女剣士アッシュ
リンクはラネールの泉のほとりで目を覚ました。傍らに起こした焚火はとっくに消えていたらしく煙も上げていない。辺りはやや冷え込んでいる。リンクは少し身震いしながら身体を起こした。
洞窟を通って湖のほとりに出る。朝日がちょうど昇りつつあるところだ。湖面に当たる照り返しがまぶしく、リンクは目を少し細めながら伸びをした。
「おい、目が覚めたか」
ミドナが傍らに現れた。
「おはようミドナ。珍しいじゃないかこんなに早く」
リンクは言った。
「リンク、早速なんだが賢者のおっさんたちが言ってたろ。雪深き山...」
ミドナが口を開く。
「古の森。あと天空だったっけ?」
リンクが引き取った。ミドナはすっかり元気を取り戻したようでリンクも安心した。
「そうだ。情報収集に行こう。手始めは雪深き山だな」
ミドナは言った。
「確かゾーラの里の北側が雪山なんだったっけ」
リンクも以前見た地図を心に描きながら言った。
「ああ。そう言えば以前お前が城下町で会った連中が異変を調べてたんだろう?あいつらにそれとなく聞いてみたらどうだ?」
「それだ。決まりだね」
ミドナの提案で話が決まり、リンクは一旦服を脱ぐと狼の姿に変身した。そこからミドナの魔法でワープに入った。たちまち周囲が暗くなると、気づいたときには城下町前のポータルの下に降り立っていた。
跳ね橋の脇で物陰に隠れて服と装備を身に着けると、リンクは橋を渡り扉をくぐった。まだ早朝の町には人通りは少ない。邸宅街を右手に見ながら歩いていると、物乞いのような老人が道端に立っていた。
「お若い方。ハイラルの平和のために施しを頂けませんかの」
老人はみすぼらしい衣を着、真っ白な蓬髪と長い髭で顔が覆われ人相もわからないほどだ。人に声をかけられて無視するということができないリンクは思わず立ち止まった。
「お困りなんですか。幾らくらい必要ですか?」
「あなたのお気持ちで構いませぬ。私はこうして施しを頂きながら毎日ハイラルの平和を祈っておるのです」
リンクが尋ねると老人は答えた。しかしリンクが何気なく自分の財布を開けると、老人は続けた。
「できましたらの。三十ルピーほど頂けると...」
リンクはちょっと苦笑いした。やはり都会人との会話は文字通りでないことがあるとだんだんわかってきた。リンクは二十ルピーを一つ、十ルピーを一つ取り出して老人に渡した。
「おお、ありがとう。ありがとう」
老人はルピーを押し頂くと続けた。
「お若い方。あなたの人生に愛が舞い降りますように」
リンクも礼を言い老人のもとを離れた。
「おいリンク、なんていう無駄遣いをするんだ」
ミドナが耳の中で囁く。
「だけどあんなボロを着て可哀そうじゃないか。あの様子ではきっと冬が来たら大変だよ」
通りにほとんど人影がなかったのでリンクは声に出して答えた。
「まったく」
ミドナは溜め息をついた。
「あいつはプロの乞食だ。あの服も演出に決まってる」
「プロの乞食?」
リンクはびっくりして尋ねた。
「そうだ。哀れを装って同情を買うんだ。よく見て見ろ。あの髪も髭も作り物だぞ」
「作り物?」
ミドナが言うのを聞いてリンクは絶句してしまった。
「リンク、お前はあまりにも都会を知らない。善いことをしたつもりのところ水を差して悪いが、ああやって人の無知と善意につけ込む連中がいることを知っておけ」
リンクは言葉も出なかった。村にいたころは、貧しさを装って同情を買い働かずに何かを得るなどという発想をする者は誰もいなかった。自分はだいぶ都会に慣れてきたと思っていたのに、また騙されてしまった。
やや沈んだ気持ちで中央噴水広場に入る。右手にそびえるハイラル城は、かつては白い大理石の壁が美しかったのが今では黄色い魔法結界で覆われた奇怪な姿となってしまっている。
広場の向かいにあるセレブショップはまだ開店していないのか、エントランスの周囲には誰もいない。靴磨きの少年もまだ出てきていないようだった。
リンクは左手に曲がり目抜き通りに入った。何人かの露天商たちが開店準備をしている。通りを南下しているときリンクはふとアゲハのことを思い出した。金色の虫を届けに行かなければ。
酒場への裏通りと反対側の南東通りに曲がり、占い屋の前を通り過ぎてアゲハの家の前に着いた。以前会った奇妙な青年はいないようだ。ホッとしたリンクは、まだ時間が早いのを気にして扉をノックしてみた。
「どうぞ」
部屋の奥のほうから声がする。リンクは扉を開けて中に入った。奥行のある部屋の向こう側にある机の前にアゲハの後ろ姿が見える。リンクが近づいても振り返らない。何か作業に没頭しているようだ。
リンクが傍らに行き挨拶するとアゲハは振り向いてにっこりと微笑んだ。
「あら剣士さんね。おはようございます。アゲハに何か御用でしょうか?」
リンクはポーチを開くと、砂漠で捕えたカゲロウをそっと取り出してアゲハに差し出した。こちらもナナフシ同様細いから壊してしまうかと冷や汗をかいたが、何とか無傷で渡すことができた。
「カゲロウさん!」
