一か八かで徒歩で移動なんてのは認めない。馬のために仕事の成否を危険に晒すなんて馬鹿な選択は私のやり方ではない」
「わかる。君の言っていることは正しい。だけど‥‥」
リンクは下を向いた。だがミドナは語調を緩めなかった。
「あれも失いたくない?これも欲しい?あれも取り返したい?いい加減にしろってんだ。何かいいやり方があるはずだと?何もわかっていないくせにそうやって欲張るお前みたいな甘ちゃんを見ると私は虫酸が走るんだよ!」
そこまでまくし立てると、彼女は少し黙っていたがやがて横を向いた。
「ふざけるな。私が‥‥私が今までどれだけ多くのものを失ってきたと思ってるんだ」
その言葉を聞いたリンクは、雷に打たれたように顔を上げた。ミドナが自分のことを話すのはこれが初めてだ。
「ミドナ、今なんて言ったんだ?」
リンクは声をかけた。だが彼女は途端に自分の姿を畳み、見えなくなってしまった。
「ミドナ?ミドナ!」
「お前の案は却下だ。馬で影の領域に向かえ。以上だ」
リンクの呼び掛けにミドナは低い声で答えると、それきり黙ってしまった。
リンクは彼女が今言ったことの意味を考えた。事情はよく分からないが、彼女の真の心情を垣間見たリンクには、作戦を考えるより彼女を慰めることのほうが先だと思えた。
「ミドナ、僕に役に立てるかわからないけど、その‥‥君がどんな経験をしたのか話してくれないか?」
だがリンク自身の声が静まり返った夜道に響き渡るだけで何の返答もなかった。リンクはため息をつくと諦めた。
ミドナの言うとおり、エポナをこんな土地で、悪鬼どもがうろつく中で乗り捨てていかないといけないのだろうか。そんなことを自分がして、イリアがもしそれを知ったら、彼女を助けるためだったとしても決してリンクを許してはくれないだろう。
リンクは悄然とした思いで道に座り込んで夜を明かした。また寝る気にもなれず、まんじりともしないで過ごすと、頭上の崖の間から見える空が次第に明るくなってきた。
行くべきか?戻るべきか?リンクにとって決断すべきときがきた。リンクはエポナに跨がると、ゆっくりと歩かせ始めた。心はひどく騒いでいた。エポナを後で危険地帯に置き去りにすることをわかっていて、その背中に乗って歩かせているのだ。自分はなんという酷い主人だろう。それを知ったイリアが自分に向けるであろう軽蔑と失望の眼差しが目に浮かんだ。
それでもイリアを救い出すべきだろうか?リンクはその問いを自分に投げ掛けたとき、他に答えはないことを知っていた。行かなければ。
左右の灰色の岩壁と、日当たりが悪く草も生えない不毛な風景のなか、道は引き続き緩やかに右にカーブし続けている。どれくらいエポナを歩かせただろうか。気がつくと、遠く前方に橋が見えた。狭い峡谷を渡る短い橋らしい。
峡谷があるということはどこかに支流や、少なくても小さな水の流れがあるかも知れない。リンクはそう考えると、エポナをやや早足にして前進した。
橋の近くまで来ると、エポナを止めて下馬し、近くの岩壁を子細に調べた。こちらの岩壁には左右とも何もない。仕方なくエポナの手綱を引いて橋を渡った。
橋を渡ると、左手の岩壁がリンクの目を引いた。人手によって削られたような跡がある。よく見ると細長い溝が地面と平行に穿たれており、そこに見慣れない金具が一定の間隔を置いて嵌め込まれてている。それを谷のほうに辿っていくと、ところどころ岩が割れてわずかに水が湧き出ている場所があった。
リンクはエポナの手綱を引き寄せた。湧き出て岩肌をごく細く流れる水を手ですくっては彼女に飲ませてやった。到底十分な量ではないが、何も与えないよりはましだ。リンクはエポナの頭を撫で、何か声をかけてやろうとしたが、何も言葉が出なかった。
振り返り、これから行く方向の空を見上げると、あの黒雲がひときわ巨大に広がっているのが見える。距離は近づいているのだろうが、その桁外れの大きさを考えると、あとどれくらい進めば到達できるのかはわかりかねた。リンクは再びエポナに跨ると歩かせ始めた。周囲が次第に明るくなってくる。
