絶望のとき
闇夜の中、ミドナを背中に乗せたリンクは城下町に向かって街道を走り始めた。
道を照らしていた月の光が弱まった。ふと頭上を見ると、夜空に黒雲が広がってきている。ポツポツと雨粒が落ちてきた。生暖かい風が吹き、街道の左右に広がる平原の草が揺らされた。
リンクは背の上に乗せたミドナの体温を感じた。まだ生きてる。まだ生きている。今なら間に合うかもしれない。焦りが胸の奥からとめどなく湧き上がってきた。何とかしてゼルダ姫のところまで辿り着かなければ。
街道を南東に走っているうちに、リンクの頭の中にテルマの言葉が蘇ってきた。
酒場にはハイラル城への抜け道がある、と彼女は言っていた。あるいは酒場に行けば何とかなるかも知れない。だが狼に変えられてしまった今の自分の姿でどうやってテルマと話せばいいのだ?そして、たとえゼルダ姫に会ったところで、ミドナを癒すことはできるのだろうか?だが考えている暇はなかった。
街道の先に、ブルブリンが一匹歩いているのが見えた。普段のリンクなら見逃さなかっただろう。だが今はミドナを助けるのが先だ。リンクは進路を変えて街道から出た。鬼がこちらに気づき、喚き声を上げて棍棒を振り上げ走り寄ってくる。だがリンクは走る速度を上げて相手を回避した。
喚く鬼を引き離し、十分距離を取ると、リンクは街道に戻った。雨が本降りになってきた。ミドナはどれくらもつだろうか?リンクの心は激しく乱れた。だがなんとしてでも助けたい。
鬼がいなくなっても、リンクは走る速度を上げていった。やがて雨に濡れた闇夜の中、前方に岩崖が浮かび上がってきた。その崖の間に城下町への小道があるのだ。リンクは息が切れるのもかまわず走り続けた。雨が降りしきるなか、獣の足で小道をひた走りに走る。しばらく走ると、両側の崖が切れて右手に城下町の壁が見えてきた。
ミドナ。頼むからもってくれ。一分一秒でも惜しい。リンクは街道から右手に外れて城下町の壁沿いに走り始めた。草原の中にまたブルブリンが見える。だが、明後日の方向を見ていて、まだリンクには気づいていない。リンクは音を立てないよう速度を落として近づいた。戦っている余裕はない。ブルブリンの背後までそっと近づくと、そこから一気にダッシュした。気づいた鬼は振り向いて喚き声を上げたが、そのころにはもう追いつかれないほど引き離していた。
城壁沿いに生えた高木や、地表に露出した自然岩を通り過ぎると、以前野宿した歩哨の足場が右手に見えた。城下町の入り口はもうすぐだ。走りながら辺りを見ると、左手にブルブリンの弓兵がいた。距離は五十メートルほど離れているがこちらに気づいたらしい。弓を構え火矢を放ってきた。
矢は外れてリンクの背後の地面に刺さった。ミドナを少しでも傷つけるわけにはいかない。リンクはさらに走る速度を上げた。二の矢が後ろをかすめる。
ほどなく足元が石畳に変わった。城下町の入り口に近いのだ。リンクは夜空に浮かび上がった跳ね橋のシルエットに真っすぐ向かった。辿り着くと、階段を登って橋を渡り、半開きになった門を通り抜けた。
城下町の東通りに入ったとたん、金を裂くような女の悲鳴が聞こえた。リンクは何事かとぎょっとして足を止め、悲鳴のしたほうを見た。買い物帰りらしき女が、抱えていた籠を放り出して道路の脇にに座り込み、こちらを指差し言葉にならない声で叫んでいる。
リンクは一瞬混乱した。なぜ?自分は瀕死の友人を助けようとしているだけなのに。
だが自分の姿が狼であることをすぐに思い出した。以前故郷のトアル村で経験したことの記憶が苦い感情とともに蘇ってきた。自分はいま魔物だと思われているのだ。
リンクが立ち止まっているあいだに、同じような悲鳴があちこちから上がってきた。女たちだけではない。男たちもまた叫び声を上げながら何とか安全な場所に逃げ込もうと右往左往している。
リンクは焦った。ダッシュすると、東通りを抜けて噴水広場に駆け込んだ。だがそれが良くなかった。広場に入った途端に、悲鳴とともに兵士たちの怒号が聞こえてきた。
「分隊集まれ!」
いつか会った大柄な分隊長が数人の部下に号令をかけた。自らも槍を手に取り、リンクの方に真っ直ぐ進んでくる。その背後に部下たちが散開して前進してきた。取り囲む作戦らしい。
リンクは迷った。自分が焦って動けば動くほど町中にパニックが広がる。かといってこのままでは兵士たちに捕まってしまう。リンクは先頭にいて自分に相対している分隊長の顔を見た。その目は恐怖で大きく見開かれ、血の気が失せるほど唇を噛み締めている。槍を持つ指は軽く震えていた。
リンクは周りを見回した。取り囲まれてしまった。だが、どの兵士の顔を見ても怯えて引きつっている。何人かは完全に槍を繰り出せる間合いにまで近づいているが、なかなか攻撃してこない。それどころか、恐怖のあまり漏れ出る小さな悲鳴を押さえきれない者たちさえいた。
ここで足止めされているわけにはいかない。リンクが唸ると、兵士たちはたちまち色めきたった。一人が自棄糞気味の気合いを上げて槍を振り上げる。だがリンクが吠え声を上げると途端に数人が武器を放り出し頭を抱えてしゃがみ込んだ。
囲みの崩れた箇所に突進し突破する。背後で分隊長の怒鳴る声が聞こえた。だがリンクは全速力で目抜通りを目指した。
目抜通りに突入すると、怯えた群衆の様子は混乱を極めた。金切り声をあげる主婦や小間使いの女たち、商品を放り出して露天の陳列棚の下に潜り込もうとする露店商。リンクは慌てふためいた通行人たちを押し退けるようにして通りを南下した。
駆け込むようにして酒場への裏通りに入った。階段を下ると、人気のない広場の隅には雨水が溜まり始めている。リンクはトンネルに入り真っ直ぐ酒場への扉に向かった。今の自分にはテルマと会話することそのものができない。だが、もしかするとテルマなら自分の狼の姿からでも全てを察してくれるかも知れない。城への抜け道を教えてくれるかも知れない。焦燥しきったリンクの心は、ふと頭に浮かんだ根拠のない希望にすがりついていた。
