黄昏の姫と緑の勇者   作:nocomimi

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仇敵再び

「あの子、自分のことを何を覚えていないっていうのよ。それこそ自分の名前もね」

 

テルマは腕を組むと言いにくそうに言った。リンクは返す言葉もなくしばらく黙っていた。やっと会えたのに。イリアが何も覚えていないって?リンクは失意のあまり膝から崩れ落ちそうになるのをこらえるのが精一杯だった。

 

「あんた、もしかするとあの子を迎えに来たのかい?」

 

「そうです」

 

リンクはやっとのことで答えた。

 

「あんたには気の毒だったね...でもね、できるだけ今はそっとしておいてやってほしいのさ。私もあの子に昔のことを何か思い出させようとしてみたこともあるんだけど、そうやって考えているとあの子、ひどい頭痛がして立ってられなくなるんだよ」

 

リンクはテルマの顔を見上げた。彼女の表情は心からの同情を示していた。

 

「わかりました」

 

そうリンクが答えると、テルマはその肩をポンと叩いた。

 

「剣士さん、あんたもずいぶん疲れてるみたいだね。とりあえず好きな席に座ってな?後でメニュー持ってくるからさ」

 

テルマはそう言い置くと、広間の端に寝かされたゾーラの少年の傍らに座ったイリアのほうに歩いていった。後ろ姿しか見えないが、イリアはすっかり力を落としてしまったようだ。

 

「人間の医者じゃ無理か...困ったねえ」

 

テルマはそう呟きながらイリアの背中をさすっている。すると、ふさふさした白い毛並みの猫が歩いてきて、ゾーラの少年が寝かされた寝床の上に飛び乗った。

 

「こうなったら最後の手段だね」

 

テルマは言った。

 

「前聞いたことがあるんだ。オルディンにあるカカリコ村の祭司は医者でもあるんだけど、ゴロンとかゾーラも治療したことがあるってね」

 

「本当ですか?」

 

そう聞くとイリアは立ち上がってテルマの顔を見上げた。

 

「それならその村に連れていけば...!」

 

「そうさね...まあ私の馬車で行けないこともないだろうけど...」

 

テルマは店の奥の客室に向かうと、そこのテーブルにあった地図を持ってきて、カカリコ村までの道のりを確認し始めた。すると客室にたむろしていた非番兵たちが何事かという雰囲気で寄ってきた。

 

「どうしたんだテルマ?」

 

兵士の一人が尋ねる。

 

「いやね、ちょっとこの子を連れて旅に出るから、あんたたちには悪いけど店は明日からしばらくお休みってことさね」

 

「旅?どこに行くんだ?」

 

別の兵士が聞いた。

 

「オルディンのカカリコ村さ。まあ急いでも丸一日はかかるねえ」

 

「道中は危険だ!」

 

また別の兵士が言い出した。ビールで気分よく酔っているのか、少し呂律が回っていない。

 

「テルマはともかく....ゲップ......可憐な少女を....そんな危険な旅に出すわけにはいかない。我々が.......お供しようではないか!」

 

すると、この大演説を聞いた他の兵士たちも賛意を示し、手に手に槍を持って歓声を上げた。総勢五人ほどの兵士たちが護衛に名乗り出た。

 

「こりゃ助かったね、イリア」

 

テルマはイリアの顔を見て微笑んだ。

 

「これだけ護衛がいたら安心だよ。何しろカカリコ村までは魔物だらけの平原を越えないといけないからね」

 

だが、テルマのその言葉を聞いた瞬間、兵士たちが凍り付いた。しばらくの間沈黙が走ると、兵士たちはやがて何事もなかったかのように一人また一人とテルマの前に勘定を置いて、出口から出ていってしまった。

 

「ったく何て腰抜けどもなのかい」

 

テルマは首を振ってため息をついた。

 

「情けないったらありゃしない。今のハイラル城の兵士どもはただのお役人さね」

 

イリアもまた、せっかく湧いてきた希望を奪われたように再び首をうなだれた。だがリンクはこの情景を見て雷に打たれたような気がした。ゾーラの女王が言っていたのはまさにこのことだったのだ。リンクは覚えずして前に進み出た。

 

「あの...テルマさん」

 

「おや剣士さん。放っておいて悪かったね。飲み物は何がいい?」

 

テルマが振り返った。だがリンクの血相を変えた顔を見ると少し驚いた顔をして黙ったが、やがてこう言った。

 

「剣士さん、あんた今の話聞いてたのかい?」

 

「はい。僕が村まで護衛します」

 

そう聞いてテルマは一瞬絶句した。だが少し首を振って答えた。

 

「あんた、本気かい?ずいぶん若いようだけど..」

 

「大丈夫です。それにカカリコ村へも行ったことがありますから。道も分かってます」

 