やがて右手に低い岩棚が現れた。その岩棚の上に、人手で作られたような巨大な円形の岩が岩壁にぴったりとはめ込まれている。
リンクは奇妙に感じエポナを止めて降りた。岩棚の高さは人の背より少し低いくらいだ。リンクはその縁に手をかけて上に登ると、その丸い岩に近づいた。周囲の岩と色が違うのでその不自然さがますます際立っている。その岩を拳の背で軽く打ってみたが、やはり重く硬い岩でしかない。
「リンク、何をしている?」
ミドナが尋ねてきた。
「この岩、不自然だと思わないか?」
リンクが岩を見上げながら言った。
「確かにな。見たところ最近置かれたみたいだ」
ミドナが姿を現した。
「こんな場所に誰が何のために?」
リンクは尋ねた。
「さあな」
ミドナはそう言ったあとすぐ続けた。
「なるほど、さっきの二人組といい、分かった気がするぞ」
「分かったって何を?」
リンクは聞いた。
「あいつが、つまりザントが、この場所を鬼どもの前哨基地にしている可能性もある」
「ここにあいつらの基地が...?」
「私が奴だったらこの周辺のどこかに基地を作るな。見つかりづらい一方で水源へのアクセスもある」
「ミドナ、もしそうだったら今襲撃して全滅させてしまおう」
リンクは言った。ミドナは驚いて眉をひそめた。
「何?何だって?」
「奴らをここでのうのうとさせていたら、いずれまた数が増えてカカリコ村を襲いに来るかも知れない。それに今手を打っておけば僕が迎えに行くまでエポナは安全だ」
「ったく何を言い出すかと思えば」
ミドナはため息をついた。
「作戦の優先順位を考えろ。まず影の領域を晴らす。次に影の結晶石を見つけ出す。それが済めばそんな連中どうにだってなる。今危険を冒してやることじゃあない」
「ミドナ、君はいつでも大局を考える。それは村とか国の指導者には必要なことなんだと思う。君はきっと自分の世界ではそういう立場にいたんだろうね」
リンクはそう言って言葉を継いだ。
「でも僕は違う。僕はただの農夫だ。自分が知ってる人、会ったことのある人の幸せをまず先に考える。そういう人たちを幸せにできなければ、大きなことを成し遂げたってそこに喜びはない。それが僕という人間なんだ」
「だから何だ?何が言いたい?」
ミドナは首を傾げてリンクを見た。
「これが僕の考える『別の方法』だよミドナ。行くところ行くところでできるだけ沢山の鬼たちを殺す。訪ねる地域ごとに鬼たちを根絶やしにしていく。そうすればそこにいる人たちは安全になる」
「お前にはどうしても仕事をできる限りややこしく難しくしたいという性質があるんだな」
彼女は首を振った。
「二匹や三匹だったらいいだろう。だが何十匹という群れだったらどうする?たとえ勝ったとしてもそんな大立ち回りをするのは大声で敵に自分の居場所を教えてやるようなものだぞ。リンク、お前は駒取り盤ゲーム*をやったことはないのか?」
(筆者注:ある世界では「チェス」とも呼ばれているらしい。)
リンクは首を振った。
「このゲームではむやみに敵の駒を取ることよりできるだけ短時間で効率的に敵の大将を討ち取ることを目指す。相手の雑兵を減らすためだけに無意味に自分の血を流すことは下策とされるんだ」
「ミドナ、僕らはゲームをやっているわけじゃあない。僕らの血と同じようにそこらの村人たちにも血が流れているんだ」
「なら言おう。私はそんな村人たちのために私自身の血を流すつもりはないからな」
ミドナは言い放った。だがリンクも負けなかった。
「ああ、それでいい。僕は僕の血を流すまでだ。君に頼ることはしないよ」
「全く妙な猿知恵を付けたと思ったら結局それか」
ミドナは呆れた声で言って首を振った。
「お前がそんなに死にたいなら勝手にしろ。だが言っておくが影の結晶石を手に入れるまでは....」
そこまでミドナが言った瞬間、リンクの目に道の向こう側から真っすぐ火が飛んでくるのが映った。火矢だ。
咄嗟にリンクはミドナに覆いかぶさるようにして横に転がった。反射的に剣を抜いて立ち上がると、道の向かい側にブルブリン弓兵が二人いた。一人は矢を放ったばかりなのか、もう一人が弓に矢をつがえ今しも放とうとしている。さらに向かいの崖の上にも弓兵の姿が見えた。