酒場の扉は半分開いている。リンクは鼻先で扉を動かして中に入った。顔を上げて店内を見回すと、テルマはカウンターの裏にいる。声をかけようとした瞬間、岩のように大きな影が目の前に立ち塞がった。
ゴロンの男だ。
「化け物め。出ていくゴロ!」
男は大きな手を伸ばすとリンクの胴をむんずと掴み、もう片方の手で扉を大きく開いて放り出した。リンクは水の溜まりはじめた路地に落下した。目の前で叩き付けられるような音がして扉が閉まる。
リンクは身体を起こした。ふと気付いて慌てて左右を見回した。ミドナは?彼女は傍らに力なく倒れ伏していた。リンクは急いでその身体を雨に濡れていない場所に動かし、顔に鼻を近づけて呼吸を確認した。まだ生きている。頭を強く打っていないだろうか?鼻先で探ってみたが、被っている冠が偶然保護してくれたようだ。
湧き上がってきた安堵の思いはすぐ消え、絶望感が胸を満たした。もはや希望は潰えた。ゼルダ姫に会えなければ、ミドナを救うことはもちろん、リンクも元の姿に戻ることはできないだろう。もはやここまでなのか。心が折れ、地面に座り込みそうになった。それでもリンクはミドナの身体を再び背中に載せ、広場に向かって歩きだした。なにか方法はあるはずだ。きっとあるはずだ。
そのとき、猫の鳴き声が聞こえてきた。
顔を上げると、酒場へのトンネルの入り口の左上に設けられた通気孔の際に白い猫がいる。ふさふさした白い毛並みの猫だ。居酒屋にいた猫だ。
白猫は降りてくると、路面にできた水溜まりを注意深く避けながら近寄ってきた。
白猫はリンクの顔や前肢に鼻を寄せて臭いを嗅ぐと、おもむろに口を開いた。
「間違いない。あんたリンクだね」
リンクは心の底から驚いた。猫が人語を話した?いや、今までにも狼の姿に変えられたときはリスや猿の心の声が聞こえたと思った瞬間もあった。だがこんなに鮮明な言葉を動物から聞いたのは初めてだ。
「何を驚いてんだい?人間と十年も同居してりゃあ猫だって人の言葉くらい話せるようになるさ。向こうが知らないだけでね」
猫はそう言うと自己紹介した。
「あたしはルイーズ。ところで表のえらい騒ぎはあんたが起こしたのかい?」
ルイーズはもう一度リンクの頭のてっぺんから足の先まで眺め回して言った。
「仮装パーティーにしちゃやり過ぎじゃないか。そりゃ騒がれて当然さ」
「た‥‥たの‥‥む」
そのときリンクの背にいたミドナが絞り出すように言った。
「また病人かい。あんたも物好きだね」
そう言いながらも、ルイーズは頭を上げミドナに顔を近づけた。
「‥‥ゼ‥ル‥ダ‥‥姫の‥‥と‥こ‥‥ろ‥‥‥へ」
それを聞いたルイーズは今度はリンクに顔を向けた。
「あんたたち抜け道のことをテルマから聞いたんだね?」
リンクは頷いた。頼む。教えてくれ。唸り声しか出なかったが、リンクは必死の懇願を目に込めて訴えた。
「ならこっちだよ」
ルイーズは自分がいま出てきた通気孔に向けて顎をしゃくった。
「あの穴から入りな」
リンクは通気孔を見上げ、それからまたルイーズの顔を見た。心に立ち込めた絶望の暗闇に一筋の光明が差した思いだった。
「屋根裏が城の地下水路に通じてるのさ。昔の水路だっていうから苦労するかも知れないけど」
リンクは頷いた。礼を言いたいが言葉が出ない。
「ま、あとは人間たちに見つからないように上手くやることだね」
白猫はそう言うとトンネルの中の雨の当たらない場所に引っ込んでしまった。
リンクは通気孔を見上げた。高さは三メートルくらいだろうか。そのすぐ前に木箱が高く積んであるから、その木箱の上まで上がれれば到達できるはずだ。
だが自分は猫ではないし、しかもミドナを背負った状態では高くジャンプできない。どうしたものかと左右を見回しすと、広場に木箱が一つ落ちているのが目に入った。リンクは駆け寄って木箱を頭で押した。積んである木箱の前にこれを置ければ足掛かりにして登れるはずだ。
木箱を通気孔のある壁の近くまで寄せると、どうやら目算は正しいと分かってきた。運んだ木箱に乗ると、上の段は前肢を伸ばせば引っ掛かる距離だ。リンクはミドナを落とさないよう注意しながら上に登り、そこから通気孔に入り込んだ。
通気孔を進むと店内の明かりが見えてきた。抜けた先は部屋のぐるりを囲むように天井近くにしつらえられた棚の上だった。音を立てないよう気を付けながら通気孔を出ると、リンクはぐるりを見回した。
煌々と灯された明かりに照らされた客席には客はまばらだ。天気が悪いせいなのか、それとももうよほど時刻が遅いのかもしれない。リンクをいましがた追い出したゴロン族の男はのっしのっしとホールに戻っていくところだった。
リンクは屋根裏への経路を探した。それらしき出口は、自分が今いる側のちょうど反対、部屋の北側の右手の壁の天井近くに開いていた。ここから直接は到達できない。だが、東側の出口の上辺りに小さな棚板があり、幸いなことに現在いる棚からそこに向けてロープが張られている。雨で濡れた客の上着を下げておくためなのだろう。
よく見ると同じようなロープがそこここに張られていた。その小さな棚板からも、部屋の西側にある長い棚との間にロープが張ってある。さらに、その棚板の北側の端に近い場所からも、目的地である天井裏への出口に至る足場に向かってロープが張られていた。
リンクは抜き足差し足で棚の上を移動した。まずは東側に進むと、ロープの上に前足を乗せ、そこから綱渡りを始めた。まずは出口の上辺りにある棚板に用心深く渡る。そこからまた綱の上に乗って今度は西側の棚板に向かった。
「こんな場所にまで魔物が出るなんて兵士どもは一体なにをやってるんだろうねえ」