リンクの答えを聞くと、イリアが歩み寄ってきた。

 

「剣士さま、お願いします。私、どうしてもあの子を助けてあげたいんです」

 

イリアがリンクの手を握って懇願した。リンクは頷いた。

 

「よし、わかった。話は決まりだね」

 

テルマは両手を打つと腰に手を当てて笑顔を浮かべた。

 

「そうと決まったら準備しなきゃね」

 

テルマは手早く残りの客を帰らせ、店を閉店にすると、まずリンクに飲み物と食べ物を持ってきた。リンクは酔ってしまうといけないのでビールは遠慮したが、テルマの料理の豪華さに驚いた。肉のふんだんに入ったスープ、魚とチーズを合わせた焼き物、色とりどりの野菜にトロリとしたドレッシングをかけたサラダ、その他トアル村では見たこともない料理の数々を平らげていった。

 

リンクが食事をしている間、テルマはイリアが店に来た経緯を話してくれた。

 

ちょうど一週間ほど前、テルマは町外に出たときイリアが覚束ない足取りで野原を歩いていたのを見つけたのだという。服は汚れ顔はやつれ切っていた。テルマは急いで彼女に駆け寄り、怪我の有無を確かめ、名前と出身地を尋ねた。だが少女は大きな外傷はなかったものの、テルマの質問に何ひとつ答えることができなかった。そこでテルマは彼女を町の医者のところに連れて行って診察させた。医者の見立てでは、極度の疲労状態ではあるが命に別状はない、ただし頭部への衝撃から来る記憶喪失が疑われるとの話であった。結局テルマは、彼女のチュニックの裾の裏に刺繍されていた名前から彼女の名を知ったのである。

 

その後テルマはイリアを自分の家で寝泊まりさせていたが、本人がただ何もせず世話になるのは申し訳ないと言うので酒場で下働きをさせるようになったという。そして忙しく立ち働くテルマを手伝っているうち自然と客の相手もするようになり、器量が良いのでたちまち評判になってしまったということだった。

 

「そしたらあの子、一昨日だったかあのゾーラの男の子が道端で倒れてるのを見つけてきてね」

 

テルマは言った。

 

「どうしても助けたいっていうんだよ。それで危険な旅に出ることも厭わないなんて、勇気があるじゃないか。あの兵士どもよりよっぽどね」

 

リンクは頷いた。イリアは昔からそうだった。彼女は意志が固く、また弱い者の命を決して見捨てようとしない少女だった。

 

リンクはテルマに名を名乗り、イリアが誘拐された経緯と自分が彼女と他の子供たちを探しにトアル村を出て旅をしてきたことを簡単に説明した。テルマは深くうなずくとリンクの手に自分の手を乗せた。

 

「私からも頼むよ。イリアを守っておやりな」

 

たっぷり時間をかけて豪華な食事を平らげると、リンクはすっかり元気を取り戻した。次にテルマは自分の馬を厩から連れてきた。大柄で丈夫そうな馬だ。リンクはテルマを手伝い、飼葉をたっぷり厩から持ってきてエポナとテルマの馬に食べさせ、水も飲ませた。さらに、テルマの馬車に数日分の食料と飼葉と水の樽を載せる。

 

そして、ゾーラの少年を注意深く抱え上げて店から出し、目抜き通りに止めた馬車まで運んだ。全ての用意が終わったときには既に日が傾き始めていた。

 

馬車を出す前にテルマとリンクは経路を最終確認した。本来であれば城下町の西側の門からオルディン方面に出、そこから南下するところであったが、西側の門の先にある峡谷を渡る橋が魔物によって焼き払われてしまっているとのことであったので、東門から出て南下しハイリア大橋を渡り、南ハイラル平原を横断してカカリコ峡に向かうことにした。

 

テルマは馬車を東門から出した。リンクも引いていたエポナに跨る。だがテルマはまず馬車を南に向けた。

 

「どうしたんです?」

 

リンクはエポナを馬車と並走させながら御者席に座るテルマに尋ねた。

 

「ちょっと気になることがあってね」

 

テルマは答えた。

 

「昼すぎに兵士たちが噂してるのを聞いたのさ。ハイリア大橋に魔物が現れたってね」

 

「魔物?」

 

「そうさ。何でもデカいから手を出せないらしいって。もっともあの連中のことだから小鬼一匹でもそう報告するだろうけどね」

 

そう言うと彼女は笑った。

 

「だけど念のためさ。南に展望台がある。そこから様子が見られるのさ」

 

テルマの操る馬車についてしばらく走っていくと、足元が上り坂になってきた。やがて目の前に両方を崖に挟まれた石敷きの展望所が現れた。

 