路上にいた二人目の弓兵が矢を放った。リンクはその軌道を見極め剣を振るって逸らした。
崖の上の弓兵もリンクを狙い始めた。怯えたエポナがいななく。リンクは身を低くして岩棚を走りながら背中の盾を下ろした。岩棚から路上に飛び降りようとした瞬間、段差の陰からブルブリンの頭が覗いているのが見えた。リンクは一計を案じ、そのままジャンプして飛び降りると、いきなり回転斬りを放った。
待ち伏せするつもりがかえって不意打ちを喰らったブルブリンが後ろ向きに倒れる。だが三人の弓兵たちは次々矢を射掛けてきた。リンクは中腰になって盾を高く上げた。盾に矢が当たり金属音が響く。そのまま路上にいる弓兵のうちの一人に向かって足早に前進する。
だが、風鳴りの音がして足元数センチの路面に背後からの矢が刺さった。振り返ると、岩棚の側の崖の上にも弓兵がいる。
このままでは両側から射撃されるだけでなく、戦っている過程でエポナにも矢が当たってしまう。リンクは咄嗟に方向を変えてエポナに駆け寄って後ろから飛び乗ると、その脇腹を踵で蹴って発進させた。背後から次々と矢が飛んで来たが、どれも頭上や横を通り過ぎた。
「まったく威勢のいいことを言ってたわりにはザマは無いな」
ミドナが傍らを浮遊しながら笑った。
「だが判断としてはそれでいい。このまま影の領域の入り口まで行け」
リンクは剣を納めながら後ろを振り返った。もはやブルブリンたちは遠い。徒歩の連中だけだからわざわざ追いかけてくることもないだろう。だがリンクの心は苦しかった。ミドナの見立てどおり、あの近くにブルブリンたちの基地があるのはほぼ確実だ。そしてここから先にある影の領域の入り口にエポナを置いていってしまえば、彼女に逃れるところはない。運が良ければ奴らに捕まらずに済むかも知れない。しかし、彼女の安全をそれこそ運に任せてしまうこと自体がリンクとしては完全に飼い主失格だと思われた。
リンクは目に涙がにじんできた。自分の力のなさがつくづく嫌になった。何が勇者だ。自分の馬一頭守れないくせに。
せめてブルブリンたちとできるだけ距離を稼ごうと、リンクはエポナを早駆けさせ続けた。日は頭上高く昇っている時刻と思われたが、高い崖に挟まれた小道はやはり薄暗い。
前方に広がるあの巨大に黒雲に近づいているのだろうか。駆けても駆けても辿り着かないように思われた。リンクはエポナを減速させた。もしかすると彼女とともにいられるのもこれが最後かも知れない。リンクは心の重荷を押し殺しながら手綱を操るのが精一杯だった。
数時間が経っただろうか。やがて次第に周囲がこの世ならぬ様相といったほどに暗くなってきた。頭上を見上げると、あの黒雲がこちらにのしかからんばかりに高くそびえている。それなのに、その黒雲から妖しいオレンジ色の光が漏れ、それが旅路の目的地にリンクを導く灯りのごとく瞬いていた。
「やっとついたか」
傍らでミドナが言った。目を上げると、道のはるか先に黒雲の端が左右の岩壁の間を埋めることでできたあの壁が見えた。
「これが最後の影の領域だ。影の結晶石も最後の一つだ。気を抜くなよ」
リンクは沈黙したままエポナを前進させた。壁の手前までやってくると、下馬してエポナの首筋を撫でた。だが言葉が出てこない。
「必ず迎えに来るよ。必ず」
水筒をエポナの口につけ、最後の一滴まで飲ませてやると、そうひとこと言うのが精一杯だった。
断ち切りがたい思いを断ち切って、リンクは壁のほうに向きなおった。壁に描かれた奇妙な模様のようなものがオレンジ色に輝いている。もう一度狼にならなければならない。イリアを探し、精霊を蘇らせ、影の領域を晴らすために。
「さあ行くぞ。心の準備はいいか?」
ミドナが尋ねる。リンクは頷いた。
ミドナは空中を浮遊し壁をするりと通り抜け向こう側に行った。壁に波紋のようなものが広がり、またそれが収まってしばらくすると、突然壁から巨大な手が伸びてきた。魔法で動かされたミドナの髪の毛だ。
その手がリンクを鷲掴みにした。リンクはその手につかまれたまま壁に引きずり込まれたかと思うと、やがて意識を失った。