アゲハは目を見開くと声を上げながら虫を受け取った。
「カゲロウさん、カゲロウさん...その尻尾でカラフルな三つ編みを編んであげたい」
相手が喜んでくれたのは嬉しかったが、リンクは相変わらずの素っ頓狂な反応に戸惑いながら見守った。
「ありがとうございます。アゲハ、今とっても幸せです」
彼女はプリンセスさながらの優雅なしぐさで丁寧に頭を下げた。そしてカゲロウを注意深く作業机に置くと、机の引き出しからルピーを取り出した。
「剣士さんにもおすそ分けして差し上げますわ」
紫ルピーだ。リンクは驚きながらも喜んで受け取り、礼を言った。
「全員揃うまであと二十二匹。これからも剣士さんにご協力お願いしていいかしら?」
アゲハが両手を組み首を傾げながらリンクを見上げた。
「いいですとも。これからも旅先で虫さんたちを探すことにします」
リンクは請け合った。アゲハはまた微笑むと、机に向き直ってカゲロウの保存処理を始めた。
リンクはその場を辞して部屋を出た。さっき騙し取られた分を取り返して余りある収入だ。ミドナの言ったとおり、アゲハは底なしの金持ちらしい。
歓楽街から出て目抜き通りを横切ると、今度は酒場への裏通りに入った。酒場に行く前に、手前にある厩の扉を開けて中を覗いてみた。エポナはテルマの馬とともに元気そうだ。リンクは二頭に餌をやり、声をかけながらその身体を時間をかけてブラッシングしてやった。十分馬たちに構ってから厩を出て酒場の扉に向かった。
酒場の扉を開けると、カウンターの裏でテルマが片付けをしているところだった。客席に客はいない。リンクを見るとテルマは顔を輝かせた。
「リンクじゃないか!無事だったのかい?」
リンクは挨拶すると、ラフレルたちのことを尋ねた。
「みんなは来るとしたらだいたい昼過ぎさ。ああ、でもね」
テルマは思い出したように付け加えた。
「アッシュは今ハイラルの北の山を調べに行っててね。会えなくて残念だったかい?」
テルマは悪戯っぽく笑った。リンクは適当に語尾を濁すと、片付けをしておくから店で待たせてもらっても構わないかと持ち掛けた。テルマは喜んで申し出を受けてくれた。
「そりゃ助かるよ。じゃあバイト代がわりにあんたのお昼、置いておくよ」
テルマが店を出ていったあとリンクは片付けに取り掛かった。
「おいリンク、北の山って言ってたよな」
リンクが溜まった食器を洗っているとミドナが話しかけてきた。
「うん。これは有力かも知れないね」
リンクも応じた。
「あいつらはハイラルの異変を調べてるって言ってたよな。どの辺まで知ってるんだろう?」
ミドナが尋ねる。
「さあ、前会ったときは詳しく聞けなかったからね。でも、その...」
リンクは言葉を探した。
「ラフレルはともかく、シャッドとアッシュはいい人たちだよ。それにモイは何といっても僕とは昔からの仲だしね」
「何が言いたい?」
ミドナが聞いてきた。
「つまり、いざとなったら協力しあうことができるんじゃないかって」
リンクは答えた。
「ふむ」
ミドナは少し考えているようで黙っていた。皿洗いが終わるとリンクはテーブルを拭いて床をデッキブラシで磨いた。全ての作業を終えてしまうと、テルマがリンクのために残しておいてくれたパンと肉を食べ、それからラフレルたちを待った。
やがて昼が過ぎたころラフレルたちが店に入ってきた。シャッドとモイも一緒だ。
「おお、リンク殿。ご無事でしたか」
ラフレルは相好を崩すと、歩み寄ってきてリンクの手を握った。
「全くびっくりさせてくれるぜ。俺が寝てる間にラフレルに会いに行ってそれから砂漠にまで飛んでいっちまうんだからな」
モイも笑いながらそう言うとリンクの肩を叩いた。リンクはシャッドとも挨拶を交わすと、三人とともに奥の客席に座った。
ラフレルはやはりミドナの推測したとおり、処刑場内部のことを事細かに質問してきた。リンクはどこまで話すかを迷ったが、結局骸骨の化け物たちと壊れた鏡以外のことは隠しておくことにした。モイの手前作り話をするのも気が咎めたが、やはりミドナの存在を明かさなければ辻褄が合わないような話はできないと思ったからだ。
「ふうむ、では鏡は実際にそこにあったと申されるのですな」
ラフレルは腕を組んで言った。
「実は老輩はゼルダ姫幼少のみぎりに教育係を仰せつかっておりましてな。呪われた鏡のことはその頃聞いた話なのです」
リンクはラフレルに相槌を打つと言葉を継いだ。
「鏡は割れていて四分の一くらいしか残ってませんでした。誰かが壊したのか、それとも自然に割れたのかはわかりません」
「もう百年以上前の話だからね。無理もないよ」
シャッドが言った。
「シャッド、こないだハイラルの異変を調べてるって言ってたけど....」
リンクはさりげなくシャッドに水を向けた。
「ああ、それなんだけどね」
彼は言葉を探しながら答えた。
「今ハイラルのそこここで奇妙な天変地異が起こっているのは知ってるだろう?僕らはそれを調べてるんだ」
「天変地異?」
リンクは聞き返した。