一行は馬を下りた。展望所は昔ハイリア湖の景色を高所から眺められるよう観光客向けに整備されていたらしい。湖側には転落防止の石積みの塀が建てられているが、要所要所に顔を出して絶景を楽しめる穴が作られている。しかし、そこら中に太い石の柱やその残骸が転がっている。昔は存在したであろう屋根を支えるためだったのだろう。

 

テルマは湖側に近づくと、腰の物入れから細長い筒を取り出して片目に当て、ハイリア大橋のほうを覗いた。しばらく見ていたが、やがて彼女は筒を目から離し腰に手をあてた。

 

「ふうん、こいつはどうやら兵士たちのほら話じゃなかったみたいだね」

 

リンクはテルマの顔を見た。その顔は珍しく眉を寄せ真剣な様子だ。その後ろでイリアも心配そうな表情で見つめていた。

 

「何かいたんですか?」

 

リンクが聞くと、テルマは黙って筒をリンクのほうに差し出した。真似をして筒を片方の目にあててみる。最初は真っ暗で何も見えなかったが、テルマが手を添えてくれたお陰でやがて橋の様子が見えてきた。遠くにあるものが近くに見える道具のようだ。

 

「ほら、もっと真ん中のほうさ....見えたかい?」

 

リンクは筒をゆっくり動かして大橋の右端から真ん中のほうへと視野を移動した。そしてそこで見つけたものを認識した瞬間、背中に鳥肌が立ち言葉を失った。

 

鬼の王。キングブルブリンだ。

 

キングブルブリンは、以前見たのと同じような白い巨大な猪に跨り、あたりを睥睨していた。橋を通る者は誰一人として見逃さないといった風情だ。

 

倒したはず。リンクは驚愕と不信の念に打たれてしばらく黙っていた。リンクは確かに見たのだ。鬼の王がオルディン大橋から落ちるのを。底も見えないような深い峡谷に墜落して、それでもなお奴は生きながらえていたのだろうか?

 

「リンク、どうかしたのかい?」

 

リンクがじっと黙っているのを見てテルマが聞いてきた。

 

「あれはキングブルブリン。緑鬼たちの王です」

 

リンクは答え、筒をテルマに返しながら言葉を継いだ。

 

「イリアや僕の村の子供たちを攫った張本人はあいつです」

 

「なんだって?」

 

テルマは驚いて目を丸くした。

 

「それだけじゃありません。僕は前に一度あいつと戦ったことがあります」

 

そうリンクが言うのを聞いてテルマは少し言葉を失ってしまった。

 

「戦ったって...いつ?」

 

「二週間ちょっと前です。カカリコ村の北のオルディン大橋で」

 

あの時の光景が鮮明にリンクの脳裏に蘇ってきた。橋の入り口で燃え上がる炎。ギラギラと光る魔物の赤い目。

 

「そのときあいつは確かに橋から落ちたんです。僕はこの目で見ました。だけどまだ生きていたなんて思いませんでした」

 

しかし、意表をつかれて一瞬生じたリンクの心の隙に広がった恐れは、その次に湧き上がってきた激しい闘志によってたちまちかき消された。もう一度挑んでくるなら上等だ。受けて立ってやる。

 

「でもテルマ、安心してください。僕は必要があれば何度だってあいつと戦います。今回も橋から叩き落してやりますよ」

 

リンクは気負うことなく淡々と、しかしはっきりとした語調で言った。それを聞いたテルマは軽く溜息をついて手に持っていた筒を仕舞った。

 

「そうかい」

 

そう言うと彼女はリンクの肩をポンと叩いた。

 

「じゃああいつはあんたに任せたよ。行こう」

 

三人はそれぞれ馬と馬車に乗った。方向を変え北に向かう。城下町の入り口前で今度は東に折れてハイリア大橋への小道に入った。

 

「こっからは危険地帯だね」

 

テルマはそう言うと、傍らに並走するリンクにウィンクした。

 

「くれぐれも頼んだよ」

 

リンクも頷く。すると、馬車の幌の小窓を上げてイリアが顔を出した。

 

「剣士さま...よろしければお名前を..」

 

彼女が言う。

 

「僕はリンクだ」

 

リンクは言った。それを聞いたイリアの瞳に、一瞬何かを思い出したかのような輝きが宿ったようにリンクには見えた。だがそれはすぐに消えた。

 

「リンクさん....ありがとうございます。このご恩は忘れません」

 

やはり何も思い出さないようだ。リンクが頷くと、イリアは少し微笑んだあと幌の小窓を閉じた。リンクの胸には疼痛が渦巻いていた。だが今はそれを気にしている暇はない。キングブルブリンを倒すのが先だ。

 

一行はやがてハイリア大橋の入り口にまで到達した。すでに日は暮れかけている。テルマは橋の手前に馬車を止めた。

 