カウンターの後ろで仕事の手を休めていたテルマが呟くのが聞こえた。
「まったくゴロンのほうがよっぽど頼りになるよ」
人の呟きが聞こえるということは、自分も音を立てれば見つかってしまう。リンクは静かにロープを渡ることに全神経を集中した。
やっとロープを渡り切ると、到達した西側の棚の上には至るところ乱雑に壷が置かれている。一歩でも踏み出せばどれかの壷に当たってしまう。
リンクは前足で自分の進路上にある手近の壷をそっと押してみた。棚はザラザラしたレンガでできているらしい。簡単には動きそうにない。リンクは息を潜めるようにして、少しずつ前足に加える力を強めてみた。
壷が動いたが、耳障りな摩擦音が出てしまった。リンクは途端に身を凍らせて動きを止めた。音で気付かれたかも知れない。だが、客の誰かが呼んだらしく、テルマは慌ただしい様子でカウンターから出ていった。リンクは安堵の溜め息をつくと、細心の注意を払って前に進んだ。行き当たる壷を頭や肩で静かに押し退けていく。じれったくなるくらい時間をかけてゆっくり押すと、どうやら壷もあまり音を立てずに動いてくれた。
リンクが無言の奮闘をしていると、北側の奥の客席から話し声が聞こえてくる。
「貴公らは覚えておられるかな?テルマの留守中に訪ねてきたあの若者を」
初老の男の声が聞こえた。
「あの緑の少年だね?」
若い男の声が答える。
「忘れようがないよ。なにしろあそこまで分かりやすく伝説の勇者のコスプレしてる人、なかなかいないからね。それがどうかしたのかい?」
「ハイリア大橋に出た大鬼を討ち取った剣士というのはあの若者らしい」
「なんだって?ラフレル、それは本当なのかい?」
若い男が声を上げた。
ようやく壺を押しのけて進む奮闘を終え、次なるロープの地点にたどり着いたリンクが下を覗くと、以前テルマの留守中にリンクを店から追い払った三人組がテーブルを囲んでいた。
「知らなかったよ。何だか馬鹿にしたようなこと言って悪いことしたな」
若い男は波打った豊かな栗色の髪の生えた頭を掻くと、バツの悪そうな声で言った。
「見込みのある若い剣士がいるってテルマが言ったとき、なにしろ僕は二十代くらいの大柄な男を想像してたんだ。まさか僕より小柄で童顔の少年がそのご本人だったなんてあのときは思わなくってね」
「そんな骨のある男がまだ城下町にいたとは驚きだな」
黒髪を結い上げた女剣士が呟いた。
「いやアッシュ、それがどうも違うらしいんだよ。テルマが言うにはその彼は城下町の人間じゃあなくってラトアーヌのトアル村から来たっていうことなんだ」
若い男はそう言ってから気づいたように付け足した。
「それで合点がいったよ。田舎の人っていうのはなにしろ怖いもの知らずだからね」
「それには私も含まれるのか、シャッド殿?」
女剣士が尋ねる。
「ハハハ、困ったな。どう答えてもまずいことになりそうだ」
三人組の談話はいつしか他の話題に移っていった。リンクは女剣士を一番警戒していた。もし彼女が本物の剣士なら、自分の頭の真上を獣が通り過ぎる気配に気付かないはずがない。
リンクはじっと待った。女剣士はしばらくすると席を立ってテルマのほうに歩いていった。初老の男は地図を取り出してテーブルに広げ、若い眼鏡の男と何やら熱心に話し込み始めた。
リンクは動くことにした。ロープをゆっくりと渡り向こう岸を目指す。音を立てないよう注意に注意を重ねて一歩づつ進む。ロープの中頃まで来るのに途方もない時間がかかった気がした。
そのとき、カウンターのほうから女剣士の叫び声が聞こえた。
「ラフレル殿、シャッド殿!上を!」
リンクはぎょっとして下を見た。初老の男と若い眼鏡の男が驚いた顔でこちらを見上げている。女剣士が長剣を抜き放つ音が聞こえた。リンクは無我夢中でペースを上げロープの残りを渡る。女剣士が駆け寄って来る音がする。彼女が剣を振るったのか、背後のロープがプツリと切れた。リンクはすんでのところで対岸の足場に飛び乗ると、屋根裏へ通じると思しき穴に駆け込んだ。
気付かれた。追っ手がかかるだろうか?リンクは焦燥に駆られながらも暗く狭い通路を進んだ。しばらく行くと前方に明かりが見えた。出口から顔を出すと、どうやら通路は別の部屋に繋がっていたらしいとわかった。
その部屋はいかにも奇妙だった。一般人の居室のようだが、広いわりにはえらく殺風景で、家具らしい家具がほとんどない。高級そうな椅子が北側の壁の前あたりに置いてあり、その上には茶色く波打った頭髪と口ひげが特徴的なユーモラスな顔をした男の人形が鎮座していた。人形の頭の上には、丸まった猫のぬいぐるみがある。
椅子の周囲には金細工でできた装飾品や、一時期ルピーの代替え品として出回っていた、円形のメダル状に加工した金の板など(ある世界では金貨とも呼ぶらしい)が一面に散らばっている。そういった豪奢な物が置かれている反面、部屋は長年手入れされていないのが明らかだった。荒れ放題と言っていいほどの状態だ。埃だらけで隅には蜘蛛の巣がいくつも張っている。家具の残骸とおぼしき木材も散らばっているし、そのうえ雨漏りを修繕せず放置しているのか外からの雨が流れ込んで床は水びだしだ。
だが、リンクが感じたこの部屋の異様さはそれだけではなかった。どこからか禍々しい雰囲気が感じられる。リンクが感覚を研ぎ澄ませてみると、部屋の南側にある戸口の前あたりから強い気配が感じられた。さらに神経を集中してみると、明らかに本来そこにいるべきでないものがいるのが見えた。
白い魂だ。
ここは影の領域ではないのになぜ?リンクはその魂を凝視した。見たこともない姿だ。空中に浮遊しているうえに、小柄な人間の形をしてはいるが、縫い合わされた荒布のようなものを着ており、大きな鎌のようなものを携えている。空中に浮いた足の下にはカンテラのようなものが下がっていた。