「そうさ。例えばつい最近まで城下町を含むラネール地方全体が黒い霧に覆われていた。近頃は収まったらしいが、オルディン地方の火山も激しい噴火を起こしたって聞くよ。さらにもう一つは北の山さ」
「北の山?」
リンクは逸る気持ちを抑えながら尋ねる。
「さよう。実はアッシュが気になると言って調べに行っておるのです」
ラフレルは机の上に地図を広げると、ゾーラの里の東側に抜ける道を指さした。シャッドが説明した。
「気候がおかしいって言うんだよ。普通あの地方にも短いなりに夏はあるんだ。それなのに今年に入ってから一度も雪が途切れない。そうそう、それに山ひとつ挟んで隣のゾーラの里が氷漬けになった事件も最近の話だしね」
リンクはなるほどと頷いた。かなりの有力な手がかりだ。モイも各地の情報を集めているとリンクに話した。だが、三人の話題がハイラル城に触れないことをリンクは奇妙に思った。他国との戦争状態でもないのに城に魔法結界を張るなどと聞いたことがない。
ともあれ、リンクは北の山の異変や、アッシュが調べに行った場所を確認することができたので満足した。その後しばらくの間彼らと談笑したリンクは、テルマが戻ってきたタイミングでその場を辞して店の外に出た。
リンクは人気のない裏通りの隅に座ってミドナと打ち合わせした。
「間違いないよ。北の山ってのは賢者たちが言ってた雪深き山ってことだね」
「そうだな。大収穫だ。でかしたぞリンク」
ミドナも弾んだ声で答えた。リンクたちはワープでゾーラの里を経由してアッシュのいる場所まで行くことに相談をまとめると、賑わっている目抜き通りで食料を買い込んだ。
噴水広場から東通りに出て門をくぐると、跳ね橋を渡ったところで服を脱いでミドナに狼姿に変えてもらった。そこからミドナの魔法でワープに入る。数秒すると、リンクはゾーラの里の広間の泉の上にいた。
リンクは落下して泉の水面に飛び込んだ。周囲には水中にも泉を囲む通路の床の上にもゾーラたちがいる。ここが影の領域だったころに出入りしていた感覚と異なり、リンクはやや慌ててしまった。
犬かきをして川下に向かうと、川の上に建てられた蔓草の形の金網の上に登り、急いで滝のほうに向かった。城下町のときのように騒ぎになると困る。
前方に滝が見えてくるとリンクは川に飛び込み流れに身を任せた。吸い込まれるように滝を落ちる。人間の姿でいるときより、落下の衝撃には強くなっている。リンクは滝壺の水面に飛び込むと、すぐに浮上して東側の岸を目指して泳いだ。
岸の上には数人のゾーラ兵がいた。攻撃されないか心配だったが、リンクが恐る恐る岸に這い上がっても平然としてこちらを見ているだけだ。
「珍しいな、狼じゃないか」
ゾーラの一人が言った。
「あれは魔物じゃなくて本物の狼だな。雪山から降りてきたんだろう」
「かわいそうに、餌がなくてひもじいのかも知れないぞ。魚でもやったら食べるかな?」
ゾーラたちが他愛もない会話をしているのを聞いてリンクは安心した。東側の崖の壁には、ラフレルの地図にあったとおり向こう側に抜ける洞窟がある。リンクは洞窟に入ると、そのまま前進した。
「リンク、一旦停まろう。人間に戻すぞ」
入り口からだいぶ離れるとミドナが言った。
「あのアッシュって女からも情報を聞きたいけど、目の前で変身するわけにもいかないからな」
ミドナの言うことももっともだった。リンクの身体がたちまち人間の姿に戻された。ミドナがぞんざいに着せてくれた服を直し、装備を身に着けたが、城下町とは格段に違う寒さが感じられた。やはり気候が違う。
しばらくの間暗い洞窟を歩いていくと、遠くに光が見えてきた。出口だ。近づくにつれ、冷たい空気が流れてくるのがわかる。
数分もするとリンクたちは出口に辿り着いた。外は全くの別世界だった。目の前の道は五十メートルほど先で途切れ、下方に湖が見える。湖といっても半分がた凍り付いていた。リンクは道の端に立つと、眼下を見下ろした。湖のほとりまで十メートルあまりの落差がある。
湖の向こうは、真っ白に雪で包まれた緩やかな平原があり、それが徐々に登り斜面に変わっている。その先はところどころ岩肌が剥き出しになった急峻な山が連なっていた。
ラネール地方の夏は多くの場合温暖な晴れが続く。それなのに、洞窟を抜けたこの場所は空を陰鬱な雲が覆っている。今いる場所は雪が降っていないが、遠く山の斜面に目を転ずると、明らかにそこには雪雲がかかっていて、ところどころが吹雪いているのがわかった。
ラフレルによればアッシュはこの辺りに居るはずだ。だが周囲を見回しても人影はない。
そのとき、リンクは背後に気配を感じて何気なく振り返った。
三メートルほど後ろに、見たこともない奇妙な生き物が立っている。上半身と頭は長く白い毛に覆われている。その大きな顔には黒目しかない大きな目と、低く醜い鼻、大きな歯の突き出した口が目立つ。それなのに、下半身だけは普通の人間で、ズボンにブーツを履いているのだ。その腰には長剣が下がっていた。