「リンク、あんた弓はあるけど矢は十分持ってるかい?」

 

テルマが尋ねる。

 

「実は私も役に立つかと思って持ってきててね。もっとも私は弓矢なんかからきしだけど、あんたなら役に立ててくれるだろ?」

 

リンクは微笑んだ。

 

「ありがとうテルマさん。でも大丈夫。あいつの弱点はわかってるつもりです」

 

そう答えると橋の入り口に向き直り馬を進めた。猪に乗っているときはキングブルブリンは自ら武器を振るうことはしないはず。あの猪の兜に据えつけられた角の一撃さえかわせば大丈夫だ。以前のように角をかわして肉の薄い急所に剣を叩き込んでやる腹積もりだった。

 

リンクがエポナに乗って大橋に入ると、キングブルブリンはこちらの姿を視認するなり大声で吼えた。言葉はわからないが侮蔑と怒りと憎しみだけは伝わってくる呪詛の吠え声だ。

 

エポナが不穏な雰囲気を感じたのか、軽く頭を振っていなないた。リンクは彼女の首を撫でながら話しかけた。

 

「少しだけ手伝ってくれ。すぐ終わるからな」

 

キングブルブリンは以前戦ったときのように、橋の向こう側の終端まで一旦猪を移動させると、こちらに向き直った。リンクは暗さを増してきた視界の中で相手を見据え剣を抜く。

 

まるで相撲の取り組みのように、リンクと鬼の王は互いに向かいあって同時に発進した。

 

リンクはエポナの脇腹にかかとを当てて加速させた。キングブルブリンも猪をこちらに突進させてくる。リンクは手綱を操作する相手の手元に目を凝らした。彼我の距離が縮む。三十メートル。二十メートル。十メートル。相手はまだ手元を動かさない。リンクは剣を振り上げた。だがその瞬間夕闇越しに見えた相手の姿に違和感を感じた。

 

もしかして。

 

リンクは急激にエポナを左にカーブさせ橋の通路の脇に進路を変えた。すれ違いざまキングブルブリンが猪の手綱を引き、その右の角を叩きつけようとしてくる。研ぎ澄まされた角の先端がリンクの胸に向かってきた。リンクは右腕を上げたまま咄嗟に上体を大きく左に反らした。だが角の先が脇腹をかすめる。軽い衝撃とともにチュニックの布地が引き裂かれる。

 

鎖帷子を着ていなければ負傷していたかも知れない。リンクはエポナを走らせながら後ろを振り返った。キングブルブリンは前回戦ったときに比べ格段に重装だった。鉄兜だけではなく、上半身を覆う胸当て、さらにほとんど人間の身長くらいありそうな巨大な鉄の盾を両肩の横につけていた。

 

これでは剣でどのように攻めても弾き返される。相手は前回の敗北から学んでいるのだ。

 

どうする。リンクの額に冷や汗が走り始めた。リンクが橋の終端まで来て馬を停め方向を変えると、キングブルブリンもまた猪を止めてこちらに向き直った。リンクは剣を納め、背中から弓を下ろすと矢を一本つがえた。

 

弓矢で狙うとしたら顔面しかないだろう。この夕闇で、馬の上から、いくら巨体とはいえ走る猪の上にいる鬼の顔目掛けて矢を射るなどできるのだろうか?だがリンクは迷いを捨てた。やるしかない。

 

リンクが再びエポナを発進させる。すると敵も同時に猪を走らせ始めた。だがリンクはエポナを並足にし、手綱を離して弓を構えた。深く呼吸をする。彼我の距離が縮んでいった。五十メートル。四十メートル。三十メートル。

 

夕闇を透かして見えたキングブルブリンの顔目掛けて矢を放った。次の瞬間手綱を取ってエポナを急激に右に寄せる。金属どうしが衝突する音がして、敵の頭部近くで火花が散るのが見えた。猪がリンクたちに向かって突進し、急激にすれ違いざま角を振るう。角はリンクの背中近くで空を切った。だがリンクの攻撃も外れだ。

 

「おいおい下手くそだな。大丈夫か?」

 

ミドナが姿を消したまま言った。

 

「心配しないでくれ。次は絶対に当てる」

 

リンクは低く呟いて答えた。

 

「そうだったな。『ミドナ、少し黙っててくれ』..だろ?」

 

ミドナが以前リンクに言われた台詞を口真似して含み笑いする。

 

「まだ根に持ってるのかい?女の子....じゃなかった、女の人って怖いんだね。怖くて震えが来るよ」

 

背中の矢立てから矢を一本取って弓につがえながら、リンクもやり返した。

 

「まさか。私ほど寛大な雇い主はいないぞ。それよりせいぜい標的に集中しろ」

 