リンクにはそれが邪悪なものであることが一目でわかった。追っ手が来るかどうか気になってはいたが、この部屋から城下町への通路を探しているうちに邪魔されるのは不味い。リンクはそうっと部屋の中に降り立つと、ミドナの身体を注意深く濡れていない床に横たえた。
リンクは唸り声を上げながらその白い幽霊に近づいた。そいつはリンクに気づき、乾いた声で不気味な笑い声を上げながら鎌を振り上げてきた。リンクは幽霊の一撃をバックホップして躱すと、跳躍して狼の顎の一撃を喰らわせた。
手ごたえがあった。幽霊は悲鳴を上げ部屋の天井近くに浮き上がった。だが再び武器を構え直すと、リンク目掛けて降下し鎌を振り下ろしてくる。頭を目掛けてきた攻撃を横にステップして回避すると、リンクは再び飛び掛かって幽霊に一撃を与えた。
幽霊は気を失ったように床に落下した。獣の本能に駆られたリンクはその上にのしかかり激しく牙を立てた。牙に何か感触がある。丸く、熱く、脈動した心臓のようなものが口に触れると、リンクは迷わずそれに噛み付き、幽霊から引き剥がすように食い千切った。
断末魔の叫びを上げて幽霊が消えていった。
戦いが終わったあともリンクは少し呆然としていた。何も考えず獣の本能で戦ったとはいえ、まだ信じられない。幽霊になぜ心臓のようなものがあるのだろう?そもそもなぜ自分が実体のない霊と戦うことが出来たのだろう?
その時、後ろから声をかけてくるものがあり、リンクは現実に引き戻された。
男の声がする。リンクは警戒心を募らせ周囲を見回した。部屋に生きた人間はいないはずだ。新手の幽霊だろうか?
唸り声を上げながらリンクは油断なく身構えた。だが敵の姿はどこにも見えない。
「ワンちゃん....ワンちゃん...」
再び男の声がした。懇願するような、か細く情けない声だ。状況が見えずにはいたが、さしあたり危険はないと判断しリンクは部屋の中を捜索し始めた。
南側にある扉は閉ざされているし、雨の降りしきる音がしているから、外からの声ではない。床に乱雑に散らばった財宝も、大量にあるとはいえ人間ひとりを隠しきれるほどではない。
捜索しているうちまた男の声が聞こえた。反射的に顔を上げたリンクは、目に入ってきたものに驚ろかされ思わず口をあんぐり開けてしまった。椅子の上の人形が喋っているのだ。
「ワンちゃん.....ありがとう....」
男の人形は、言葉を発するたびにその目玉がわりに埋め込まれた宝石が青やピンク、緑に色を変えていく。リンクは信じがたい思いを抱きながらも人形に近づいていった。
「ワンちゃん...君があの幽霊をやっつけてくれたんだね?礼を言うよ...ついでに頼みなんだけど...」
リンクが耳を傾けていると、男は続けた。
「あの幽霊から君が食いちぎった魂、こっちに持ってきてくれない?」
魂?あの心臓のようなものだろうか?リンクは先ほど幽霊と戦った場所に戻ると、脇に放り出しておいたそれを咥えて人形のところに戻った。
「それだよ....それ....僕の膝の上に乗せてくれるかい?」
リンクは言われたとおりにした。幽霊の魂の塊が人形の膝の上に置かれしばらく経つと、それはだんだん溶けだして形を失っていった。
「ああ....ありがとう....ほんの一部だけど僕の魂が戻ってきたみたいだ...」
男はまた情けない声で言った。だが、その声にはほんの少しだが張りが戻ってきていた。
「自己紹介が遅れてごめん。僕はジョバンニっていうんだ」
リンクはだんだんそわそわしてきた。どうもこの人形は元人間だったらしい。男の力になってやりたい気持ちはあるが、今は追っ手がかかっているかも知れない。早く城への抜け道を見つけなければ。だがそんな事情を知るよしもない人形は話し続けた。
「三年前のことだよ。僕はお金持ちになりたいばっかりに悪魔と取引をしてしまったんだ。それでこんな姿になっちゃったってわけ」
男は溜息をついた。
「もうずっとガールフレンドにも会えてないし、飼い猫のゲンゴロウもこんなになっちゃうし....」
それを聞いてリンクの心に憐れみの情が湧いてきた。もし自分にできることがあれば力になってやりたい。言葉が通じるとは思わなかったが、リンクはそのニュアンスを込めて軽く唸った。
「ワンちゃん...君ってとっても賢いワンちゃんだよね?さっきも僕が取ってきて欲しいって言ったものをちゃんとわかってくれたし..だからお願いがあるんだ。お礼は必ずするから。ね?」
リンクは頷いた。すると、男は喜んで声を上げた。
「やっぱり!君、僕が言ってることがわかるんだね?ああ神様....救いの手がやっと現れたよ...!」
男は俄然元気を得て話し始めた。
「さっき君が倒したのと同じような幽霊をやっつけて、その魂を集めてきて欲しいんだ。そうだなあ、多分二十個くらい集めれば僕の魂の全部のパーツが入ってると思うんだけど...。君に頼んでもいいかい?」
リンクは返事の代わりに軽く吠えた。さっき戦った感触ではさしたる強敵ではない。自分ひとりの力でそれくらいの数は倒せるだろう。
「ああ...ありがとう!ありがとう!この恩は一生忘れないよ!」
リンクは言葉が話せないのがもどかしかった。頼みは引き受けた。だが今は自分もやるべきことがある身だ。城への抜け道はどこにあるのか?そういった思いを表すにも、全て今は唸るしかできない。
「ああ、ワンちゃん、外に出たいんだね」
男がリンクの思いを察してくれたようで、リンクはほっと安堵した。
「実はいま家の扉が壊れてて開かないんだ。晴れてる日なら猫の集会所から穴を掘って出入りできるんだけど今は雨だし.....。地下水路に行く抜け道ならあるけどそれでもいいかい?」
地下水路。それだ。リンクは吼えた。男は気の遠くなるほどゆっくりとした速度で苦労して右手を動かすと、椅子の脇にしつらえてあったスイッチらしきものを押した。すると、リンクの背後にあった財宝の山の中に埋もれていた大きな箱の蓋が開いた。