リンクは剣の柄に手を掛けて誰何した。すると相手は頭に両手をかけて持ち上げた。首のあたりに継ぎ目があるらしく、頭と見えたものはあっさりと両肩の間から外れた。それは面甲だったのだ。ギョロっとした目も、大きな歯も作り物だ。
面甲の中から出てきたのは若い女の顔だった。高く結い上げた黒髪に、切り揃えた前髪。大きな二重瞼の目に、真っすぐに通った鼻筋。アッシュだ。彼女は頭を軽く振って額についた前髪を払うと、面甲を脇に抱えた。
リンクは剣の柄から手を離し、安堵の溜め息をついた。
「アッシュか。驚かせないでくれよ」
「気配だけで振り向くとは悪くないな」
彼女はそう言ったあと付け加えた。
「だがもし私が弓矢を持っていたら貴殿は死んでいただろう」
「ずいぶん物騒だね」
リンクは苦笑いした。
「君だって僕を暗殺するためにこんなところに何日も潜んでいたわけじゃあないだろう?」
「もちろん違う」
アッシュは涼しい顔で答えたあと尋ねてきた。
「貴殿こそなぜここに?」
彼女はそう言ったあと少し口の角を上げた。
「およそ剣士たるもの危うきを冒して糧となす。危険を求めて...か?」
「そんな大層なものじゃあないんだけどね」
リンクは頭を掻いた。
「その...ラフレルから聞いたんだ。君がここで何かを調べているって。何か異変を見つけたんじゃないかと思ってね」
「異変、と申されるか。確かにその通りだ。だがこの地方はずいぶん前から異変続きだった」
アッシュは面甲を持ち直すと答えた。
「ゾーラの里が氷漬けになった事件以来、この辺りは異様なまでの冷気に包まれているのだ」
「なら、この寒さは普段通りってわけじゃないのかい?」
リンクはそう尋ねたあと少し自分の両肩をさすった。
「確かにまだ九月にもなってないのに寒すぎるのは確かだね」
「私は元々この地方の出身だ」
アッシュは言うと、リンクたちのはるか前方に横たわる山の斜面を指さした。
「毎年七月ともなるとこの山の斜面にも緑の草と慎ましき花の群れが現れる。束の間の夏を祝うがごとくな。それが今年はいつまでも冬のままなのだ。明らかに何かがおかしい」
「知らなかったよ。僕はゾーラの里の氷漬け事件のことしか聞いていなかったから」
リンクは言った。
「酷い事件だったらしいね。女王まで殺されてしまったって」
「さよう」
アッシュは顎を引いて深刻な面持ちで言う。
「私はゾーラたちとも付き合いがある。彼らの失意ぶりは正視に堪えないものだった。王子の生存が確認されてようやく彼らも落ち着きを取り戻したのだ」
そこまで言うと彼女はリンクの顔を見た。
「その点については貴殿の働きを認めねばなるまいな、リンク殿。剣士見習いとの肩書はそろそろ刷新されてはいかがか?」
「まあ、モイがどう思うか聞いてみるよ」
リンクは照れ笑いしたあと、話を戻した。
「で、近頃も何か異変があったのかい?」
「ゾーラたちから奇妙な噂を聞いた。山の奥に住む獣人がこのところ頻繁に彼らの里に姿を現しているそうだ」
「獣人?」
アッシュは白い毛の上着を捲って腰のポーチから紙片を取り出し、リンクに差し出した。開いてみると、たくましい体躯をした白い猿のような獣が赤い魚の尻尾をつかみ手に提げている。簡潔だが特徴を捉えたスケッチだった。
「ここで張り込んでいたら噂通り現れた。見上げるような巨体の怪物だ」
アッシュは続けた。
「どれくらい?」
リンクが尋ねると、アッシュは答えた。
「身の丈は貴殿の三倍はある。なによりも恐るべきはその脚力だ。この深い雪の中苦も無く斜面を駆け上っていった」
「誰か襲われた人がいないか心配だね」
リンクは呟いた。
「それは今のところない。ただ里に下りてきては魚を盗んでいるらしい。だが奴の正体を突き止めようにもこの吹雪では足跡もすぐ消えてしまう」
「ちなみに山の奥には何があるんだい?」
リンクが尋ねると、アッシュは少し目を細めた。
「何がある、と?それはいかなる意味だリンク殿?」
「いや...その..」
リンクは言葉に詰まった。影の世界の王女に依頼され陰りの鏡を捜索しているなどと正直に言うわけにもいかない。
「なんていうか、誰も探検したことのないダンジョンがあるなら行ってみたい。何しろ僕は....」
アッシュの射すくめるような視線に耐えながらリンクはどうにか言いつくろった。
「君のような由緒正しい家に生まれた人と違ってただの田舎剣士だ。もっともっと場数を積んで強くならないと世間から認めてもらえないからさ」
「ふむ」
アッシュは一応納得したようだ。彼女は少し考えた後言った。
「私も多くは知らない。だが山頂近くにかつて王家によって避暑に使われていた別荘地があると聞く。父から聞いた話では百年以上前から打ち捨てられているそうだ。今頃は種々の魔物たちが巣食っていよう」
「それだ。それだよ」
リンクは頷いた。
「僕はそういう場所を探していたんだ。そういう場所を探検して....」
「リンク殿。私から申す。おやめになるがよかろう」
アッシュはきっぱりと言った。その語気の強さにリンクは少し面食らってしまった。