言われるまでもない。リンクはエポナの脇腹を蹴って発進させた。弓を構え、ゆっくりと弦を引く。夕闇の向こう、橋の南側の終端から走ってくる巨大猪の上のキングブルブリンの姿を、細部は見えなくとも心の中で思い描いた。そして息を深く吸い、吐く。全てを捨てて集中した。矢を放ったあとどうやって相手の攻撃を回避するか。そんな心の思いも捨て去る。

 

彼我の距離が縮んでいく。だがそれも心の中から追い出した。弦を引き、息を吸い、吐き、止める。

 

そして放った。

 

矢が緩やかな放物線を描く。風鳴りを立てながら飛翔した矢は、もはやほとんどシルエットしか見えない鬼の王の顔面のあたりに吸い込まれた。

 

途端に苦痛と怒りの吼え声が上がった。キングブルブリンを乗せた猪が真っすぐ突進してくる。咄嗟の判断でリンクはエポナを大きく左に寄せた。間に合うか?だが猪が自ら角を跳ね上げてきた。リンクは意図的に外側に身体をずらして鞍から落馬するとエポナの首にしがみついた。目の前を鋭い角の先がかすめる。すれ違いざま、キングブルブリンの顔から矢の柄が突き出ているのがちらりと見えた。必死で馬の首にすがる。背中が大橋の通路の側面にしつらえられた石積みの壁に激しく擦り付けられる。十メートルあまり進んだところで、ようやくリンクはエポナに乗り直し、橋の終端まで進んでから方向を変えた。

 

キングブルブリンは猛獣のような唸り声を上げていた。目を凝らしてよく見ても何をしているのかははっきりとは見えない。だが唸り声に時折苦痛と怒りの咆哮が混じる。一撃を与えたのは確かだ。だが致命傷を与えてはいない。

 

「ほう、当たったか。だが奴はまだ生きてるぞ」

 

ミドナが言った。

 

「わかってる。次で決める」

 

リンクはエポナの方向を整えたあと、矢をもう一本矢立てから取りながら答えた。

 

「ふむ、こいつはあまり良くないな」

 

ミドナがリンクの傍らに半透明の姿を現し、片手を目の上にかざしてキングブルブリンのほうを見ながら言った。

 

「どうしたんだ?」

 

リンクが尋ねた。だがミドナは首を振った。

 

「いや。何でもない。まあせいぜい頑張れ」

 

「教えてくれ。何か見えたのか?」

 

リンクが再度尋ねると、ミドナはリンクの方を向き片方の眉を上げて肩をすくめた。

 

「おいおいなんだ。『ミドナは黙っててくれ』じゃあなかったのか?」

 

「悪かったよミドナ。あのときのことは謝る。助言があるなら聞かせてほしいんだ」

 

リンクは素直に言った。

 

「ほう、ずいぶんな変わりようだな」

 

笑ってそう言うとミドナはまたキングブルブリンの方を見た。

 

「まあ助言というか私の独り言だ。あいつは今刺さった矢柄を折ったあと鉄兜を目深に被り直してる。同じ場所を狙っても次は当たらんだろう」

 

「本当かい?ミドナ、この暗さでよく見えるな」

 

リンクは驚いて言った。

 

「私はむしろ暗い場所のほうが得意だな。とにかく考えもなく矢を射っても無駄だ。よく考えろ」

 

「考えろ...か」

 

リンクは呟いた。するとミドナは誰にともなく言った。

 

「この距離から射た場合放物線を描いた矢の軌道は上方から若干の仰角をもって標的にアプローチする。今の状態ならほぼ奴の鉄兜かその庇に弾かれるだけだ。確実に奴に当てるとしたら方法は一つしかない。すれ違いざまに俯角をつけて射つ」

 

そこまで喋るとミドナは自分の姿を畳んでしまった。

 

「やれやれ、親切過ぎるのが私の欠点だな。あとは自分でやれ。じゃあな」

 

ミドナの言葉はリンクにとっては難解で理解しづらかったが、総意はわかった。そしてそれがとてつもなく難しいことだということも。

 

キングブルブリンが再び咆哮を上げた。それに続いて唸り声が聞こえる。早く来い、と言っているかのようだ。リンクは覚悟を決めた。自分の逃げ場を考えながら戦っていては強い相手を打ち負かすことはできない。そのことは今までの経験で分かっていた。

 

リンクは弓に矢をつがえた。だが構えずに、エポナを並足で進ませながら右手で手綱を操作してキングブルブリンの進路のやや左に来るよう調整した。相手も猪を発進させる。リンクはエポナの脇腹にかかとを当てて加速した。彼我の距離が縮む。

 