「ワンちゃん、じゃあ幽霊のこと頼むよ。待ってるからね?」
男が言った。リンクは頷くと、部屋の隅に寝かせたミドナの身体を背中に乗せ、蓋の開いた箱のところまで言った。
その箱は幅が一メートル半もありそうな立派なものだった。だが箱というのは見せかけだったらしい。その中には薄暗い石造りの斜面が見える。これが地下水路に通じているのだ。リンクはミドナが背中の真上に乗っているのをもう一度確認すると、箱の中に潜り込んだ。
数メートル落下したのち、リンクは斜面の上に着地した。だが思ったより急勾配で、そのうえ水が流れている。リンクは立っていることができず、斜面の上を滑り始めた。身体が横倒しになり、ミドナの体が背中から落ちた。リンクは前足を伸ばしてミドナの身体を引き寄せ、その服の襟元を咥えて離れないようにした。
しばらく斜面を滑ったあと、リンクたちは中央に柱の立った六角形の部屋の水溜めに落下した。部屋のぐるりに通路がしつらえられている。リンクは鼻先でミドナを通路に押し上げ、部屋の隅に楽な姿勢で寝かせた。顔に鼻を近づけ呼吸を確かめる。生きている。ようやく安心し周囲を見回すと、巨大鼠が何匹かいるのが見えた。リンクはミドナを背負うと、用心深い足取りで探索を始めた。
どうやらここは下水施設の上層部分らしい。だが幸いにも、大量に流れ込む雨水のお陰で水溜めに汚物類は入っていない。部屋の北側のあたりに水門があり、その前の天井から先端に輪のついた鎖が垂れ下がっている。リンクは鼠たちの動向に気を配りながら水門に近づいた。水門の前には水路が掘られていて、そこには水が勢いよく流れ込んでいるが、通路からジャンプすれば鎖に届きそうだ。
リンクは体を一旦かがめると、鎖の先端の輪に飛びつき噛み付いた。ガチャリと音がして鎖が下がり、水門が開く。リンクは鎖を離して着水した。だがミドナの身体も背中からずれ落ちてしまった。リンクとミドナはともどもに開いた水門をくぐり水路を流されていった。リンクは素早く犬かきで泳ぐと、ミドナの身体の下に身を沈め、彼女を背中に乗せて浮上した。斜面を流れ落ちる水にしばらくの間流され、リンクとミドナはさらに下層の水溜めに落下した。
水溜めの上の通路に目を上げると、二本の太い柱の間に階段が見える。その造作から、その先は明らかに通常の市民用施設ではなく城の一部だということが見て取れた。リンクはミドナを落とさないよう注意深く岸に上がり、階段を登った。
階段の上にはしっかりと整備された回廊があった。左右に燭台が立てられ火が点されている。やはり城の内部に到達したのだ。だがそこにいた者たちを見てリンクは足を止めた。巨大蜘蛛が二匹。一匹は通路に陣取り、もう一匹は回廊の終端の出口らしきところに巣を張った上で天井から糸でぶら下がっている。
この状態で闘うのは上策ではない。リンクは考えた。あの蜘蛛の巣を破って突破できれば。右手の燭台の足元には廃材が捨てられている。リンクはお化け蜘蛛どもを刺激する前に火で蜘蛛の巣を焼き払うことに決めた。階段を登り切らない場所でじっと身をひそめ、床の上にいる蜘蛛が向こうを向いた隙に前進して廃材を口で拾い上げ、燭台にかざして火をつけた。
そこから一気に走り、出口に殺到した。床にいた一匹だけでなく、天井からぶら下がっていた奴もたちまち威嚇音を発して降りてきた。リンクは火のついた廃材を振り回し、蜘蛛の巣に点火した。濃く張った蜘蛛の糸がメラメラと燃え上がる。だがその時には二匹の敵が迫ってきていた。リンクは糸が燃え尽きるのも待たずに突破した。
回廊を抜けると、巨大な柱が何本も立った地下広間に出た。背後の蜘蛛たちは、縄張りが決まっているのか深追いはしてこなかった。だが、広間には吸血蝙蝠が何羽も飛んでいる。リンクは火のついた廃材を咥えたままだったのに気づき、広間の入り口近くにある火の消えた燭台に点火したあと廃材を捨てた。
次の経路はどこにあるのか?薄明りの中目を凝らすと、どうやら広間の北西の壁ぎわの一段高くなった場所に出口らしきものがある。だがそこにも蜘蛛の巣が濃く張られていた。リンクは広場を素早く横切ってその段差に近づいた。そしてミドナの身体を自分の首の上にまでずらしたあと、段差に足をかけて背伸びをし、どうにか彼女を上に乗せた。自分も段差に登り、ミドナを楽な姿勢で寝かせてやると、再び床に降りた。
吸血蝙蝠がリンクに気づいて頭上を飛び回り始めた。蝙蝠が攻撃体勢になって一点に滞空しはじめた瞬間を見計らって襲い掛かり片端から叩き落すと、リンクは広間の入り口の燭台に戻り、火が消えてくすぶっている廃材を咥えて燭台にくべて再点火した。
リンクはミドナを乗せた段差に戻り、蜘蛛の巣を廃材の火で焼き払うと、再び彼女の身体を背中に背負った。蜘蛛の巣の燃え残りを突破して前進する。その先は同じような広場だった。二メートルほど下がった床に降り立って周囲を見回すと、先ほどの広場より荒れている。柱が何本も倒れて進めない場所がいくつもあった。
だがリンクが道なりに進んでいくと経路はすぐに見つかった。北西の方角に出口が見える。天井近くを飛び回っている蝙蝠どもを刺激しないよう静かに前進するとリンクは出口に向かった。だが前方にブルブリンが一匹立っているのを見てリンクは足を止めた。瞬時に判断するとミドナを背負ったまま速度を上げ、相手が警戒態勢を取る前に突き倒した。緑鬼は暗がりから突然出てきた狼に成す術もなく棍棒を放り出した。リンクは相手の喉笛を噛み千切ると、蝙蝠どもがこちらに接近していないのを確認して前進した。
出口から短いトンネルを抜ける。すると直径十メートルほどの丸い部屋に出た。だがその先の通路や扉らしきものは見当たらない。行き止まりだろうか?