「やめとけって...なぜだい?僕が未熟者だから?」
「リンク殿。くれぐれもお気を悪くなされぬよう」
彼女は丁重に前置きしたあと話し始めた。
「貴殿には資質がある。それはモイ殿に説明されなくとも私にもわかる。だがそのうえで言っているのだ」
リンクが当惑していると、アッシュは尋ねてきた。
「リンク殿。雪山に潜む魔物と戦った経験はおありか?」
「いや..ないよ」
リンクは答えた。自分の記憶では、特殊な魔物といってもせいぜい火を噴く怪物くらいだ。
「きゃつらの打撃を受けると身体が凍り付いたように動かなくなる。それも数秒間の間だ」
アッシュは右手を出すと指を鳴らした。
「その間に止めを刺されたら一巻の終わりだ。どれほど熟練の剣士でもそれは変わらぬ。きゃつらの危険性は実際に戦った者でなくてはわからない」
「もしかして君は...」
「さよう。言ったとおり私はこの地方の出だ。父とともにきゃつらと戦って命を落としかけたこともある」
「そうだったのか...」
リンクは言った。世界は広い。リンクどころかモイでさえ見たことがない魔物と戦ったというこの少女の話に驚嘆するしかなかった。
「これが私からの忠告だ。先輩風を吹かしているように聞こえたら許されよ、リンク殿」
「そんな、とんでもない。感謝して受け取るよ」
リンクは両手を振った。
「僕は剣士見習いになって一年くらいしか経ってない。君みたいな先輩から助言してもらえるのは有難いよ」
「ご謙遜を申される」
アッシュは少し微笑んだ。彼女にも人間の感情があるらしい。彼女が微笑むのを初めて見たリンクは少しほっとした。
「リンク殿。私は常々興味を持っていたのだ」
「興味?何を?」
アッシュの言葉の意味を測りかねたリンクは尋ねた。
「二度にわたって大鬼を討ち取ったという貴殿の腕前がどれほどのものか、ということをな」
「僕の腕?」
言ったあと、リンクは肩をすくめた。
「さあ、とにかく二回とも無我夢中だったからね。剣術は六歳のころからモイに習ってたから十年くらいかな。でも本業は農業と牧畜だし....」
「リンク殿。よろしければお手合わせを願おう」
アッシュはリンクの話を途中で遮ると、面甲を横に放り捨てた。リンクは意味がわからず呆然としていたが、アッシュがいきなり長剣を抜いたのでぎょっとして身構えた。
「失礼つかまつる」
アッシュは流れるような無駄のない動作で長剣を払った。リンクは反射的に上体を逸らして刃を躱すと、必死でバックホップして自分の剣を抜いた。アッシュが突進し下から斜め上に剣を斬り上げてくる。リンクの首筋を狙った、実に回避しづらい軌道だ。リンクは剣を払って弾き返した。
アッシュの身体がくるりと翻った。回転斬りが来る。回避できない距離だ。右から来た刃を辛うじて自分の剣で受け止める。相手の細い体格から想像できない重い斬撃に押され、リンクは足を踏ん張った。反撃すべきか?一瞬の逡巡の隙にアッシュが大きく剣を引いた。リンクの頭の中で危険信号が弾ける。何か来る。
電撃のような速度の突きが来た。リンクはすんでのところで身体を半身にした。長剣の刃先がリンクの胸をかすめる。彼我の距離が一気に縮む。するとアッシュは片手をリンクの左手首にかけてきた。女剣士の左足が素早く動きリンクの左足の後ろにかかる。
まずい。投げ倒される。そう判断したリンクは咄嗟に自分の左足を浮かせた。足払いが空振りする。リンクは右脚で地面を蹴り、盾アタックの原理を使って左前腕で思い切りアッシュを押した。アッシュは体勢を崩されたかと思いきや、曲芸師のような身のこなしで後転し何事もなかったように再び構えをとった。
リンクは心の底から驚嘆した。相手は息一つ乱れていない。今まで戦ったどんな敵よりも鋭い太刀筋だ。しかも、その目に殺気の欠片も籠っていないところを見ると、リンクを傷つけないよう手加減しているのは明らかだ。いったい彼女が本気で戦ったらどれほど強いのだろう?リンクはそれを想像すると少し恐ろしくなった。
「腕も確かだ。モイ殿の言葉に偽りはないようだな」
アッシュはそう呟くと剣を下げた。リンクも剣を下げた。溜息をつき、手を広げると言った。
「勘弁してくれないか。誓って言うが僕は女の子に刃物で襲われるような悪いことをした覚えはないよ」
「この無礼については重ねて詫びる。だがこれも私の務めだ。どうか堪えられよ」
アッシュはそう言って長剣を納めた。
「務め?」
リンクは当惑して尋ねた。
「我々の計画には腕の立つ者が必要だ。だから貴殿が適格かどうか見極めさせてもらったのだ。それが私の務めだ」
「ちょ‥‥ちょっと待ってくれ」
リンクは言った。
「我々?計画?僕には意味がわからない。説明してくれないか?」
「我々というのはラフレル殿、モイ殿、シャッド殿、そして私だ」
アッシュはそのあと付け加えた。
「テルマ孃も我々の味方だ。実働部隊ではないがな」
リンクにはテルマがいつか話していた「ハイラルの将来を憂える者たち」がそれなのだろうとおぼろげにわかってきた。だが、計画とはいったい?