リンクは弓を構え弦を引いた。距離三十メートル。二十メートル。十メートル。このまま進んだら確実に敵の猪の角の射程圏内だ。

 

身を低くし、弓を横に構え弦を引いた。鋭い角の先がもう目の前に迫ったとき、リンクはキングブルブリンの顔に矢を向けた。兜に隠され下半分しか見えないその標的に、弦を引き絞って矢を放つ。

 

だがこの距離ではもう敵の角を回避できない。次の瞬間、リンクは角先を避けて咄嗟に体を敵側に向け右に倒した。矢が鬼の顔面に突き刺さる鈍い音がしたと同時に、巨大猪の兜についた角の柄がリンクの脇腹を強打する。角先による串刺しは辛うじて回避したが、痛みで呼吸が止まる。リンクは角の柄にひっかかりながらエポナの鞍から持ち上げられた。そのまま角に両腕でぶら下がり、突進し続ける猪に運ばれていく。

 

必死の思いで角にしがみつく。目を上げると、先刻放った矢がキングブルブリンの鼻の穴に深く突き刺さっているのが見えた。敵は白目を剥いて気絶している。その両手は手綱から離れてぶらりと垂れ下がっていた。何の操作もされないままの猪は走り続けた。リンクはようやく呼吸を取り戻すと、キングブルブリンの腰のあたりに何か光るものが揺れているのに気づいた。何気なく手を伸ばして触れてみると鍵束のようだ。鍵束を束ねる鉄の輪から伸びる鉤で鬼の王の帯から提げられているのだ。リンクは咄嗟にその鉤を帯から抜き取って鍵束をとり、大猪の角から手を離して飛び降りた。

 

猪はやがて迷走してハイリア大橋の通路の壁に衝突した。パニックを起こしたように方向を変えるとまた反対側の壁に激突する。そして猪は上体を思い切り跳ね上げた。意識を失ったキングブルブリンの体は宙に放り上げられ、壁を越えて反対側に落ちていった。

 

リンクは思わず走り寄ろうとしたが、この夕闇では何も見えないであろうことに気づいて足を止めた。

 

いずれにせよ勝負は終わったのだ。リンクは背中に弓を背負うと、負傷がないか確認した。チュニックの破れた箇所は鎖帷子のお陰で無事だ。角の柄でしたたかに打たれた脇腹はズキズキ痛むが、肋骨は折れていないようだった。

 

リンクは鍵束の鉤を自分のポーチのベルトに引っ掛けると、エポナのほうに向かって歩いた。

 

「リンク!リンク!」

 

後ろからテルマの声が聞こえてきた。テルマは馬車から降りると橋に入りこちらに走り寄ってきていた。

 

「リンク!大丈夫かい?」

 

彼女は息を切らせながらリンクの傍まで来ると尋ねた。

 

「大丈夫です。ちょっと服が破れたくらいで」

 

リンクは微笑みながらチュニックの破れた箇所を見せた。テルマは少し黙っていたが、やがて心から安堵した表情で溜息をついた。

 

「本当にあんたって人は不思議な子だねえ」

 

「テルマ、あいつの腰にあった鍵束を手に入れました」

 

リンクは自分の腰に提げたそれをテルマに示した。

 

「あいつらはカカリコ村の入り口に巨大な門を立てて自由に出入りできないようにしているんです。おそらくこの中にその鍵があります」

 

「本当かい?」

 

テルマは目を丸くした。

 

「あんた、ずいぶん鬼どものことに詳しいんだね。まるで何年も冒険してる剣士みたいだよ」

 

エポナがリンクに歩み寄ってきて鼻づらを擦り付けてくる。リンクはエポナを撫でてやりながら話した。

 

「ひと月ぐらい前、鬼どもがイリアと村の子供たち四人を攫って行ったんです。それを取り戻すために冒険に出たら、いつの間にか鬼に詳しくなってしまったんです」

 

「リンクさん、大丈夫ですか?」

 

イリアも馬車から降りて声をかけてきた。

 

「大丈夫。ゾーラの男の子を頼むよ」

 

リンクは手を振って答えた。

 

一行は馬上に戻ると橋を渡り切って小一時間ほど走った。ゴツゴツとした岩が左右に見え始める。ゆるやかにくねった道は、狭い峡谷を越える小さな橋に行き当たった。一行は橋の手前でしばらく休憩した。リンクはまだまだ元気があったが、エポナが消耗し切ってしまわないよう大事をとったのだ。馬たちに水を飲ませ、一行も軽い食事をとった。

 

「テルマ、寝なくて大丈夫なんですか?」

 

リンクが尋ねた。

 

「私の仕事は夜が稼ぎ時なもんでさ。夜通し働くなんてしょっちゅうだよ」

 

テルマは片目をつぶってみせるとそう言った。

 