部屋の中にはまたブルブリンが一匹いる。だが、そいつは命じられた歩哨の職務を理解していないのかあらぬ方向を向いていた。リンクは素早く襲い掛かって押し倒すと、首筋に噛み付いて致命傷を与えた。
絶命したブルブリンの傍らでリンクは改めて周囲を見回した。部屋はもはや行き止まりでどこにも通じていないように見える。テルマは確かに城への抜け道があると言っていた。それは誇張だったのだろうか?それとも、その抜け道は気づかれて埋められてしまったのだろうか。
どうすればいい?どうすればいい?リンクの心はまた焦燥感に覆われてきた。心を落ち着かせるため、リンクは部屋の中央にあった柔らかい砂地にミドナの身体をそっと横たえた。
「リ......ン.....ク...」
ミドナが蚊の鳴くような声で呟いた。今は何もしゃべるな、とリンクは言いたかったが、やはり唸ることしかできなかった。
「お....お前....のこと....未熟者だ..とか...さんざん..に言って...ご...め..ん」
リンクははっとして目を見張った。それと同時に胸のうちに熱いものがこみ上げてきた。ミドナと出会った当初は、彼女はめっぽう人使いが荒く口の悪い女主人だったのだ。だがあれからどれほど多くの冒険を一緒に潜り抜けてきただろう。
「お...お前...や..っぱ...り...本物...の勇者....だ..」
リンクは首を振るとともに、ミドナの頬を軽く舐めた。今、彼女はリンクのことを一人前と認めてくれているのだ。リンクは嬉しかった。だがそれと同時に途方もなく悲しかった。いまミドナの命の灯はリンクの目の前で消えかかっている。自分はハイラル城の地下の行き止まりにいて、かつては恐れまた嫌っていたにも関わらず、今ではかけがえのない友人となったミドナの死を待つしかないのだ。
「あ...あり...が...とう...」
リンクは激しく首を振った。そんな言葉をミドナが発するのを聞くと、もはや不安でしかない。死ぬな。絶対に死ぬな。生きろ。その思いを込めてリンクは吼えた。そしてミドナの顔に自分の鼻を近づけてつつき回した。
足元の柔らかい砂が崩れた。リンクが動くたびにその足が少しづつ沈み込んでいくようだ。すると電撃のようにある考えがリンクの頭を巡った。自分は今人ならぬ身、狼なのだ。この砂を掘れば城の地下のさらなる深部に辿り着けるのではないか?
リンクはミドナの身体を再び背中に背負うと、前足を使って足元を夢中で掘り始めた。砂はろくに踏み固められておらず簡単に掘れる。どうやら魔物どもはここにもともとあった穴を覆い隠すためにぞんざいに砂をかけただけで満足したらしい。しばらく掘ると、やにわに砂が崩れ始め、一メートルほどの穴がぽっかりと開いた。
下を覗き込むと、粗い石が剥き出しになった地下室の床が見える。リンクはミドナを背負ったまま、その両腕を口に咥え、彼女を落とさないように注意しながらそっと下に飛び降りた。
降り立った箇所の壁や床の材質には見覚えがある。リンクは部屋の北の隅に狭い通路を見つけると、そこから外に出た。
やはり思ったとおりだ。ここはかつて最初に狼に姿を変えられたときリンクがハイラル城から脱出する際に通った下水施設なのだ。右手には鉄格子、左手には螺旋階段が見える。ゼルダ姫のいる尖塔まではあと少しだ。
リンクは左手に向きを変えると螺旋階段を登り始めた。少し登ると階段が欠落した部分の手前にブルブリンが立っていた。リンクの姿を認めると泡を喰ったように弓矢を構える。リンクは素早く突進し、後ろに突き倒した。緑鬼はバランスを崩すと、階段下の深い水溜めに落下していった。水音がしたあと、バシャバシャと水を掻く音と喚き声がしたが、すぐに静かになった。どうやら泳げなかったらしい。
リンクは目を上げて階段の様子を調べた。以前のようにミドナの魔法による助けは得られない。だが、リンクの記憶では階段の各所に資材をやり取りするためのロープが張られていたはずだ。思ったとおり、リンクが今しがた鬼を突き落した箇所の手前から、少し上の階段に向けてロープが張られている。
リンクはロープに足を乗せ渡り始めた。だが、渡った先の地点から少し右にブルブリンがまた一匹立っているのを見て、息をひそめ音を立てるのをやめた。まだ気づかれていない。リンクはそろりそろりと注意深く前進した。だが、いましもロープを渡り切ろうというときに鬼がこちらに気づいて喚き声を上げた。リンクは素早くロープから階段の上に移り、棍棒を振り上げた相手に殺到して押し倒した。鬼は悲鳴を上げ、段の欠落した一メートルほどの隙間から下に落下していった。
リンクはそこから階段を駆け上った。段が欠けている隙間を二つほど飛び越えて進む。すると、上から落下して積み上がったらしい石材で行き止まりになっている。以前はミドナに助けてもらって飛び越えたところだ。だが幸いなことにそこからもロープが伸びている。リンクは再び綱渡りを開始した。渡りながらも前方を注視すると、向こう岸に敵はいないようだ。渡り切り、そこからまた階段を登る。その階段の終端から伸びるロープをさらに渡っていくと、螺旋階段の終端が近づいているのが見えてきた。だが渡った先の階段を駆け上っていると、再びブルブリンに行き会った。リンクは唸り声を上げると、そいつに正面から攻撃を仕掛けるように見せかけたあと、素早く相手の脇の壁側に潜り込み、そこから思い切り外に押しやった。意表を突かれた鬼は、棍棒を構え防御の姿勢をとったままバランスを崩し、喚き声を上げながら落下していった。