「それで‥‥計画っていうのは?」
「今は言えぬ。貴殿を迎え入れることを全員が承諾せねば話すことはできぬ決まりだ」
アッシュの答えにリンクはまた溜め息をついた。
「アッシュ、聞いてくれ」
リンクは剣を納め、自分の胸を指差した。
「僕は田舎村の出身で何の教養もないただの剣士見習いだ。剣以外に学んだことといえばカボチャを育てることと山羊を追うことくらいさ。だから君たちみたいに分かりにくい符丁で話したり、一を聞いて十を察するような真似はできない。それは想像できるだろ?」
アッシュは黙って聞いている。リンクは続けた。
「僕を友人に加えてくれるならそれは嬉しい。だが僕を信用できないならはっきりそう言ってくれ。何ていうか、僕は誰かと腹の探り合いなんてしたくないんだ。わかってくれるか?」
アッシュは少しすると口を開いた。
「全く貴殿の言う通りだ。貴殿を候補者に加えたのも、貴殿にしてみれば我々の勝手な思惑に過ぎないからな」
彼女はそう言ったあと少し目を伏せた。
「だが堪忍されよ。計画については今はどうあっても話すことができぬ」
リンクはアッシュの顔を見た。彼女なりに申し訳なさそうな表情に見える。どうやらリンクを焦らしたり馬鹿にしたりしているわけではないらしい。彼女は顔を上げた。
「私としては貴殿を仲間に加えるよう推挙するつもりだ。だから私として許される範囲のことを話す。それでよいか?」
リンクの頭はまだ混乱していたが、それでももう少し正直な話をしてもらえるなら歓迎だ。リンクが頷くと、アッシュは近くに歩み寄ってきた。リンクが戸惑っていると、彼女は周囲を注意深く見回したあと、リンクの耳に唇を近寄せて囁いた。
「今のハイラル城には魔物が巣食っている。ゼルダ姫は幽閉されている。それが私の見立てだ」
リンクは息を呑み、驚きに目を丸くしてアッシュを見た。彼女はリンクの顔を見つめ低く声を落とすと続けた。
「ゼルダ姫はここ数か月公に姿を現していない。ハイラル王家の習慣としては異例のことだ。リンク、貴殿は『黒鬼の乱』については聞き及んでおられるだろう?」
「あ...ああ。おおよそのことはね」
リンクは言葉を濁した。自分が狼の姿だったころ、ゼルダ姫に会ってそのことを直接聞いたなんてことは黙っているほうがよいと分かっていた。
「私はそのころ城下町にいなかったからこの目で見たわけではない。だが多数の黒鬼がハイラル城になだれ込み、城から火の手が上がるのを見た町民は数知れない。それなのに事件があってから今に至るまで城からは何の発表もない。降伏したのか、和議を結んだのか、それとも敵を討ち果たしたのか」
アッシュはそこまで言うと視線を山のほうに向けた。
「私は幼少のころ父に連れられゼルダ姫に拝謁を賜ったことがある。ハイラル王家の伝統的なあり方は剣術指南役だった父からよく聞いたものだ。民の声に耳を傾け、民と苦楽をともにする、と。だが父を亡くし城下町に来た私はそれとはまったく違うものを目することになったのだ」
じっと聞いていると、アッシュはまたリンクを見た。
「今のハイラル王室は頑なに城の扉を閉ざし、民の声を拒んでいるだけではない。聞いたこともないような奇妙な法律を次々と拵えているのはお聞き及びか?」
「ああ、知ってるよ。ええっと..」
リンクは初めて城下町を訪れたときのことを思い出した。
「町で馬に乗ってはいけない..だっけ?」
「それは手始めに過ぎぬ」
アッシュは言った。
「王室の悪口を言う者を処罰する法律も制定された。これは従来の不敬罪とは違う。王室だけではなく、政治のあり方を批評したり暮らし向きの不満を政策の責に帰することなども含まれる。要するに喋ることに気を付けねば逮捕されるということだ」
「喋るだけで?」
リンクは面食らった。もとより王室の悪口を言うなど田舎出身のリンクには想像もつかないことだったが、かといって何かを喋るだけで逮捕というのも罪の内容と刑罰が不釣り合い過ぎる気がした。
「それは変だね」
そう言ったあと付け加えた。
「じゃあ僕らの今の会話の内容も場合によってはまずいってことかな?」
「その通りだ。これは笑いごとではない。それに悪法はこれで仕舞いというわけでもない」
「まだ続きがあるのかい?」
リンクは驚いて眉を上げた。するとアッシュは目にひときわ強い光を宿してリンクに尋ねた。