「さあ、行くよ。患者を待たせちゃいけないからね」

 

テルマの馬車とエポナに乗ったリンクは並足で前進した。橋を渡り切ると、道が急に西にカーブしていく。

 

しばらく進んでいくと、リンクは嫌な雰囲気を感じて馬を停め、テルマに声をかけた。

 

「どうしたんだい?」

 

「なんだか予感がします」

 

リンクは道の左右の高い崖を見渡しながら言った。自分がブルブリンだったらあの上から矢で狙う。夜空に昇った月の明りに照らされた崖を見ていると、そんな考えが浮かんでくるほど待ち伏せにはうってつけの地形だ。

 

「どこかにブルブリンどもが潜んでるかも知れません。もし襲ってきたら全力で走り抜けてください」

 

「わかったよ。でもあんたの腕だったら小鬼の十匹やそこらなんてことないだろ?」

 

リンクが頷くと、テルマは陽気に言って馬の手綱を鳴らした。

 

「じゃあこの先も任せたよ!」

 

一行は再び馬を進めた。リンクは弓を背中から下ろし、崖の上に注意深く視線を走らせながら並足でエポナを歩かせる。カーブし始めた夜道には月の光が差し込んでいる。馬の蹄鉄が砂利道を蹴る音と馬車の車輪が軋む音以外は何も聞こえない。

 

そのとき、左手の高い崖の上に人影が現れた。と思うと、火が真っすぐにテルマの馬車に向かって飛んでくる。

 

「走れ!」

 

リンクは大声で叫んだ。テルマの馬車が加速し、そのすぐ後ろを火矢がかすめる。自分もエポナの脇腹を蹴って加速させた。立ち並んだ崖の上に一斉にブルブリンどもが姿を現し、こちらに火矢を放ってきた。

 

リンクは弓に矢をつがえブルブリンの一匹に向けて放った。だが高速で走る馬の上からでは狙いが定まらない。大きく外れた。舌打ちするとリンクは弓を背負って手綱をとり、エポナをテルマの馬車と並走させながら剣を抜いた。

 

矢が次々降ってくる。数本が足元の地面に刺さったあと、一本が唸りを上げて右上からリンク目掛けて飛んでくる。視野の隅で火矢をとらえると反射的に剣を跳ね上げて叩き落した。疾走する馬車の周辺にも矢が降り注ぐ。リンクは手綱をとるテルマに向かって叫んだ。

 

「大丈夫ですか!」

 

「こっちは大丈夫!」

 

テルマは叫び返した。見ると、食料を入れていた樽の蓋を左手に持って頭の上に掲げている。

 

「夜の居酒屋はこんなふうにコップとか皿が飛び交うこともあるからね!慣れてるよ!」

 

そう言うとテルマは首をすくめた。すぐ目の前を火矢が通り過ぎる。ひた走りに走っていると道はやがて左にカーブし始めた。だがブルブリンどもの配置は百メートルほどの間隔を開けながら続いていた。姿を現したかと思うと矢を射掛けてくる。

 

その時、イリアの悲鳴が聞こえた。馬車の幌の右側から火の手が上がった。着弾したのだ。幌の横にある小窓から、イリアの姿が見えた。立ち上がり、水の樽に毛布を突っ込んだあと、熱さに顔を背けながらもそれを炎の上がった個所に当てて消火しようとしている。

 

「イリア!」

 

リンクは叫んだ。火消しを手伝おうにも、今ここで馬を停めたらブルブリンどもの恰好の標的になってしまう。イリアは奮闘していたが、火はじわじわと幌の広い範囲に広がり始めていた。テルマも時折後ろを振り返っていた。必死の形相だが、立場はリンクと同じだ。どうすればいい?リンクは焦った。だがその時、以前森の神殿でブーメランを投げたとき強い風で燭台の火が消えたことを思い出した。リンクは剣を納めると腰からブーメランを抜いた。

 

「出番ですね!久しぶりで腕が鳴りますよ」

 

ゲイルが言う。リンクは尋ねた。

 

「ゲイル、あの火を消せるか?」

 

「お安い御用!」

 

リンクはブーメランを馬車に向かって投げた。途端にブーメランが高速回転し始める。疾走する馬車の横に局地的に竜巻のような風が発生した。つむじ風が炎を吸い取るようにして消していく。すっかり炎が消えてしまうと、ブーメランはリンクの手元に戻ってきた。

 

「すごいぞゲイル!」

 

「どういたしまして。レディと病人を助けるのは当然です」

 

前方にやがて右に曲がるカーブが現れた。道の真ん中に巨大な岩がある。矢が飛んでこなくなったところを見ると、ブルブリンたちの待ち伏せ地点は通過したらしい。岩の脇を通り抜けながら、リンクはブーメランをベルトに挟み、後ろを警戒しながらもテルマに声をかけた。