そこから螺旋階段を一周近くも走り抜けると、再び段が欠落した箇所からロープが張ってある。渡った先の近くにブルブリンが歩哨に立っているのが見えたので、リンクは息をひそめ音を立てないようにしながら相手を観察した。こちらに気づいていないと確認し、ゆっくりとロープを渡り始めた。鬼はまだ侵入者の存在にも、仲間が何人も倒れたことにも気づいていない様子で、壁のほうを向いたりして無聊を紛らわしていた。リンクがロープを渡り切ろうというときやっと気配に気づいてギョッとした表情で振り返った。リンクが全力で速度を上げてロープを渡り切り階段の上に乗った瞬間、鬼が棍棒を振りかぶって襲ってきた。リンクは咄嗟に身体を一回転させた。リンクの前顎が鬼の棍棒を弾く。ミドナを背中から落とさないよう、その両手を咥えると、リンクは鬼に思い切り体当たりした。倒れた鬼に背を向け、後ろ脚で思い切り蹴る。階段から転げ出た鬼は悲鳴を上げ両手で段の縁にしがみついたが、すぐに耐え切れず落下した。
リンクは先に進んだ。あと少しだ。前進すると、また階段が大きく欠落していて、その間に二か所ほど小さな足場がある箇所に出た。その間はロープで結ばれている。リンクがロープを渡り始めると、階段が再開している箇所に歩哨がいる。リンクは速度を下げて注意深く前進した。一つ目の足場に到達すると、敵がこちらを見ていないことを確認し再び前進する。二つ目の足場でも同じように立ち止まった。やはり敵は警戒していない様子でぶらぶらと歩き回っている。リンクは相手が向こうを向いている間最後のロープを渡った。だがリンクがロープの中頃にいるとき、敵が振り向いた。リンクは凍り付いたように動きを止めた。敵が確かにこちらを見た気がしたが、相手は何事もなかったかのように向こうを向いてしまった。なぜだろう?リンクは上を見上げた。今いる場所は、建材の影になって月の光が届いていないのだ。闇夜の中にいる青灰色の狼というのは案外見つけにくいものらしい。
リンクは安堵の溜息をつくと、再び前進した。ロープを渡り切ると、ブルブリンまでの距離は二メートルもなかった。だがリンクは戦うより先を急ぐことを選んだ。ブルブリンの脇を通り過ぎると、階段を登り切った。最上階の金網の床の上には弓矢を携えたブルブリンがいた。だがリンクはそれも無視すると、開け放たれた扉から外に出た。
扉の外は城壁の上だった。最初にここから脱出した時の記憶がまた蘇った。ゼルダ姫はミドナを救い、リンクを元の姿に戻す事ができるのだろうか?だが今は考えている暇はない。視界に、ブルブリンが二匹立っているのが見える。一匹は警告の叫び声を上げてすぐに弓矢を構えた。
リンクは真っすぐ突進すると、弓兵が矢を放つ前に体当たりして突き倒し、そのまま突破した。城壁を駆け抜け、終端まで来たころに火矢が飛んできた。だが大きく外れている。天気は悪く、城壁の上には雨に加えて強い風が吹きつけている。風の強さは強烈なもので、城壁から落とされないよう時折足を踏ん張る必要があるくらいだった。
リンクは左手にあるもう一層の城壁との間をつなぐ塔の上端にしつらえられた木の足場の下に、木箱が置かれているのを見つけた。最初にリンクが動かした位置から変わっていない。リンクは木箱によじ登り、そこから足場の上に這い上がった。
そこから隣の城壁に飛び降りると、前回と同じ箇所にカーゴロックが止まっている。強行突破しかない。リンクは速度を上げてゼルダ姫の居室がある尖塔に向かった。だが、その城壁の終端まで走り抜けるとそこで足を止めた。ここから先は、ミドナの魔法がなければ渡れなかったのだ。
カーゴロックが頭の上で耳障りな声を上げると、高度を下げて鉤爪を広げ襲い掛かってきた。リンクは横に飛びのいて攻撃を避ける。周囲を見回しても、ここから先に渡る手段らしきものが見当たらない。その時リンクの視界に、今いる城壁の終端の正面にある別の塔の上端から、大き目の木の板で組まれた簾のようなものが垂れ下がっているのが見えた。周期的に吹く強い風に煽られ、その端がリンクがいる城壁の近くにまで吹き上げられている。
またカーゴロックが襲ってきた。リンクは身体を一回転させ敵の攻撃を弾き返した。怪鳥はややよろけたが、すぐに体勢を立て直しこちらを狙ってくる。もはや迷っている時間はない。リンクは、正面の塔から垂れ下がった簾が吹きあげられた瞬間に、城壁の床を蹴って跳躍し簾の上に飛び乗った。強い風の力で支えられた簾の上を駆け抜けると、リンクは塔の上に立った。
カーゴロックがまた高度を上げると、付け狙うようにこちらに向かってきた。だが、リンクが今いる塔から、ゼルダ姫の居室のある尖塔に繋がる大屋根の上まで飛び降りることができそうだ。リンクはミドナがきちんと背に乗っていることを確認すると、その両手を口で咥え、ジャンプして大屋根まで飛び降りた。
尖塔へ通じる歩哨用の見張り窓を目指し大屋根を斜めに駆け抜ける。もう一匹のカーゴロックが大屋根から飛び立ち、リンクを追ってきた。リンクは尖塔の足元に達すると、無我夢中で段差を這い上がって見張り窓に駆けこんだ。
リンクは尖塔の中の狭い螺旋階段に降り立った。階段を駆け上ると、終端にある両開きの扉は以前来たときと同じように少し開いている。リンクは鼻先で扉を動かし、中に滑り込んだ。
居室の中には人気がなかった。前と変わらず、窓の前に椅子が置いてあるだけだ。ゼルダ姫はどこにいるのだろう?リンクはミドナを静かに床に横たえると、周囲を見回した。だがそれらしき人影は見当たらない。リンクは再び不安に襲われ、ミドナの顔を見た。まだ息がある。早く、早く来てくれ。
そのとき、傍らに立つ人の気配がしてリンクは顔を上げた。
ゼルダ姫だ。ケープを被りフードで頭を覆ってはいるが、リンクにははっきりと分かった。
彼女は傍らに跪き、手袋を嵌めた手をミドナの首筋に当てると、次いでその頭の下に手を入れてゆっくりと仰向けに寝かせ、その胸の上に手を置いた。