「リンク殿。来年から施行される新たな法の内容を貴殿は本当にご存じないのか?」
「ごめん、知らないよ」
リンクが答えると、アッシュはリンクにぐいと顔を近寄せた。
「武装禁止令。通称刀狩り令だ。城勤めの兵士以外の人間は剣や槍、あるいは弓矢で武装することを禁じられるのだ」
「なんだって?」
リンクは思わず大声を上げた。
「そんな無茶な。城下町はいいけれど、それじゃあ田舎村の人間はどうやって魔物から身を守ればいいんだ?」
「城から兵士が各地に派遣されるそうだ」
アッシュが答える。リンクは困惑して言葉を探した。兵士たちの情けない有様が心に浮かんだ。自分がミドナを助けるために狼の姿で城下町を訪れたとき、兵士たちの何人かは吠えただけで武器を放り出して座り込んでしまったのだ。
「そんなこと...やっぱりどう考えても無茶だよ。他所から派遣されて来た兵士たちが縁もゆかりもない田舎の村を命がけで守るなんて到底思えないよ」
「だがそれが法律の内容だ」
アッシュは声を落とした。
「リンク殿。年が明ければ我々剣士は非合法の存在になるのだ」
リンクはその意味するところを考えてみた。それでは陰りの鏡を探すどころの話ではなくなる。下手をしたら勇者から一転お尋ね者に身を落としかねない。
「今のハイラル王国はおかしな方向に向かっているというだけに留まらない。何かとてつもなく邪悪で恐ろしいことが行われている。我々はそう確信しているのだ」
アッシュはそう言うと、押し殺した声で呟いた。
「何とかせねばならぬ」
二人はしばらく黙っていたが、やがてリンクが口を開いた。
「わかった。君の言いたいことはわかったよ」
リンクは言った。
「僕としてもハイラルのために力を尽くしたいっていう気持ちは同じだ。僕にできることがあるなら何でも言ってくれ。実力を知りたいっていうなら、君たちの決めた試験みたいなものを受けるのもかまわない」
「感謝申し上げる。貴殿はやはり私の見たとおりひとかどの器だった」
アッシュはそう言うと軽く頭を下げた。
「私は一旦城下町に戻る。貴殿への評価について他の仲間に話そう。最終決定権はラフレル殿にあるが、私としては貴殿を仲間に加えるよう強く推薦するつもりだ」
「わかった。ありがとう」
リンクは答えた。
「そして冒険や財宝目当てにむやみに雪山に登るのも控えるよ。君の助言どおりにね」
「賢明な判断だ」
アッシュはまた微笑むと、雪の上に落ちた面甲を拾い上げ軽く雪を払って小脇に抱え、リンクに背を向けて洞窟のほうに歩いていった。
リンクは彼女の後ろ姿を見えなくなるまで見送ってから、改めて雪山のほうを見上げた。ミドナがいつの間にか傍らに現れていた。
「気候の異常ってのがいかにも怪しいな。獣人というのが何なのかは私もわからんが」
「捨てられた別荘っていうのも気になるね」
リンクも応じた。
「王室御用達の施設なら相当の大きさだろう。鏡があるかはわからんが役に立つものが手に入るかも知れないな」
「よし、行ってみようミドナ」
リンクは言った。
「アッシュは知らないけど僕は狼になれるからね。毛皮で守られていれば吹雪も越えられるさ」
「初々しい少年剣士が実は狼だったなんて知ったらあの女失神するかもな」
冗談を言い合うと、二人は出発の支度をした。リンクは寒い中急いで服を脱いだ。ミドナはリンクを狼に変身させ、服と装備を全て回収しその背にまたがった。
道の終端から身軽に飛び降りると、リンクは山に向かって走り始めた。
前方の湖の水面を見ると、左手のほうから断続的に五メートル四方ほどの平らな氷が向こう岸に続いている。リンクは水面の近くに走り寄ると、助走をつけて手近の氷に飛び乗った。氷はじゅうぶんに厚く、どうやら割れる心配はなさそうだ。リンクは次の氷に向けて進み、間隙をジャンプして移った。
氷を五つ、六つほど越えると対岸に到着した。リンクは快速に走って平原を横切り、雪山の斜面を目指した。
斜面に近づくにつれ、ちらほらと雪が降ってくる。だがそのときリンクは異変に気付いた。平原に積もった雪から何者かが這い出してくる。
真っ白な獣で、狼姿のリンクとちょうど同じ姿かたちだ。だがその身体はやや光が透過しており、明らかにこの世のものには見えなかった。ゾーラたちが話していた魔物だろうか?