 

「無事通り抜けたみたいです。少し速度を落としましょう」

 

テルマも肩で息をしていたが、リンクに笑顔を見せた。速度を落としてしばらく走らせ、襲撃地点から距離を取る。やがてテルマは馬車を停止させ、左手に持った樽の蓋を御者席の後ろの物入れに置いて降りてきた。

 

「やれやれ、どうなるかと思ったよ。イリアや、大丈夫かい?」

 

「大丈夫です!」

 

幌の中から声が聞こえた。小窓からイリアが顔を出して手を振った。幌からは煙さえも上がっていない。火種となるものが何もかも完全にブーメランに吸い取られてしまったようだ。

 

「リンクさん、さっきいきなり物凄い風が吹いて火が消えたんです。いったい何があったんでしょう?」

 

イリアが尋ねた。リンクは知らないふりをして首を傾げた。

 

「僕も見たよ。でも何が起きたかは全くわからなかった」

 

少し考えてから、リンクは思いついた適当なでまかせを言った。

 

「ひょっとして精霊が助けてくれたんじゃないのか?ゾーラの少年を助けたいっていう君の願いが聞かれたのかも知れない」

 

それを聞くとイリアはにっこりと微笑んだ。テルマがイリアに近づき、その頬に手を当てて言った。

 

「よく頑張ったよイリア。あんたを誇りに思うよ」

 

「ありがとうテルマ。わたしの我儘でこんな危険なことまで」

 

イリアがそう言うのを聞くとテルマは豪快に大笑いした。

 

「何いってんのさ!あんたと心は一緒さ。弱った病人を見捨てるなんて私の流儀じゃないからね」

 

一行はそこで再び休憩をとった。リンクはエポナに水と草をやり、その首を撫でながら様子を見た。再会できてからきちんと一晩休憩を取らせていないのが心配だった。

 

「カカリコ村についたら体を洗ってたっぷり休ませてやるからな」

 

リンクがそう話しかけるとエポナは鼻を鳴らして首を擦り付けてきた。まだまだ走れそうだ。休憩を終えると一行は道なりに南に方向を変え再び走り始めた。

 

小一時間ほども進むと、前方に大きな木造りの門が現れた。リンクが以前カカリコ村の出入り口で見たのと同じような造りだが、門の高さはもっと高い。たとえエポナでも飛んで乗り越えることは到底できなさそうな高さだった。

 

リンクはエポナを進めて門に近づくと馬を降りた。歩いて門の前に来ると、手をかけて揺らしてみる。鍵がかかっているようだ。リンクはキングブルブリンから奪った鍵束を取ると、門の中央にある鍵穴に合致するものがないか探してみた。鍵の中で大きめのものを選び差し込んでみると果たして合うものがあった。

 

鍵をひねると重々しい音がして錠が開く。リンクは後ろを振り向くと、馬車を進めて近づいてきていたテルマに行けると合図した。

 

テルマは馬車を並足で進めて門を通り抜けた。リンクもエポナのところに戻り跨るとテルマたちを追う。

 

門を抜けたところは南ハイラル平原の東端のはずだ。ここから夜通し走り続ければ夜明けにカカリコ村に着くというのがテルマの見立てであった。

 

「道は大丈夫ですね?」

 

リンクがテルマの馬車の右側にエポナをつけると尋ねた。

 

「道が南西に向かってます。このままこの方角に進めばオルディン地方に向かう西向きの街道と合流するはずです」

 

かつての馬車の往来による轍で地面に刻まれた足元の道を指さしてリンクが言うとテルマは答えた。

 

「大丈夫さ。私は地図の覚えはいいんだ。若い頃は小間使いであちこち走り回ってたからね」

 

だがその時、リンクは遠方から地響きに似た物音が近づいてくるのを聞いて覚えず顔を上げた。

 

音の聞こえる方角を見る。南方だ。薄い月明りだけでははっきりとは見えないが、遠くから何かの集団が近づいてくる。多数の動物の蹄が地面を蹴る音。魔物の汚らしい喚き声。リンクが目を凝らすと、百メートルほど向こうに猪に乗ったブルブリンの騎兵たちの姿が浮かび上がった。

 

その数二十騎、三十騎、いや、もっとだった。鬨の声を上げ、後席に座る弓兵たちが手に持った弓で火矢を放ちながらこちらに走り寄ってきていた。

 

それと同時にリンクは頭上に気配を感じた。振り向くと、巨大な影が夜空に浮かんでいる。カーゴロックだ。不気味な鳴き声を上げると、その怪鳥は威嚇するようにリンクたちのすれすれ上空を通過していった。

 

敵は完全にこちらを待ち受けていたのだ。

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