「ゼ.......ル...ダ..お.....お願いだ.....」
ゼルダの存在に気づいたのか、ミドナは苦し気な声を振り絞って言葉を発した。
「こ...こ...い...つ...に...かけられた...呪い..の....解..き...方..を」
ミドナはそう言うとゼルダ姫を見上げ、ほんの少しその手を上げた。ゼルダ姫はミドナの手を握った。
「こ...い....つ....は」
ミドナ、もうしゃべるな。リンクは言いたかったが、悲し気な唸り声を上げることしかできなかった。リンクは自分のことより、むしろミドナを救うためにここまで連れてきたのに、彼女自身はもう自らの命を諦めているらしかった。それがリンクには辛く悲しかった。自分は狼のままでいい。ミドナを助けてやってくれ。そう言いたかった。
「.....あんた..たち...の...世界...を...救..うのに...必要..な...ん....だ」
ミドナはそこまで喋ってしまうと苦しそうに息をついて少し黙っていたが、再び口を開いた。
「頼....む。....こ...い....つ...を...助け.....て....やって...く...れ」
ゼルダ姫はミドナの頬に手を触れた。そして今度はリンクに向かって手をかざした。一体何をしているのだろう?リンクがそう思ったとき、ゼルダ姫は言った。
「これは今までの影の魔力とは違う邪悪な力です」
ゼルダ姫は、ミドナというよりむしろリンクに語りかけるように話した。
「現世に闇を照らす光があるように、魔の力を打ち消す力もまた存在します」
間違いない。ゼルダ姫はリンクが人間だということを見抜いているのだ。だが一体どうやって?王族には一般の人間にはない特別な力が備わっているのだろうか?
「精霊フィローネの地、その奥に隠された森の聖域に向かいなさい。そこには古の勇者が用いた退魔の剣があります。その剣は悪しき者にとって持つことさえ叶いません」
そう言うと、ゼルダ姫は手を伸ばしてリンクの顔に触れた。
「ですがあなたならその剣をもってその身を覆う闇の力を切り裂くことができるはずです。神に選ばれし勇者リンク」
リンクの心に雷が走ったような気がした。なぜゼルダ姫が自分の名前を知っているのだろう?そもそも、勇者などとは似ても似つかない惨めな獣の姿に変えられた自分の正体をどうやって見破ったのだろう?
驚きに打たれたリンクが呆然とゼルダ姫を見上げていると、彼女は左手の手袋を取り去り、その手の甲を見せた。
「私もまたあなたと同じ。神より授かりし力を持つ者なのです」
まるで心を読んだかのようなゼルダ姫の答えにリンクは再び驚くと同時に、彼女に手の甲に浮かんだ印に目を奪われた。三角形を三つ積み重ねた図形が金色の光を薄っすらと放っていた。
「よ..よか..った..な..リンク...」
ミドナが微笑んだ。
「あと...は....ひとり...で...行....け....よ?」
リンクは再びミドナの顔を見、そしてゼルダ姫の顔を見上げた。自分ひとり助かるためにここに来たのではない。ミドナはどうなるのだ?助けることはできないのか?
「ゼル....ダ...」
ミドナがまた呟いた。ゼルダ姫はますますか細いミドナの声を聴きとろうと身をかがめ、耳をそばだてた。
「最後に....お願い...だ....」
「なんなりと。私に出来ることなら何でも致します」
ゼルダ姫がそう答えるのを聞いて、ミドナは安堵の溜息を漏らした。
「陰り...の..鏡....あの鏡のありかを...こいつ....に....」
それを聞いたゼルダ姫はしばらく黙っていた。目を伏せ、何かを考えていたような様子だったが、やがて彼女は顔を上げた。
「ミドナ...あなたが何者なのか今わかりました」
リンクはゼルダ姫の顔を見た。すると彼女はリンクとミドナを交互に見ながら言葉を続けた。
「ミドナ...あなたは本来私たちの世界に属さない者です。それなのにあなたは....」
そこまで言うと、ゼルダ姫は顔を背け、手で目の端を拭った。
「あなたは、戦うことを選ばなかった不甲斐ない私たちの代わりに戦い、傷ついたのですね....随分辛い目に遭わせてしまいました」
「ふん.....わたし...が....望んで...やったこ...と..さ」
ミドナは精一杯の不敵な笑みを浮かべた。だがゼルダ姫は人差指を伸ばすと、ミドナの口元に当てた。そして手を伸ばすとミドナの手をとり自分の懐に押し当てた。
「ミドナ、受け取って下さい。私からのせめてもの気持ちです」
その瞬間、ゼルダ姫の手の甲の印がひと際強い輝きを放った。光の粒子のようなものが彼女の手の周囲に次々と浮かび上がる。リンクが見ていると、その光の粒子が次々とミドナの身体に流れ込み始めた。
何が起こっているのだろうか?だが、光の粒子が流れ込むほど、ミドナの表情は生気を増していった。いまやミドナは目を見開いていた。だが、それと同時に拒絶するように首を左右に振り始めた。
「ゼルダ...!バカなことはやめろ!そんなことをしたらお前...」
だが、ゼルダ姫は軽く微笑むだけだった。やがて彼女の腕全体が強い光を発し、光の粒子が奔流のようにミドナの中に流れ込み始めた。
「リンク....!ゼルダを止めろ!」
ミドナが叫ぶ。だがその時には既に、ゼルダ姫の身体から発した最後の光の粒子がミドナの体内に入ったあとだった。
呆然としていたリンクが我に返ったときには、ミドナは既にその傍らに自分の二本の足で立っていた。生気の失せていた肌の色が戻っている。目にもかつてのように強い光が宿っていた。
「あいつ...」
ミドナが呟いた。
そしてゼルダ姫は姿を消していた。部屋の中を見回しても、ゼルダ姫の姿はどこにも見えなかった。