リンクは走りながら唸り声を上げた。幽霊狼たちは左右から次々と現れる。二匹ほどが吼え声を上げるとリンクのほうに飛びかかってきた。リンクは身体を一回転させた。一匹が弾かれて雪の上に転がる。別の一匹がリンクの脇腹に噛み付いた。リンクは向き直ると激しく突進して一撃を与えた。
攻撃を喰らった幽霊狼がこちらに背を向けて逃げ始めた。リンクの噛まれた場所に痛みが走るが、奇妙なことに血が出ていない。
リンクは足を止めて幽霊狼どもを見回した。おのおのリンクを遠巻きにして走り回っているが、なかなか攻撃してこない。
「おいリンク、こいつらは倒さなくてもいい。嫌がらせを仕掛けてきてるだけだ」
リンクも同意した。再び走り始めると、速度を上げて幽霊狼どもを引き離した。平原が斜面になるのを駆け上がると、また幽霊狼がちらほらと現れた。だがリンクは敵が飛び掛かってくるたびに横っ飛びして躱した。
登るにつれて雪が激しくなってきた。やがてリンクたちは山のふもとに達した。ここから先は登ろうにも岩肌の絶壁に阻まれている。幽霊狼を避けながらリンクは絶壁の切れた場所がないかを探し始めた。
ところが、少し先に歩くと雪に加えて強い風が吹き始めた。毛皮で守られたリンクといえども次第に前進に困難を感じ始めた。それでも苦労して絶壁沿いに進み、左手に大きな丸い岩が露出している箇所を過ぎると、右手上方で岩壁が切れ、その間に急峻だが辛うじて登れそうな雪の斜面があるのが見えた。
リンクはそこを見上げた。吹雪はいよいよ強くなってきている。今日はさっきまで温暖なゾーラの里にいたのに、まるで別世界だ。絶え間なく吹きつける風により、次第に同じ場所に立っているのも難しくなってきた。
「明らかに歓迎されてないって感じだな」
ミドナが言う。リンクは首を曲げて彼女を見上げた。毛皮のある自分でさえ苦労しているのに、ミドナは大丈夫なのだろうか?
「私は平気だ。身体の周囲の空気の流れを魔法で操作しているからな」
彼女は心を読んだように答えた。
「むしろリンク、お前が心配だ。無理をするなよ」
リンクは頷いた。だがこんな麓で引き返すのはいかにも口惜しい。さっき見つけたばかりの登れそうな斜面目指してリンクはジリジリと進み始めた。
吹雪で顔が下がりそうになる。だが目標を見失うわけにはいかない。岩壁の間に見えた急斜面目指して登っていくと、その向こう側に動くものが見えた。目を凝らすと、また幽霊狼たちだ。
幽霊狼どもは真っ直ぐ急斜面を駆け降りてきたかと思うと、こちらを嘲笑うかのようにクルリと方向を変えたり、雪の上を跳び跳ねたりしている。登り続けていけばいずれ奴らに邪魔されるのは目に見えている。普段なら難敵ではないが、強まる一方の吹雪と戦いながらでは相手をしている余裕がない。
「リンク、ダメだ。一旦引き返そう」
ミドナも同様の結論に達したようだ。リンクは無念の思いで雪山を見上げたがやがて頷いた。狼の姿であれば容易に突破できると思ったが、そう甘くはなかったようだ。
リンクは踵を返すと山を下ろうとした。だが、振り返ってみて愕然とした。目の前がただだだ白いばかりで何も見えない。リンクは自分がどこに向かえばいいのかか分からず途方に暮れた。一面の吹雪に視界を奪われて方向感覚を失いつつあるのだ。
「リンク、どこに行くんだ!そっちは違うぞ!」
リンクが歩を進めようとするとミドナが叫んだ。リンクは再び彼女の顔を見上げた。
「リンク、ワープでここから出るぞ!いいな?」
ミドナがまた叫ぶ。リンクがかろうじて頷くが早いが彼女はワープを開始した。周囲が暗くなり吹雪の音が遠ざかる。
気がつくとリンクはまたゾーラの里の広場の泉の上にいることに気づいた。泉の水面に落ちると、まるで自分が温泉に入ったのかと錯覚しそうになるほど水が温かく感じられた。それほど体が冷えているのだ。
リンクはふらふらと水路の上の金網に這い登ると、走って広間を離れ、川に飛び込んで滝壺へ落下した。そして、さっき来たときと同じように東側の岸に上がると、洞窟の中に駆け込んでいった。入り口から離れたところでミドナに人間に戻してもらった。
ミドナが丁寧に服を着せてくれたが、震えが止まらない。歯の根が合わないとはこのことだ。リンクは大きく息を吐くと座り込んで洞窟の壁にもたれかかった。
「リンク、大丈夫か?」
ミドナが心配そうに顔を覗き込んできた。リンクは辛うじて返事をしたが、あることを痛感していた。温暖なラトアーヌで育った自分は雪山の恐ろしさを知らなすぎたのだ。
生きて帰れただけでも幸運だった。